サッカー部の声が、半地下の調理実習室まで響く。
ふと耳を澄ますと乾いたボールの音の中に聞こえたのは確かな足音で、おもむろに顔を上げる。コツ、と遠慮がちに響いた音の後、ゆっくりと開けられたドアの向こうにそいつは立っていた。
「お、きた」
自分でも、ずいぶんお気楽な声だったと思う。案の定そいつ、悠真も驚いたように目を丸くするともごもごとなにか言葉を選んでいるようだった。
「……会いに行かなくて、すまない」
「いや、元々頼んでねえって」
あの日から、だいたい一週間。
めっきりオレの教室どころか調理実習室にも顔を出さなくなっていた悠真が、苦しそうな顔でそこにいた。
「特進コース、今テストか?」
「いや、そうではないが授業が普通コースよりも一時間多いから」
「うわ、オレやっぱり特進コースは無理だ」
くわと欠伸をしながら言葉を落とすと、また悠真が目を丸くした。ずっと驚いた表情をしたまま、オレの事を見ている。
「……また、怪我が増えている」
「んあ、あー、これは……」
悠真がこないから暇で早く帰ったら喧嘩に巻き込まれる事が多かったなんて、そんな事は口が裂けても言えない。
「猫に引っかかれただけだ」
「本当、だろうか」
「あぁ、本当。だから気にすんな」
あくまでも普段通り振舞ったはずなのに、悠真の顔はどこか不安そうに顔をしかめる。
「その、直くん」
「なんだよ」
「……なぜ、直くんは気にしていないんだ」
「…………」
なにが、とは言わなかった。
ただそれだけで言いたい言葉はじゅうぶんわかるから、ううん、と考える仕草をする。指で無意識になぞった唇は、まだあの時の事を覚えている。暖かくて、微かに震えたそれはオレの感情みたいだ。
「なんでって、聞かれても」
わからないと言おうとした言葉は静かに飲み込んだ。わかるわけがない、わかりっこない。そのはずなのに、今選ぶ言葉じゃないと思ったから。
最適な返事は見つけられず、ぐるぐる回る思考に沈む。けれどもやけに頭は冴えている気がして、それが自分の事なのに他人事のようにすら思えた。
「……なんでだろうな」
曖昧に笑って、言葉を濁す。
ずっと、あれから考えていた。あの時どうして、オレが悠真を拒まなかったのか。結局答えは見つからなくて、代わりに残ったのは嫌じゃなかったという感情だけ。
けど、本当はわかっている気がした。
それと同時に、オレが言葉にできるほど強くないのもわかっていた。
こいつならと、こいつだからと思っているのは気のせいじゃない。それすら言葉にするのは難しくて、ふとオレの中に居座っている天邪鬼を恨む。オレもこいつみたいに、悠真みたいにまっすぐならどれだけ楽だったんだろうか。
こいつも、オレも。
つくづくバカだと思う。
こんな奴と一緒にいなくてもいいと思っていたはずなのに、隣にいるのは悪い気分じゃない。そんな事を考えていると、オレがなぜ黙っているか知る由もない悠真は不安そうにオレを見つめてくる。
「やはり、怒っているだろうか」
「なにブツブツ言いながら突っ立ってんだよ」
そんな悠真もなんだか面白かったけど、さすがにこれ以上いじめるのはやめてやる。怖がらせないように笑いながら立ち上がると、そんなオレの行動に悠真の肩がピクりと揺れる。いつものキャップを目深に被ると、そのまま適当に置いてあった鞄に手を伸ばす。
「す、直くん、その」
「行くぞ」
「……行く?」
噛み合わない会話に、少し顔をしかめていた。
「どこに」
「どこって、外に決まってんだろ」
からかうように笑って手招きをしてやる。
例えばそう、コンビニに誘うような感覚で言葉を選んだ。
「ほら、校外活動しに行くぞ。連れてってくれんだろ、美味いクレープ」
***
まだ部活の時間だからなのか、それほど客が並んでいるわけではない。それでも夕方と考えればじゅうぶん人のいるそこは、甘い香りで包まれている。
