***
「えっと、ここにあるクリームが商品企画部からもらったやつね」
官能評価室で、すずなは向かいに座る結愛にクリームを三つ渡した。どれもデパートで売られている高級商品で、箱ですら捨てるには忍びないほど凝った作りのものだ。
「これをベースに開発をスタートするってことですかー?」
結愛が一つの箱を手に取り、全成分表示を確認する。
「そう。商品企画部としては、結愛ちゃんが持ってる箱のクリームの感触を初期、中期にはこっち、それで後肌はこのクリームを塗ったあとの感じを目指したいらしい」
「気持ちとしては分かりますけどー、これ水中油クリームと油中水クリームが混ざってますよー」
結愛が箱を早速開け、中のクリームを付属のヘラを使って取り、自分の腕の内側に乗せた。
「そうなのよ。だから、結構無理難題だなって思ってる。だけど、まずは全部の感触を確かめてから、開発の道筋を立てたいなって」
「でも、まぁこのクリーム、水中油タイプでもかなり重めですねー」
「そう?」
すずなも、結愛が塗っているクリームを自分の腕に試した。
「とにかく、我々の目標は佐田クリームの一位陥落ですよねー」
結愛が、腕の内側で円を描きながら言った。
佐田クリーム。本当の商品名はそんな名前ではない。ただ、佐田が主担当で開発したクリームという意味だ。BeBeauの歴代クリームの売り上げを調べると、佐田クリームがダントツであるため、クリームの開発担当者になると目標に『打倒! 佐田クリーム』を掲げるというわけだ。
「ちなみに、私は佐田クリームの愛用者だけどね」
すずなは肩をすくめた。佐田の人間性には疑問を覚えることが多いが、開発者としての腕はピカイチだ。佐田が手がけたものはヒット商品が多いが、その中でも佐田クリームは別格。感触、香り、成分のおかげなのか、使用中、使用後において幸せを感じるクリームだと言える。
「私もですよー。でも、あの感触を超えるクリームを開発しましょうよ」
「ラジャー!」
「それにしても、さっきは本当に笑いを堪えるのが大変でしたよー」
結愛が急に話題を変えた。ここの部屋は、開発品の感触を評価したりするための場所だが、個室であるためおしゃべりにはもってこいだった。
「お世話になってオリオン座! ですよ。そんな誤変換します? 私、オリオン座なんて会社のパソコンで打ったことないですよー」
「そうだよね。まぁ、私の場合は予測変換をパソコンには入れてないから、そうはならないけど」
「何人もがコーヒーをパソコンに吹き出すから、システム部が緊急出動なんて初めて見ましたよ」
「本当。私も見たことない。あれは会社の歴史に刻まれる出来事だよね。でも、私もコーヒーを口にしてたら、絶対同じことをやらかしたよ」
どうしてこんなに一斉にコーヒーを吹き出したんですか! と困惑の色を浮かべるシステム部部長とそれを必死に説明する鏑木部長のやりとりがまたおかしくて、すずなは表情を緩めた。
「ですよね……それにしても、ちょっと佐田さんやばくないですかー。オリオン座に対してあんなに怒ります? 部長が来てくれなかったら、大森が相当やばいことやったのかなって思い込んでましたよ」
結愛が声を潜めた。
「確かに今日はちょっと変だったと思う。佐田さんって割と怒るけど、それでも今日ほど意地悪な怒り方ではないもんね」
「佐田さん、このところ変なんですよ。ピリピリしてるっていうか。あれ、プライベートがうまくいってないんですよ。絶対」
「そうなの? そこまで飛躍する?」
「だって、最近佐田さんのシャツしわくちゃなんですよ。前はアイロンがかかってたのに、ここ数日はノーアイロン」
結愛の観察眼にすずなは舌を巻いた。同じ環境下で仕事をしていながら、すずなは全く気が付いていなかった。
「結愛ちゃん、よく見てるねぇ!」
「いや、そうじゃないんですよー。聞いてくださいよー、すずなさーん」
結愛が唐突にばたんと机の上に突っ伏した。
「ど、どうしたの?」
問いかけに、結愛がむくりと身体を起こす。
「彼が全く家事をしないんですー。しかも、彼のシャツにアイロンをかけろって言ってくるんですー。百歩譲ってですよ、私がアイロンをしているときにこれもお願い、って感じなら分かるんですけど、私にはアイロンをかけるものがないのに、シャツを渡してきてこれアイロン頼むわって。あり得なくないですかー?」
