非情にも音楽はどんどん進んでいく。焦りと恐怖で手が震えてくる。それでも、しっかりと私を導いてくれる神崎の手の体温だけを信じて進んだ。もしこれが私一人だったら、パニックを起こして何もできていないかもしれない。そう思うと、神崎も一緒の予知を見てくれてよかったと心から思った。
腕を見る。ない。腕を見る。ない。腕を見る、やっぱりない。
恐らく全体の前半分くらいは見終わっているはずなのに、どうしてまるで見つからないんだろう。
時が止まって欲しい。ただただそう願った。警察もまだなんだろうか、今すぐここに来てくれればなんとかなるかもしれないのに……。
「いない」
前から神崎の悔しそうな声がした。
足を止めた彼を見上げる。曲はもう二番目のサビまで来ていた。あともう少しで問題のところまで来てしまう。短時間だったけれど、私たちは二人で目を光らせて結構な人数を確認した。それなのになぜ赤いミサンガはないの?
私の記憶違い? さっきまで確たる自信があったのに急に不安が襲った。ううん、映像では見えたはず、見えたはずだから……!
神崎が振り返った。さっきより更に汗だくになった神崎は、悔しそうな、そして辛そうな顔をしていた。私も釣られて泣いてしまいそうになる。
「七瀬は外に行って」
「……え」
「七瀬はもう外に出て。お願いだから」
早口でそう言った神崎は私の手を離した。ずっと強く握られていたので違和感が残る。さっき彼と交わした約束が思い出された。私だけ逃げてって、神崎はそう言ってるんだ。
「か、神崎は?」
「少しでも被害者が少なくなるようなんとかしてみる。考えてたんだ、消火器がそこのステージサイドにあるから、犯人の目星がついたらあれを吹きかけて……」
「わ、私も一緒に」
「七瀬、約束しただろ」
神崎は低い声で私をそう諭した。彼の顔を見上げる。時は止まることなんてなく、残酷にもどんどん流れて焦燥感を煽る。一刻の余裕もないのに、私は素直に頷けなかった。
だって、神崎を見捨てて、友達を見捨てて自分だけ逃げるだなんて。私は今まで神崎に死んでほしくないから告白を受けなかった。それなのにもし今神崎に何かあったら。私はこんな未来のために恋を諦めたわけじゃない。だったらせめて一緒に危険に臨みたい。
そんな私の心を見抜いているかのように、神崎が少し眉を下げる。そしてそのまま何も言わずにくるりと踵を返してしまう。はっとして思わず、私は神崎の右手を強く握ってしまった。神崎の熱い熱い体温を感じた。神崎が振り返る。
私と神崎だけが見えた夢。なぜかは分からないけど、二人きりだということは紛れもない事実だ。お互い結末は一緒でも、違う角度から映像が見えた。これは何か大きな意味がある気がする。
そう、そうだ。神崎が見た映像のおかげで、犯人が中にいることは分かった。いつ事件が起こるのかもわかった。
じゃあ、私は? ミサンガだけが私の持っている情報なんだろうか。何か他に忘れていることがあるんじゃない?
「七瀬、頼むから外に……!」
懇願するような神崎の言葉さえ返事を返さず、私は意識を集中させた。音楽はもうそろそろ最後のサビに差し掛かってくる。
その時、みんなの嬉しそうな歓声と明るい曲が突然遠のいた気がした。耳の穴に膜が貼ったかのような不思議な感覚だ。周りから私一人だけ浮いてしまったのかと錯覚した。ふわふわした浮遊感が襲う。でも精神だけは、しっかり根を張って立っている、そんなイメージになった。
思い出せ。思い出すんだ、他に私は何を見た?
