こんなのよくある罰ゲームだった。
同じバスケ部の友達とフリースロー大会をして、はじめに負けた奴が罰ゲーム、みたいな……。俺はバスケ部のエースだから、そんな勝負に負けるはずなんてなかった。
ゴールに向かってシュートをする態勢をつくる。もう何百回、何千回って打ってきたフリースローだ。もちろん、わざと外す気なんてさらさらない。呼吸を整えて静かに目を開く。
膝のバネを使ってジャンプしようとした瞬間。
校内放送であいつの名前が呼ばれた。職員室に来いっていう呼び出し。そんな放送、珍しくなんかないのに、そいつの名前を聞いた瞬間、自分でもびっくりするくらい心臓が跳ね上がった。
「あ……」
ヤバイ……そう思ったときには、バスケットボールはゴールの淵に当たり、はじき返されてしまう。ボールが床を跳ねる音が広い体育館に響き渡った。
シーンと鎮まり返った直後、嬉しそうな顔をした友人たちが俺の所に一目散に走り寄ってくる。
「マジか!? 凪が外すとは思ってなかった」
「罰ゲームは凪に決定な!」
「あははは! いつも完璧なお前が罰ゲームなんて、めっちゃ気分がいい!」
皆が好き勝手言っているものだから、思わず不貞腐れた顔をしてしまう。なんでこいつら、こんなに楽しそうなんだよ。小さく舌打ちをした。
「凪の罰ゲームどうする?」
「そうだなぁ……あ、こんなんどう?」
友人の一人が「いいことを思いついた」とばかりに顔を輝かせる。
「四組の神谷章人に付き合ってほしいって告白する!」
「な、なんでそうなるんだよ! それは絶対に嫌だ!」
それを聞いた瞬間、俺は思わず大声を上げてしまう。そんな罰ゲームなんてない。死んでも嫌だ。なぜなら、俺は神谷が大嫌いだから。
「そんなにムキになんなよ! もしかして凪がシュートを外した原因も、放送で神谷の名前が呼ばれたから……とか?」
「えぇ? マジで? 凪、神谷のことが大嫌いとか言っている割には、めちゃくちゃ意識してるもんなぁ」 俺は今にも顔から火が出てしまいそうなぐらい紅潮してしまう。それでも、何も言えずに俯いた。つい先程、神谷の名前が放送から聞こえてきて動揺してしまったのは事実だ。
――でも、俺は……。
「じゃあ、決定な! 神谷に告白して結果が出たら、ちゃんと報告してくれよな」
「頑張れ、凪!」
俺のことなんてお構いなしに楽しそうにしている友人たちを、俺は睨みつけることしかできなかった。
俺は武内凪。高校二年生。
自分で言うのはなんだけど、成績は常に学年トップだし、バスケ部のエースであり次期部長。正直、女の子にもモテる。
勉強も運動も、俺が少し本気を出せば面白いくらいよくできた。だから周りの奴らは俺に一目置いていたし、俺は常に特別な存在だ。だから、俺につっかかってくる奴なんていない。
そんな俺は周囲の友人からよく、『性格以外は完璧』と言われるけど……。そんなことも、「負け犬の遠吠え」と軽くあしらっていたのだった。
「あのさ、凪。話があるんだけど、ちょっといいかな?」
「は?」
「大事な話があるの」
そう今にも消え入りそうな声で呟くのは、この学校でも有名な美少女だ。ひまわり畑で麦わら帽子を被って微笑んでいるような、可憐な子。彼女の名前は江野日葵。
耳まで真っ赤にして、顔さえ上げることができないらしい。
――あー、またか……。
心の中で溜息を吐く。もう何度こういった場面に遭遇しただろうか。もう数えるのも面倒くさくなったくらいだ。
適当に付き合えば「こんな人だとは思わなかった」とフラれるし、断ったら断ったで仲間内で盛大に悪口を言われる。こういった場合のベストアンサーを、俺は知りたかった。
「あのさ、俺、今忙しいんだ。また今度ね」
「あ、でも……」
「ごめん、部活があるから」
そう言った瞬間、江野の顔が悲痛に歪む。あぁ、やっぱり面倒くさい。俺が頭を掻き毟りながら立ちすくんでいると、「凪ぃ、部活に行くぞ!」と遠くから声が聞こえてくる。
なんていいタイミングなのだろうか。これぞ神の救いだ。
「うん、今行く! じゃあ、俺行くから。ごめんな」
俺は江野の肩を軽く叩き、慌ててリュックを背負う。
「凪、待って」
そんな声は聞こえないフリをして、一目散に教室を後にした。
「凪、お前また告られてたのか?」
「わかんねぇ。話聞くのも怠いし」
「はぁ? モテる奴の言うことは違うなぁ。マジでムカつくんだけど」
そう言いながら同じバスケ部で、一番仲のいい小野寺優太が背中に飛びついてくる。その勢いに、体勢を崩しそうになってしまった。
「いいよなぁ、凪は。成績学年トップで、バスケ部のエース。女の子にだってモテるし、超イケメンだし。性格以外悪いとこないじゃん」
「おい。性格は悪いってことかよ?」
「性格は悪いだろう? 凪は自己中だし超我儘じゃん? こんな男のどこがいいんだか……」
「大きなお世話だ」
わざとらしく溜息をつく優太の体を強引に引き離す。でもそんなことは慣れっこの優太は、全然動じる様子などない。
「でも不思議と憎めないんだよな、凪は。なんだか危なっかしくて、放っておけない。なんやかんやでこうやって一緒にいちゃうし」
「別に一緒にいてくれなんて、頼んだ覚えはないからな」
「わかってる。俺が好きで凪の傍にいるんだ」
「……変な奴」
「あははは! それより、お前神谷にはもう告ったのか?」
「はぁ? あれ本気だったのか?」
「当り前だろう? みんな結果を楽しみに待ってるんだからな」
「そんなん、本当にやるわけないだろう。アホらしい」
「はぁ? お前、約束破るわけ?」
優太が怪訝そうに眉を顰める。俺は神谷に告白をするなんて約束をした覚えなんかない。あれは、しょうもない罰ゲームの話で、ただの遊び。そもそも、そんなことを理由にして、告白をするだなんてどうかしてるだろう、こいつらの方が。
「でもさ、なんやかんでお前神谷のこと好きじゃん?」
「はぁ? 俺はあいつのことが大嫌いなんだけど」
「いや、お前は神谷が大好きだって。嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろう? わかった、俺に任せとけ!」
目の前で優太が屈託のない笑顔を見せる。優太は俺のことを憎めないと言ったが、そういう優太も、強引な割に憎めないところはある。
そろそろ冬を迎える季節は、昼間が驚くほど短い。先程までは弱々しい日差しが差し込んでいた校舎が、今は夕日で赤く染まっている。地域で鳴らしている、夕方の五時を知らせる音楽が、校舎の中にまで響き渡っていた。
俺は張り切る友人を見ながら、溜息を吐いた。
◇◆◇◆
話は遡って、今年の春。初夏がそろそろ見えてきたという頃のことだ。
その日は朝から学校中が騒めいていた。学校中、というより女子生徒が色めきだっている。何事だと思いつつ、女子生徒の噂話に耳を傾けると、ある転校生の話で持ちきりだった。
「今ね、職員室にいる転校生をチラッと見かけたんだけど、超イケメンだったの! マジであれはヤバイ!」
「マジで!? 背は高かったりする?」
「背が高くてモデルみたいだったよ!」
「えー! 早く見てみたーい」
教室だけでなく、廊下までもが女子生徒の黄色い声で溢れ返っている。
「くだらねぇ……」
朝からイラついていた俺は、リュックサックを乱暴に机に置いた。どうして女子はこんなにも噂好きなのだろうか? 朝から響く金切り声に、頭が痛くなりそうだ。そんな俺のところへ、優太がニヤニヤしながら近付いてくる。
