***




 暑い日差しが肌を突き刺す。

 どこかから聞こえてくる蝉の鳴き声は耳障りでもあり、どこか心地いいものでもあった。

 普段からあまり人が使わない裏庭だった。あまり手入れがされていない地面に雑草が生い茂っていて、白い花がところどころ咲いていた。
 
 校舎の白い壁は黒ずんでいて、お世辞にも綺麗な場所とは言えないのだ。

 そんな場所に神崎と二人、向かい合って立っていた。

「神崎?」

 私が声をかける。ずっと黙ったままだった彼が視線を上げた。

「えっと、どうした?」

 私が問いかけると、神崎は何かを言おうと口を開け、すぐに閉じた。普段と違うその様子に首を傾げる。やけに暗い表情をした神崎は戸惑ったように視線を泳がせた。

 蒸し暑い中額にじんわりと汗が浮かぶ。私はそれ以上何も言わず、黙って神崎の言葉を待った。

「ずっと好きだった」

 そう私を真っ直ぐみて、一文字ずつ噛み締めるように発言した神崎は、いつもよりずっと真面目で見たことがない表情だった。

 背景には青い空と白い雲。周りに誰もいない裏庭で、この世に二人きりしか存在しないような錯覚に陥る。真夏の太陽が私たちを照らして、神崎の額に汗が浮かんでいる。その短い黒髪が肌に張り付いていた。

「…………は」

 自分の口から小さな声が漏れた。

 想像だにしていないセリフが飛び出してきて頭が一瞬真っ白になる。でもじっと私を見つめる神崎の顔を見て、一気に心臓が高ぶった。ドキドキとうるさく鳴り響いて神崎に聞こえるんじゃないかと心配だった。

 まさか、神崎からそう言ってもらえるなんて、夢にも思っていなかったのに……!

 私も去年から、違うクラスだった頃からずっと好きだった。あの日から、神崎の優しいところが、笑うと目が線になるところが大好きで苦しかった。

 唇が緊張で震えた。でも、私の返事なんて決まっている。たった一つしかない。

「わた……」

 喉から自分のうわずった声が漏れた時だった。

 突如空から何かが降ってきて、ガシャンと割れる音が響き渡る。目の前に立っていた神崎が一瞬で視界から消えた。

 蝉のうるさい鳴き声がやたら耳障りに感じた。

「…………かん、ざき?」

 ゆっくりと視線を下ろす。今さっきまで目の前で私を見つめていた神崎はそこいた。

 割れた茶色の植木鉢の下に神崎の頭部が見えた。黒髪が乱れている。そしてそこから、どくどくと赤黒い血が噴き出ているのがわかった。

 何が起こったのかまるでわからない。ただ呆然と神崎の後頭部をみつめた。

 神崎はうつ伏せに横たわっていた。その表情は見えない。ただ、彼は指先すらびくとも動かさなかった。

 次の瞬間、私は声の限り叫んだ。自分の喉からこんな悲鳴が出てくるなんて知らなかった。




***

 
 

 瞼が勢いよく開いた。

「…………な…………ん」

 目の前に見えたのは見慣れた自分の部屋の壁紙だった。以前貼り付けた好きな芸能人のポスターがこちらを見て笑っている。

 バクバクと心臓が鳴っていた。全身にはぐっしょり汗をかいて、呼吸すら乱れてうまく息が吸えなかった。

 神崎が頭から流血して動かない姿が鮮明に思い出せる。

「ゆ、夢……?」

 掠れた自分の声が喉から漏れた。

 夢、だったよね? あれ、そうだよね?

 頭は完全に混乱していた。手を伸ばしてすぐさま枕元にある携帯を取り出してみるが、馬鹿みたいに手がガクガク震えてスマホが手中から滑り落ちる。それでも何とか画面を覗き込むと、日付はあの雨の日の翌日だった。

「あれ、夢、だよね? 記憶の混乱とかじゃないよね?」

 夢と呼ぶにはあまりに生々しい光景だった。あれが夢だなんて信じられない。心配が止まらない私はそのまま急いで神崎の携帯に電話をかけた。

 出るよね? お願い、出て。神崎、出て!

