ある日、いつものように自転車に乗って家を目指しているとき。緩やかな下り坂に差し掛かり、俺は気分良く風を切りながら自転車でそれを下っていた。
見慣れた住宅街にある道。もうすっかり慣れた景色だった。気温は暑すぎず寒すぎず、ちょうどいい気温で、心地よさから鼻歌でも漏れてしまいそうだった。
ふと、進行方向にあるものを見つけた。
なにやらしゃがみ込んでいる人のようなものだった。遠目でよくわからないが、女性のようにも見える。そして同時に、その人のすぐそばで自転車を降りる女生徒の姿が見えた。自分もつい、自転車を止めてその光景を眺めた。
ロングヘアの彼女は恐る恐るしゃがみ込んでいる人物に話しかけていた。するとすっと立ち上がった人は何かを彼女に話している。だが、その様子がどこかおかしい。女生徒は困ったようにオロオロし、でも何か懸命に話しかけている。
俺は自転車から降りてそこへ近寄った。距離がなくなると、彼女が話している相手が高齢女性で、そして身なりからして認知症であることがすぐにわかった。
『……どうしたの』
二人に話しかける。その瞬間視線が自分に集まった。特に女生徒は、困ったような、助けを求めるような目で俺を見上げてきた。
知らない女子だった。すっとした涼しげな目元が印象的だった。
顔を見ただけですぐにわかる。認知症の対応に困っているのだと。
俺の祖父は認知症を患っていて施設に入っていた。時折会いに行くも孫の顔なんかわからないくらい。でも、その施設で祖父と対応するスタッフたちを見ていたからか、こういう時はどう話を進めればいいのか大体わかった。
否定せず、話を合わせて警察へ連れていくが一番だ。
俺の思惑に気づいたのか、女生徒は俺と高齢女性の話を黙って聞いて後ろをついてきた。三人でゆっくりした歩調で歩き、警察に保護してもらうために交番へと入った。
やはり、その高齢女性は認知症で徘徊している最中だったそうだ。
交番で色々と話を聞かれて答え、対応を褒められた後解放された。そこで初めて、彼女が俺に話しかけた。
『あの、神崎隼人くんだよね。ありがとう、助かった』
おずおずといった様子でこちらにお礼を言ってくる姿に、一瞬息が止まったのは内緒だ。なんだか恥ずかしそうに言ってくるその姿が妙に可愛らしく見えた。
『いや、全然。てゆうか、俺の名前』
『隣のクラスなの。七瀬陽菜。すごく困ってたから助かった、私一人じゃきっとうまく誘導できなかったから……ああやって機転がきくの、すごいね』
ふにゃ、という効果音が似合いそうな笑い方だった。
隣のクラスであるというのに顔も知らなかった。こんな子、いたんだ。
『俺じいちゃんが認知症だから。だからちょっと慣れてただけ。普通びっくりするよな』
『うん、ちょっと慌てちゃってた』
『でも、はじめに気づいて声かけてたの七瀬だから』
『あはは、私結局なにもしてないんだけどね。くっついて歩いてただけ。でもきっと家族の元に帰れるだろうし、よかったね』
そうほっとしたように笑った七瀬を見て、素直にいい子だな、と思った。困っている人がいても声をかけるのはなかなか勇気のいることだとわかっているからだ。
七瀬と二人自転車を押して歩いた。それが彼女との出会いだった。
六、と書かれた小さな紙切れを見た瞬間、叫び出しそうになったのを必死に飲み込んだ。
七瀬と出会ってからしばらく経ち学年が変わった。偶然にも彼女と同じクラスになり、あの認知症保護事件があったからかよく話すようになった。
実は去年からどうも気になる子、と思っていた相手だったので、それが好きな子にレベルアップするのは簡単なことだった。
明るくて面白いやつだった。見た目よりちょっとズボラなところがあって、よくロングヘアの後頭部に寝癖がついていた。本人は気付いてないのか。
そしてやっぱり優しくていい子だと思っていた。根本的に面倒見がいい性格なのか、クラスで困っているやつがいれば小言を言いながらも助けてやってる姿をよく見かける。遠目からそんな姿を眺めていた。
そんな七瀬と席替えの末隣になれたのは、本来なら万歳して喜ぶところ。
俺が隣だと言った時、彼女は驚いたような顔をしたあとふにゃりと笑った。
机と椅子を移動させて七瀬の隣に並べる。窓際に座る七瀬を見ると、その奥には青空が見えた。爽やかな背景に自然と自分の頬は緩む。
「これで神崎は後ろ気にしなくていいね」
七瀬が笑いながら言った。俺は答える。