目を開けない友人たち、流れ出る血。逃げ惑う声、ぬるっとした感触。決して目を逸らさずに一つ一つを思い出す。全身全ての力と精神力を、脳内の映像に集中させた。
二人が起きなくて、みんなが倒れてて。呆然としながら救急車を呼ぼうとスマホを取り出そうとして、でもなかなか手が震えて取れなくて。ようやくって時、誰かに肩を叩かれた。振り返った時に刃物とミサンガと……
「あ」
神崎の大きな手をしっかり握りながら、私は声を漏らした。
消えていたBGMが蘇る。意識が戻ってきたかのように感じた。
そうだ。そうだった。
「……七瀬?」
「神崎」
「ど、どうした」
「懐かしい匂いがした」
「え?」
神崎が小さく首を傾げる。瞬きすら忘れ私は喉から声を振り絞った。
「血生臭い中に、どこか懐かしい匂いがした。記憶がある。あれは……ええっと、鉄の匂いと、そこに……えっと……花っぽい甘い……」
喉まで出かかっているのに出てこない、私はどこであの匂いを嗅いだんだっけ。懐かしいと感じたなら、きっといままでにも嗅いだことがあるはずなのだ。でも血の匂いの記憶も強すぎて、なかなか出てこない。
思い出せ、思い出せ、時間がない、時間がない。
「花?」
「っぽい匂い。甘いっていうか、爽やかでもあるけど」
「甘い……」
「でも本当の花じゃないの、人工的な匂いなの!」
神崎はしっかり私の言葉を聞いて考えるように黙った。思い出せない自分の情けなさに叫び出しそうになった。
なんだかすごく重要なことな気がする。
「懐かしいの、私知ってる匂いなんだよ。なんだっけ、なんで出てこないんだろう。美里がつけてるボディクリームとはまた違った……」
私の言葉を聞いた途端神崎の顔色が変わった。唸りながら悩んでいる私の肩を、空いている方の手で強く掴んだ。驚きで顔を上げた。
神崎は口を堅く結び、揺るがない視線で私を見ている。
「七瀬!」
「え、……え?」
「そうだった、ここにいる人たちの中に犯人がいるのは確実だ。
でもそれは生徒とは限らない」
神崎の言葉を聞いて私もようやく悟った。次の瞬間、あの匂いの答えが閃き、その衝撃が全身を駆け抜けた。
そんな。でも、そうとしか考えられない。
そして二人同時に同じ場所を見つめた。いま現在映像が流されているステージの横には扉がある。そこは普段は体育倉庫として使われており、更に奥に入ればステージと繋がっていた。後夜祭を運営する実行委員や、それをサポートする教師がいるはずだった。
何も言わず一気にそこへ向かって駆け出した。神崎との手はしっかり握ったままだ。気がつけば、会場内の音楽は最後のサビが終わりに差し掛かっていた。
未だ薄暗くステージばかり注目している人々をすり抜け、私と神崎はその扉を目指す。どくんどくんとどんどんうるさくなっていく心臓が、全ての答えのような気がした。
ドアの前までたどり着いた神崎は、何を言うこともなくすぐさま取っ手をつかみ、引き戸となっているそれを思い切り開けたのだ。
重みのある扉は鈍い音を立てながら開かれた。跳び箱やマット、平均台。よく体育の授業で見る道具たちと同時に見えたのは、銀色に光る鋭利な刃物と、それを握る赤いミサンガだった。
「……三木先生……」
腕を見る。ない。腕を見る。ない。腕を見る、やっぱりない。
恐らく全体の前半分くらいは見終わっているはずなのに、どうしてまるで見つからないんだろう。
時が止まって欲しい。ただただそう願った。警察もまだなんだろうか、今すぐここに来てくれればなんとかなるかもしれないのに……。
「いない」
前から神崎の悔しそうな声がした。
足を止めた彼を見上げる。曲はもう二番目のサビまで来ていた。あともう少しで問題のところまで来てしまう。短時間だったけれど、私たちは二人で目を光らせて結構な人数を確認した。それなのになぜ赤いミサンガはないの?
私の記憶違い? さっきまで確たる自信があったのに急に不安が襲った。ううん、映像では見えたはず、見えたはずだから……!
神崎が振り返った。さっきより更に汗だくになった神崎は、悔しそうな、そして辛そうな顔をしていた。私も釣られて泣いてしまいそうになる。
「七瀬は外に行って」
「……え」
「七瀬はもう外に出て。お願いだから」
早口でそう言った神崎は私の手を離した。ずっと強く握られていたので違和感が残る。さっき彼と交わした約束が思い出された。私だけ逃げてって、神崎はそう言ってるんだ。
「か、神崎は?」
「少しでも被害者が少なくなるようなんとかしてみる。考えてたんだ、消火器がそこのステージサイドにあるから、犯人の目星がついたらあれを吹きかけて……」
「わ、私も一緒に」
「七瀬、約束しただろ」
神崎は低い声で私をそう諭した。彼の顔を見上げる。時は止まることなんてなく、残酷にもどんどん流れて焦燥感を煽る。一刻の余裕もないのに、私は素直に頷けなかった。
だって、神崎を見捨てて、友達を見捨てて自分だけ逃げるだなんて。私は今まで神崎に死んでほしくないから告白を受けなかった。それなのにもし今神崎に何かあったら。私はこんな未来のために恋を諦めたわけじゃない。だったらせめて一緒に危険に臨みたい。
そんな私の心を見抜いているかのように、神崎が少し眉を下げる。そしてそのまま何も言わずにくるりと踵を返してしまう。はっとして思わず、私は神崎の右手を強く握ってしまった。神崎の熱い熱い体温を感じた。神崎が振り返る。
私と神崎だけが見えた夢。なぜかは分からないけど、二人きりだということは紛れもない事実だ。お互い結末は一緒でも、違う角度から映像が見えた。これは何か大きな意味がある気がする。
そう、そうだ。神崎が見た映像のおかげで、犯人が中にいることは分かった。いつ事件が起こるのかもわかった。
じゃあ、私は? ミサンガだけが私の持っている情報なんだろうか。何か他に忘れていることがあるんじゃない?