「噂のイケメン転校生に、女の子を盗られちゃうんじゃないのか?」
「別に、そんなんどうだっていいよ」
「へぇ、モテ男は余裕なんだなぁ」
「なぁ、優太。そんなことより、昨日最終回だったあの漫画読んだか?」
「読んだ読んだ! 超面白かったけど、終わり方がいまいちだったよなぁ」 話を逸らせば、簡単に食いついてきてくれる。優太が単純でよかった……俺は胸を撫で下ろした。
――あいつが神谷章人。
神谷を初めて見たとき、こんなに綺麗な男がいるんだ……と思わず視線を奪われてしまう。廊下を歩く転校生は、噂に違わず美しい容姿をしていた。
身長は百八十五センチくらいはあるだろうか? 女子の言う通りモデルのような体系をしている。漆のように黒い髪は日差しを受けると輝いて見えるし、年齢の割にはひどく大人びた表情をしていた。切れ長の瞳に、鼻筋の通った顔立ちには、女子生徒が浮足立つのも無理ない。
その神谷は、色素の薄い猫っ毛に幼い顔立ちの俺とは正反対で、大人の色気さえも兼ね備えているように感じられた。
移動教室なのだろう。ただ歩いているだけなのに、とても様になっている。女子がチラチラと神谷を盗み見ているのがわかった。
「また凪とは違ったタイプのイケメンだな」
「あっそ」
「でも、あっちは性格もよさそうだ。それにあいつ、頭もよくて運動神経も抜群らしい。
お前、やっぱり負けちゃうんじゃねぇの?」
「あぁ?」
早くも比較をされてしまったことに、苛立ちを隠し切れない。
――あー、煩わしい。
そのとき俺は、神谷には関わらない……そう心に決めたのだった。
神谷が転校してきた数日後に行われた中間テスト。その結果を知って俺は驚愕してしまう。嫌な予感は的中してしまった。
「凪、今度の中間テスト二位だったじゃん?」「え? そうなの? 結果、もう出てたんだ」
「うん。学年の掲示板に張り出してあったよ」
「へぇ。なぁ、一位はもしかして……」
「そう、あの神谷だ!」
自分を囲んで騒ぐ友人たちを軽くあしらう。もう、こいつらはいちいちうるさくて敵わない。
「あいつ、噂通りやっぱ頭いいんだなぁ。転校して早々一位とか、普通あり得ないだろう」
「それに、来月ある体育祭の学年対抗リレー。アンカーが、凪から神谷になったんだろう? 百メートル走で、凄い記録を叩き出したらしいぜ。あいつやっぱり運動神経もいいんだな?」
「凪、お前全然駄目じゃん?」
友人たちの憐れむような視線に腹が立って仕方がないけど……ここでムキになったら、それこそ自分が惨めになってしまう。俺はグッと腹に怒りを押し込めた。
「別に全然気にしてねぇし。ってか、次は絶対一位を奪還する。勿論、リレーのアンカーもな」
「へぇ、さすが余裕じゃん」
「当り前だろう? じゃあな」
ヒラヒラと手を振りながら昇降口に向かう。いつもなら先生に怒られるまで友人たちと話をしているのに、今日は一刻も早く一人になりたかった。
「畜生……」
俺は今回のテストを受けるにあたって、一切手なんて抜いてなどいない。逆に一位を死守したいという思いから、必死にテスト勉強に取り組んだ。
それなのに……。
唇を強く噛み締める。なんて惨めなのだろう。入学してから、一度だって試験で一位を逃したことなんてなかったし、たった一度首位を逃しただけで、周囲の評価がこんなにも下がるなんて思いもしなかった。
いや、みんな面白がっているのかもしれない。普段粋がっているくせに、なんて無様なんだろう、って。
もうすぐ昇降口が見える、そう思ったとき。下駄箱のほうから話し声がする。その声の主に気が付いた俺は、立ち止まった。
あの声は……声を聞いただけで胸がザワザワしてくる。今一番会いたくない人物だった。
「あの、神谷君。話があるんだけどちょっといいかな?」
「ん? なに?」
「あの、あのね。驚かないで聞いてほしいんだけど、私初めて会ったときから神谷君のことが好きだったの。一目惚れってやつかな?」
「一目惚れ? へぇ……」 そう照れくさそうな笑みを浮かべるのは、つい最近自分に告白してきた江野だった。それを見た俺は、真ん丸な瞳を更に見開いた。
江野が俺に告白をしてきたのは約一カ月前。余程勇気を振り絞ったのだろうと感じられるくらい、必死に思いを伝てくれたことだけは、今でも覚えている。
何が『ひまわり畑で麦わら帽子を被って微笑んでいるような可憐な子』、だ。笑わせないでほしい。ただの尻軽女じゃねぇか……。
「顔が良ければだれでもいいのかよ」
奥歯を強く噛み締めれば、ギリギリッと嫌な音がした。あんな尻軽女、フラれてしまえばいい。心の中でそう思う。
なぜ、よりによってこいつに告白をするんだ……そう思えば、腹がたって仕方がない。神谷は、俺から全てを奪っていったんだ。
「申し訳ないけど、俺、今は誰とも付き合う気なんてないから」
「え? でも彼女がいないなら私と……」
「ごめんね。恋愛なんて面倒くさいだけだし」
「そんな……」
突然冷たい言葉を言い放たれた江野が、目に涙を滲ませる。いい気味だ、俺の口角が徐々に上がっていった。
「でも、考えるくらいしてもらえないかな?」
「無理だって言ってるよね? 考える必要もないよ」
「でも……」
あまりにも必死に食い下がる江野を見ていると面白くなってくる。もっと目に物を見せてやろうと、悪魔の尻尾がニョキニョキと生えて来るのを感じた。
「あのさ、邪魔なんだけど。どいてくんない?」
「え?」
「君たちが邪魔で、下駄箱から靴が出せないんだけど?」
江野が俺の声に反応し振り返った瞬間、顔を引き攣らせた。つい最近告白した相手に、別の男に告白している現場を目撃されたのだから、罰が悪いだろう。
「神谷君、変なこと言ってごめんね。じゃあ、私行くね」
それだけ言うと、江野は逃げるように昇降口を後にした。
「ありがとう。助かったよ」
「別にお前を助けたわけじゃない。靴が取れなかったから邪魔だったんだよ」
「そっか。でも助かった」
「フンッ」
その物腰の柔らかい話し方にイラつきを感じた俺は、下駄箱から靴を取り出すと床に叩きつけるように置いた。関わらないと決めたのに、一体何をしているのだろうか。
「君、二組の武内君だろう?」
「あぁ、そうだよ。いい加減お前もどいて。本当に邪魔だから」
「あ、ごめん」
神谷と話したのはこれが初めてだったのに、あまりにも素っ気ない態度をとってしまったことに、少しだけ心が痛む。こんなんじゃ、ただ神谷を妬んでいるだけだ。
そんなことはわかりきっているけど、割り切れない自分がいる。
「武内って、勉強できるんだね?」
「はぁ? それって嫌味?」
「なにが?」
「とぼけてんじゃねぇよ。お前、転校して来て早々、中間テストで一位だっただろうが?」
「あ、うん。そうだったかな?」「そうだったかな、じゃねぇよ」
だんだん腹が立ってくる。転校してきて早々一位になったことを自慢したいのだろうか? そう思えば、腸が煮えくり返りそうになった。
「あのさ、お前が一位になったってことは、お前が転校してくる前に一位だった奴が、脱落したってことなんだよ。そんなこともわからねぇのかよ? 無神経すぎねぇか?」
「まさか、脱落したのって、君かい?」
「あぁ、そうだよ。今回俺は二位だった」
しまった……そう言いたそうに神谷が俯く。そんな申し訳なさそうな顔をしないでほしい。余計俺が惨めになるから。
