十年前──


「氷雪姫?」
「このところさ、雪がやたら多くてよ。作物がろくに実らねえんだ。城にいらっしゃる姫様が生まれなすったせいだって、みんな噂してやがるぜ」


 目の前を歩く馬と、馬に乗る上質な服を着た依頼主の背中を見つめながら男は説明する。俺は「ふうん」と興味なく頷いた。


 五人家族で、贅沢ができるほどではないが、不足ない生活を送っていた自分。しかし七歳の頃に流行った疫病により、両親と妹が亡くなった。
 生き残ったのは姉と俺だけ。武家の子息として父から剣術の教えをうけていたので、旅の護衛などで日銭を稼いでいた。子どもだと見下され買い叩かれていたが、他に稼げる手段がなかった。

 十歳の頃、俺の噂を聞きつけた城の役人がやってきた。


「見張り、ですか?」
「あぁ、国司の娘である氷織様の見張りをしてもらいたい」


 旅の護衛よりも危険が少なく、金払いもいい。しかし俺はすぐに首を縦に振らなかった。甘い話には裏があることを、嫌というほどを知っていたからだ。


「なぜ自分が、そんな高貴な方の見張りに?」
「お前は知らなくていい」


 疑問を口にしたが一蹴されてしまう。俺が口をつぐめば、役人は袋の中身を床にぶちまけた。金色に輝く小判が十枚。俺の目の色が変わったことに気づいたのだろう。役人はにやりと笑って言った。


「この仕事を請ければ、前金でこれをやろう」


 一年、汗水垂らしてやっと手に入るほどの金だった。

 日中は城下町の料理屋で客に酒肴を運び、家に帰ればわらじを編んで内職をする姉の姿が脳裏に浮かぶ。この金さえあれば美味しいものを食べさせることも、きれいな着物を買うこともできる。俺はごくりと唾を飲み込み、頭を下げた。


 明日、役人に案内され氷織様がいるという城の離れへ案内された。

 こんなところに本当に国司の娘が?と思うほど古びた外観。
 建物の中に入れば、かび臭さと古木の匂いが鼻を突いた。廊下を歩けば軋む音が鳴り響き、足を踏み外せば朽ちた板が抜け落ちそうだ。人の気配はないが、時折、壁の中を小動物が走り抜ける音が聞こえてくる。

 氷織様の部屋は、離れの一番奥にあった。

 役人が黄ばんだ襖を開ければ、そこには小柄な女の子がいた。天井から糸で吊されているのかと思うくらいに、ぴんと背筋を伸ばしている。


「氷織様」
「はい」
「新しい見張り役です」
「はい」


 役人はそれだけ言って去ってしまった。俺にくだされた命令は一つだけ。

「氷織様を必ずお守りしろ」

 国司の娘だというのに、こんなみすぼらしい離れの部屋に押し込められている。
 下女以上にこき使い、酷い扱いをしているくせに、彼女を守れという。混乱で目眩がしそうだった。

 氷織様は立ち尽くしている自分を見つめた。髪は乱れ、着物も古くさいが、きれいな顔立ちをしている。そして一番目を引いたのが、露草色の瞳だった。今までそんな色をした人を見たことがなかった。


「あなた、お名前は?」
「岳と申します」
「そう、よろしくね」


 そう言って、彼女は目を細めた。澄んだ声と屈託のない笑顔に思わず見惚れてしまう。

 それから氷織様をお守りする日々がはじまった。
 毎朝、日の出とともに氷織様の離れへと足を運ぶ。

 彼女の一日は、粗末な食事からはじまる。小さな木の椀に盛られた、粗く挽かれた雑穀米。時折、黒い粒が混じっているのが見える。虫か、それとも石ころか。どちらにせよ城の姫君が口にするべきものではない。
 彼女は粗食を前に丁寧に手を合わせ、黙々と口に運ぶ。

 食事を終えると、過酷な労働がはじまる。離れの掃除、洗濯、時には庭の手入れまでも。本来なら下女がするべき仕事を、姫君である氷織様が文句も言わずにこなしている。
 数人の下女も派遣されているが、氷織様と話すことは滅多にない。彼女たちは氷織様を見るたびに、軽蔑の目線を向け、時には悪意ある噂をぶつけた。


「彼女が生まれてから雪が長く降り続いて……」
「災いの子ってもっぱらの噂よ」


 氷織様はそんな言葉を聞いても表情を変えず、淡々と仕事をこなしている。自分はそんな彼女の背中を、やりきれない気持ちで見つめていた。役人にも状況を伝えたが「危害を加えられていないのなら放っておけ」と言われてしまう。

「弱きを助け、強きをくじくは武士の誉れなり」

 それが父から受けた武士道の教えだった。
 しかし俺は、離れで弱者として扱われている氷織様を見て、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