「七瀬、頼むから外に……!」
懇願するような神崎の言葉さえ返事を返さず、私は意識を集中させた。音楽はもうそろそろ最後のサビに差し掛かってくる。
その時、みんなの嬉しそうな歓声と明るい曲が突然遠のいた気がした。耳の穴に膜が貼ったかのような不思議な感覚だ。周りから私一人だけ浮いてしまったのかと錯覚した。ふわふわした浮遊感が襲う。でも精神だけは、しっかり根を張って立っている、そんなイメージになった。
思い出せ。思い出すんだ、他に私は何を見た?
目を開けない友人たち、流れ出る血。逃げ惑う声、ぬるっとした感触。決して目を逸らさずに一つ一つを思い出す。全身全ての力と精神力を、脳内の映像に集中させた。
二人が起きなくて、みんなが倒れてて。呆然としながら救急車を呼ぼうとスマホを取り出そうとして、でもなかなか手が震えて取れなくて。ようやくって時、誰かに肩を叩かれた。振り返った時に刃物とミサンガと……
「あ」
神崎の大きな手をしっかり握りながら、私は声を漏らした。
消えていたBGMが蘇る。意識が戻ってきたかのように感じた。
そうだ。そうだった。
「……七瀬?」
「神崎」
「ど、どうした」
「懐かしい匂いがした」
「え?」
神崎が小さく首を傾げる。瞬きすら忘れ私は喉から声を振り絞った。
「血生臭い中に、どこか懐かしい匂いがした。記憶がある。あれは……ええっと、鉄の匂いと、そこに……えっと……花っぽい甘い……」
喉まで出かかっているのに出てこない、私はどこであの匂いを嗅いだんだっけ。懐かしいと感じたなら、きっといままでにも嗅いだことがあるはずなのだ。でも血の匂いの記憶も強すぎて、なかなか出てこない。
思い出せ、思い出せ、時間がない、時間がない。
「花?」
「っぽい匂い。甘いっていうか、爽やかでもあるけど」
「甘い……」
「でも本当の花じゃないの、人工的な匂いなの!」
神崎はしっかり私の言葉を聞いて考えるように黙った。思い出せない自分の情けなさに叫び出しそうになった。
なんだかすごく重要なことな気がする。
「懐かしいの、私知ってる匂いなんだよ。なんだっけ、なんで出てこないんだろう。美里がつけてるボディクリームとはまた違った……」
私の言葉を聞いた途端神崎の顔色が変わった。唸りながら悩んでいる私の肩を、空いている方の手で強く掴んだ。驚きで顔を上げた。
神崎は口を堅く結び、揺るがない視線で私を見ている。
「七瀬!」
「え、……え?」
「そうだった、ここにいる人たちの中に犯人がいるのは確実だ。
でもそれは生徒とは限らない」
神崎の言葉を聞いて私もようやく悟った。次の瞬間、あの匂いの答えが閃き、その衝撃が全身を駆け抜けた。
そんな。でも、そうとしか考えられない。
そして二人同時に同じ場所を見つめた。いま現在映像が流されているステージの横には扉がある。そこは普段は体育倉庫として使われており、更に奥に入ればステージと繋がっていた。後夜祭を運営する実行委員や、それをサポートする教師がいるはずだった。
何も言わず一気にそこへ向かって駆け出した。神崎との手はしっかり握ったままだ。気がつけば、会場内の音楽は最後のサビが終わりに差し掛かっていた。
未だ薄暗くステージばかり注目している人々をすり抜け、私と神崎はその扉を目指す。どくんどくんとどんどんうるさくなっていく心臓が、全ての答えのような気がした。
ドアの前までたどり着いた神崎は、何を言うこともなくすぐさま取っ手をつかみ、引き戸となっているそれを思い切り開けたのだ。
重みのある扉は鈍い音を立てながら開かれた。跳び箱やマット、平均台。よく体育の授業で見る道具たちと同時に見えたのは、銀色に光る鋭利な刃物と、それを握る赤いミサンガだった。
「……三木先生……」