「ほんとそれ。最近肩こりしてたの絶対猫背になってたせいだった」
「あは、その年で肩こり? おじさんじゃん」
「うるせ」
たわいない会話で笑顔が出る。七瀬は綺麗に背筋を伸ばして黒板を見た。その姿が凛としていて綺麗だ、と思った。
俺もゆっくりと黒板の方を見る。担任教師が何か話しているが、全くもって耳に入ってこない。視界の端に映る七瀬の黒髪がやけに集中力を奪う。左半身だけ、熱く感じた。
あのくじを引いたことで、自分はかなりの運を使ってしまったと思う。それでもよかった、宝くじ当たるより七瀬の隣の席に当選する方がよっぽど価値があると思うから。
俺はこの日のことを、夢で見ていた。
始まりはその席替えの日だった。朝ぼんやりと目を開けたまま、まだ回らない頭の中で見た夢を思い出していた。
夢の中で七瀬と俺は六番のくじを引いていた。女子の六番は窓際一番後ろの人気席。男子六番はその隣だった。まず女子の七瀬がくじを引いて、俺は気になって仕方なかったため平然を装って何番か聞きに行った。
七瀬は『六』と書かれた紙切れを持っていて、俺はその数字を目に焼きつけた。
気になる異性の隣の席に憧れるのは当然の感情だと思う。授業中や休み時間も近くにいれば自然と口数も増え距離が縮まる。七瀬とは結構仲がいいと思っている。でも今よりもっと、と望んでしまうのは欲深いことなのだろうか。
その後がらにもなくやや緊張しながらくじを引き、無事俺は想いを寄せる女子の隣になれた、という夢だ。
「都合のいい夢だな」
第一声はそれだった。願望が夢に出てくるとか、おめでたい脳みそだよ。そう一人毒づいて、夢のことはほとんど忘れたまま登校したのだ。
だからまさか、夢の通りのことが起きた時は何が起こったのかよくわからなかった。
七瀬が六を引いたのも、そのあと俺が六を引いたのも。全てにおいて、夢と全く同じ展開となり異なることは一つもない。信じられないが、これは世にゆう『予知夢』であると確信できた。
これまで生きてきてそんな特殊な能力一度も経験していない。十七にもなって突如、俺は予知夢を見れるようになったんだ。
「予知夢見れたらどうする」
俺は廊下を歩きながら、友人の遠山武志に尋ねた。
去年から連続で同じクラスの友人だ。野球部で坊主頭のタケはガタイがいい。無駄に身長がある自分と並ぶと人から注目されることが多い。
ふざけたやつだがノリもいいし気が合ういい友人だ。
タケは首を傾げて考える。
「そりゃ金儲けじゃね?」
「夢ねえな」
「むしろ夢に溢れてるだろ」
「残念ながら見たい予知は見れないパターン」
「役に立たないな」
つまらなそうにいうタケを軽く睨んだ。タケは不思議そうに俺を見てくる。
「なんでそんなこときくの」
「……今日の席替えの夢、現実でピッタリ起こったから」
「へえ!」
「偶然にしてはできすぎなくらい当たってた。まあ、今日だけの話だろうけど……」
信じがたい話だが、単純で素直なタケはすぐに信じた。目を丸くして俺にいう。
「七瀬の隣って?」
「隣になるっていう結果はもちろん、その前後の会話とか。全部まるっと夢で見た」
「すっげー!」
「びっくりした」
「これはあれだな、いい加減お前らくっつけっていう神のおぼめし」
「おぼめしってなんだよ。新種のご飯か。思し召しだろ」
「あーそれそれ」
ケラケラと笑うタケにため息をついた。
付き合いもそこそこ長いこの友人に、俺の好きな相手のことはとっくにバレているらしかった。別に相談したり惚気たりしたわけでもないのに、いつのまにかタケとの間で七瀬という女子は特別な人間になっていた。
こいつは勘がいいんだか悪いんだかよくわからない性格をしている。
「だってさーお前ら絶対両思いじゃん早くくっつけよほんと」
「……いや」
「言っとくけどクラスの他のやつも気づいてるから絶対」
「んなわけあるか大袈裟な」
「いやマジで。だって七瀬って特に、他の男子とはそんなに喋んないじゃん。隼人くらいだろあんなに仲良いの。まさかただのお友達ーってわけでもあるまいし、学祭前に告白すれば……ってそうなれば俺一人体育館!? それは勘弁だわ!!」
坊主頭は一人で話し一人で嘆いた。野球で忙しく彼女がいないタケの心の叫びは無視して、俺はぼんやり考えた。
うちの学校の学祭には珍しい後夜祭がある。カップルは校庭へ、独り身は体育館に集まるというしきたりのようなものがあるのだ。誰が言い出したのかいつからあるのか。これは全校生徒が知っている暗黙の了解だった。