去年は自分はもちろん体育館へ行った。その時、まだ隣のクラスだった七瀬を遠目で見つけて、『彼氏いないのか』って一人安心したのは内緒にしておく。
健全な男子としては、そりゃ彼女は欲しいし校庭へ行ってみたい。
「やっぱ学祭終わるまで隼人も独り身でいてくれ」
「さっきと言ってること違うじゃん」
「それか俺が彼女できたらお前も告っていい」
「なんでお前中心なんだよ」
「だって隼人は告ったら絶対オッケーじゃん、焦る必要ないじゃん」
「だからなんで絶対オッケーなんだよ、そんなのわかんないだろ」
「本当はわかってるくせにー」
タケはおちゃらけたように言ってくる。苦笑いをして流しておいた。でもタケはそのまま流させてくれず話題を続けた。
「七瀬いい子だと思うしートロトロしてたら他のやつに持っていかれちゃうんだー」
ついじろりと睨んだ。彼の言うことは最もなことで間違いではないのに、完全に八つ当たりだ。七瀬が他の男と付き合うシーンを想像して苛立ってしまったのだ。
タケは呆れたように言う。
「んな顔するなら頑張れってー。俺が彼女できたあとで」
「そこは揺るぎないんだ」
笑いながら目指していた購買へと辿り着く。ようやく話題が途切れたことに内心ホッとする。しかしその周辺にはやたら人だかりができていた。随分と今日は混雑しているなと中へ入ると、案の定棚はほとんど物がなかった。
「げー! 売り切ればっかじゃん」
後ろからタケの悲痛な声が響く。慌てたように数少ない品物を物色し始める彼に続き、俺もぼんやりと商品を眺めた。
そこでふと目に入ったのは、やたら売れ残っているボリューミーなパン。パッケージにはやきそばからあげパンと書かれていた。手に持ってみると、やはりかなりずしっとした重さがある。
「思い切ったことしたな」
ぱさついてそうなパンに無理やり挟まれたやきそばと唐揚げを見て笑う。正直全く心惹かれない。そのままパンを棚に戻そうとした時だ。
なぜかふっと、七瀬の顔が浮かんだ。
「…………」
よくわからないままやきそばからあげパンを手に取る。不思議だが、今日はこれを買わなくてはいけない気がした。全然美味しくなさそうなのに。
まあ、いいか。たまには。
それを手に持ち、俺は他の商品を見るために歩き出した。
***
「しまった、筆箱忘れた」
鞄の中を見て一人呟く。
何度漁っても筆箱は見当たらない。数少ないノートとタケに貸す予定の漫画本くらいだ。学業に必要なものより漫画の方が数が多い。
昨日の夜を思い浮かべた。普段は予習だの復習だのするタイプじゃないので筆箱なんか家で使うことはないのだが……ああそうか、夢日記を書こうとしたんだ。
以前席替えの予知夢を見て以降、やっぱり予知夢は見なかった。あの日はたまたま見たのだろう、何で一生に一度の予知夢があれだったんだ。できればもうちょっと劇的な瞬間を予知で見たい。
そう思いながら、悪あがきとも呼べる行為をした。それが夢日記なるものだ。もしかしたら明日はまた予知夢を見るかもしれない。もしそうだとしたら、見た夢を忘れないよう書いておいた方が安心だ。
日記だなんて小学生の宿題でしか書いてなかったくせに、俺はそう思い立ってノートを一冊下ろしたのだ。
「神崎? 筆箱忘れたの?」
俺の独り言か聞こえたのか、隣の七瀬がこちらを覗き込んできて言った。サラリとした長い髪が揺れる。
「あ、うん。ちょっと昨日家で使って」
「神崎が? 復習でもしたわけじゃないでしょうに」
「まあ、勉強でなかったのは確かだ」
七瀬は笑いながら自分の筆箱を漁った。そしてゴソゴソと中を探り、一本のシャープペンシルをとりだした。有名キャラクターの犬が書かれているものだった。
七瀬はそれをしばらく無言で眺めて、おずおずと俺に差し出した。
「……ごめん、こんなのしかないんだけど、可愛すぎかな?」
彼女が差し出したシャーペンを凝視する。よく七瀬が使っているやつだ、と思った。彼女はこのキャラが好きらしく、時々グッズを持っているのを見かけたりする。
心配そうに俺をみてくるその顔をみて、ガラにもなく思ってしまった。
