私の口から小さな声が漏れた。大きな刃物を持っているその人は、紛れもなく私たちの担任の先生、三木透先生だった。
みんなからミッキーと呼ばれて、無気力だけどそこが生徒にウケてそこそこ人気の先生だった。体育教師でもないけどいつもジャージを着ている。まだ結婚もしていなかったはずだけど、そのジャージからはいつも甘い柔軟剤の匂いがしていた。美里が「ミッキーって一人暮らしなのかな? 柔軟剤男が選ぶ匂いじゃないよね」だなんて言っていたのを思い出す。
三木先生は刃物を持ったまま無表情で私たちを見ていた。しまったとか、邪魔者が入ったとか、そんな感情をカケラも感じることができない無の顔だった。綺麗に磨き抜かれたような刃物に先生の顔が映り込む。
私は結構好きだった、三木先生。……どうして。
「七瀬逃げろ!!」
神崎が突然大声をあげる。その声に正気を戻す。三木先生は持っている刃物を振りかざし、私たちに向かってきたのだ。
一瞬足が止まってしまったのを、神崎が強く外へと私を突き飛ばした。そのまま私は後ろへと倒れ込んだ。同時に見えたのは、神崎に刃物が振り下ろされるシーンだった。
喉から高い悲鳴が漏れた。それは自分でも聞いたことのないような声で、大きな音量だったBGMをゆうに割ってしまうほどの声だった。
神崎がさまざまな方法で死んでしまった光景が蘇る。でも誰かに刺されて死ぬなんて未来見えなかった。彼をこんな形で失うなんて絶対に嫌なのに。
一瞬のことだった、三木先生が振り下ろした先に神崎はいなかった。体を回転させ、すんでのところで刃物から逃れたのだ。そして同時に彼は三木先生が刃物を握る腕を思い切り蹴り上げた。つい息を呑んでその光景を見つめた。
ドラマならここで犯人が刃物を落としてくれるところだというのに、これが現実の厳しさか。三木先生は一瞬顔を歪めたけれど、刃物をしっかり握って離さなかった。神崎は顔をしかめた。
怒りに火がついたのか、三木先生はよく分からない言葉を叫びながら刃物をめちゃくちゃに振り回し始める。その様子は狂気と以外なんて呼べばいいのだろうか。完全に目は座っており、口の横からは涎が溢れていた。
神崎は顔を歪めて数歩下がる。隙をついて先生を止めるつもりなのだろうが、暴れ回っているのでなかなかタイミングが掴めない。先生は時折神崎に向かって突進するように迫った。神崎はうまいことタイミングを見てそれを必死に交わした。先生はどこか動きがフラフラしていて機敏ではなかった、それだけが救いだった。でも刃物と素手、あまりに状況は悪い。
「先生! やめてください!」
叫んでも私の声など届いていない。あの血走った目に一体何が映っているのだろうか。
どうしよう、このままじゃ神崎が危ない、いや、先生がこっちに出てきたらみんなが……!
そうオロオロとしている時あるものが目に入った。それは体育館の一番すみに設置されている消火器だった。
神崎が先ほど言っていたセリフが蘇る。そうだ、これを吹きかけて足止めするって、神崎は言ってたじゃない……!