「一位だけじゃねぇよ。体育祭のリレーのアンカーだって、俺からお前に変更になってた。リレーのアンカーってさ、大体一番足の速い奴が選ばれるじゃん? お前運動神経もいいんだな」
「別に足が速いわけじゃ……」
焦ったように顔を上げる神谷を俺は睨みつける。別に神谷が悪いわけじゃない。そんなことはわかりきっているのに……この苛立ちを鎮めることが、俺にはできなかった。
「それに、さっきお前に告白した子、つい最近俺に告白してきたばかりだったんだ」
「……なんだよ、それ」
「お前、女にもモテて、本当に面白くない。なんなんだよ? 転校してきて早々、俺が今まで手に入れてきたもの全部を奪いやがって」
「はぁ? そんなの俺には関係ないだろう? 君が俺に嫉妬しているだけじゃないか。それとも、君はあの子のことが好きだったの?」
「そんなんじゃねぇよ。ただ……」
もう我慢の限界だった。こんな風にキレた自分に、今まで言い返してきた奴なんて一人もいなかった。生意気な奴……俺はギュッと拳を握り締めた。
「本当に気に入らねぇ! 俺はお前が大嫌いだ!」
「それは俺も同じだ。初めて会話した同級生にとる態度がこれなんて、あまりもガキ過ぎて笑えてくる。確かに顔はいいけど、みんなが君のことを、性格以外は完璧な奴って噂している理由がよくわかったよ」
「はぁ? テメエ、喧嘩売ってんのか?」
「いいよ。売られた喧嘩は買う主義だ」
全く怯む様子もなく俺を睨みつけてくる、真っ直ぐな眼差しが余計腹立たしい。呼吸がどんどん浅くなり、血が沸騰していくのを感じた。
「もしかして、神谷も俺と同じで性格以外は完璧なタイプか? 善人ぶってても、意地の悪さが滲み出てるぜ?」
「失礼だな。俺は君みたいに非常識じゃない」
「本当にいけ好かない野郎だ」
このまま一発殴ってしまおうか……激情した俺は、握り締めた拳に更に力を籠める。昔から喧嘩だって負けたことなんかなかった。
そのとき「もう下校時刻だぞ。早く帰れ!」という声が聞こえてきて、ハッと我に返る。昇降口を見回っていた教師がひょっこり廊下の角から顔を出した。
「はい、今帰ります」
「おう、気を付けて帰るんだぞ。まだ教室に残ってる生徒はいるかな?」
「はい、まだいると思います」
神谷が人懐こい笑みを浮かべたことで、その場の空気が一変した。冷静を掻いてしまった自分が恥ずかしくなる。
でも、どうしてもこいつは気に入らない。俺は堪忍袋の緒が切れそうになるのを必死に堪えながら、神谷を睨みつけたのだった。
「神谷って、空手で全国大会に出場する猛者らしいぜ?」
後日その噂を聞いた俺の全身から、サッと血の気が引いていく。
――あぁ、駄目だ、あいつの全てが気に入らねぇ。
俺は思いきり自分の頭を掻き毟った。
◇◆◇◆
それからというもの、ことあるごとに俺は神谷と比較された。成績は勿論だけど、どちらのほうがイケメンだとか、どちらのほうが性格がいいだとか……そんなことはどうでもよかったけけれど、つい周囲の人間の言葉に耳を傾けてしまう。
やっぱり、神谷はいけ好かない。
俺の前では憎まれ口を叩いたくせに、皆の前ではヘラヘラと笑っている。おかげであっという間に友達ができたみたいだし、女子からもモテていた。
それでもどんなに可愛い子が告白をしたところで、神谷がオッケーを出すことはないらしい。俺はそれが不思議だった。
先日、抜き打ちで行われた漢字テストの結果が張り出されている掲示板の前で足を止める。そこには、無表情で発表された順位を見つめる神谷がいた。
「おい、一位だったからって調子にのんなよ」
「別にのってないだろう? いちいち突っかかってくるな」
「別に突っかかったわけじゃ……」
「武内は二位か。悔しいのか? 本当にガキだな?」
「なんだと?」
神谷が嫌いなら関わらなければいい。無視して、距離を置けばいいんだ。それなのに、それが俺はできなかった。
気に食わないのに、自然と目で神谷を追いかけて、知らなくてもいいことを知ってしまい腹が立つ。こんな不毛なことをずっと繰り返している。
神谷も神谷なのだ。皆の前ではいい人ぶっている癖に、俺の前では化けの皮が剝がれたように途端に意地が悪くなる。今だって、俺を見下したように笑っているんだ。
――くそ、本当に腹が立つ。
「武内は本当にガキだな。可愛いったらねぇよ」
「うるせぇ、黙れ。可愛いとか言うな」
神谷が俺に向かって微笑んだことさえ、今の俺には腹が立って仕方がなかった。
それからというもの、俺は自然と神谷を目で追うようになった。
ふと渡り廊下から校庭に視線を移せば、神谷は体育の授業らしくグラウンドを走っている。足は速くない、なんて言っていたくせにクラスの誰よりも速くて、誰も追いつける奴なんていない。
「本当に気に入らねぇ」
でも何だろうか……神谷が気になって仕方がない。こんなのは、しなくてもいいエゴサをわざわざして落ち込む、という無意味な行動によく似ている。
遠くからでも神谷はすぐに見つけることができる。悔しいことに神谷は輝いて見えた。
背は高いし、顔はいいし。大勢の友人や女子に囲まれて笑っている神谷。
大嫌いなはずなのに……。
「畜生。なんで目が離せないんだよ」
楽しそうな神谷を見ていることが辛くて、俺は逃げるように、次の授業がある理科室へと向かったのだった。
放課後、図書室で勉強をしている神谷を見つけて、また視線が釘付けになる。高校生にもなると図書室を利用する生徒なんてほとんどいない。でも、神谷はよく図書室で勉強をしていた。
夕日が図書室の中を真っ赤に照らし、もうすぐ下校時間になる。校舎の中には時々生徒の声が聞こえてくるだけで、とても静かだ。そんな中、一生懸命勉強をしている神谷は、悔しいけどやっぱりかっこいい。
長い睫毛が影を落として、時々髪を耳に掛ける仕草が艶っぽくて……訳もわからず鼓動が速くなった。
下校のチャイムが鳴った瞬間神谷が顔を上げて、俺と視線が合う。びっくりした俺は慌てて視線を逸らそうとしたのに……なぜか、それができなかった。
顔を上げた神谷の口角が上がって、唇が言葉を紡ぐ。声は出ていなかったけれど、俺には神谷の言いたいことがわかってしまった。
『み・す・ぎ』
その三文字がわかってしまった俺は、一気に顔に熱が籠った。恥ずかしくて体が小さく震える。
別に、別に俺はお前を見てたわけじゃ……いや、見てたけど……。頭の中が混乱してしまった。
「別にお前を見てたわけじゃねぇし! たまたま通りかかっただけだし! 自惚れんなよな!」
そう大声で言い残すと、図書室から逃げるように立ち去る。遠くから神谷の笑い声が聞こえてきたけれど、そんなことはどうでもいい。
「別にお前を見てたわけじゃ……」
肩で息をしながら階段を駆け下りたのだった。
神谷が転校してきて数ヶ月経った肌寒いある日。 優太は突然、記憶の片隅にすら置いていなかった、あの話を持ち出してきた。
「凪、屋上に神谷を呼び出しておいたから」
「は? なんだよ、突然」
「は? じゃねぇよ。この前の罰ゲーム、もう忘れたのか? 神谷に告白するっていう、あれだよ」
「あー、あれね……」
俺は顔を引き攣らせる。そんな罰ゲームあったっけ……。もうすっかり忘れていた。
「今、屋上に、神谷がいるから告白してこい!」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「大丈夫。『凪からどうしても伝えたいことがある』って言って呼び出したから。きっと今頃お前を待ってるはずだ」