可愛すぎるのはペンじゃなくて、お前だろ。……馬鹿か俺は。
「いや、助かる、ありがとう」
素直に借りる。ほっとしたような顔をした七瀬は、あっと思い出したように再び筆箱を漁った。そして次に、よくある白い消しゴムを取り出すと、何の迷いなしにそれを真っ二つに割ったのだ。
「!?」
「はい、これも貸してあげる。この前やきそばからあげパン奢ってもらったお礼」
「いや、だからって折らなくても」
「いいから。はい」
そう笑ってくる顔をみて、心の中で盛大にため息をついた。
優しすぎて、いい子すぎて、可愛すぎる。
少しばかり苦しくなった胸を誤魔化すように咳払いをし、俺は半分の消しゴムをありがたく受け取った。
***
「……ん?」
ふと目を開ける。部屋の明るさをみて、ああ朝だ、と気づく。適当に引いたカーテンは少し隙間が開いていて、そこから漏れる朝日が直接部屋に入り込んで自分の顔に当たっていた。
眩しさに顔を歪めながら上半身を起こすと同時に、俺はすぐにはっとした。そして、枕元にある勉強机に目をやる。そこには一冊の大学ノートが置いてあった。
昨晩、夢日記をつけるために下ろした新品のものだった。
「……あれ、今見た夢、って」
頭を掻きながら思い出す。筆箱を忘れて七瀬が犬のシャーペンを貸してくれた。消しゴムを半分に割ってくれた夢……
あっと思って慌てて立ち上がる。部屋の隅に適当に置かれた通学カバンを手に取り、その中身を覗き込んだ。タケに貸し出すための漫画でやたら重みがあるが、中に筆箱が入ってなかった。
振り返って勉強机を見る。その隅に、追いやられたようにひっそりと黒い筆箱は置かれていた。
「……もしかして、また見た?」
このままだったら俺は絶対に気づかずにこのまま学校に行っていた。筆箱を忘れる羽目になっていただろう。
ゆっくりと勉強机に近づいてみる。黒いそれを手に持ち、じっと眺める。
なんてことないシーンだ。予知夢って普通、危険が迫ってるとか、一生に一度の選択をするとか、そういう危機感のあるものかと思っていた。でも今日見た夢が予知夢なら、ほとんどただの日常と言えるワンシーン。
でも間違いなく今日のも予知夢だった。
……なんで急に、予知夢を見るようになったんだろう。
黒い筆箱を見つめたあと、それをカバンに入れようとして手を止める。少し迷ったが、俺は元あった位置に戻した。そしてやっぱり漫画ばっかりのカバンの口を閉めたのだ。
「神崎? 筆箱忘れたの?」
夢と全く同じ台詞が隣から聞こえてきた。
やや罪悪感に苛まれながら横を見る。七瀬が俺の顔を覗き込んでいた。
「あ、うん。ちょっと昨日家で使って」
忘れたといえば忘れたが、わざとと言えばわざとだ。筆箱を忘れる予知夢を見ておきながら、俺はあえて持ってこなかったんだから。それはやはり、七瀬から犬のシャーペンを借りると言うシーンを味わってしまいたくなったからだ。
案の定夢の通り、七瀬は筆箱を漁って俺に例のシャーペンを心配そうに差し出した。全くもって夢の通り。わかってはいたが、やはりあれは予知夢なのだ。
俺には可愛らしすぎるデザインのシャーペンを手にし、むず痒い気持ちでいっぱいになる。
「助かる、ありがとう」
俺の返答に七瀬が微笑む。同時に、再び筆箱を漁って消しゴムを取り出した。それを見た瞬間、俺は予知夢の内容を思い出し、素早く消しゴムを割ろうとする七瀬の手を掴んで止めた。
彼女は驚いたようにこちらを見る。
「消しゴム割らなくていいから」
予知を、少しだけ変えた。
わざと筆記用具を忘れた俺のために、七瀬の消しゴムを割るのは勿体無いと本気で思った。試験でもあるまいし、消しゴムなんか無くてもどうにでもなる。
七瀬は驚いたように俺の顔をみた。それと同時に、一瞬で頬の色を赤く染めた。そんな顔をみて、慌てて七瀬の手を握っていたのを離す。
どっかの少女漫画か、と突っ込みたくなるような反応に、自分で苦笑する。ただそれと同時に、嫌がられたわけじゃないことに安心した。
「あ、じゃ、じゃあ。ここに置いておくから勝手に使って」
七瀬は消しゴムを机の端に置いた。俺が手を伸ばせばすぐに取れる位置だ。