 祈りながらコール音を聞いていると相手が電話に出た。まさに寝起きという声で、神崎がこたえたのだ。

『……しもし? 七瀬? どしたこんな時間に』

 その声を聞いた途端全身の力が抜けた。安堵で息が漏れる。

 よかった、神崎生きてる……あれは夢だった!

『七瀬?』

「あ、え、っとごめん。寝ぼけてかけたみたい……」

『はは、マジか』

「ごめん」

『いや、ちょうど起きる時間だったから起こしてもらえてよかったわ。じゃまたあとで』

 朝早く突然電話をかけたと言うのに、神崎はそう優しく笑ってフォローしてくれた。そしてそのまま電話を切った。何も答えなくなった電話をじっと見つめて布団に体を倒れ込ませた。

「夢、だった。よかった……」

 だってあんまりにもリアルな夢だったから。現実か夢かわからなかったんだもん。でも夢ならよかった、よか……

 はあと息を吐いた時だった。大事なことをようやく思い出した。なぜ忘れていたんだと自分を叱りつけたいほど。

「……ま、さか、予知じゃない、よね?」

 時々見る予知夢。それは全て共通して神崎に関わることだった。何気ない日常生活の夢は全て当たってきた。

 そう考えた瞬間全身が震える。

「ないない、ないって。神崎が私に告白してくるとかないって。今日のは本当にただの夢だって」

 笑いながら自分で否定する。だが同時にどうしようもないほどの不安に包まれ、心を覆う闇は何一つ晴れてはくれない。せっかくおさまった心臓が再び鼓動を速める。

 もし、予知だったら。

 夢の中の神崎は上から降ってきた植木鉢が直撃していた。頭からたくさん出血してピクリとも動かなかった。どこから植木鉢が降ってきたかはわからない。

「夢だ、ただの夢だって。絶対そうだって」

 無理に笑ってそう言い聞かせた自分の声は情けないほどに震えていた。






 その日学校に行った私は神崎の顔がなかなかみれなかった。

 彼に話しかけられても上の空で、どこか避けてしまっている。それは今朝見た夢が脳裏から離れなくて、彼の顔を見ると頭から出血している光景が浮かんでしまうからだった。

 必要最低限の会話だけ交わし、早く授業が終わればいいと必死で祈った。

 私の様子がおかしいことに気づいているのか、不思議そうに神崎がこちらを見ていたが気づかないふりをする。今は感じ悪くても、こうするしか自分を保てる方法が見当たらない。

 長い長い一日がようやく過ぎ去り、最後の授業が終わったときほっとした。神崎は今無傷だし、やっぱりただの不吉な夢だったんだと確信に変わっていた。

 そうだよね。神崎が私に告白するだなんてことありえないもの。

 ふうと息をついて帰りの身支度をする。ノートをカバンに仕舞っている時、隣から聞き慣れた声がした。

「七瀬」

 反射的に振り返る。神崎がこちらを見ていた。

「なに?」

「ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」

「うん?」

「裏庭、行ってくれない?」

 時が止まったのかと思った。

 ノートを握っていた手は熱を忘れたかのようにすうっと冷えたような感覚になってノートを落とした。机からそれが地面に落下する。

「あ、落ちたよ」

 神崎が体を曲げてそれを拾ってくれる姿を見ながら、私はただただ呆然としていた。

 裏庭、って言った??