「悠真は、なににする?」
「俺はそうだな、ブラックコーヒーを」
「了解」
相変わらず甘いものが得意ではないらしい悠真はこれだけとして、オレはどうするか。
レジの横に置かれたメニュー表には、本当にクリームで作られているのかと疑ってしまうほど出来のいい動物の写真が載っている。
「ハリネズミと、アルパカ……」
アニマルクレープなんて名前だからどんなものかと思えば、本当に動物を模したクリームがクレープの上に鎮座している。ハリリくんのクレープと、アルちゃんのクレープ。よく見ればその後ろにあるテイクアウト用のショーケースにもハリネズミのようなものが見えて、多分だけどこれが悠真の言っていたものだろう。
「悠真は、ハリネズミとアルパカどっちがいいと思う?」
「俺が、選んでもいいのか?」
「オレが選ぶと決めらんねえから、興味ない奴に選んでもらった方がいいだろ」
なるほど、とオレの返事に言葉を落とした悠真は、なぜかメニュー表ではなくオレを見ている。
「俺は……そうだな、ハリネズミのハリリくんクレープがいいと思う」
「おい、今の間でなんでオレを見た」
ごまかすつもりがないらしい視線がオレを刺したから、つい声を低くした。
「いや、直くんみたいだなと思っただけだ」
なんとなく予想してた答えには、あえてそれ以上は触れなかった。
オレのクレープとセットのストロベリーソーダ、悠真のコーヒーを頼み会計を済ます。
「ほら、中行くぞ……ん?」
少し狭くなった入口で、数人の大学生らしき男とすれ違う。これならオレ一人できても問題なかったかもしれないと思ったが、誰かに会ったらと考えると無意識に帽子を深く被ってしまう。
「直くん、ここはどうだろうか」
他の客から少し離れた、観葉植物で目隠しにもなっている席。
人目を気にしなくていい席に腰をおろすと、そのままキャップを取る。
「女性向けと聞いていたが、思った以上にカジュアルな店内だな」
「そうだな……いや、ちょっと入る時は勇気いるけど」
スカイブルーを基調にした入口は、ファンシーと表現したほうがいいものだった。中のシンプルな木目調とは正反対で、かなり勇気がいるものだ。
「……楽しそうだな、直くん」
「は? なんだよ突然」
「いや、直くんが楽しそうで俺も楽しいと思っただけだ」
なんだそれ、わけわかんねえ。
目の前で微笑むそれすらつい見てしまって、なにも言う事ができない。
夕焼けの差し込む店内で、オレと悠真だけ切り離されたようで。それだけでオレの方が悠真を意識してしまって、言葉を詰まらせる。腹の中で居座っているこの感情は、こいつに向けているオレの感情はなんて名前なのだろう。
きっと、あの日からだ。
気にしていないふりをしたって、そんなはずはない。ずっとそこにいる感情の名前はわからないままで、なにかを叫んでいるようだ。唇を奪われた事を仔犬に噛まれたのだと言い聞かせたところであの時の暖かさを忘れる事はできず、それが厄介だと思えた。きっと、悠真が思っている以上にオレの頭の中はあの瞬間の事でいっぱいだから。
多分オレはこの先ずっと、あの時感じたキスの味を覚えている。
逃げ場のない熱に肩を落とすと、ブブ、と小さく呼出機が手の中で震えた。
「俺が取ってくる」
スリと手の中から小さい機械を抜き取られると、そのままオレを置いて受け取り口へ悠真が行く。
こうした行動一つ一つが、人に好かれるところなのだろうか。きっと気のある人間なら一発で落ちるだろうそれを眺めて、同時に今まで考えた事もなかったような内容に他でもないオレ自身が驚いた。無意識に、右手は唇をゆっくりなぞっていた。
「お待たせ……直くん?」
「うお!」