「うん、ありがとう」
「反射神経いいね。よく私が消しゴム割ろうとしたのわかったね」
笑いながらそう言われてドキッとした。そりゃわかる、だって予知夢で見たから。……なんて言えるわけもなく、俺はただ笑って誤魔化した。
「にしても、わざわざ消しゴム割るとか七瀬お人好しすぎ」
「え、そう? 別に割った後も普通に使えるから……」
「七瀬らしいな。可愛いね、これ」
犬のシャーペンを指さした。どこか恥ずかしそうに七瀬は俯く。
「七瀬このキャラ好きだよね? 弁当箱かなんかも持ってなかったっけ」
サラリと口から出た。だが当の本人は、不思議そうに目を丸くしてこちらを見る。
「あ、うん、結構好きなんだけど……」
「だよね」
「とは言っても、そんなにたくさんのグッズ持ってるるわけじゃないから……よく気づいたね」
ピタリと停止する。そしてようやく自分の失態に気がついた。
彼女が持っている物についてよく知っている。それは紛れもなく、いつでも七瀬を無意識に目で追ってしまっているからだった。七瀬がキャラクターのものなんて持っているのが珍しくて、印象に残ってしまっていた。
でもそうか。持ってる数はそんなに多くないのか。それを知ってる俺。七瀬が好きでよく見てますってバラしてるようなもんじゃないか。
「ああ……実は俺も結構好きだから覚えてた」
口から出た言い訳はそんなくだらないものだった。他にいい案が浮かばないので仕方がない。タケが聞いたらきっと爆笑してただろう、俺がこんな可愛らしいキャラを好きだとか。
七瀬はすぐに信じたらしく、目を丸くして笑った。
「え、神崎そうだったの!?」
「え、いやまあ、めっちゃ好きってわけじゃないよ。癒されるなーぐらい」
「あは、そうなんだよね。これ癒されるよね。そっか、知らなかった。神崎も結構好きだったんだあ」
何やらやたら嬉しそうに言う七瀬をみて、単純にも本気でこの白い犬をちょっと好きになった。流石にグッズを持つのはごめんだが、こいつの仲間の名前くらい今度調べてみようと思った。
自分で自分を笑ってしまいそうだ。
未だ笑っている七瀬をぼんやりと眺めながら、タケと話したことを思い出す。
きっと告白すればうまくいくだろ、と彼は言っていた。それが果たして本当はどうか。正直自信はなかった。確かに七瀬とは仲がいい自覚はあったが、友達としてという感覚が強いのではないのかと心配だったからだ。
でも、さっき自分が彼女の手を掴んだ時、朱色になった頬を思い出す。自惚れかな、友達相手にあんな反応はしないかと思うのだが。
……もし、できることなら、学祭前に思いを伝えて、二年連続体育館ではなく今年は校庭を目指してみようか。
「……七瀬」
「え?」
「俺と」
「おーい、二人きりの世界のところすまんなー」
低い声がして二人でハッとした。担任の三木透……通称ミッキー(ありきたりなあだ名すぎだと俺は思っている)が近くまで来て俺たちを見下ろしていた。
年齢は三十代半ばぐらいだったか。いつでも無気力な感じで程よく手を抜いてるミッキーは、意外と生徒たちに人気の先生だ。
「わ! ミッキー!」
「わ、じゃねえよ。とっくに俺入ってきてたのにお前らが全然気づかなかったんだろ。学祭の出し物について話し合わなきゃだから神崎、仕切りよろしく」
体育教師でもないのにジャージを着たミッキーは気だるそうに言う。無造作すぎる髪型と覇気のない目の色は本当に教師か、と疑ってしまうくらいだ。
独身なのかどうかもイマイチよくわからない不思議な先生だ。なんだかいつも甘い柔軟剤の匂いがして、それを恋人か母親が選んでいるかで全く見方が変わってくる。
「えっ、なんで俺?」
「実行員の村田が休み」
「だからってなんで俺?」
「お前そういうの向いてるだろ。よろしくー」
眠そうにそれだけいうと、ミッキーは教室の一番後ろでパイプ椅子を運び座りこんだ。腕を組み、今にも昼寝を始めますという体制にため息が出そうだ。
向いてるって。そんな自覚ないんだが。
頭を掻きながら仕方ないかと立ち上がる。隣の七瀬がこちらをみて、頑張れというように微笑んだ。俺は黒板の前にたち、学祭に向けての出し物について話し合いを始めた。
