翌週、無事に押印された同意書を携えて、啓介は再び都内を訪れていた。いつもは渋谷まで乗る地下鉄も、今日は撮影のために途中下車する。
 改札を抜けて地上に出た啓介は、周囲をぐるりと見回した。少し早めに着いたので、まだ待ち合わせ場所に緑川の姿はない。「まぁいいや」と、夏らしい青空を眺めながら待つことにした。

 空の色は同じだが背の高い建物に囲まれているので、見える青の範囲は地元に比べると、とても狭い。
 ふとした瞬間「東京だなぁ」と実感する。

 見上げ過ぎて首が痛くなり、視線を正面に戻したら、目の前を女子高生たちが談笑しながら通り過ぎて行った。夏休みでも補習や部活があるのだろう。よく見れば他にも学生がチラホラいて、こんなオフィス街にも高校があるのかと不思議な気持ちになった。

 啓介にとって東京は特別な場所で、何度来ても少し身構えてしまうのだが、そこで暮らしている人も当然いるのだ。
 啓介は興味深そうに、徐々に離れていく高校生の後ろ姿を観察した。濃紺のポロシャツとチェックのスカート、ポロシャツと同色のクルーソックスには茶色のローファーがよく合っている。私立高校の制服だろうか。同い年くらいの生徒たちは、やたらと垢抜けて見えた。

――あの子たちは「東京」に気後れなんてしないんだろうな。

 当たり前のように流行の発信地の空気を吸い、最先端を享受している。それはとんでもないアドバンテージのような気がして、酷く焦燥感に駆られた。
 雑誌やテレビで観るような憧れのショップも、彼女らにとっては近所にあるただの店なのかもしれない。学校帰りについでに寄るような、気負いのない気軽さが心底羨ましかった。
 もし自分が都内に住んでいて、都心の学校に通えていたらなど、ついつい夢想してしまう。

 物思いにふけっていると、目の前の白山通りに一台のタクシーが停車した。ハザードランプが焚かれたそのタクシーから、緑川が降りてくる。すぐにこちらに気付くと、緑川は軽く手を挙げてほほ笑んだ。

「お待たせ。早かったのね。スタジオはすぐそこだから、歩いて行きましょう」

 言うが早いか、緑川は青信号が点滅する横断歩道を渡り始めたので、啓介も慌ててその後を追った。緑川は仕立ての良さそうなパンツスーツを着こなしていて、ハイヒールで颯爽と歩く姿からは知的なオーラが漂っている。

「今日の撮影はね、博雅出版さんのスタジオなの」
「へぇ。自前のスタジオがあるんだ」

 博雅出版はリューレントを発行している、業界最大手の総合出版社だ。雑誌から書籍、コミックスに写真集など、扱うジャンルは幅広い。

「本社ビルからも近いし、海藤編集長も今日はキミたちの撮影を見に来るそうよ」
「キミたち(・・)?」

 疑問符を浮かべる啓介に、緑川は「ああ」と思い出したように説明を付け加える。

「今日はキミの他に、姉妹紙の専属モデルがあと二人参加するわ。向こうに着いたら紹介するわね。当然リューレントのモデルさん達もいるから、ちゃんと挨拶するように。いいわね?」
「はぁい」

 返事をしながら「先生みたいだな」と首をすくめたが、そう言えば正真正銘先生だったと思い出す。

 緑川の言う通り、スタジオにはあっという間に到着した。小規模な店舗ビルや低層マンションが立ち並ぶ何の変哲もない街の一角にあって、「ここがスタジオだ」と言われなければ通り過ぎてしまいそうなほど、一般的なオフィスビルに見える。
 緑川は慣れているのか、臆することなくズンズンと建物の中を進んで行った。

「今日は人数が多いから、一番大きなスタジオよ。ここがそう」

 扉を開けて目に飛び込んできたのは、眩しい程に真っ白な壁だった。高い天井には黒く塗装された鉄パイプが張り巡らされていて、そこから四角い大きな照明が釣り下がっている。

 撮影真っ只中のスタジオには、緊張感が漂っていた。
 一秒ごとに焚かれるフラッシュとシャッター音。ハイブランドの服を身に纏い、カメラに鋭い視線を向けるモデルが次々とポーズを変えていく。華やかで優雅なはずなのに、その姿はまるで獲物と対峙する戦士のようだった。