突然頭上から降ってきた悠真の声に、わざとらしいくらい肩を揺らす。手を引っ込めると運良く見られていなかったようで、不思議そうに首をかしげていた。
「な、なにか持つぞ」
「いや、大丈夫だ。直くんはそのままで構わない」
両手に持ったお盆の上にはクレープらしきものとドリンクのカップが二つ並んでいた。
「こっちが直くんのだな、ここに置くぞ」
「ありがとう、な……」
お礼の言葉は、途中で無意識に飲み込んでしまった。
目の前にあるそれに釘付けになり、手には取らず見つめ合う。
大きめのクレープの上で器用にオレを見ているそれは、間違いなくクリームで作られたハリネズミだった。たまごボーロの手と鼻、アーモンドの耳。そしてなにより、チョコで作られた目。
「……直くん? なにかあったのか?」
「……目が」
「目が?」
「目が、合っちまった」
チョコチップの目は、案外罪なものだ。
それが付くだけでつぶらに見えて、オレだけじゃなくきっと見た人間すべてを魅了してしまう。
「……ふふっ」
「おい悠真、今笑っただろ」
隠しきれていない悠真の笑顔になんだか強く言えず、むしろ笑われる自覚があったから反論の余地も用意されていない。
腹を括って、木製スプーンを手に取る。
呼吸を整えてしばらく眺め、そこでやっと手を動かした。
「……いただきます」
「直くん、顔から行かないのか?」
「うるさい」
顔はなんだか崩すのに後ろめたさがあって、後ろの方からクリームを掬う。思った以上に固くないそれに驚きつつ口へ運んで、ふと自然と頬が緩くなる。
「ん、美味い……!」
ここまで形を保ったものだからてっきりバタークリームかと思っていたそれは、正真正銘ホイップクリームらしい。チョコクリームで作られた針もホイップ同様そこまで重たくなく、むしろ軽くて甘すぎない。チョコチップの目とは合わさないようにもう一口とスプーンを突き刺すと、ホイップクリームにしては少し固いものに当たる。固いけど、少し弾力があるような。覗き込むと、餅だろうそれが見える。口に入れると冷たく、すぐその正体はわかった。
「うお、これ中に大福アイス入ってる」
「大福アイス……あぁ、あの餅でアイスを包んでいるものか」
「そうそれ、さすがにクリームだけじゃ形が保てねえのかも……冷たくて驚いた」
確かに、いくら軽いホイップクリームでも全部だったら飽きたかもしれない。仕込むように隠されたそれは表から見たら想像もできなくて、それが楽しいと思える。
「あぁ、これおもしれえ……やっぱり、スイーツは嘘つきだ」
見た目からは想像できない、口にして初めてわかる味。甘いもの酸っぱいもわからないそれが面白くて、また一口と食べ進めて行く。悲しいと思いつつハリリくんが半分消えた辺りでスプーンを使わず大きく口を開けると、口の中はクリームでいっぱいになる。
「直くん、またクリームが……」
指先が、そっとオレの頬を撫でていく。
それだけのはずなのに悠真は目を丸くして、じっとオレを見て顔を赤くしている。その行動の意味は嫌でもわかって、オレの方まで呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
「……す、すまない!」
「いや、そんな驚かなくてもいいだろ」
オレの方がびっくりするよ、その声量は。
咄嗟に引かれた手が少し面白くて、悠真には悪いけど笑ってしまう。それでも悠真にとってはこんな一挙手一投足ですら気にしているらしく、口の中でなにか言葉を転がしていた。
「……俺は、その」
「いいってもう、いちいち落ち込まれたらこっちもテンション下がる」
言語化するのは難しい感情はオレの中にだって確かに存在していて、だからこそこいつに強く言えないと思っていた。ただ、それだけの理由だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「オレは、もう気にしていない」