 一瞬であの光景が鮮明に蘇った。今日何度目か分からない。

「うら、にわ?」

 私のノートを拾って机の上に置いてくれた神崎が、少し困ったような顔をして笑った。

「うん、ちょっと。人の来ないとこがいいかなって」

「…………」

 私は無言で神崎の顔を見つめた。彼はどうした、と言わんばかりにこちらを見つめ返す。

 裏庭だなんて。雑草の生い茂った狭い空間であまり使う人なんかいない。確かに人は来ない場所といえる。

 これを『ただの偶然』だなんて割り切って彼についていけるほど、私も馬鹿じゃない。

 だめだ、私は絶対にあそこに行ってはだめ。もし神崎があそこに行ったらどうなるか、わかってるんだから。

「ごめん。今日、急いで帰らなきゃいけない」

 私は早口にそう答えた。神崎は特に粘ることもなく、あっさりそうか、と納得した。それに少しホッとしながらも、私は慌てて彼に忠告した。

「神崎! 裏庭は、行っちゃだめだよ、何があっても今日行かないで!」

 私が断ったからといって、神崎が裏庭に行ってはあの事故が起こってしまうかもしれない。植木鉢が降ってくるあの場所に、彼はいてはいけないのだ。

 でもまさか『予知夢であんたは死ぬ!』だなんてめちゃくちゃな話をするわけにもいかない。

 私の剣幕に面食らったように目を丸くさせた。

「え、何急に」

「なんでもよ、いい? お願いだから今日は絶対裏庭行かないでよ!」

「いや、七瀬が来れないなら行かないけど」

 そう言った神崎にほっとした。確かに、あんなところ普通行く用事はないのだ。

 私は目の前のノートを取ってカバンに乱暴に突っ込んだ。神崎が不思議そうに見てくる。

 私はそれ以上何も言い返さず、目の前のノートを手に取って乱暴にカバンに詰め込んだ。勢いよく立ち上がり急いでカバンを肩にかける。

「じゃあ、また明日ね!」

「ああ、また」

 神崎はどこか寂しそうにほほえんで挨拶をした。そんな彼に気づいていたが、私の頭の中はそんなことを気にしている様子はなかった。




 帰るふりをして裏庭へ行った。

 あれだけ神崎には言い聞かせたけれど、何かの事情があって彼が裏庭に来てしまってはいけない。その時は身を呈してでも神崎を守ろうと心に決めていたのだ。

 それにもしかしたら他の誰かがたまたま来て植木鉢とぶつかってしまったら。そういう可能性もあるので、なんとかして被害が出ないように努めるつもりだった。神崎が助かったからと言って、他の誰かが死んでしまってはたまらない。

 誰もいない裏庭を見渡せるように端の方に座り込んだ。上を見上げて、植木鉢なんかが落下してきそうにないところを選んで。ここで自分が被害にあうなんてあまりに間抜けすぎる。細心の注意を払った。

 熱い日差しに汗をかきながら一人その場で耐えた。神崎が来ませんように、それ以外の人も巻き込まれる人がいませんように。どこかから落ちてくる植木鉢が誰も傷つけませんように。

 汗だくになりながらも必死に祈りながら時を待った。

 夏の陽は長い。それでも、夕方になると空の明るさは昼間とはだいぶ表情を変えてくる。見た夢を思い返してみるが、青い空に真っ白な雲。そこまで遅い時間帯ではなかったはずだ。

