予知夢は時々見ることがあった。

 大体はこの前の筆箱事件のように、たわいもない日常のワンシーンばかりだった。

 ただ、予知は必ず七瀬に関することだった。他のことについてはまるで出てこない。登場人物は決まって七瀬一人で、時々ついでとばかりに友達が顔を出すくらいのものだった。

 なぜ、突然こんな能力が芽生えたのか。

 自慢じゃないが自分は鈍い方で、幽霊だってみたことないし感じたこともない。第六感とやらもまるで働いたことはない。

 なのに突然予知夢を見れるようになり困惑していた。

 タケにも席替え以降の予知については言えていなかった。こんなことを言って信じてもらえるか分からなかったし、言ってもタケを困らせるだけだと思った。

 ただ、以前タケが言ったように告白しろという神様の思し召し——だとしたら、俺は素直に従ってみたいと思っていた。


***

 


 薄暗い照明の中で必死に目を凝らした。

 辺りははっきりと見えなかった。ムッとした熱気がすごく、喉に汗が伝った。

 イマイチ視界が悪い。ここはどこだろう、背景がはっきりしない。なんだか夢の中にいるようだった。

 目を擦りながら必死に辺りを見渡している時だった。

「…………ざき」

 小さな小さな声が聞こえる。

「……ざき、かんざき」

 蚊の鳴くような小声だった。だが俺は、その声の主が誰なのかわかっていた。

 苦しそうな息遣いとともに俺を呼ぶ声がする。それは足元から聞こえてきていた。視線をぐっと下げる。

 赤い洋服が見えた。だがそれはただのシャツではない。背中に『巨大迷路 二年一組』という文字が書かれていた。

「七瀬? 七瀬?」

 黒いロングヘアを振り乱してうつ伏せにしているのは七瀬だ。俺は慌ててしゃがみ込んだ。

 七瀬はこちらに這うように両手で少しずつズルズルと動いている。苦しそうに息を乱し、それでもなんとか顔を上げて俺を見た。その顔は真っ白で汗をかいていた。

「七瀬!?」

「かん、ざき」

 ぼやっとした視界の中で、七瀬の顔だけはハッキリと見えた。虚な瞳で俺を見上げている。苦しげなその表情に慌てて声をかけた。

「七瀬どうした!」

「逃げ、て」

「七瀬?」

「危ない」

 そう言う小さな声が聞こえた瞬間、俺はようやく異変に気がついた。七瀬が着ているクラスTシャツの赤に、別の赤色が混じっている。

 目を見開いて七瀬の背中を注視した。Tシャツの背中部分の布が直径十センチほど切られていた。そしてそこから、じわじわと出血があり、どんどんTシャツを染めていた。  

 見れば七瀬の体の下にも、赤黒い血溜まりが出来ていた。

「七瀬!!?」

 やっと状況を察知した俺は、素手で七瀬の背中の傷を抑えた。それでも上手く止血できている自信がなく、慌てて自分が着ていた服を脱いで傷口に当てる。そこで気がついたが、俺もクラスTシャツを着ていた。

 Tシャツに空いた穴とこの出血を見るに、何か鋭利な物で刺されたのだろうか?