「で、でも……」
「男に二言はない! ほら、行ってこい!」
あの日ゲームに参加していた友人たちに背中を押される。「行ってらっしゃい!」と嬉しそうな顔をした奴らが、ヒラヒラと手を振りながら自分を見送っていた。
「なんで俺が神谷に……」
重たい足取りで屋上に向かう。貴重な昼休みをこんなくだらないことに割くなん
て……。温かい陽だまりで昼寝をしていたほうが、よっぽど有効な時間を過ごすことができただろうに。
「はぁ……」
憂鬱で思わず大きく息を吐き出す。屋上までの道のりって、こんなに長かったっけ? そう感じられるくらい、体が重たく感じる。
もしかしたら、俺に呼び出されたことを不審に思った神谷が、とっと教室に戻ってしまったかもしれない。きっとそうだ。大嫌いな奴に呼び出されて、大人しく待っている人間なんて、この世にはいないはずだ。
少しだけ心が軽くなった俺は、勢いよく屋上へ続く扉を開け放つ。「残念でした。あいつもういなかったぜ?」…そんな言い訳を考えながら。悔しそうな声を上げる友人達たちの姿が目に浮かぶようだ。
だから、さっさと教室に戻ろう……。
「……って、なんで?」
「え?」
「なんで、神谷ここにいるんだ?」
「なんでって、君がここに呼び出したんだろう?」
「あ、うん。そうだった」
気まずい沈黙が屋上に流れる。空はこんなにも晴れ渡っているのに……俺は泣きたい気持ちになった。一体、この後どうしたらいいんだろうか。
忙しい中呼び出された神谷は不機嫌そうに腕組みをしながら、俺を見つめている。
あぁ、もうどうしよう。急に呼び出してしまったことを謝罪して、解散……。これが一番無難だろうか。頭の中で試行錯誤を繰り返していると。
「なんか俺に用があるの?」
「え!?」
いい案が見つからないうちに本題を切り出された俺は、飛び跳ねるくらいびっくりしてしまう。なんて言ったらいいのか、言葉が見つからない。
「あのさ……」
「急に話ってなんだよ? マジで気持ち悪いんだけど」
「だからさ、あー! もう!」
いたたまれなくなって頭を掻き毟る。先程から、制服のポケットに押し込まれているスマホが震えっぱなし……ということは、あいつらが「逃げ帰ってくるな」とメールを送り続けているのかもしれない。
――これは、腹をくくるしかねぇのか。
俺は大きく息を吐いて、神谷を見つめる。よく考えたら馬鹿みたいな罰ゲームに巻き込まれるこいつが、一番の被害者だ。そう思えば今更ながら心が痛い。
「あ、あのさ、突然で本当に申し訳ないんだけど……俺、実はお前のことがずっと前から好きだったんだ」
「……はぁ?」
「だから、お前のことが好きだから、俺と付き合ってほしいんだけど……」
「…………」
いくら罰ゲームだとしても、告白っていうものは勇気がいる。そもそも、俺は今まで告白なんてしたことがないのだ。そんなことしなくても、相手に困ったことなんてなかったから。
無言のまま俺を見つめる神谷の視線が痛くて、思わず拳を握しりめて俯いた。全てを見透かされることが怖かったから。
屋上を吹き抜ける冷たい風が、火照った顔を冷やしてくれて。それが気持ちいい。
もしオッケーをもらえたら凄く戸惑うけど、フラれたらフラれたらで癪に障る。どちらに転んでも、楽しい未来など待っていてはくれないのだ。
「ふーん、何それ。罰ゲームかなにか?」
「え?」
「何かゲームに負けたら罰として俺に告るとか? もしそういうんだとしたら、本当にタチが悪いんだけど」
「違う、そんなんじゃ、ない……」
いきなり確信を突かれた俺は、言葉を失ってしまう。事実を知られてしまったら、それこそ全てが終わってしまうだろう。だから、もう嘘を突き通すしかない……俺はそう心に誓う。
心臓がバクバクと拍動を打ち、口から飛び出してしまいそうだ。
「そんなんじゃない。俺は神谷が好きだ。突然同性から告られるなんて気持ち悪ぃかもしれないけど……もし神谷が大丈夫なら俺と……」
「別にいいよ」
「は?」
「だから別にいいって言ってんだよ」
「え? は? 嘘……」
「自分から告ってきたくせに、何だよそれ……」
今の俺はきっと茹で蛸みたいに真っ赤な顔をしているだろう。それが可笑しいのか、神谷がくくっと笑っている。
「罰ゲームかどうかまだ半信半疑だけど、君がそうくるなら受けてたつよ。だから……」
「だから?」
突然神谷が顔を寄せてきたから、俺は息を呑む。こいつ、近くで見てもこんなにイケメンなんだ。
「付き合うって決めたんだから、真剣にお付き合いしようぜ?」
「し、真剣に?」
「そう。これから俺は武内を凪って呼ぶし、凪も俺を章人って呼んでほしい」
「あき、ひと?」
「そう。凪は俺の恋人だからこうやって手だって繋ぎたい」
「わ、ちょっ、ちょっと!」
突然章人が俺の手を握ってきたから、思わず体に力が入ってしまう。
「それにキスだってしたいし、それ以上のことだってしたいと思う」
「そっ、それ以上のことって、お前…男相手に抵抗ないのかよ?」
「抵抗があったら付き合ってもいいよなんて、言うわけないじゃん」
「そりゃあそうだけど。この前江野に告白されたときに、恋愛には興味がないって言ってたじゃん? 俺には興味があるのかよ?」
「まぁね。だから君は特別なんだよ」 神谷は、きっとパニックになってる俺を面白がっているに違いない。想像していたことと真逆のことが起こってしまって、それでも平静を装いたいのに……無理だ。顔が熱いし、息が苦しい。
「凪は男だけど性格以外は完璧だから大丈夫。それに凄く可愛いし」
「か、可愛い?」
「うん。これからよろしくね、凪」
俺の額にキスをして、嬉しそうに微笑む章人。
こいつはなんでこんなに余裕なんだよ……。
この瞬間、俺には章人っていう、超ハイスペックでイケメン過ぎる彼氏ができた。
「で、どうだった?」
「告白成功したか? それともフラれたか」
「なぁ、凪。教えろよ」
俺の帰りを待っていた仲間が目をキラキラさせながら俺のことを出迎えてくれる。なんて答えたらいいかわからず、思わず目を泳がせた。
オッケーもらって付き合うことになったよ、なんて報告できるはずもない。なんと答えようか悩んでいると、「凪」と後ろから名前を呼ばれる。振り返ると、満面の笑みを浮かべた章人が立っていた。
「部活が終わったら一緒に帰ろう。体育館に迎えに行くから」
「いや、で、でも……」
「じゃあ、お互い部活頑張ろうね」
「あ、うん」
ニコニコと手を振りながら道場に向かう章人に、口元を引き攣らせながら手を振る。
あー、これはまずいやつだ。背中を冷たい汗が流れた。
「えー!? 告白成功したのか!?」
「凪、イケメンな彼氏ができてよかったな!」
次の瞬間、みんなが一斉に大声を上げたから、思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「超イケメン同士のカップル成立かぁ」
「これは面白くなってきた」
盛り上がる友人たちを見て、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
部活が終わり、生徒が帰宅する時間。
まさか本当に迎えにこないよな……そう考えると落ち着かなくなってしまう。