手に残っていたクレープを口の中へ押し込むと、飽きさせないためかベリーの酸味とチョコフレークのザクザク感が、口いっぱいに広がる。
そんなオレの言葉を、こいつはどう思ったのか。
驚いたように目を丸くすると、嬉しそうな苦しそうな、不思議な顔を貼り付けている。
「……それは」
「なんだよ、言いたい事があるなら言えって」
別に怒るつもりはないし、言われたところでこいつの言葉なら気にならないはずだ。
我ながらかなり不確かな確証に笑ってしまうと、悠真はゆっくり言葉を選び顔を上げる。まっすぐなアイスグレーの瞳に、オレを閉じ込めて揺れている。
「なぁ直くん……直くんは、俺をどこまで許してくれるんだ?」
投げられたそれは、一瞬なにを言っているのかわからなかった。許すって、なにを。そう言葉を投げる前に伸びてきたのは悠真の手で、そっとオレの頬を撫でていく。それだけでなにを言いたいのかはわかってしまい、あまりにも真剣だから振り払う事はできなかった。
「教えてほしいんだ、どこまで許してくれるのか」
「許すもなにも、それは……」
どこまで、なんだろうか。
一度言葉にして聞かれると、オレもよくわからない。ただ腹の底でこいつならいいか、と思っている自分自身がいるのもまた事実で、その答えを見つける事はできない。けど、一つ言えるなら。
「……別に、嫌じゃねえ」
それだけは、今のオレでもはっきりわかる。
頬を撫でた手に応えるようおそるおそるこちらからも頬を擦り付けると、少し控えめな咳払いをされた。まずい事でもしたかと思ったがそうではないらしく、悠真の瞳がまた静かに揺れる。
「直くん……そういった事は、俺以外にはやらないでほしい」
「元から相手がいねえって」
なにに対してなのかイマイチ察する事はできなかったが、悠真にとっては大切な事なのだろう。
オレの行動も、言葉も。
きっとこいつにとってはなにもかもが大切で、だからこそ傷つけられたくない。それはオレだって一緒だからこそ、取り繕うように笑い返してみせる。
「ほら、もうなんも気にしてねえ」
「……直くん」
ふと頬が一瞬緩んだが、すぐ表情を固くする。普段からなにを考えているかわからない時もあるが、今日はそれに輪をかけるように腹の底がわからない。触れていた手がゆっくりと離れて、オレの右手を両手で包み込まれる。
「それでも、ちゃんと謝らせてほしいんだ……勝手にあんな事をしたのは、紛れもない事実で許されない行為だと思っている。本当にすまなかった」
「だから、その話は」
「けど……やはり俺は諦めきれないと思った」
「っ……」
なにがとは、どうしてだか聞く事ができない。
「直くんにとって、同性をそういった対象としていないのはなんとなくわかっていた。そもそも、直くんがそういったのに興味がないって事も。そしてそれは、俺だって同じのはずだった……けど、直くんじゃなきゃだめだと思ったんだ」
オレの手を包み込む力が、少しだけ強くなる。
「あの時、俺は直くんに釘付けになったんだ。好きなものを大切に食べて、幸せそうに微笑む直くんに。噂に聞いていたのとは違う、優しい表情の直くんに」
きっと、あの時。
出会った時の事をこいつは言っている。手に取るように、懐かしむように大切に言葉を選んでいる。
「俺はおそらくだが、たまらなく直くんがほしいんだ……直くんには笑顔であってほしいとあの瞬間、初めて会った時に思えたんだ」
オレも、これだけの言葉を投げられて気づかないような鈍感ではない。嫌でもわかってしまうそれはオレだけのもので、真剣な悠真から視線を外す事ができなかった。
「直くん、改めて言わせてほしい――俺は、直くんに俺だけを見てほしいんだ」