「き、救急車!」

 そう叫び、左手で傷口を押さえながらもう片方でズボンのポケットを探った。しかしなぜか、中に俺のスマホは入っていない。

「神崎……」

「七瀬、携帯持ってるか!?」

「逃げて……」

「七瀬!」

 七瀬は頭を重そうに落として床に置いた。呼吸が苦しそうに乱れている。

「七瀬しっかり、救急車を……!」

「逃げて神崎……」

 ほとんど唇を動かさずそう呟いた七瀬は、そっとその瞼を閉じた。そして聞こえていた吐息が聞こえなくなる。

 その顔をみて、自分の息が止まった。

「…………七瀬?」

 呼びかけるも、彼女は返事をしない。

「お、おい七瀬」

 まつげが揺れることすらしない。

「七瀬! 七瀬!」

 ただその名前を呼び続けた。まるで眠っているような七瀬の顔は今にも起き出しそうなのに。

 七瀬は決して起きなかった。



***



 目を開けた瞬間、俺は叫んでいた。

 汗をぐっしょりかいて寒気すら感じた。

 視界に入ってきたのは知っている天井の壁紙で、まだ暗い部屋内は真夜中であることを物語っていた。

 息はマラソンをした後かのように乱れている。自分の胸が大きく上下するのがわかっていた。

「……な、なん、だいま、の」

 途切れ途切れに声を漏らした。その声は掠れていて、同時に唇が割れた。どうやら唇もかなり乾燥しているらしい。

 しばらく動けなかった。体にまるで力が入らない。こんな状況になったのは初めてだった。

……夢、だった。うん、夢だよ。

 今見た残酷すぎる夢が再び目の前に現れて吐いてしまいそうになった。七瀬の背中を抑えた時の血の生温かさやぬるっとした感触が、未だ手のひらに残っている気がする。

 ゆっくり右手を出してみる。やはり、肌色の手には一滴も血はついていない。

 はあとため息をついて手で顔を覆った。なんつー悪夢だよ。とんでもない夢だ、いつも七瀬が出てくる時はいい気分の目覚めなのに……

 そう考えた瞬間はっとする。大事なことを今の今まで忘れていた自分に呆れた。

「予知夢?」

 そうだ。ここ最近七瀬についてみる夢は全て予知夢だった。ありふれた日常のワンシーンばかりだったが、見た夢は全て現実になった。

 ようやく治ってきていた寒気が再び俺を襲って全身が震えた。自分でガタガタとうるさい手を抑える。

 落ち着け。落ち着くんだ。とにかく一度、今みた夢を思い出せ。

 一度深呼吸をする。

 今日の夢はなんだか周りの光景が上手く見えなかったが、確実にわかっていることがある。まず一つ、七瀬も俺も赤いクラスTシャツを着ていた。あれはうちのクラスだけが持っているもので、文化祭当日に着るために注文しているものだ。

 つまり、日付は学祭。学祭の日に、七瀬は死ぬ。

 目を閉じて再び考える。他に何か見えなかったか。薄暗い視界だったけれど、覚えていることは。
 
 七瀬が眠って目を開けなくなったシーンが頭に浮かぶ。苦しい胸を必死に抑え込みその光景を今一度確認した。彼女が最後重そうに頭を落とした瞬間を思い出し、あっとする。

「あの床、教室じゃないな……?」

 七瀬が頬をつけて倒れ込んだ床。そうだ、あの素材は教室のものとは違う。ツルツルとした凹凸のないあの独特な床は……

「体育館か?」

 そう自分で答えてハッとした。そうだ、体育館だ。つまり後夜祭。彼氏がいない七瀬はこのままだと体育館で後夜祭に参加するのは間違いないからだ。

 学祭の最終日、後夜祭で、七瀬が刺される。それが今日みた夢から分かることだ。

「……頼む、ただの夢であってくれよ……」

 情けない小声が漏れて膝を抱える。

 予知じゃなくてただの悪夢。そうであってほしい。後々笑い話になってくれればいい。それでも、ここ最近ずっとみ続けている予知夢である可能性の方が高いと思っていた。

 でもどうして七瀬が? 誰が七瀬を?

 決して贔屓目ではなく、彼女は人から恨まれるようなタイプではないと思う。ましてや刺されるほどなんて、ありえない。じゃあなぜだ、あんなひどいことを。

「いや、あの夢だけで犯人は割り出せない……」

 悔しさを滲ませながら呟く。

 それより、まずはあの最悪の事態を逃れる方法を考えなければ。

 俺ははっとしてようやく部屋の電気をつけた。眩しい光に一瞬目を細めたあと、すぐに枕元にある大学ノートを手にした。いつからか始めた夢日記だった。

 カバンからペンを取り出し乱暴に書き殴っていく。今日の日付に見た夢の内容を事細かに書き連ねる。決して忘れないようにしっかりと書いた。

 一通り書いて何度も確認した後、ようやく本題に移る。

 情報が少なすぎるが、とにかくなんとかして七瀬の命を助けたい。それだけだった。

「こんな話、信じてくれるわけないよなあ……」

 頭を抱えて考えた。

 ある日突然、『実は俺予知夢が見れるんだ、七瀬、お前学祭の日刺されるから学祭はくるなよ』だなんて言われたらどうする。いくらいい子だからって、七瀬でもドン引くだろ。俺なら引く。

 こんなことなら、初めから予知を七瀬にも教えておけばよかった。そしたら俺の力を信じたかもしれないのに。と思いながら、筆箱を忘れるとか自演もできそうな予知じゃ信じられないかと思った。

 七瀬に学祭を休んでほしい。いや、せめて後夜祭。後夜祭を欠席してくれれば。命は助かるかもしれない……

「そうか、難しく考える必要はないのかもしれない」

 ふっと心が軽くなった。

 学祭を休ませるとなるとかなり難しいが、最後の後夜祭だけなら。そうだ、例えばその時になって俺が体調が悪いから保健室に付き合ってくれとでも言おう。七瀬は優しいから必ず付き添ってくれるし、少しそばにいて欲しいと願えばそうしてくれるに違いない。

 なんだ、それならイケる!