章人は小学校の頃から空手をやっていたらしく、最近になってからようやく空手部に入部した、と女子が騒いでいた。
「そろそろ彼氏が迎えに来るんじゃねぇの?」
「馬鹿が。本当に来るわけないだろう」
顔を綻ばせながら自分に近づいてくる優太に、バスケットボールを投げつければ、「いってぇ!」なんて大袈裟に悲鳴を上げている。
本当に迎えに来るはずがない、か。
さっさと帰ろうと部室に向かおうとしたところに、体育館にいた女子生徒たちが一斉にざわめき出す。まさか……恐る恐る体育館の入口に視線を向ければ、笑顔で手を振る章人がいた。
マジか、冗談だろ……。思わず言葉を失ってしまった。
「ねぇ、あれ神谷君じゃない? 超かっこいい」
「本当だ! 手を振ってるみたいだけど、誰かを迎えに来たとか?」
「もしかして彼女とか? えー、ヤダヤダ!」
そんな会話を聞きながら、俺は手を振り返すことができずに立ちすくんでいると、章人がこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
「迎えにきたよ、凪。一緒に帰ろう」
「あ、うん……」
その場にいた全生徒の視線が、一斉に自分たちに向けられたのを感じた。
「えー!! 神谷君、凪を迎えにきたの!?」
女子生徒の黄色い声援が、オレンジ色のライトに包まれた体育館に響き渡ったのだった。
「てか、本当に迎えに来るなんて思いもしなかった」
「ふふっ。だって迎えに行くって約束しただろう?」
「あんなの、俺をからかってるだけだと思ってたから」
「なんだよ、それ」
章人が心外だ、と言いたそうに唇を尖らせている。あ、こいつこんな子供みたいな顔もするんだ……そう思いながら、自分より背の高い章人を見上げた。
俺も身長は高いほうだけど、悔しいことに章人には敵わない。章人は筋骨隆々だし、俺なんかより男らしい体つきをしている。
もし俺たちが付き合うとしたら、俺が女の子役なのかな……。は? ちょっと待て、今俺は一体何を考えていたんだ……。
ふと頭の中を過ぎった考えに、思わず自分で突っ込みを入れてしまう。俺が女の子役って、俺は章人と何をしようと考えていたのだろうか。
心臓が少しずつ速く拍動を打ち始めたのを感じた。
「俺は付き合うからには真剣に付き合いたいと思ってる。声かけられることも多いし、それでチャラく見えるかもしれないけど、俺は真面目なんだ」
「ご、ごめん」
「だから、俺は凪を大切にしたい」
優しく手を握られてから、指を絡ませられる。同じ男の手なのに、章人の手はゴツゴツしていて力強い。
自分にはない男らしい章人の体に、ドキドキしてしまった。
「おい、男同士で手なんか繋いで、誰かに見られたらどうするんだよ」
「別に他人にどう思われようが関係ないよ。だって俺はこんな風に手だって繋ぎたいし、その先もしてみたい」
「その先って……」
「キスとか、色々?」
「え?」
「凪はキスとか、もっと先までしたことある?」
「…………」
学校から少し離れた場所まで来ると、街灯なんてほとんどない田んぼ道が広がっている。辺りは怖いくらいに静まり返っていた。
「凪はキスしたことある?」
「……ない」
俺は耳まで真っ赤にしながら、小さく首を振る。「経験あるよ」って言いたいところだけど、こんな嘘、すぐにバレてしまうだろう。
「えー、女の子にモテるから、そういうの経験豊富かと思った」
「だって、好きじゃないのにそんなことできねぇもん」
「好きじゃない?」
「そう。告白してくれた子が可愛ければ付き合ってみるけど、好きになったことなんかない。だから結局フラれちゃう。キスなんかする暇もないくらい、あっという間に」
「凪は真面目なんだね。好きな子以外とキスできないなんて」
「はぁ? お前は誰とでもキスすんのかよ?」
やっぱりこいつは軽い男だ。そう感じた俺は、思わず眉を寄せる。男の俺と付き合うくらいだから、きっと遊び人だとは思っていたけど……なんでだろう。胸が痛くなった。
「俺だって、好きな子としかキスなんてしないよ」
「絶対嘘だ」
「本当だよ。好きな子としか、キス、したことない」
真剣な顔をした章人が俺を見つめてきて……薄暗い外灯の下で視線が絡み合う。冷たい風が章人の髪をサラサラと揺らした。
あぁ、やっぱりこいつはかっこいい。そんな光景を見て、素直にそう思えた。
「でも俺は、凪とキスしてみたいと思うし、それから先もしてみたいと思ってるんだよ」 首筋に章人のゴツゴツした指先がそっと触れただけで、小さく体が跳ね上がった。思わず全身に力をこめた。
「そんなに怖がらないで。凪が嫌がることはしないから」
「神谷……」
「俺は章人。章人だよ」
「……章人……」
そっと名前を呼べば嬉しそうに微笑む。それから右の頬に優しいキスをくれた。
「凪の家もうすぐなんでしょ? じゃあ凪、また明日ね」
「え、章人ん家、この近くなのか?」
「ううん、隣町。ここから駅まで戻って電車に乗るよ」
「え……お前、隣町って……じゃあなんでここまで一緒に来たんだよ? わざわざ俺の家の近くまで一緒に来て…」
「そんなの決まってるでしょ? 凪と少しでも一緒にいたかったからだよ」
そう笑いながら章人がそっと手を離す。俺は突然離れていった温もりが恋しくて、その手を視線で追いかけた。
「じゃあまた明日」
「……うん」
最後に頭を撫でられて、俺たちは別れた。「俺と一緒にいたいからって、馬鹿じゃん」
初めて垣間見た章人の優しさに、鼻の奥がツンとなる。今まで章人と一緒にいたことが、未だに夢のように感じる。だって、俺たちはあんなに犬猿の仲だったんだ。
それでも、初めて恋人と下校した……。そんなことで、俺の心はフワフワしていた。
家に戻ってすぐに「無事に家に着いた?」と章人からメールが届く。女の子じゃないんだから……とも思ったけど、何気ない優しさが嬉しかった。
それから少しだけメールをして、「おやすみ」ってメッセージを送って眠りにつく。心が温かくなって、思わずスマホを抱き締めた。
――あ、これ罰ゲームだったんだ……。
そう思い出した瞬間、胸が張り裂けるほど痛くなった。
◇◆◇◆
「凪ぃ、屋上でお弁当食べよう」
「あ、待ってて」
教室の入口から章人が声をかけてくる。昼休みは一緒に弁当を食べる、部活が終わったら一緒に帰る……それが、俺たちの当たり前になりつつあった。
はじめのうちは、友達に冷やかされたり、女子生徒の黄色い声援を浴びていたけど、周囲もそれが当たり前になりつつある今、誰も何も言わなくなった。
「見慣れてはきたけど、イケメン二人が一緒にいると圧がすげぇよな」
「本当だよ。可愛い凪にかっこいい神谷……お前ら無敵だろ?」
そう笑いながら送り出してくれる友人たち。俺は急いで鞄から弁当を取り出した。
「なぁ、凪。もうキスとかした?」
「は?」
「だって一応罰ゲームでも付き合ってるんだろう? やっぱりそういうこともすんのかな……って」
そんなくだらない好奇心に、ほとほと嫌気がさしてくる。もちろん、俺たちはキスなんてしたことがないし、今は恋人と言うより、仲のいい友達といった関係だ。
きっと今がこれなら、この先も、キスなんてすることはないだろう。
「馬ぁ鹿。章人はお前らと違って、そんなことばっか考えてねぇよ。それにあいつとは友達だし。これからもキスなんかしねぇよ」
「マジで?」
「マジで。じゃあ行ってくる」
意外そうに目を見開く友人を残し、俺は章人のもとへ向って走った。
