「ねぇ、にんにくってスペイン語でアホって言うんだって。知ってた?」

その夜、シンクに溜まっていた食器を洗いながら、すずなは隣に立つ蛍に話しかけた。食器は朝食時に出たものだ。出社前に片付けてしまいたかったが、時間がなくてできなかった。

「そうなの? 全然知らなかった」
 蛍は手元に視線を落としたまま、にんにくの皮を剥いていた。今夜の夕食当番は蛍だ。平日の夕食は蛍、週末の食事はすずなが担当するというのが、同居の際に決めた二人の基本ルールだった。

「それでね、牛はバカだって」

「どうしたの、急にスペイン語なんて」

「今日ね、会社の前にキッチンカーが来てたから、そこでランチボックスを買ったんだ。そしたら、それがスペイン料理だったの」
 平皿の泡を水で流す。お皿の真ん中を指の腹で擦るときゅっきゅっという音がした。

「ものすごく美味しかったからね、週末にでも買いに行ってもいいかも。蛍にも試してもらいたい」

「そんなに美味しかったの?」
 蛍がまな板ににんにくを置き、包丁で器用にスライスしていく。トントントンという規則的なリズムが心地良かった。

「うん。私、スペインに行きたくなっちゃったもん」

「へぇ、スペインか。パエリヤとか?」

「そうそう。今日は、ボカディージョっていうサンドイッチみたいなのを食べたんだけどね。フランスパンに生ハムがこれでもかってくらい挟まれてたわ」
 お昼休憩のことを話していたら、脳裏にふっとあの和服の女性がよぎった。

「そういえば、そのランチボックスを公園のベンチで食べてたらね、向かいに和服の女の人が座ったの。五十代くらいで品の良さそうな人で。そしたら、その人、三、四人分はありそうなお重をね、食べ始めたんだよ。びっくりしちゃった」

「お重?」
 ボカディージョからお重への唐突な会話の転換にも驚かず、蛍が相槌を打つ。

「そうそう、多分三段重ねの立方体のやつ」
 胸の前でこれくらいだと手で四角を作る。

「誰かと食べるつもりだったのが、ドタキャンされたんじゃない?」

「そっか、そういう可能性もあるのか」

「多分ね。お重は手作り?」

「どうだろう。でも、そうだと思う。紙袋に入れてたけど、お店のロゴみたいなのはなかったし、お重自体も黒塗りの立派そうなものだったから。だけど、仮に当日キャンセルされたとしても、一人で食べたりする?」

「私だったら食べちゃうかも。だって荷物を少しでも軽くしたいし、食材が傷むのも嫌じゃない?」
 冷蔵庫から茄子と牛肉を取り出し、蛍が手際よく切り分けていく。

「あ、でもね、その女の人と目が合ったの。そうしたらお茶のペットボトルを持って、こうやったの」
 近くにあったガラスコップを手に取り、それを軽く突き上げた。

「しかも口がその時に動いてたんだけど、乾杯って言ったんだよね」

「乾杯? なにか似た言葉じゃないの?」
 蛍がフライパンをIHヒーターに置くと、スイッチを入れた。虫の羽音のようなブォーンという低い音がした。

「その可能性は捨てきれないけど、でも動作も合ってるしね、乾杯に」
 かんぱい、と言いながら、もう一度コップを持ち上げた。

「乾杯ねぇ。なにかよっぽど良いことでもあったのかしらね。だって、見ず知らずのすずなにそういうジェスチャーを見せたってことでしょ。普通嬉しいことがあっても、知らない人にはやらないわよね」

「本当に。まぁ、ここで私と蛍が話したところで答えは出ないんだけど、とにかく印象的な女性だったわ」

「確かに気になるわよね」

 蛍がフライパンにごま油を落とし、スライスしたニンニクを入れた。パチパチと賑やかな音と共に食欲を刺激する香りが拡がっていく。蛍は、そこへ牛肉とナスをざっと加えた。牛肉に火が通り、ナスがしんなりしてきたら塩胡椒を振った。さらにお醤油を少し垂らして、オイスターソースで味を整えると蛍は火を止めた。

「できあがりー」

 食べなくても分かる。これは絶対美味しい。すずなは口の中に溜まった唾を飲み込んだ。

「シェフ蛍、こちらの料理名はなんですか?」

「シンプルアホバカナス炒めです。カスを足したかったら、天かすをお好みでどうぞ」

 蛍が真顔でさらりと言ってのけた。

「なにそれ!!」

 すずなはフライパンの中身をまじまじと見た。にんにくの香り漂う牛肉とナスの炒め物。間違いなくアホ・バカ・ナス炒めだ。
 顔を上げると、蛍と目が合った。眼鏡の奥で目尻が下がり、口角はにんまりと上がっていく。その数秒後、すずなと蛍の笑い声がキッチン中に溢れかえった。