落ち着かないままとった食事は、あまり味がしなかった。
 それでも顔が引きつることなく、上手に笑えていたとは思う。

「じゃあ、また。めし、サンキュな」
「うん。こちらこそ、今日はありがと」

 アパートの前まで送ってもらい、啓介は走り去る自転車に手を振った。
 静かな夜の中では、アパートの階段を上る足音もよく響くのかもしれない。玄関のドアを開けると、待ち構えていたように千鶴が立っていた。「怒っています」とアピールするように、わざとらしく目を細めてこちらを睨んでいる。
 機嫌を損ねるようなことをした覚えは無いので「何?」と啓介は睨み返した。

「電話があったの。緑川さんって人から。どういうことか、説明してよ」
「あー、なるほど」

 そう言えば保護者の承諾がどうとか言っていたなと、緑川と海藤の交わしていた会話を思い出す。早速コンタクトを取ってくれたのは有難いが、目の前にいる母親はどう見ても機嫌が悪そうだった。根回しならもっと上手にやってくれと、啓介は心の中で毒づく。

「ねえ、今日は桜華大に行ってたの? そこでリューレントの編集長に気に入られて、今度撮影に参加するって本当? そんな夢みたいな話、信用出来ないんだけど。騙されてない?」
「大学の構内で会ったし学生からも名前で呼ばれてたから、緑川さんの素性は確かだと思うよ。あと、編集長からは名刺貰った」
 
 言いながら、千鶴の目の前に海藤の名刺を差し出した。シンプルなデザインだが、上質な用紙やフォントなど随所にこだわりが見える。それでもただの紙切れと言ってしまえばそれまでで、これで信用しろと言うのも難しいかもしれない。

 千鶴は無言で名刺を受け取り、ダイニングテーブルの椅子を引く。ストンと腰を落とす間、ずっと視線は名刺に縫い留められていた。千鶴を素通りして自室に引きこもる気にもなれず、仕方なく啓介も向かいの席に腰を下ろす。

「千鶴は緑川さんから何て聞いたの」
「今度の撮影はお試しみたいなものだけど、この先、長く続ける方向で真剣に考えて欲しいって。あと、特待の話も聞いた」
「あー、そう。じゃあ僕から特に説明することはないかな」
「あるでしょ、一番肝心なこと。啓介はどう考えてるの」

 名刺から顔を上げた千鶴は、一言で言ってしまえば泣きそうだった。ただ、泣くのを堪えるために唇を噛んで口をへの字に曲げているので、酷く怒っているようにも見える。
 この顔には少し弱くて、啓介は観念したように深く息を吐いた。自分の身を案じてくれているのが、痛いほどわかってしまう。

「挑戦しようと思ってるよ。桜華大でちゃんと学んで知識を身に着けたいし、撮影の現場でしか得られない経験も積みたい。ついでに人脈も欲しいなんて、僕って欲張りかな。でもさぁ、誰でも手にできるチケットじゃないでしょ、これ。手放す気はないよ」

 千鶴の表情は、ますます曇る。

「そのチケットの対価は考えたことある? 周囲の期待に応えるために、あなた血反吐を吐くわよ。外野からの嫉妬も羨望も辛いけど、そんなのまだ無視すればやり過ごせる。足を引っ張られても、振り払えばいい。だけど、自分の中から湧き上がる空虚には耐えられなかった。正解が見えなくて、内側から膨らんだ不安が自分自身を食い破ろうとするの。指の隙間から色んなものがこぼれ落ちて、結局何も残ってない両手を見て絶望した。あんな辛い思い、啓ちゃんにして欲しくない」

 嫌な記憶を閉じ込めるように、千鶴は開いていた手のひらを握り締めた。

「もしかして、僕が行こうとしてる道って、千鶴も歩いたことのある道なの」