橋沼も知っていると聞かされたとき、全て終わったと思った。あの楽しかった時間は二度と訪れないのだと。

 失うことが怖くて、辛くて、

「泣くなよ」

 そういわれて、じっと橋沼を眺める。頬に触れるとたしかに濡れていた。

「え、なんで」

 安心したら気が緩んだのだろう。まさか泣くとは思わなかったが。

「はは、なんでもねぇよ」
「俺の前では強がらなくていい」

 橋沼もしゃがむと田中を抱きしめた。

 包容力がある人だ。大きな手で背中を撫でられると安心してしまう。

 ほう、と息を吐き厚い胸板に頬をくっつける。男より女の胸のほうが断然いいのに橋沼のは違った。

 このままこうしていたいと思ってしまった。自分にはそういう趣味はない。

「暑苦しいんだよ」

 今度は顔ではなく手を胸に当てて、離れろというように押す。

 そんな田中の反応に、

「可愛くない」

 とそのままスリーパーホールドをかけられた。

 後ろから相手の首に腕をまわして頸動脈を締め上げて気絶させる技なのだが、橋沼がしているのは首に腕をまわしているだけなので苦しくはない。

「降参」

 腕を叩いていうと、橋沼さんがガッツポーズをして口角をあげた。

「お前は抱擁よりもプロレス技のほうがいいみたいだな」
「どっちも嫌だてぇの」

 本当は悪くないと思っていたが、橋沼のことだ。素直にそう口にしようものなら何度でもしてきそうだ。

 それでなくとも気恥ずかしいのだから。

 そっと橋沼をみれば優しい表情を浮かべていて、ドクンと胸が鳴った。

 どうしてと自分自身のことなのにわからないし顔が熱くなってきた。

「はは、真っ赤だな」

 そういうとぎゅっと鼻を摘ままれた。そのお蔭で橋沼の手を払いのけられたが、その手は田中の髪を乱暴にかき混ぜた。

「絵が描けなくなった理由はな、展示会に出す絵を切り裂かれたからなんだ」
「そんな!」

 まさかそんなことがあったなんて。

 心にダメージを受けて苦しんでいたのだ。ふたりでいる時はそんな素振りもなく、軽く考えていた。そんな自分が恥ずかしく、そして辛そうな彼をどう慰めたらいいのかもわからない。

 強く握りしめた拳に橋沼の手が触れて握りしめた。

 ハッとする。辛いのは彼の方なのに。本当に優しい男だ。

「先生が美術室のカギをかしてくれてさ。中に入ることはできないし絵も描く気力がでない。毎日、ベランダでぼんやりとしていたんだ」

 そんなとき、ブニャと田中に出会ったそうだ。

「はじめはみているだけだったんだけど、スケッチブックと鉛筆を持って眺めていたら、自然と手が動いていた。久しぶりに描けたなって気持ちになって。他の人からみたら、なんだこれって絵なのにな」

 後頭部の相手に興味がわき、正面からみてみたくなった。そして煮干しが空から降ってきたわけだ。

「ブニャが話すきっかけをくれた。初めてみる田中はまるで警戒している猫のようだったな」
「そりゃ、橋沼さんみたく馴れ馴れしくねぇもの」
「知りたいって思いで必死だったからな」

 と笑い、

「冬弥……昼間に美術室にいた奴な。あいつは俺に起きた出来事を知っているから心配して田中に酷いことを」

 昼間のやり取りはすでに知っているようだ。そんなことがあったら友達として心配になるだろう。田中のしたことを知っているからなおさらだ。

「だからといって冬弥が勝手に俺らのことを決める権利はない。だから謝らせるから」
「え、謝罪なんていらねぇよ」

 彼の気持ちはなんとなくわかるし、嫌われているのに会いたくはなかった。

「これはけじめだから。あと、これからも一緒に飯を食おうな」

 橋沼からその言葉が聞けた。それだけで田中は満足だ。

「あぁ。おかず、楽しみにしている」
「おう。ばぁちゃんに頼んでおくからな」

 美術室での時間はこれからも続く。安心して田中は胸をなでおろした。