テーブルの上に大粒の雫がいくつも落ちる。
 ハッとして顔を上げると、こぼれる涙を拭おうともせず、千鶴がこちらを真っ直ぐ見据えていた。本気で止めようとしているのが伝わってきて、一瞬怯みそうになる。
 だがここで退くわけにはいかない。

「親不孝でごめんね。でも、自分がどこまでやれるか試してみたい」
「駄目よ。何でよりによってこの道なの。もっと他にいっぱいあるじゃない、歩きやすそうな道が!」

 語気を荒げた千鶴がテーブルを叩き、空気がビリッと揺れた。相変わらず目に涙を溜めたまま、千鶴は啓介に強い眼差しを向けている。
 感情を剥き出しにしてまで必死に止めようとする様を目の当たりにして、反対に啓介は冷静になることが出来た。

 もしかしたら千鶴の中では、自分は幼い子どものままなのかもしれない。もうとっくに背だって追い越しているというのに。まだ自分のことを守ろうとしてくれているのかと考えたら、何だか泣いてしまいそうで喉の奥がヒリヒリした。

「あのね、千鶴。僕はもう、自分で自分の身を守れるよ。千鶴に守って貰わなくても大丈夫なの」

 千鶴の目を見て静かに語りかける。それでも千鶴は弱々しく首を振った。

「何言ってんの高校生の癖に。まだ子どもじゃない」
「だったら急いで大人になるよ。千鶴に迷惑はかけないから、自分の進む道は自分で決めさせて」
「馬鹿じゃないの、全然解ってない。迷惑なんて、いくらでもかけて構わないのに。ねえ啓ちゃん、お願い。なるべく傷付かない人生を選んで。だって、この道は辛いって、もう知ってるんだから……」

 千鶴が祈るように顔の前で手を組む。解ってないのは千鶴の方じゃないか。そう言いかけて止めた。
 千鶴もかつて自分で選んで決めた道だ。啓介が「進みたい」という気持は、誰よりも理解しているだろう。解っていないはずがない。
 それでもなお、「行くな」と言う。
 啓介は千鶴の想いを全て飲み込み、形を変えて吐き出した。

「僕が千鶴に教えて欲しいのは、石ころもない綺麗で安全な道の歩き方じゃなくて、転んだ時の起き上がり方だよ」
「啓……」

 千鶴は開きかけた口を再び引き結ぶ。くしゃりと歪めたその表情は、悲しいと言うより寂しそうだった。置いてけぼりにしてしまう罪悪感に、胸がチクリと痛む。その痛みを振り切るように、啓介は言葉をつづけた。

「千鶴はもっと他に道があるっていうけど、どの道もそれなりに大変だと思うよ」
「それは、そうかもしれないけど」
「千鶴が思うより、僕は強いから大丈夫」
「そうね。そう言えば啓介は、迷子になってもいつも涼しい顔してた。私だけが焦ってバカみたいなの」
「そんな小さい頃の話しなんて、覚えてないや」
「私にとっては、ついこの間の出来事なんだけどなぁ」

 千鶴は大きく息を吐きながら脱力する。椅子の背もたれに体重を預け、赤い目で啓介を見た。

「……受験までまだ一年以上あるけど、心変わりしない?」
「しない。もう決めたから」

 そっかぁと、千鶴は泣いたまま笑った。

「じゃあ、私から啓介に励ましの言葉を贈ってあげよう。きっとあなたは私に似てるから、すごく血が(たぎ)ると思う」

 千鶴の目があまりにも真剣で、啓介は思わず背筋を伸ばす。

「ねぇ、啓介。私の仇をとってね」

 啓介がゴクリと唾を飲み込んだ。一拍置いた後、参ったと言うように啓介は肩を揺らして笑いだす。

「あっは! サイッコーに重いね、その言葉。励ましじゃなくて呪いじゃないの。でもありがとう。凄く効いた」

 千鶴らしい(はなむけ)に、啓介は声を立てて笑った。「辛くなったらいつでも辞めていい」と言われるよりも、退路を断ちたい啓介にとっては百倍有難い。

「でも、体を壊したら許さないからね」
「あはは。わかってるってば」

 笑いが止まらず腹を抱えた。また喉の奥がヒリヒリしてくる。
 息を吸ったら胸の奥が震えて、笑いながら少し泣いた。