もつれる足を懸命に立てて消火器まで歩み寄った。その頃には、私の悲鳴を聞いた生徒たちが異変に気がつき、女子の叫び声が聞こえた。私たちから遠ざかるように人々が動く。そんな背景に気がついていたけれど構う暇はなかった。赤い消火器までたどり着いた私はそれを手に持ち、小さなピンを外した。
ずしっとした重みのあるそれを片手で持ち上げあの扉の前まで走り寄る。ホースをしっかり握ると、それを未だ喚きながら暴れている先生に向けた。
「 ! 七瀬……!」
私の様子に気がついた神崎が声をあげる。それに返事すらせず、私は目標に向かって一気に噴射した。
この人生、火事なんて体験したことはない。それが普通だと思う。それでも学校の防災訓練で消火器の扱い方を学んでいた。「こんなのいざとなったら忘れて使えないでしょ」とか「一生使うことないね」とか話していた自分を張り倒したい。そのおかげで私は今迷いなく使用できているのだ。
ノズルから白い煙のようなものが飛び出し先生を包んだ。思ったより勢いはすごかった。三木先生は驚いたように動きをとめ、変な声を上げながら手で顔を覆うようにして庇う。
「神崎、今!」
私は決して手を緩めることなく叫んだ。視線は先生から離せないので神崎の方を見ることはできなかったが、視界の端で神崎が頷いたのが見えた気がした。
立ち往生している先生に神崎が突進していく。未だしっかり刃物を握る腕を握り捻りあげた。小さく唸った先生はついに刃物を床に落とし、金属の落ちる音が小さく響いた。それを見届けて私は噴射をやめた。
その時になってようやく他の先生が現れた。思えばこの後夜祭、三木先生一人しかいないわけがなく、他にも教師はいたのだ。ステージのサイドにでもいてこちらに気づかなかったのだろうか。
神崎と落ちた刃物を見て、一瞬唖然とした先生たちは、それでもすぐに動いてくれた。男の先生はとりあえず一緒になって三木先生を取り押さえた。女の先生も集まり、混乱しながらも必死に他の生徒たちを落ち着かせたり応援を呼んだりと慌ただしく動き回った。
三木先生は男二人にのし掛かられ、ついに諦めたように顔を床に伏せた。それはとても悔しそうに見えた。
私は未だ持ったままだった消火器をようやく床に置いた。ゴトン、と大きな音がする。ずっと止めていた気がする息を再開させた。息切れのようになっている呼吸を落ち着かせるように酸素を吸う。
……捕まえた。犯人を。犠牲者を出す前に。
三木先生の腕を必死に抑えている神崎がちらりとこちらを見て目が合う。神崎はほんの少しだけ口角を上げた。成功した、もう大丈夫だね、そう言っているようだった。
私は全身から力が抜けヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。
みんなからミッキーと呼ばれて、無気力だけどそこが生徒にウケてそこそこ人気の先生だった。体育教師でもないけどいつもジャージを着ている。まだ結婚もしていなかったはずだけど、そのジャージからはいつも甘い柔軟剤の匂いがしていた。美里が「ミッキーって一人暮らしなのかな? 柔軟剤男が選ぶ匂いじゃないよね」だなんて言っていたのを思い出す。
三木先生は刃物を持ったまま無表情で私たちを見ていた。しまったとか、邪魔者が入ったとか、そんな感情をカケラも感じることができない無の顔だった。綺麗に磨き抜かれたような刃物に先生の顔が映り込む。
私は結構好きだった、三木先生。……どうして。
「七瀬逃げろ!!」
神崎が突然大声をあげる。その声に正気を戻す。三木先生は持っている刃物を振りかざし、私たちに向かってきたのだ。
一瞬足が止まってしまったのを、神崎が強く外へと私を突き飛ばした。そのまま私は後ろへと倒れ込んだ。同時に見えたのは、神崎に刃物が振り下ろされるシーンだった。
喉から高い悲鳴が漏れた。それは自分でも聞いたことのないような声で、大きな音量だったBGMをゆうに割ってしまうほどの声だった。
神崎がさまざまな方法で死んでしまった光景が蘇る。でも誰かに刺されて死ぬなんて未来見えなかった。彼をこんな形で失うなんて絶対に嫌なのに。
一瞬のことだった、三木先生が振り下ろした先に神崎はいなかった。体を回転させ、すんでのところで刃物から逃れたのだ。そして同時に彼は三木先生が刃物を握る腕を思い切り蹴り上げた。つい息を呑んでその光景を見つめた。
ドラマならここで犯人が刃物を落としてくれるところだというのに、これが現実の厳しさか。三木先生は一瞬顔を歪めたけれど、刃物をしっかり握って離さなかった。神崎は顔をしかめた。
怒りに火がついたのか、三木先生はよく分からない言葉を叫びながら刃物をめちゃくちゃに振り回し始める。その様子は狂気と以外なんて呼べばいいのだろうか。完全に目は座っており、口の横からは涎が溢れていた。
神崎は顔を歪めて数歩下がる。隙をついて先生を止めるつもりなのだろうが、暴れ回っているのでなかなかタイミングが掴めない。先生は時折神崎に向かって突進するように迫った。神崎はうまいことタイミングを見てそれを必死に交わした。先生はどこか動きがフラフラしていて機敏ではなかった、それだけが救いだった。でも刃物と素手、あまりに状況は悪い。
「先生! やめてください!」
叫んでも私の声など届いていない。あの血走った目に一体何が映っているのだろうか。
どうしよう、このままじゃ神崎が危ない、いや、先生がこっちに出てきたらみんなが……!
