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 キッチンカーで昼食を手に入れたすずなたちは会社には戻らず、道を一本隔てたところにある公園へやってきた。

「おいしー」
 ベンチに腰掛けた結愛が口の端にパンのカスをつけたまま、青空を悠々と泳ぐいわし雲に感想を告げた。

 すずなは、自分の膝の上に目を落とした。紙製のランチボックスの中にはスペインが詰まっていた。

 生ハムがふんだんに使われたボカディージョと呼ばれるスペインのサンドイッチ、それにスペイン風オムレツ———トルティージャ、そしてアンチョビ入りオリーブと小さめのカップに入ったガスパチョ。

 結愛が気になると言っていたキッチンカーの店主は関西弁を話すスペイン人で、すずなは日本にいながら本場のスペイン料理をありつけることになった。

 まぁ、スペインに行ったことはないから、本場がなにかどうかも分からない。ボカディージョにトルティージャなんていう料理名も、結愛から教えられた単語をそのまま言っているだけだ。結愛は大学時代にスペインを訪れたことがあるらしく、スペイン料理もそれなりに知っているようだった。

 トマトベースのスープのことだよね?———と、すずなが名前だけかろうじて知っていたガスパチョも、結愛はにんにく臭を真っ先に心配をしていた。

「ダイジョーブ。アホはあんまりいれてへんから、これはかしこのスープやで」
 髭面の店主はにやりと口角を上げると、結愛に向かってウィンクを飛ばした。

 何を言ってるのか、すずなには全くちんぷんかんぷんだったけれど、結愛は、やだーと笑っていた。

「スペイン語でにんにくをアホって言うんですよ。だから、アホがほとんど入っていないこのスープは賢いスープだっていうギャグです。ちなみに牛のことはバカって言います」
 キッチンカーから離れた場所で、結愛は説明してくれた。

 すずなはボカディージョに齧り付いた。パンも生ハムも硬くて、顎が鍛えられそうだったけれど美味しかった。噛めば噛むほど味が出てくる。まるでするめのようだと思ったが、さすがにその例えはセンスがない気がして、脳裏に浮かんだするめを急いで消した。

 スペインといえばなんだろう。

 サグラダファミリア? それにお昼寝、えっと確かイニエスタだっけ? いや、それはサッカー選手かも。えっと———そうだ、シエスタだ!

 自分のひどい覚え間違いについふふふと笑ってしまう。はっと気がついて、結愛を横目で一瞥すると、しっかり見られていた。

「どうしたんですか。思い出し笑いですか?」
 ううん、実はシエスタとサッカー選手の名前を勘違いしちゃってね———と言えば良いのに、なんだか急に気恥ずかしくなった。かといって黙っているわけにもいかないので、考えなしに口を開いたら、

「いや、スペインに行ってみたくなっちゃって」
 と、言葉が勝手に出てきた。

「いいですよねー、スペイン。私も絶対もう一度行こうって決めてるんです」
 質問と答えが全く噛み合っていなかったけれど、結愛が気にせず話をし始めたのですずなはほっとした。

「とにかくスペインは料理が美味しいんです。生ハムにパエリヤ、タコのアヒージョ、イワシの酢漬け、それにサングリア。あ、あとガスパチョも。そうそう、このガスパチョ、本当ににんにく控えめにしてくれてますよ。ありがたーい」

 結愛がカップに口をつけて一気に流し込んだ。

 無性にスペインに行きたくなってきた。結愛の話を聞いたせいか、行きたいと言葉を口にしたせいだろうか。いずれにせよ、さすがは情熱の国スペイン。口に出した途端、行きたいという情熱を湧き起こさせるとは。

 思い切って有休を取ってみようか。長期休暇といえばハネムーンのパターンが多いけれど、その予定は残念ながらというか幸い、ない。毎年十日ほど捨てている有給休暇を使ってみるのもいいかもしれない。

 結愛のランチボックスに目をやると、粗方が空になっていた。まだ半分も食べ切っていないすずなは慌てて咀嚼のスピードを上げた。

 無言でひたすら顎を動かしているうちに、すずなたちの向かい側にあるベンチに一人の女性がやってきた。手に不自然なほど大きな紙袋を下げている。年齢はおそらく五十代。髪を後ろでひとつにまとめ、薄紫色の着物がよく似合っていた。

 女性は腰を下ろすと、紙袋から風呂敷に包まれた立方体を膝の上に置いた。

「……なんですかね、あれ」
 結愛が耳元で囁いてくる。

「お重だよね?」
 黒塗りで三段重ね。お花見や運動会で見かけるのなら分かるが、なんでもない日に、女性が一人きりで膝の上に置いている分には違和感がある。

「一人で食べるんですかね?」

「どうだろ……」
 すずなは首を傾げた。お重はどう見ても、大人が数人で食べることを意識した大きさだ。女性はどちらかといえば小柄でとても健啖家には思えない。

 すずなたちの視線をものともせず、女性はお重の蓋を開けた。人参の飾り切りらしきものが視界に入った。目視で確認する限り、中味は食べ物で間違いなさそうだ。

 女性が紙袋からお箸と緑茶のペットボトルを取り出した。ペットボトルの蓋を開け、一口飲む。ペットボトルの蓋を閉め、自分の真横に置くと、手を合わせた。いただきますと口が動いていた。女性は躊躇なく一の重からつつき始めた。その所作がとても美しかった。

「なんだか格好いいですね」
 結愛が見惚れるように呟いた。

 女性が顔をぱっと上げた。目がばちっと合った。重ねた年齢が魅力となった細面の美人だった。女性が微笑んだ。

 咄嗟にすずなは頭を下げた。すると、女性はペットボトルに手を伸ばし、それを上に持ち上げた。

 唇が動く。


 か・ん・ぱ・い。


「あっ、そろそろ戻らないとやばいです!」

 結愛が腕時計を見ながら、ランチボックスの蓋をぎゅっとしめた。