「……まあ、怨恨が原因で刺されたとしたら、その後また狙われたりするかもしれないけど……」

 でもとりあえずは後夜祭の危険から逃げないと。あとのことはまたあとで考えるしかない。今わかってるのは後夜祭、体育館で七瀬は殺されてしまうという事実だけだ。

 俺は雑な字で、その内容をノートに書き入れた。後夜祭が始まる直前、体調不良を装って七瀬を体育館から遠ざける、と。

「そっか、うん。未来を変えるのって意外と少ししたことで変わるかもしれない」

 ほんのわずかな違いで、俺たちの運命は大きく左右される。きっと大丈夫だ、そう自分に言い聞かせる。

 このまま七瀬を失ってたまるか。自分ができる限りのことをするんだ。

 俺を必死に見上げながら流血していた七瀬の顔を思い出して、ぐっと気を引き締めた。必ず、あいつの命を救いたいと心に誓った。






 夜中に目が覚めてから寝付けなくなってしまった俺は、ぐったりとした顔で学校へ行った。

 眠気と戦いながら教室へたどり着き、クラスメイトへの挨拶もそこそに自席へつきすぐに机に突っ伏した。

 眠いし、トラウマだし、怖いし、もう最悪だ。

「神崎? 体調でも悪いの?」

 そんな柔らかな声が聞こえてきて顔を上げる。隣にはやはり、七瀬が心配そうにこちらを覗き込んでいるのが見えた。

 見慣れているはずのその表情が、自分の心臓を締め付けた。愛しさと恐ろしさが重なって複雑な思いに苦しむ。

 見た夢の内容が嫌でも蘇ってしまった。

「……や、寝不足なだけ。変な時間に起きたあと寝れなくて」

 無理矢理笑ってそう答えた。七瀬はほっとしたように頷く。

「寝てたら。先生きたら起こしてあげる」

「てゆうか一限の数学なんか起こさなくていいよ、そのまま寝とく。形だけ教科書は出しておくか」

「あは、もうちゃんと起きないとダメだよ」

「寝不足じゃなくても数学の時間はよく寝てるから俺」

 七瀬は大きな声で笑った。その明るい笑顔に暗くなっていた自分の心が少し晴れた気がする。大丈夫、七瀬は死なない。今死なずに俺の前にいるから。

 顔を腕に乗せながら七瀬の笑い顔を見つめる。

 大丈夫。大丈夫だ。学祭の日、俺は絶対に成功させる。七瀬のそばにいて離れないようにすればいい、帰り道まで気を抜かないようにして。いざとなれば俺が刺されたっていい。本気でそう思ってる。

 長い黒髪がサラリと揺れた。ただぼうっとその光景を眺めながら、綺麗だ、だなんてことを思った。

「じゃあおやすみ神崎。数学のテスト死んでも知らないからね」

「七瀬ノート貸して」

「やだよ、私のノートは高いんです」

「分かった一万円出す」

「たっっか!!」

「高いって言ったの七瀬じゃん、まあそんな金ないけど」

 何気ない会話が酷く愛しかった。七瀬が笑うたびそのシーンを焼き付けようと脳が働く。実は眠気なんかとっくに吹き飛んでしまったくらい、俺は彼女の笑い顔に魅入られていた。

 少し肩を揺らしながら笑う七瀬につられて口角が自然に上がった。そのまま尋ねてみる。

「七瀬は学祭、楽しみ?」

「え? そりゃ、まあ。うち結構盛り上がるし。巨大迷路作るの大変そうだけどね」

「……後夜祭も?」

「うん、盛り上がるよね。楽しみだよ」

 七瀬はどうして殺されるんだろう、とぼんやり思った。

 こんなにいい子で優しいのに、後夜祭の人混みの中で刺されるだなんて。間違いなくうちの学校のやつが犯人だ。

 人が多いからこそそれに紛れて七瀬を攻撃したんだろうか。なぜ? なんの恨みがあって?

「七瀬最近ストーカーに狙われてるとかない?」

「え、何急に。そんなのないよ」

「いや、なんか昨日そういうテレビ見たから」

「ああいうのは可愛い女の子が遭うもんでしょ」

 じゃあ七瀬もやっぱり遭うかもじゃん、と言いかけて慌てて口をつぐんだ。七瀬本人に可愛いなんて言ってどうする、気まずさやばいだろ。

「急に聞いてくるから神崎が遭ってるのかと思った、今どき男もストーカー狙われることあるんでしょ」

「え、俺? ないっしょ」

「なんで? 神崎モテるでしょ?」

「いや、ないから」

「うそ、去年隣のクラスの時からモテそうだなあって思ってたよ」

 そう言った瞬間、七瀬ははっとして顔を赤くした。俺はというとどう答えていいか分からずそのまま停止した。

 そんな風に俺を認識してくれたんだ? いつから? 今は? ……だなんて聞けないチキン野郎。

 七瀬は慌てて誤魔化すように言った。

「身長高い男子はそれだけでモテるからね!!」

「それだけて」

「身長で得したね、よっ!」

「よって」

 七瀬は顔が赤くなっていることに気づいていないのか平然を装っているが、流石にバレバレだ。俺は嬉しさと恥ずかしさが混じった気持ちで心臓が痛くなるのを感じる。

 『隼人は告ったら絶対オッケーじゃん』

 いつだったかタケが言っていた台詞が蘇る。

 そうなら嬉しい。しかし自信はない。でも七瀬のこんな顔を見ると、期待するなって言う方が無理でもある。

 もし本当に付き合えたら。

 そんなことを考えながら、俺は頬が緩んでしまいそうになるのを隠すように顔を机に埋めた。こんなマヌケ顔、七瀬に見られてたまるかと思った。