温かな冬の日差しが差し込む屋上が、俺と章人の居場所になっている。屋上は高い場所にあるから、少しだけ風が強い。そんな冷たい風も心地よく感じられた。 それにこの屋上は、罰ゲームといえども、俺が章人に告白をした場所でもある。あんな始まり方だったけれど、俺と章人の関係は良好だった。それに案外気も合う。
章人に出会った頃のイメージは最悪だったけど、今は優しい一面もたくさん知っている。
何より、「性格以外は完璧」と言われている俺が、素を出しても嫌な顔ひとつしない章人は、本当に凄い奴だと思う。
まるで意図して俺と出会った……そう感じるほど、章人と過ごす時間は心地いい。
「あ、章人。ピーマン食って」
「こら、駄目だろ。ピーマンは体にいいんだから」
「でも苦いから嫌いだ」
「まぁまぁ、そう言わずに」
弁当に入っていたピーマンを、章人の弁当箱に放り込めば、想像通りお叱りを受けてしまう。章人はそんなピーマンを箸で器用に掴むと、俺の前に差し出した。
「凪、ほら、あーん」
「嫌だ、ピーマン嫌い」
「ほら、いい子だから」
「……あー」
渋々口を開けば、章人が口にピーマンを入れてくれる。思い切って口にあるピーマンを咀嚼すると、苦い味が口中に広がっていった。
それを飲み込んでから、「どうだ」と言わんばかりに章人を睨み付ける。そんな俺を見た章人は、嬉しそうに笑った。
「凪はいい子だね。よく頑張った」
「ふん! 俺だってピーマンくらい」
「うんうん、偉い偉い。じゃあご褒美に、俺の鶏の唐揚げ一個あげるね」
「え? マジで?」
もう一度口を大きく開ければ、鳥の唐揚げを放り込んでくれる。それがめちゃくちゃ美味しくて、思わず微笑んでしまった。
「美味しい?」
「うまぁい。章人の母ちゃん、料理うまいな」
「本当に? なら今度家にご飯食べにおいでよ?」
「え! 行く行く!」
「ふふっ。凪は可愛いなぁ」
そう笑いながら、頭を撫でくれる。
章人が優しくしてくれると凄く嬉しくて、心が温かくなって、心臓がドキドキした。
涙が出るくらい幸せを感じるのに、「これは罰ゲームだ」と思い出す度に、心を鷲掴みされたように苦しくなる。それと同時に、自分はなんて愚かなことを……と罪の意識に苛まれた。
あんな記憶、消し去りたい。目頭が熱くなった。
◇◆◇◆
ある日の帰り道。辺りはすっかり真っ暗で、吹き抜ける風は冷たい。「寒くないように」って章人が手を繋いでくれた。それが何だか擽ったい。
いつものように、他愛のない話をしながら、並んで田んぼ道を歩く。
――まるで、本当の恋人みたいだ。
時々そんな錯覚に陥る。でも俺はその考えを即座に否定する。だって、これはただの罰ゲーム。章人がそれを知ったらきっと怒って、この関係は簡単に終わりを迎えるだろう。
だから、章人を本当に好きになったらいけない。好きになったら、負けだ。
すぐ脇を、バイクに乗ったおじさんが通り抜けて行ったけど、章人は繋いだ手を離そうとはしない。凄く恥ずかしかったけど、嬉しかった。
「なぁ、俺のこと好き?」
「ん?」
「付き合ってるくらいだから、俺のこと好きなんたろ?」
勇気を振り絞って章人に問いかける。手を繋いだまま立ち止まった俺を、驚いたような顔で章人が振り返った。
「なぁ、章人。俺のこと好き?」
「凪……」
なんて答えがかえってくるんだろう……考えるだけで怖くて仕方がない。
大体、俺はなんでこんなことを章人に聞いたんだろうか? 好きって言ってほしいから? もし好きって言われたら、困ってしまうことなんてわかりきっているのに。
「凪、秘密だよ」
「え?」
「それは、秘密」
目の前にいる章人が寂しそうに笑う。その顔が困っているようにも見えたから、俺は内心焦ってしまった。
「気持ち悪い質問してごめんな。今のは忘れて」
「……凪、ごめん」
「別に謝るなよ。ほら早く帰ろう」
「うん」
もう一度、寂しそうに笑う章人を見たら、胸がズキンズキンと痛んだ。
暑すぎた夏が終わり、短い秋が終わろうとするそんな頃。
罰ゲームとして章人と恋人同士になってから、もうすぐ二週間がたとうとしている。相変わらずな俺たちだけど、大きな喧嘩もなく仲良くできていると思う。
ただ、付き合ってから時間はたったのに、相変わらず手を繋ぐだけで、章人はそれ以上のことはしてこない。
章人は何かを感じ取っているのだろうか……と不安になることもあるけど、「自分は何も知らない」って平静を装うことしかできなかった。
それでも俺は、章人に真実を知られてしまうことが怖くて仕方がない。真実を知った章人は、どんな反応をするだろうか。俺に失望して、去って行ってしまうに違いない。
逆に、全てを打ち明けて楽になりたいと思う自分もいる。もしかしたら、あいつは優しいから、受け入れて許してくれるのではないか……そう淡い期待を抱いてしまう自分がいた。
「あ、飛行機雲だ」
屋上から空を見上げれば、雲一つない真っ青な空に真っ直ぐ飛行機雲が走っている。今はあんなにはっきり見える飛行機雲なのに、いつかは消えてしまう。
「俺らの関係もいつかは消えちゃうのかな」
好きになったら負け……もう幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉を、確認するように呟く。
これはただの罰ゲームだから。それに、章人は売り言葉に買い言葉……きっとそう思っているに違いない。
「好きになったら負けだ」
空に浮かぶ飛行機雲が、段々薄くなっていくのを、俺は呆然と見つめた。
「あ、凪。こんな所にいたんだ。今日は全部の部活が休みの日だから、もう帰ろうと思って探し回ったんだよ」
「あー、悪い。なんか最近イライラしちゃってさ」
「ん? 何かあったのか?」
お前が「何かあった」の原因なんだよ……そう言い返してやりたかったけど、それはさすがにただの八つ当たりだから口を噤んだ。 それに実際のところ、章人だけが原因じゃない。
「部活の先輩が卒業して、次の部長を決める選考期間が始まったんだけど……そういうのがめっちゃストレス」
「え? 凪が部長になるんじゃないの?」
「そうとも限らないよ。俺は部内では身長があまり高くないし、他にも上手い奴なんて腐るほどいるんだから」
「そっか。バスケ部人数多いもんな」
「章人は部長に決まってるんだろう?」
「そんなわけないよ。転校してきて早々に部長なんてありえないだろう」
そう笑う章人の笑顔を見ると少しだけ心が軽くなる。悩みの種に癒されるなんて、本当におかしな話だ。
「凪、今めっちゃ怖い顔してるよ」
「は?」
章人がはにかみながら俺の前で胡座をかく。「よいしょ」と言いながら、俺を抱き抱えると自分の腰に俺の足を巻き付けさせる。俺は自然と、胡座をかいた章人の膝の上に座る体勢になった。
ちょっと待って、距離が近い。すぐ目の前には章人の整った顔が……一気に心臓が高鳴りだした。
「ほら、凪。リラックスリラックス……」
「え?」
「あんまり険しい顔してると、可愛い顔が台無しだよ? それに眉間に皺が寄っちゃうし」
章人は俺の頭を優しく撫でてくれる。まるで駄々っ子を宥めるかのような優しい手つきに、自然と目を細めてしまう。心の奥底では「ガキ扱いすんな」と喚き散らす自分もいるけど、完全に心地いいっていう感情のほうが勝ってしまった。
「ふふ、気持ちいい?」
「……別に、気持ちよくなんか……」
「本当に? ほら、凪、リラックスして」