「…………」

 私はゆっくり首を傾げた。首の後ろには汗で髪の毛が張り付き不快感を覚えるがそれどころじゃない。

 植木鉢は落ちてこない。

 待てども待てども、植木鉢どころか鳥のフンすら降ってはこなかった。

 時計を見てみると夕方十八時。どう見ても、あの予知で見た光景とは違って見える。私の予感ではとっくに植木鉢は落下してきているはずだ。

「もしかして、今日の予知じゃないのかな……明日とか?」

 その可能性もあると思った。今までは見た予知夢は必ずすぐに実現されていたけれど、時間のズレがあってもおかしくない。明日か、明後日のことなのかもしれない。

 もしそうだとしたらあの予知を現実にしない方法は簡単だ。

 裏庭に来て欲しいという神崎の頼みを必ず断ればいい。

 私はゆらりと立ち上がる。長いこと暑さにさらされ座っていたせいか、めまいを覚えた。倒れないように何とか足を踏ん張って見せる。ようやくびっしょりかいた汗を拭いた。

「とにかく、今日は神崎は死ななかった。誰も来なかった。そうだよね、普通こんな場所人なんか来ないんだって」

 ほっと安心した。あの夢の再現がなかった、それだけで私の心は軽くなる。あんなの現実に目撃しては、きっと狂ってしまうだろうと思った。

 私はようやく帰路についた。



***



 
「七瀬昨日のドラマ見た? やばい展開じゃなかった?」

「あ、うん見たよ! 来週最終回なのにちゃんとまとまるのか心配だよね」

「俺あんまドラマ見ないタイプなんだけどあれはハマってるわ」

 自転車を押しながらゆっくりとした歩調で歩く神崎が言った。その額には汗が少し浮かんでいる。夏空の下、私たちは並んで歩いて帰宅していた。

 自転車に乗れば家までにかかる時間なんて半分くらいになるけど。神崎と並んで帰れるならむしろもっとゆっくり歩きたいと思った。暑いけど、汗だくだけど、楽しいって思える。

 緩む頬をそのままに、無意識に手で顔を扇いだ。顔テカってないかな、毛穴全開かも。普段は気にかけないようなことが、隣に好きな人がいるだけで気になって仕方がなくなる。

 そんな私に気づいたのか、神崎が思いついたように言った。

「あっちにコンビニあるじゃん? ちょっと炭酸でも買わない?」

 彼が指差す方向は私の帰宅進路だった。

「え、神崎家と逆だけど」

「別にそれくらい。暑い中炭酸飲むの最高に美味しいじゃん!」

 楽しそうに笑った顔は子供のようだった。私はつられて笑い、同意して二人でコンビニに向かって行った。家に帰ればジュースなんて冷蔵庫にあるくせに、あえて私たちはコンビニの炭酸を選んだ。これが学生の醍醐味だと思っている。

 広々とした駐車場のあるコンビニに着いた後、私たちは自転車をとめて中に入った。神崎と並んでジュースを選ぶ。コンビニで飲み物を買うだなんてこれまでの人生何十回もやってきたのに、今日は特別楽しいしワクワクしている。飲み物の種類なんてどうでもいいと思っていた。どれにしようと悩む神崎の横顔を見ているだけで幸せな気持ちになった。

 一つずつ選んだ飲み物を手に持って外へ出る。エアコンの効いたコンビニから異世界へ飛び込んだように温度差がすごい。私たちはとめてあった自転車の側に立ち、神崎は嬉しそうにすぐに封を開けてジュースを流し込んでいた。

 私も飲もうとして、ふと神崎を見て笑う。

「え? なに?」

「炭酸飲みたいって言ってたくせに、神崎炭酸選んでないじゃん!」

「あ」

 彼の手には普通のオレンジジュースがあった。私は笑いながら自分もジュースを口にする。神崎は笑われたことに少し恥ずかしそうにしながらも、小さな声でつぶやいた。

「まあ、実際内容はどうでもいいっていうか……」

「え?」

「七瀬。学祭、俺と校庭行かない?」

 突然放たれた言葉に、口の中に流れ込んできた水分が上手く飲み込めず思いっきりむせてしまった。予想外すぎるセリフに頭が大混乱する。

 しばらく咳き込んだ後顔を上げると、心配そうに私を見ている神崎がいた。

「ごめん驚かした、大丈夫?」

「……平気」

 今更ながらドキドキしてくる。独り身の体育館、カップルの校庭。そこに一緒に行こうってことはつまり。

 真剣に私を見ている神崎を見上げる。暑さのせいではなく、私の顔は真っ赤になっている自信があった。まさか、神崎から言ってくれるなんて。もしかして、これを言うために今日誘ってくれたの?

 私も行きたいと思ってた、神崎と学祭の校庭に。憧れだったよ。

「わた」

 言いかけた瞬間だった。突如、目の前に突風と爆音が鳴り響いて神崎がきえた。同時に見えたのは、勢いよくコンビニに突っ込む白い乗用車のボディだった。

 耳を塞ぎたくなるほどの音と衝撃に、私は立っていることさえままならず背後に思い切り尻餅をつく。

 ほんの一瞬の出来事だった。目を開けた時、コンビニ店内に車体の半分ほどを突っ込んだ車とその下に、見覚えのある制服のズボンが見えた。

「かん、ざき?」

 その足はびくとも動くことなく返事も聞こえない。

 耳に甲高い叫び声が響いた。それが自分のものであるのだと、私はしばらく気づかなかった。