ないものねだりのようで、それでもオレだけを見ていて。やけにうるさい心臓の音が、店内に響いてるように錯覚すらしてしまう。
「……けど、オレ。わかんねえよ」
好きとか嫌いとか、愛とか惚れたとか。
そんな感情と無縁だったからこそ、同じ男だからこそ尚の事オレにはよくわからない。
「あぁ、わからなくて構わない」
小さく、優しく首を横に振る。
「今返事は要らない……俺が、その気になってもらえるよう頑張るから」
あまりにも熱烈でまっすぐな言葉は、オレを掴んで離そうとしない。それを言われてしまえば否定なんてできるはずもなく、釣られるように首を縦に動かす。
オレとこいつだけが、世界でふたりぼっちにされたように静かだ。静かで、やけに呼吸だって浅くなる。
今はただ、この心臓の音が届かないよう願う事しかできなかった。
ふと耳を澄ますと乾いたボールの音の中に聞こえたのは確かな足音で、おもむろに顔を上げる。コツ、と遠慮がちに響いた音の後、ゆっくりと開けられたドアの向こうにそいつは立っていた。
「お、きた」
自分でも、ずいぶんお気楽な声だったと思う。案の定そいつ、悠真も驚いたように目を丸くするともごもごとなにか言葉を選んでいるようだった。
「……会いに行かなくて、すまない」
「いや、元々頼んでねえって」
あの日から、だいたい一週間。
めっきりオレの教室どころか調理実習室にも顔を出さなくなっていた悠真が、苦しそうな顔でそこにいた。
「特進コース、今テストか?」
「いや、そうではないが授業が普通コースよりも一時間多いから」
「うわ、オレやっぱり特進コースは無理だ」
くわと欠伸をしながら言葉を落とすと、また悠真が目を丸くした。ずっと驚いた表情をしたまま、オレの事を見ている。
「……また、怪我が増えている」
「んあ、あー、これは……」
悠真がこないから暇で早く帰ったら喧嘩に巻き込まれる事が多かったなんて、そんな事は口が裂けても言えない。
「猫に引っかかれただけだ」
「本当、だろうか」
「あぁ、本当。だから気にすんな」
あくまでも普段通り振舞ったはずなのに、悠真の顔はどこか不安そうに顔をしかめる。
「その、直くん」
「なんだよ」
「……なぜ、直くんは気にしていないんだ」
「…………」
なにが、とは言わなかった。
ただそれだけで言いたい言葉はじゅうぶんわかるから、ううん、と考える仕草をする。指で無意識になぞった唇は、まだあの時の事を覚えている。暖かくて、微かに震えたそれはオレの感情みたいだ。
「なんでって、聞かれても」
わからないと言おうとした言葉は静かに飲み込んだ。わかるわけがない、わかりっこない。そのはずなのに、今選ぶ言葉じゃないと思ったから。
最適な返事は見つけられず、ぐるぐる回る思考に沈む。けれどもやけに頭は冴えている気がして、それが自分の事なのに他人事のようにすら思えた。
「……なんでだろうな」
曖昧に笑って、言葉を濁す。
ずっと、あれから考えていた。あの時どうして、オレが悠真を拒まなかったのか。結局答えは見つからなくて、代わりに残ったのは嫌じゃなかったという感情だけ。
けど、本当はわかっている気がした。
それと同時に、オレが言葉にできるほど強くないのもわかっていた。
こいつならと、こいつだからと思っているのは気のせいじゃない。それすら言葉にするのは難しくて、ふとオレの中に居座っている天邪鬼を恨む。オレもこいつみたいに、悠真みたいにまっすぐならどれだけ楽だったんだろうか。
こいつも、オレも。
つくづくバカだと思う。
こんな奴と一緒にいなくてもいいと思っていたはずなのに、隣にいるのは悪い気分じゃない。そんな事を考えていると、オレがなぜ黙っているか知る由もない悠真は不安そうにオレを見つめてくる。
「やはり、怒っているだろうか」
「なにブツブツ言いながら突っ立ってんだよ」