今度は俺の頬を両手で包むと、緊張をほぐすかのようにマッサージしてくれる。
「凪のほっぺたは赤ちゃんみたいにふわふわしてて、気持ちいいね」
「うるせぇよ」
憎まれ口を叩いてみるけど、体は完全にリラックスモードだ。躊躇いながらも、章人の肩に顔を埋める。「凪、可愛い」という章人の優しい声が、耳元で聞こえてきた。
「なぁ、章人……」
「ん?」
章人は俺の背中を擦っている。この男は、どこまで自分を甘やかしてくれるのだろうか。
その優しさが泣きたいくらい嬉しくて幸せなのに、叫び出したいくらい辛い。心が、バラバラに砕け散ってしまいそうだ。
「なんでキスしてくんねぇの?」
「え?」
「俺たち付き合ってから結構経つんだぜ? いくら俺がキスしたことないって言っても、そろそろしてくれてもいいんじゃない?」
「凪は……凪は俺とキスしたいの?」
「お、俺は章人とキスしてみたい。ファーストキスの相手は章人がいい。でも、お前は俺とキスなんかしたくないよな。だって所詮俺は男だし……それに……ん、んんッ」
俺は最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。なぜなら、章人に唇を奪われてしまったから。マシュマロみたいに柔らかなものが唇に触れて、そっと離れていく。
俺の反応を窺いながら、もう一度唇が重なって。章人が優しく啄んだ。
キスってこんなに気持ちがいいんだ……。頭の奥がジンジンと痺れていく感覚に陶酔する。
「凪、キス気持ちいい?」
「気持ちいいけど……どうしたらいいかわかんない。息もできないし、死にそう……」
「ふふ、凪、本当に可愛い。もっとしたい」
「お、俺で遊ぶなぁ……」
ムキになって反抗してみたけど、こんなの全然迫力なんてない。だから章人に弄ばれてしまうんだ。
――でも、でも……。章人の唇、柔らかくて温かい……。
俺は夢中で、章人の唇を頬張ったのだった。
◇◆◇◆
章人と初めてキスをしてから数日後、俺たちは図書室で待ち合わせしていた。明日行われる学力テストの勉強を一緒にしようと約束していたのだ。
『神谷には絶対に負けたくない!』
そう意気込んでいた頃が懐かしく感じる。今はそんなことはどうでもよく感じていた。
そりゃあ誰かに負けることは悔しいけど、章人になら負けてもいい。
あいつにはどんなに格好悪い姿だって見せられるし、どんな俺でも受け入れてくれる。こんな考えは俺の奢りかもしれないけど……いつの間にか、章人に心を許してしまっている自分がいた。
「好きになったら負け」
そんなものは、今の自分には、もはや通用なんてしないのだ。 図書室が一瞬ざわめいたと思ったら、誰かが自分に向かって歩いてくる気配がする。
あ、来た……俺の心が静かに波打った。
「凪、待たせてごめんね」
「遅ぇよ、馬ぁ鹿」
「だからごめんって」
微笑みながら俺の顔を覗き込む章人を見ると、胸が締め付けられる。
「お詫びに凪が好きなココア買ってきたよ」
「え、マジで? サンキュー」
たったそれだけで、俺の口角は自然と上がってしまう。
「凪、可愛い」
そう笑う章人の笑顔が、まるで刃のように俺の胸に突き刺さった。
図書室で勉強を始めてから、一時間が経っていた。つい先程まで、俺たちをチラチラ盗み見ていた女子生徒たちは、いつの間にか下校してしまったようだ。
時計を見れば、もうすぐ下校時間が迫っている。今日は金曜日だから、来週まで章人には会えない。と言うより、学校以外で章人に会いたいと言ったこともない。
今までは嬉しかったはずの金曜日が、今はひどく憂鬱に感じられた。
「あ、凪。また怖い顔してる」
「へ?」
「ほら、リラックスして……」
そう言いながら、いつものように髪を優しく撫でてくれる。髪を撫でていた手が頬に下りてきたから、くすぐったくて思わず肩を上げた。
「凪、気持ちいい?」
「うん」
無意識に章人の手をとり、頬擦りをした。温かくて、自分よりも大きなこの手が、俺は大好きだった。
「……ねぇ、凪。ちょっとこっちに来て」
「は? なんだよ?」
突然腕を掴まれると、図書室の奥へと連れて行かれる。「なんなんだよ」そう言おうとした俺は、本棚に押し付けらてしまう。その衝撃で、一瞬息ができなくなった。
「凪が可愛いのが悪いんだからね」
「は? なんだよ、意味わかんねぇ」「全部、凪が悪いんだ。好きになったら、負けなのに……」
「章人……ん、んッ、はぁ……」
悲しそうな顔をした章人が目を閉じる。少しずつ二人の距離が近付いてきたから、俺も章人にならって目を閉じた。
ふにっ……と柔らかく重なり合う唇を堪能し合って、優しく啄んで。息を吸うために薄く口を開けば、章人の舌が口内に侵入してくる。俺たちは、少しだけ大人のキスをした。
――好きになったら負け。
これが罰ゲームのルールだとしたら、俺はきっと負けだ。だって俺は、章人のことが……。
人が恋に落ちる瞬間っていうのは、もっとドラマチックなものだとずっと思ってた。まるで、雷に打たれたかのように運命を感じるんだって。
でも実際は全然違う。頭を優しく撫でてもらったり、本当の自分を受け止めてもらえたり……そんなほんの些細なことなんだと思い知る。
完全にゲームオーバー。敗者は俺。
だから俺は、どうにかしてこのゲームを終わらさなければならないのに……。臆病者の俺はゲームを終了にして、章人を失うことが怖かった。それなのに、全てのことを見て見ぬフリをして、章人を騙し続ける勇気さえない。
「素直になれなくて、ごめんね」
俺は章人の胸に顔を埋めたまま、声を押し殺して泣いた。どんなに歯を食いしばっても、涙は次から次へと溢れ出してくる。そんな俺の髪を、章人は優しくすいてくれた。
「凪、泣いてるの?」
「うるせぇ。泣いてなんかない」
「凪、泣かないで」
「だから泣いてないって」
こんなにも優しい章人を騙した罰が当たったんだ。そう思えば、涙は止まってなどくれない。
――素直になれなくて、ごめんね。
俺は心の中で何度も何度も繰り返し呟いた。
それから数日後。章人は変わらず俺の傍にいてくれる。優しい章人……俺の心が少しずつ壊れていくのを感じた。
そんなある日、学校中をある噂が物凄い勢いで駆け抜けていく。
「二年の神谷君に、三年の絢瀬さんが告白するらしいよ。先輩が、絢瀬さんがそう話していたのを聞いたって」
「絢瀬さんって、あの校内一の美人で有名な、あの絢瀬さん?」
「そうそう! 男遊びが派手で、狙った男は絶対に逃さないって有名だよね」
「でも、悔しいけどお似合いだなぁ。絢瀬さんに勝てる人なんかいないもん」
その噂を聞いた俺の心がザワザワと、どよめき立つ。
俺も三年の絢瀬先輩のことは知っていた。気が強くてプライドが高いけど、モデルみたいに美人だし、頭だっていい。あの江野なんて足元にも及ばない存在だ。
このまま、章人が絢瀬先輩と付き合ってしまったら……そう考えただけで、いても立ってもいられなくて叫び出したい衝動に駆られる。
男である俺が、あんな可愛らしい人に勝てるはずなんかない。目の前が涙でユラユラと揺れるのを感じる。
でも、嫌だ、嫌だ。章人を誰にも取られたくなんかない。そう思った俺は、ポケットに押し込まれていたスマホを取り出した。
『章人、話があるからいつもの場所にきて』
それだけメールすると、俺は一目散に屋上へ向かい走り出す。涙で目の前が滲んで、普段は何とも感じられない階段がひどく長く感じられて。耐えきれずに肩で息をした。