健全な男子としては、そりゃ彼女は欲しいし校庭へ行ってみたい。
「やっぱ学祭終わるまで隼人も独り身でいてくれ」
「さっきと言ってること違うじゃん」
「それか俺が彼女できたらお前も告っていい」
「なんでお前中心なんだよ」
「だって隼人は告ったら絶対オッケーじゃん、焦る必要ないじゃん」
「だからなんで絶対オッケーなんだよ、そんなのわかんないだろ」
「本当はわかってるくせにー」
タケはおちゃらけたように言ってくる。苦笑いをして流しておいた。でもタケはそのまま流させてくれず話題を続けた。
「七瀬いい子だと思うしートロトロしてたら他のやつに持っていかれちゃうんだー」
ついじろりと睨んだ。彼の言うことは最もなことで間違いではないのに、完全に八つ当たりだ。七瀬が他の男と付き合うシーンを想像して苛立ってしまったのだ。
タケは呆れたように言う。
「んな顔するなら頑張れってー。俺が彼女できたあとで」
「そこは揺るぎないんだ」
笑いながら目指していた購買へと辿り着く。ようやく話題が途切れたことに内心ホッとする。しかしその周辺にはやたら人だかりができていた。随分と今日は混雑しているなと中へ入ると、案の定棚はほとんど物がなかった。
「げー! 売り切ればっかじゃん」
後ろからタケの悲痛な声が響く。慌てたように数少ない品物を物色し始める彼に続き、俺もぼんやりと商品を眺めた。
そこでふと目に入ったのは、やたら売れ残っているボリューミーなパン。パッケージにはやきそばからあげパンと書かれていた。手に持ってみると、やはりかなりずしっとした重さがある。
「思い切ったことしたな」
ぱさついてそうなパンに無理やり挟まれたやきそばと唐揚げを見て笑う。正直全く心惹かれない。そのままパンを棚に戻そうとした時だ。
なぜかふっと、七瀬の顔が浮かんだ。
「…………」
よくわからないままやきそばからあげパンを手に取る。不思議だが、今日はこれを買わなくてはいけない気がした。全然美味しくなさそうなのに。
まあ、いいか。たまには。
それを手に持ち、俺は他の商品を見るために歩き出した。
***
「しまった、筆箱忘れた」
鞄の中を見て一人呟く。
何度漁っても筆箱は見当たらない。数少ないノートとタケに貸す予定の漫画本くらいだ。学業に必要なものより漫画の方が数が多い。
昨日の夜を思い浮かべた。普段は予習だの復習だのするタイプじゃないので筆箱なんか家で使うことはないのだが……ああそうか、夢日記を書こうとしたんだ。
以前席替えの予知夢を見て以降、やっぱり予知夢は見なかった。あの日はたまたま見たのだろう、何で一生に一度の予知夢があれだったんだ。できればもうちょっと劇的な瞬間を予知で見たい。
そう思いながら、悪あがきとも呼べる行為をした。それが夢日記なるものだ。もしかしたら明日はまた予知夢を見るかもしれない。もしそうだとしたら、見た夢を忘れないよう書いておいた方が安心だ。
日記だなんて小学生の宿題でしか書いてなかったくせに、俺はそう思い立ってノートを一冊下ろしたのだ。
「神崎? 筆箱忘れたの?」
俺の独り言か聞こえたのか、隣の七瀬がこちらを覗き込んできて言った。サラリとした長い髪が揺れる。
「あ、うん。ちょっと昨日家で使って」
「神崎が? 復習でもしたわけじゃないでしょうに」
「まあ、勉強でなかったのは確かだ」
七瀬は笑いながら自分の筆箱を漁った。そしてゴソゴソと中を探り、一本のシャープペンシルをとりだした。有名キャラクターの犬が書かれているものだった。
七瀬はそれをしばらく無言で眺めて、おずおずと俺に差し出した。
「……ごめん、こんなのしかないんだけど、可愛すぎかな?」
彼女が差し出したシャーペンを凝視する。よく七瀬が使っているやつだ、と思った。彼女はこのキャラが好きらしく、時々グッズを持っているのを見かけたりする。
心配そうに俺をみてくるその顔をみて、ガラにもなく思ってしまった。
可愛すぎるのはペンじゃなくて、お前だろ。……馬鹿か俺は。
「いや、助かる、ありがとう」
