翌日、すずながコーヒーを淹れに休憩室へ行くと、運悪く佐田と鉢合わせてしまった。

 うわっと叫ばなかった自分を褒め称えたい。内心、今すぐくるりと踵を返して帰りたかったが、そうはいかず頭を下げた。

「あー、くそ。なんでコーヒーメーカーすら(・・)俺のいうことを聞かないんだ!」

 佐田が機械に悪態をついた。ここのところ、佐田はずっとご機嫌斜めだが、今日は一段とタチが悪そうだった。コーヒーメーカーを確認すると、水不足を示すところに赤いランプがついている。すずなは心の中で大きなため息をついた。

「佐田さん、お水が入っていないんですよ」

 タンクの部分を外して、満水の部分まで水道水を入れてやった。

「これで大丈夫ですよ」
 大人として笑顔を作る。ところが、その笑みに佐田が難癖をつけてきた。

「なんだ、今、俺のシャツを見て笑ったか?」

「笑ってないですよ」
 シャツを一瞥すると、確かにしわくちゃだった。おそらくバスタオルや下着と一緒に乾燥機にかけたのだろう。

 他人の視線が気になるくらいなら、自分でアイロンを掛けてくればいいのに。そもそも笑われたと思うのは、自分がしわくちゃのシャツを気にしているからだ。

「どうせ、腹の中じゃ笑ってるんだろう。あいつ、嫁さんに出ていかれたんだろうって」
 佐田が一歩近づいてきた。酒の匂いがぷんとした。

 昨夜、恭子は強引な誘いに根負けして、結愛の家へ行くことになった。彼氏の襲来を心配したが、それは結愛の父親も同じだったようで、リビングで一晩過ごしていったらしい。

 結愛から、こんな感じでやってまーす! という写真には、結愛と父親、それに恭子が楽しげに乾杯している姿が映っていた。

 恭子と結愛の父親が一つ屋根の下で寝泊まりした事実は気になったものの、佐田も好き勝手やっていたようだし、外野がどうこういう問題ではないかと自分を納得させた。

 つまり、佐田からすれば昨夜は嫁が外泊したわけで、気が気でなかったのかもしれない。かといって、翌日身体に残るような深酒は褒められたものではないけれど。

「……佐田さん、今日はもう帰ったほうがいいです」
 すずなはじっと佐田を見据えた。

「なんだ、その言い草は。上司に向かって」

「これ以上、幻滅したくないから言ってるんです」

「黙れ、黙れ。俺をそんな目で見るな。恭子と全く同じ目だ。俺を蔑んだ目をしてる!」
 佐田が拳を振り上げた。

「そんなことありません! 私、佐田クリームを愛してます!」
 すずなは声を思い切り張り上げた。

 佐田の表情に一瞬隙ができた。その瞬間、
「お二人、声が大きいですよ。廊下まで響いてます」
 と、すずなの頭の上から声がした。後ろを振り返ると懐かしい顔があった。

「……なんだ、別れた女の尻を追っかけてるのか」
 佐田が康介を睨め付けた。酔っ払っていても記憶力は確からしい。

「なんとでもどうぞ。ただ、ご存知ですか? 僕、先月から人事部配属ですよ」

 佐田が、くっと悔しそうな声を出し、拳を下ろした。

「今日はもうお帰り下さい。帰って休んでください」

 不服そうな顔をしていたけれど、佐田は人事部の人間に楯突くことはしなかった。すずなの隣を通り過ぎるとき、佐田が立ち止まった。

「……みっともない振る舞いをして申し訳ない」

 まるで別人になったかのように頭を下げた。

 アルコールが、ほんの数秒で身体から一気に抜けることなんてありえるのだろうか。その答えは不明だが、急にまともになった佐田は静かに部屋から出て行った。

「大変だったな」
 康介がふっと笑みを溢した。

「本当に。入ってきてくれてありがとう。康介がいなかったら殴られてたかも」

「いや、実際は俺が入らなくても大丈夫だったと思う。佐田クリームを愛してます! っていうのが相当効いたと思うよ」
 どうだろ、と言ってすずなは肩をすくめた。

 康介が、コーヒーメーカーに放置されたままの佐田のコップを取った。さっと水洗いして、社員たちのマグカップで溢れかえっている水切りカゴに置いた。

「コーヒーカップどれ?」

「これ」

 すずなは、イギリスの二階建てバスを模したマグカップを指差した。康介がジェンガでもするようにマグカップを抜き取り、コーヒーメーカーにセットした。なにも尋ねてくることなく、豆の量と水の量をそれぞれつまみで調整すると、スタートボタンを押した。
 豆がブィーンと挽かれ始め、コーヒーの香りが漂い始めた。

「今、うちの目玉になるクリームの開発担当なんだろ?」

「そう。佐田クリームに引けを取らないようなのを目指してる」

「頑張ってください。俺らの給料が一律で上がるくらい、売り上げのすごいやつを産み出してください」
 康介が突然直角に腰を曲げた。

「何それ?!」
 思いがけない行動にすずなは表情を崩した。

「……すずなってえくぼが出るんだな。忘れてた」

「貴重なえくぼが見られて良かったね。今日は良いことあるよ」

「なんだそれ」
 康介が目尻を下げた。

「ほら、できたぞ」
ちょうど最後の一滴が落ちたところで、康介がすずなのマグカップを取り、手渡してきた。

「ありがと」
 礼を言って、口をつける。

 覚えていたのか、偶然かは定かじゃないが、康介が調整した豆の量と水の量は、すずなが普段から選んでいるところだった。


 なのに、今日のコーヒーはいつもより複雑な味わいで、ほろ苦かった。