 ある寒い冬の朝のことだった。
 離れを巡回していると、氷織様が窓辺で何かをしていることに気づいた。近づいてみると、彼女は窓の外にいる小鳥たちに米を与えていた。


「姫様……」


 名を呼べば、彼女はゆっくりと振り返った。そして少し照れくさそうに笑ったあと、小鳥たちの方にまた向き合った。


「この間、怪我をしているのを見てね。早く元気になってほしいから……」


 鳥たちを慈愛に満ちた顔で見つめる氷織様に、俺は言葉を失った。
 自身も十分な食事を与えられていないというのに小さな生き物のことまで気遣う。そんな人に、今まで出会ったことがなかった。

 はじめは氷織様を「可哀想な人」だと見なしていた。だから味方でいようと思っていた。それが亡くなった父の教えだったからだ。
 しかし氷織様が、ただの可哀想な人ではないと思い始めたのはいつからだっただろう。

 足を怪我していた下女のために塗り薬を作り、「これを岳から渡して欲しい」と頼まれたときだろうか。
 日々の疲れでうたた寝してしまった自分の体に、いつの間にか羽織がかけられたときだろうか。

 旅の護衛をしていたとき、醜い大人たちの粗暴を見てきた。子どもだからと買い叩かれ、反論すれば殴られることもあった。「なぜ自分がこんな目に」と恨みを吐き、涙を流す日もあった。

 しかし氷織様は違う。家族からも周囲からも迫害され、離れから逃げ出すことも許されない。自分よりはるかに過酷な状況にいるにも関わらず、他者を思いやる心を失うことがない。その限りない思いやりと強さに、必ず彼女を守り抜きたいという願いが大きくなっていった。


 自分が氷織様の見張り役に任命されて、早くも十年以上が経過した。彼女は十七歳になった。
 今、目の前にいる彼女はまるで人形のようだった。変化を目の当たりにしてきた俺は、やるせない気持ちで唇を噛むことしかできない。
 氷織様と初めてお会いした頃は、まだ笑顔を見せることがあった。下女たちの冷たい囁き声は聞こえたが、今と比べれば穏やかな日々だったと思う。

 そんな日々は華怜様が現れたことにより、完全に壊されてしまった。

 今から十年ほど前だろうか、正室の娘である華怜様が突然やってきた。氷織様の部屋に押し入り、中から大きな物音と氷織様の悲鳴が聞こえてくる。胸が張り裂けそうになりながらも、身分ゆえに止めることもできず、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

 その日以来、氷織様の瞳から光が失われていった。露草色に輝いていた瞳が徐々に曇っていく。まるで魂が少しずつ抜け落ちていくかのようだった。


「姫様……」


 名を呼んでも、彼女はただ頷くだけ。その反応にさえ、以前のような温かみはなくなっていた。
 月日が流れるにつれ、氷織様の反応はますます希薄になっていった。華怜様が来ても反応を見せず、ただ虚ろな目で宙を見つめるだけ。その姿に心を痛めながら、どうすることもできなかった。

 痛ましい悲劇が起きたのは、ちょうど一年前のことだった。
 ある朝、いつものように挨拶しても彼女からの返事はなかった。最初は体調を崩されたのかと思ったが、氷織様の様子を見て血の気が引いた。


「声が……」


 俺は必死に語りかけたが、氷織様は唇をわずかに動かすだけだった。その瞳には、もはや何の感情も宿っていなかった。

 まるで冬の訪れのようだった。
 華やかだった花が萎れ、木々が葉を落とし、そして最後には湖面が凍りつくように。少しずつ、しかし確実に、氷織様の心は凍っていった。

(どうして、こんな優しい方が)

 俺は絶望の淵で、ただ泣き続けることしかできなかった。


「岳?」


 突然、名を呼ばれ我に返る。パチパチと火が爆ぜる音がする。どうやらたき火を見ながら物思いに耽ってしまったようだ。
 氷織様は心配そうに自分を見つめていた。その目は、お会いしたとき以上の輝きを放っている。

 人形のようだった彼女は変わった。その事実が嬉しくもあり、心にちくりと棘が刺さるような心地もする。
 彼女を変えたのは蒼玄の存在だ。長年、氷織様の傍にいながら自分は何もできなかった。氷織様の心が凍っていくのを、ただ見つめることしかできなかった。
 無力さを痛感し、やるせない気持ちになる。

 彼女は楽しそうに自分との思い出や、旅であったことを話していた。その姿に胸が熱くなる。
 そして氷織様は言葉を切ったあと不意に微笑んだ。長い冬の後に見た最初の花のように、儚くも美しい微笑みだった。


「ありがとう、一緒に来てくれて」


 氷織様に感謝を伝えられ、涙がじわりと浮かぶ。胸が張り裂けそうなほど痛かった。
 自分は湧き上がる思いを秘めたまま「いえ……」と静かに頭を下げた。