素直に借りる。ほっとしたような顔をした七瀬は、あっと思い出したように再び筆箱を漁った。そして次に、よくある白い消しゴムを取り出すと、何の迷いなしにそれを真っ二つに割ったのだ。
「!?」
「はい、これも貸してあげる。この前やきそばからあげパン奢ってもらったお礼」
「いや、だからって折らなくても」
「いいから。はい」
そう笑ってくる顔をみて、心の中で盛大にため息をついた。
優しすぎて、いい子すぎて、可愛すぎる。
少しばかり苦しくなった胸を誤魔化すように咳払いをし、俺は半分の消しゴムをありがたく受け取った。
***
「……ん?」
ふと目を開ける。部屋の明るさをみて、ああ朝だ、と気づく。適当に引いたカーテンは少し隙間が開いていて、そこから漏れる朝日が直接部屋に入り込んで自分の顔に当たっていた。
眩しさに顔を歪めながら上半身を起こすと同時に、俺はすぐにはっとした。そして、枕元にある勉強机に目をやる。そこには一冊の大学ノートが置いてあった。
昨晩、夢日記をつけるために下ろした新品のものだった。
「……あれ、今見た夢、って」
頭を掻きながら思い出す。筆箱を忘れて七瀬が犬のシャーペンを貸してくれた。消しゴムを半分に割ってくれた夢……
あっと思って慌てて立ち上がる。部屋の隅に適当に置かれた通学カバンを手に取り、その中身を覗き込んだ。タケに貸し出すための漫画でやたら重みがあるが、中に筆箱が入ってなかった。
振り返って勉強机を見る。その隅に、追いやられたようにひっそりと黒い筆箱は置かれていた。
「……もしかして、また見た?」
このままだったら俺は絶対に気づかずにこのまま学校に行っていた。筆箱を忘れる羽目になっていただろう。
ゆっくりと勉強机に近づいてみる。黒いそれを手に持ち、じっと眺める。
なんてことないシーンだ。予知夢って普通、危険が迫ってるとか、一生に一度の選択をするとか、そういう危機感のあるものかと思っていた。でも今日見た夢が予知夢なら、ほとんどただの日常と言えるワンシーン。
でも間違いなく今日のも予知夢だった。
……なんで急に、予知夢を見るようになったんだろう。
黒い筆箱を見つめたあと、それをカバンに入れようとして手を止める。少し迷ったが、俺は元あった位置に戻した。そしてやっぱり漫画ばっかりのカバンの口を閉めたのだ。
「神崎? 筆箱忘れたの?」
夢と全く同じ台詞が隣から聞こえてきた。
やや罪悪感に苛まれながら横を見る。七瀬が俺の顔を覗き込んでいた。
「あ、うん。ちょっと昨日家で使って」
忘れたといえば忘れたが、わざとと言えばわざとだ。筆箱を忘れる予知夢を見ておきながら、俺はあえて持ってこなかったんだから。それはやはり、七瀬から犬のシャーペンを借りると言うシーンを味わってしまいたくなったからだ。
案の定夢の通り、七瀬は筆箱を漁って俺に例のシャーペンを心配そうに差し出した。全くもって夢の通り。わかってはいたが、やはりあれは予知夢なのだ。
俺には可愛らしすぎるデザインのシャーペンを手にし、むず痒い気持ちでいっぱいになる。
「助かる、ありがとう」
俺の返答に七瀬が微笑む。同時に、再び筆箱を漁って消しゴムを取り出した。それを見た瞬間、俺は予知夢の内容を思い出し、素早く消しゴムを割ろうとする七瀬の手を掴んで止めた。
彼女は驚いたようにこちらを見る。
「消しゴム割らなくていいから」
予知を、少しだけ変えた。
わざと筆記用具を忘れた俺のために、七瀬の消しゴムを割るのは勿体無いと本気で思った。試験でもあるまいし、消しゴムなんか無くてもどうにでもなる。
七瀬は驚いたように俺の顔をみた。それと同時に、一瞬で頬の色を赤く染めた。そんな顔をみて、慌てて七瀬の手を握っていたのを離す。
どっかの少女漫画か、と突っ込みたくなるような反応に、自分で苦笑する。ただそれと同時に、嫌がられたわけじゃないことに安心した。
「あ、じゃ、じゃあ。ここに置いておくから勝手に使って」
七瀬は消しゴムを机の端に置いた。俺が手を伸ばせばすぐに取れる位置だ。
「うん、ありがとう」
「反射神経いいね。よく私が消しゴム割ろうとしたのわかったね」