ゆるくウェーブした栗色の長い髪を結愛がくるくると人差し指に巻きつけた。
「あらら。それは、今の時代には珍しそうな。でも、結愛ちゃんも言えばいいんじゃない? 自分でやりなよって」
「もちろん、言いましたよ! そしたら、アイロンなんて女の仕事だろって。なんですかね。女の仕事、男の仕事って」
結愛が口を尖らせる。怒りのせいか、いつもは伸びている語尾も随分と短い。
それにしても、いまだにそんな考えをする輩がいるとは。今は女性だって当たり前のように仕事ををする時代だ。なのに、なぜ家の中に入ると一昔前の決まりごとのようなものを押し付けてくるのか。電子マネーや渋沢栄一が一万円の時代に、堂々と聖徳太子を使おうとしないで欲しい。
「おっとっと。それは穏やかじゃない話ね。それで、結局どうしたの?」
「ここで負けたら終わりだと思って、私はしらんぷりしてます。そしたら向こうも意地があるみたいで、ここ数日しわくちゃの服で出勤してますね」
だったら、家の中が険悪なのでは……と、頭によぎったが結愛が話を続けるので、余計な詮索はやめることにした。
「だから、私、いろんな人のシャツが気になって観察してたんです。そうしたら、佐田さんのシャツが二、三日前からノーアイロンになったんです。それで、あのイラつきでしょ? 絶対奥さんとなにかあったんだなって」
唐突に口を閉じると、机の上にぐっと身を乗り出した。
「それに、私、別ルートからの情報もあるんですよ」
「えっ、なになに?」
「この間、佐田さんが有休のときに、奥さんが会社に来たらしいんですよ。お弁当を届けに来たんですけどって。なんか匂いません?」
結愛が目を細めて、犬みたいに鼻をひくつかせる。
「やだ、結愛ちゃん、こんな密室でやめてよ!」
「違いますって! そういう意味じゃないですから!」
結愛が顔を真っ赤にしながら、両手をぶんぶんと振り回した。
———佐田課長はいらっしゃいますか?
総務の中島との電話が思い起こされた。ついでに有休と伝えたときの明らかな驚きも。
あのときに奥さんが来てたってことか……。しかもお弁当を持って。
なるほど。すずなは心の中でぽんっと手を一つ打った。
「えっと、ここにあるクリームが商品企画部からもらったやつね」
官能評価室で、すずなは向かいに座る結愛にクリームを三つ渡した。どれもデパートで売られている高級商品で、箱ですら捨てるには忍びないほど凝った作りのものだ。
「これをベースに開発をスタートするってことですかー?」
結愛が一つの箱を手に取り、全成分表示を確認する。
「そう。商品企画部としては、結愛ちゃんが持ってる箱のクリームの感触を初期、中期にはこっち、それで後肌はこのクリームを塗ったあとの感じを目指したいらしい」
「気持ちとしては分かりますけどー、これ水中油クリームと油中水クリームが混ざってますよー」
結愛が箱を早速開け、中のクリームを付属のヘラを使って取り、自分の腕の内側に乗せた。
「そうなのよ。だから、結構無理難題だなって思ってる。だけど、まずは全部の感触を確かめてから、開発の道筋を立てたいなって」
「でも、まぁこのクリーム、水中油タイプでもかなり重めですねー」
「そう?」
すずなも、結愛が塗っているクリームを自分の腕に試した。
「とにかく、我々の目標は佐田クリームの一位陥落ですよねー」
結愛が、腕の内側で円を描きながら言った。
佐田クリーム。本当の商品名はそんな名前ではない。ただ、佐田が主担当で開発したクリームという意味だ。BeBeauの歴代クリームの売り上げを調べると、佐田クリームがダントツであるため、クリームの開発担当者になると目標に『打倒! 佐田クリーム』を掲げるというわけだ。
「ちなみに、私は佐田クリームの愛用者だけどね」
すずなは肩をすくめた。佐田の人間性には疑問を覚えることが多いが、開発者としての腕はピカイチだ。佐田が手がけたものはヒット商品が多いが、その中でも佐田クリームは別格。感触、香り、成分のおかげなのか、使用中、使用後において幸せを感じるクリームだと言える。
「私もですよー。でも、あの感触を超えるクリームを開発しましょうよ」
「ラジャー!」
「それにしても、さっきは本当に笑いを堪えるのが大変でしたよー」
結愛が急に話題を変えた。ここの部屋は、開発品の感触を評価したりするための場所だが、個室であるためおしゃべりにはもってこいだった。