そうオロオロとしている時あるものが目に入った。それは体育館の一番すみに設置されている消火器だった。
神崎が先ほど言っていたセリフが蘇る。そうだ、これを吹きかけて足止めするって、神崎は言ってたじゃない……!
もつれる足を懸命に立てて消火器まで歩み寄った。その頃には、私の悲鳴を聞いた生徒たちが異変に気がつき、女子の叫び声が聞こえた。私たちから遠ざかるように人々が動く。そんな背景に気がついていたけれど構う暇はなかった。赤い消火器までたどり着いた私はそれを手に持ち、小さなピンを外した。
ずしっとした重みのあるそれを片手で持ち上げあの扉の前まで走り寄る。ホースをしっかり握ると、それを未だ喚きながら暴れている先生に向けた。
「 ! 七瀬……!」
私の様子に気がついた神崎が声をあげる。それに返事すらせず、私は目標に向かって一気に噴射した。
この人生、火事なんて体験したことはない。それが普通だと思う。それでも学校の防災訓練で消火器の扱い方を学んでいた。「こんなのいざとなったら忘れて使えないでしょ」とか「一生使うことないね」とか話していた自分を張り倒したい。そのおかげで私は今迷いなく使用できているのだ。
ノズルから白い煙のようなものが飛び出し先生を包んだ。思ったより勢いはすごかった。三木先生は驚いたように動きをとめ、変な声を上げながら手で顔を覆うようにして庇う。
「神崎、今!」
私は決して手を緩めることなく叫んだ。視線は先生から離せないので神崎の方を見ることはできなかったが、視界の端で神崎が頷いたのが見えた気がした。
立ち往生している先生に神崎が突進していく。未だしっかり刃物を握る腕を握り捻りあげた。小さく唸った先生はついに刃物を床に落とし、金属の落ちる音が小さく響いた。それを見届けて私は噴射をやめた。
その時になってようやく他の先生が現れた。思えばこの後夜祭、三木先生一人しかいないわけがなく、他にも教師はいたのだ。ステージのサイドにでもいてこちらに気づかなかったのだろうか。
神崎と落ちた刃物を見て、一瞬唖然とした先生たちは、それでもすぐに動いてくれた。男の先生はとりあえず一緒になって三木先生を取り押さえた。女の先生も集まり、混乱しながらも必死に他の生徒たちを落ち着かせたり応援を呼んだりと慌ただしく動き回った。
三木先生は男二人にのし掛かられ、ついに諦めたように顔を床に伏せた。それはとても悔しそうに見えた。
私は未だ持ったままだった消火器をようやく床に置いた。ゴトン、と大きな音がする。ずっと止めていた気がする息を再開させた。息切れのようになっている呼吸を落ち着かせるように酸素を吸う。
……捕まえた。犯人を。犠牲者を出す前に。
三木先生の腕を必死に抑えている神崎がちらりとこちらを見て目が合う。神崎はほんの少しだけ口角を上げた。成功した、もう大丈夫だね、そう言っているようだった。
私は全身から力が抜けヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。