笑いながらそう言われてドキッとした。そりゃわかる、だって予知夢で見たから。……なんて言えるわけもなく、俺はただ笑って誤魔化した。
「にしても、わざわざ消しゴム割るとか七瀬お人好しすぎ」
「え、そう? 別に割った後も普通に使えるから……」
「七瀬らしいな。可愛いね、これ」
犬のシャーペンを指さした。どこか恥ずかしそうに七瀬は俯く。
「七瀬このキャラ好きだよね? 弁当箱かなんかも持ってなかったっけ」
サラリと口から出た。だが当の本人は、不思議そうに目を丸くしてこちらを見る。
「あ、うん、結構好きなんだけど……」
「だよね」
「とは言っても、そんなにたくさんのグッズ持ってるるわけじゃないから……よく気づいたね」
ピタリと停止する。そしてようやく自分の失態に気がついた。
彼女が持っている物についてよく知っている。それは紛れもなく、いつでも七瀬を無意識に目で追ってしまっているからだった。七瀬がキャラクターのものなんて持っているのが珍しくて、印象に残ってしまっていた。
でもそうか。持ってる数はそんなに多くないのか。それを知ってる俺。七瀬が好きでよく見てますってバラしてるようなもんじゃないか。
「ああ……実は俺も結構好きだから覚えてた」
口から出た言い訳はそんなくだらないものだった。他にいい案が浮かばないので仕方がない。タケが聞いたらきっと爆笑してただろう、俺がこんな可愛らしいキャラを好きだとか。
七瀬はすぐに信じたらしく、目を丸くして笑った。
「え、神崎そうだったの!?」
「え、いやまあ、めっちゃ好きってわけじゃないよ。癒されるなーぐらい」
「あは、そうなんだよね。これ癒されるよね。そっか、知らなかった。神崎も結構好きだったんだあ」
何やらやたら嬉しそうに言う七瀬をみて、単純にも本気でこの白い犬をちょっと好きになった。流石にグッズを持つのはごめんだが、こいつの仲間の名前くらい今度調べてみようと思った。
自分で自分を笑ってしまいそうだ。
未だ笑っている七瀬をぼんやりと眺めながら、タケと話したことを思い出す。
きっと告白すればうまくいくだろ、と彼は言っていた。それが果たして本当はどうか。正直自信はなかった。確かに七瀬とは仲がいい自覚はあったが、友達としてという感覚が強いのではないのかと心配だったからだ。
でも、さっき自分が彼女の手を掴んだ時、朱色になった頬を思い出す。自惚れかな、友達相手にあんな反応はしないかと思うのだが。
……もし、できることなら、学祭前に思いを伝えて、二年連続体育館ではなく今年は校庭を目指してみようか。
「……七瀬」
「え?」
「俺と」
「おーい、二人きりの世界のところすまんなー」
低い声がして二人でハッとした。担任の三木透……通称ミッキー(ありきたりなあだ名すぎだと俺は思っている)が近くまで来て俺たちを見下ろしていた。
年齢は三十代半ばぐらいだったか。いつでも無気力な感じで程よく手を抜いてるミッキーは、意外と生徒たちに人気の先生だ。
「わ! ミッキー!」
「わ、じゃねえよ。とっくに俺入ってきてたのにお前らが全然気づかなかったんだろ。学祭の出し物について話し合わなきゃだから神崎、仕切りよろしく」
体育教師でもないのにジャージを着たミッキーは気だるそうに言う。無造作すぎる髪型と覇気のない目の色は本当に教師か、と疑ってしまうくらいだ。
独身なのかどうかもイマイチよくわからない不思議な先生だ。なんだかいつも甘い柔軟剤の匂いがして、それを恋人か母親が選んでいるかで全く見方が変わってくる。
「えっ、なんで俺?」
「実行員の村田が休み」
「だからってなんで俺?」
「お前そういうの向いてるだろ。よろしくー」
眠そうにそれだけいうと、ミッキーは教室の一番後ろでパイプ椅子を運び座りこんだ。腕を組み、今にも昼寝を始めますという体制にため息が出そうだ。
向いてるって。そんな自覚ないんだが。
頭を掻きながら仕方ないかと立ち上がる。隣の七瀬がこちらをみて、頑張れというように微笑んだ。俺は黒板の前にたち、学祭に向けての出し物について話し合いを始めた。