「お世話になってオリオン座! ですよ。そんな誤変換します? 私、オリオン座なんて会社のパソコンで打ったことないですよー」
「そうだよね。まぁ、私の場合は予測変換をパソコンには入れてないから、そうはならないけど」
「何人もがコーヒーをパソコンに吹き出すから、システム部が緊急出動なんて初めて見ましたよ」
「本当。私も見たことない。あれは会社の歴史に刻まれる出来事だよね。でも、私もコーヒーを口にしてたら、絶対同じことをやらかしたよ」
どうしてこんなに一斉にコーヒーを吹き出したんですか! と困惑の色を浮かべるシステム部部長とそれを必死に説明する鏑木部長のやりとりがまたおかしくて、すずなは表情を緩めた。
「ですよね……それにしても、ちょっと佐田さんやばくないですかー。オリオン座に対してあんなに怒ります? 部長が来てくれなかったら、大森が相当やばいことやったのかなって思い込んでましたよ」
結愛が声を潜めた。
「確かに今日はちょっと変だったと思う。佐田さんって割と怒るけど、それでも今日ほど意地悪な怒り方ではないもんね」
「佐田さん、このところ変なんですよ。ピリピリしてるっていうか。あれ、プライベートがうまくいってないんですよ。絶対」
「そうなの? そこまで飛躍する?」
「だって、最近佐田さんのシャツしわくちゃなんですよ。前はアイロンがかかってたのに、ここ数日はノーアイロン」
結愛の観察眼にすずなは舌を巻いた。同じ環境下で仕事をしていながら、すずなは全く気が付いていなかった。
「結愛ちゃん、よく見てるねぇ!」
「いや、そうじゃないんですよー。聞いてくださいよー、すずなさーん」
結愛が唐突にばたんと机の上に突っ伏した。
「ど、どうしたの?」
問いかけに、結愛がむくりと身体を起こす。
「彼が全く家事をしないんですー。しかも、彼のシャツにアイロンをかけろって言ってくるんですー。百歩譲ってですよ、私がアイロンをしているときにこれもお願い、って感じなら分かるんですけど、私にはアイロンをかけるものがないのに、シャツを渡してきてこれアイロン頼むわって。あり得なくないですかー?」
ゆるくウェーブした栗色の長い髪を結愛がくるくると人差し指に巻きつけた。
「あらら。それは、今の時代には珍しそうな。でも、結愛ちゃんも言えばいいんじゃない? 自分でやりなよって」
「もちろん、言いましたよ! そしたら、アイロンなんて女の仕事だろって。なんですかね。女の仕事、男の仕事って」
結愛が口を尖らせる。怒りのせいか、いつもは伸びている語尾も随分と短い。
それにしても、いまだにそんな考えをする輩がいるとは。今は女性だって当たり前のように仕事ををする時代だ。なのに、なぜ家の中に入ると一昔前の決まりごとのようなものを押し付けてくるのか。電子マネーや渋沢栄一が一万円の時代に、堂々と聖徳太子を使おうとしないで欲しい。
「おっとっと。それは穏やかじゃない話ね。それで、結局どうしたの?」
「ここで負けたら終わりだと思って、私はしらんぷりしてます。そしたら向こうも意地があるみたいで、ここ数日しわくちゃの服で出勤してますね」
だったら、家の中が険悪なのでは……と、頭によぎったが結愛が話を続けるので、余計な詮索はやめることにした。
「だから、私、いろんな人のシャツが気になって観察してたんです。そうしたら、佐田さんのシャツが二、三日前からノーアイロンになったんです。それで、あのイラつきでしょ? 絶対奥さんとなにかあったんだなって」
唐突に口を閉じると、机の上にぐっと身を乗り出した。
「それに、私、別ルートからの情報もあるんですよ」
「えっ、なになに?」
「この間、佐田さんが有休のときに、奥さんが会社に来たらしいんですよ。お弁当を届けに来たんですけどって。なんか匂いません?」
結愛が目を細めて、犬みたいに鼻をひくつかせる。
「やだ、結愛ちゃん、こんな密室でやめてよ!」
「違いますって! そういう意味じゃないですから!」
結愛が顔を真っ赤にしながら、両手をぶんぶんと振り回した。
———佐田課長はいらっしゃいますか?
総務の中島との電話が思い起こされた。ついでに有休と伝えたときの明らかな驚きも。
あのときに奥さんが来てたってことか……。しかもお弁当を持って。
なるほど。すずなは心の中でぽんっと手を一つ打った。