殴られた腕はジンジン痺れるように痛むが、顔はどうやら無事のようだ。ホッとしながら息を吐くと、今度は腹の底から怒りが湧いてくる。
 来週は撮影があるというのに、もし腫れ上がったり傷が残るようなことになれば、どれだけの人に迷惑がかかるか。
 少し青ざめたような直人を睨みながら、啓介はゆっくり立ち上がる。

「お前さァ、なんなの? 確かに黙ってたのは悪かったかもしんないけど、それって殴られる程のこと? 思うんだけど、言っても言わなくても、こんな展開になってた気がするよ」

 本当は今すぐにでも掴みかかって殴り返したいところだが、万が一にも怪我をする訳にはいかない。啓介は刺すような視線で牽制しながら、じりじりと後ずさった。その表情を見た直人が、ははっと感情のこもっていない笑い声をあげる。

「その目。雑誌に載ってた啓介のまんまだ。きっと誰も気付かないんだろうなぁ、アレがお前だって。ま、お前と喧嘩したことあるヤツは『似てるな』くらいは思うかもしんねーけど。でも、そんな奴らはリューレントなんか買わねぇから、やっぱり誰も気付かないか。あーあ。カッコよく写ってるなぁ。いいねぇ、華やかで順風満帆な未来が約束されてて」

 足元に落ちた雑誌を拾いあげ、パラパラめくって直人は頭を振った。手にした雑誌から気だるそうに視線を上げ、無表情のままそれを再び投げ捨てる。

 あえて神経を逆撫でするような行為に、啓介は歯噛みした。挑発に乗らないよう深呼吸しながら、気持ちを落ち着けるために空を見上げる。
 もう、いつ雨粒が落ちてきてもおかしくないような鉛色の雲が、風に流され頭の上を横切っていった。夏にしては吹く風がどこかひんやりしていて、ついでにこの場の空気も少し冷ましてくれないかと願う。

「ほんとムカつき過ぎて吐きそう」

 顔をしかめた直人が、みぞおちの辺りを大袈裟に抑えた。当てつけのような仕草に、啓介は呆れながら冷めた目を向ける。

「なんで直人がそこまで怒るのか、全然わかんない。そんなに僕が東京に行くの、面白くない?」
「俺だってわかんねぇよ」

 予想外の返答に、啓介は思わず「は?」と聞き返した。苛立ったように両手で自分の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、うわずった声で叫ぶ。

「わかんねぇから、ここに来たんだよ! なぁ、教えてくれよ。なんで俺、こんなにアタマきてんの? お前が遠くへ行っちゃうの、なんでこんなに嫌なんだよ。おかしいだろ、俺。ブランド物の服なんて少しも興味ないのに、お前が読んでる雑誌買ってみたりしてさ。理解したかったんだよ。お前のことなら、何でも知ってたかった。でも全然ダメだ、お前のこと一つもわかんねぇ。それがホント、もどかしくて気持ち悪くてイライラすんだよ」

 直人の目は当惑の色を見せていた。本人自身も抱えているものの正体が解らず、手に負えなくてどうにも出来ないようだ。

「直人、それって……」
「こんなの、まるで恋煩いみたいって思っただろ? でも、それとも何か違ぇんだよ。でも、絶対に違うとも言い切れなくて、わけわかんねぇの。お前には理解できねぇだろうけど」
「ううん。多分、僕それ解かる」

 その持て余した感情に、よく似たものをこちらも抱いているのだから。

 好きか嫌いかの二択で問われれば、迷わず好きだと答えるだろう。尊敬や親しみや身内に感じるような情、それらを全部ひっくるめての「好き」だ。
 ただ厄介なことに、そこには少しの甘美も含まれている。

 だからと言ってこれを「恋愛感情なのか」と問われると、途端に解らなくなってしまう。その甘美は膨大な感情の中のほんの一部で、アイスクリームで言ったらバニラエッセンスのようなものだ。ほんの数滴程度の存在で、全体で見れば占める割合はとても小さい。それなのに、困ったことに甘い香りの主張は慎ましいとは言い難いく、時折り脳を混乱させる。

「恋じゃない」と言った傍から「やっぱり待って」と、もう一度答えを探し始めたくなってしまうのだ。
――延々と。