素直に全部を打ち明けよう。
罰ゲームの話をしたら章人はどんな反応をするだろうか。考えるだけで自然と体が震えてきた。でも、もう自分は逃げない。
屋上の扉を開くと、目の前には、真っ青な空と、真っ直ぐ伸びた飛行機雲が広がっていた。
階段をリズミカルに登ってくる音と、軽く息切れのする声が聞こえてくる。それだけで、その音の主がわかってしまった。
「章人……早く、早くきて……」
心が焦って仕方がない。
一分でも一秒でも早く真実を伝えて。もし章人が怒ってしまったら、許してもらえるまで謝ろう。
それから、自分の本当の思いを伝えよう。俺は、章人のことが好きだって。
「章人……」
少しずつ近付く足音に体が震え出す。怖くて、不安で泣きたくなった。どうしよう、息苦しい。逃げ出したくなる衝動を、必死に堪えた。
「凪」
「あ、章人……」
静かに屋上の扉が開いて、こんなにも待ち侘びていた章人が俺の前に現れる。たったそれだけで、口から心臓が飛び出そうになった。
「凪どうしたんだよ? 突然、話ってなに?」
自分に駆け寄ってきた章人が、心配そうに顔を覗き込んでくる。その整った顔立ちに目がくらみそうだ。やっぱり章人はかっこいいし、こんなにも優しい。
章人、俺は……。
「あのさ、あのさ章人」
「どうした? なんでそんなに必死なんだよ。わかったから凪、ゆっくり話して?」
まるで俺を宥めるかのように優しく頭を撫でてくれる章人。それが気持ちよくて、思わずその手を握り締めた。
「あの、あの……章人、あのさ……」
「——あ、凪、やっぱりここにいたのか! 先生が呼んでだぞ!」
「……あ、優太……」
なんてタイミングが悪いんだろう。気を利かせて自分を呼びにきてくれた優太のおかげで、言うタイミングを逃してしまった。気が張っていた分、一気に脱力してしまう。その場に崩れ落ちそうになったから、章人の腕にしがみついた。
「あれ? まだ凪、罰ゲームやってんの?」
「……優太、待って……」
「あははは! 凪、お前って根は真面目だよな。もう罰ゲーム終わりにしていいよ! てか俺たち忘れてたし。じゃあ、先生が呼んでるから行ってくれよ」
そう言い残した優太は、さっさと行ってしまう。その場には、静けさだけが残された。
どうしよう。章人の顔が怖くて見られない。どうしよう……。
全身の血の気が一瞬で引いて、暑くないのに、冷たい汗がタラタラと流れる。顔さえ上げられずに黙っていると、章人が口を開いた。
「やっぱり罰ゲームだったんだな。いきなり凪が告ってきたから、おかしいと思ったんだ」
「章人、あのさ、確かに最初は罰ゲームだったんだ。でも今は……」
「たかがゲームのために俺とキスまでして。ずっと恋人を演じてたってわけか」
「章人、お願い、聞いて……」
「もういい。もういいよ。最初は疑ってたけど、あまりにも幸せそうに凪が笑うから、信じて大丈夫なんだって思いはじめてた。ずっと好きになったら負けだって思ってたけど、俺は凪が可愛かった」
「章人……」
章人の顔がグシャッと歪み、肩が小さく震えている。その瞬間、自分が取り返しのつかないことをしてしまったという事実を叩きつけられた。
こんなにも章人を傷つけてしまったのに、なんで許してもらえるかも……なんて甘いことを考えたのだろう。
だって俺は、こんなにも章人を傷つけた。
「凪、罰ゲームはこれで終わりにしよう」
「……え?」
「凪の友達だって、もう十分納得したはずだ」
そう話す章人は笑っているのに、その目にはたくさんの涙が浮かんでいた。そんな章人を見て、あぁ綺麗だな……ってボンヤリ思った。
「じゃあ、バイバイ。今までありがとう」
「章人……」
嫌だ、行かないで。章人を追いかけたかったのに、足に根っこが生えてしまったかのように体が動かなくて。屋上から去って行く章人を引き止めることさえできなかった。
いや、引き止める権利が俺にはなかったのだ。
俺は、あんなにも自分を大切にしてくれた章人を、ひどい形で裏切ってしまった。これが、章人を弄んだ俺への罰ゲーム。
泣き喚いて、殴ってくれたほうがスッキリしたのかもしれない。でも優しいあいつが、そんなことをするわけないか……。
「章人ごめん。素直になれなくて、ごめんね」
涙は後から後から溢れ出して、頬を伝う。
でも仕方がない。だって俺は、それだけのことをしてしまったのだから。
目の前に広がる青空と飛行機雲が、涙で滲んで見えなくなった。
◇◆◇◆
それから、当り前だけれど章人とは疎遠になってしまった。
向こうから話しかけてくるわけはないし、かと言って俺から声をかける勇気なんてない。何度もメールを打ってもう一度謝ろうとしたけれど、怖くて送信ボタンを押すことができなかった。 突然隣から章人がいなくなって、心にぽっかりと穴が開いてしまったように感じる。でも、俺には「ごめん」っていう権利さえないのかもしれない。
だって、俺はきっとあいつを深く傷つけてしまったから。
ある日の放課後、体育館に向かって歩いていた。秋が終わると急に日が短くなり、部活が始まる頃には校舎内は薄暗くなっている。でも、今の俺には薄暗いくらいがちょうどいい。大きく息を吐きながら、体育館へと向かう。
持ち慣れているはずのバスケットシューズが、今日はやけに重たく感じられた。
「ん?」
普段誰も来ないような突き当りの廊下。そこはほとんど生徒も寄り付かないような場所。そこから、楽しそうに話す男女の声が聞こえてきた。
その光景を見た瞬間、髪の毛が逆立つんじゃないか、というくらいの怒りを感じてぞわぞわっと鳥肌がたっていく。
「やだぁ、神谷君ったら」
絢瀬先輩が甘ったるい声を出しながら、章人の腕を触る。章人は章人でまんざらでもない、という顔をしていた。
最近噂で聞いた。絢瀬先輩が章人に急接近してるって。よく放課後、二人きりで会ってるらしい。そんな噂で、校内は持ちきりだ。
「あの噂は、本当だったんだ」
唇を噛み締めて俯く。この廊下を通ってしまったことを強く後悔した。
――こんなとこ、見たくなかった。
自分の知らない章人がいた。女の子に向かって微笑みかける章人は、いつもより男らしく見える。美男美女でお似合いではないか。
これでよかったんだ……。そう自分に言い聞かせる。
それでも、自分以外に笑いかける章人を見ていることが辛くなった俺は、踵を返して逃げるようにその場を後にした。
それから数日たっても、あの光景が頭から離れてくれない。
心の中がぐちゃぐちゃだし、章人のことで頭がいっぱいだ。もう、自分がどうしたいのか、どうなりたいのかも見失い始めていたのかもしれない。
でも、苦しい。苦しくて仕方がない。
そんなとき、突然届いたメール。虚ろな目で画面をタップすれば、送り主は章人だった。
『この前、俺と絢瀬先輩が一緒にいたとき廊下にいたでしょ?』
その文章を見て心臓が飛び跳ねる。気付かれてたんだ……サッと血の気が引いた。
『本当に終わりでいい? 俺に新しく恋人ができても、凪は平気なの?』
嫌だ、そんなの絶対嫌だ。
俺は居ても立ってもいられなくなって走り出す。さっきまで机に突っ伏していた俺が突然走り出したものだから、優太がびっくりして「どうした?」と声をかけてきたけど……。そんなことは関係ない。
――俺は章人に会いたい。
その思いだけで、無我夢中で教室を飛び出した。