そんな悠真もなんだか面白かったけど、さすがにこれ以上いじめるのはやめてやる。怖がらせないように笑いながら立ち上がると、そんなオレの行動に悠真の肩がピクりと揺れる。いつものキャップを目深に被ると、そのまま適当に置いてあった鞄に手を伸ばす。
「す、直くん、その」
「行くぞ」
「……行く?」
噛み合わない会話に、少し顔をしかめていた。
「どこに」
「どこって、外に決まってんだろ」
からかうように笑って手招きをしてやる。
例えばそう、コンビニに誘うような感覚で言葉を選んだ。
「ほら、校外活動しに行くぞ。連れてってくれんだろ、美味いクレープ」
***
まだ部活の時間だからなのか、それほど客が並んでいるわけではない。それでも夕方と考えればじゅうぶん人のいるそこは、甘い香りで包まれている。
「悠真は、なににする?」
「俺はそうだな、ブラックコーヒーを」
「了解」
相変わらず甘いものが得意ではないらしい悠真はこれだけとして、オレはどうするか。
レジの横に置かれたメニュー表には、本当にクリームで作られているのかと疑ってしまうほど出来のいい動物の写真が載っている。
「ハリネズミと、アルパカ……」
アニマルクレープなんて名前だからどんなものかと思えば、本当に動物を模したクリームがクレープの上に鎮座している。ハリリくんのクレープと、アルちゃんのクレープ。よく見ればその後ろにあるテイクアウト用のショーケースにもハリネズミのようなものが見えて、多分だけどこれが悠真の言っていたものだろう。
「悠真は、ハリネズミとアルパカどっちがいいと思う?」
「俺が、選んでもいいのか?」
「オレが選ぶと決めらんねえから、興味ない奴に選んでもらった方がいいだろ」
なるほど、とオレの返事に言葉を落とした悠真は、なぜかメニュー表ではなくオレを見ている。
「俺は……そうだな、ハリネズミのハリリくんクレープがいいと思う」
「おい、今の間でなんでオレを見た」
ごまかすつもりがないらしい視線がオレを刺したから、つい声を低くした。
「いや、直くんみたいだなと思っただけだ」
なんとなく予想してた答えには、あえてそれ以上は触れなかった。
オレのクレープとセットのストロベリーソーダ、悠真のコーヒーを頼み会計を済ます。
「ほら、中行くぞ……ん?」
少し狭くなった入口で、数人の大学生らしき男とすれ違う。これならオレ一人できても問題なかったかもしれないと思ったが、誰かに会ったらと考えると無意識に帽子を深く被ってしまう。
「直くん、ここはどうだろうか」
他の客から少し離れた、観葉植物で目隠しにもなっている席。
人目を気にしなくていい席に腰をおろすと、そのままキャップを取る。
「女性向けと聞いていたが、思った以上にカジュアルな店内だな」
「そうだな……いや、ちょっと入る時は勇気いるけど」
スカイブルーを基調にした入口は、ファンシーと表現したほうがいいものだった。中のシンプルな木目調とは正反対で、かなり勇気がいるものだ。
「……楽しそうだな、直くん」
「は? なんだよ突然」
「いや、直くんが楽しそうで俺も楽しいと思っただけだ」
なんだそれ、わけわかんねえ。
目の前で微笑むそれすらつい見てしまって、なにも言う事ができない。
夕焼けの差し込む店内で、オレと悠真だけ切り離されたようで。それだけでオレの方が悠真を意識してしまって、言葉を詰まらせる。腹の中で居座っているこの感情は、こいつに向けているオレの感情はなんて名前なのだろう。
きっと、あの日からだ。
気にしていないふりをしたって、そんなはずはない。ずっとそこにいる感情の名前はわからないままで、なにかを叫んでいるようだ。唇を奪われた事を仔犬に噛まれたのだと言い聞かせたところであの時の暖かさを忘れる事はできず、それが厄介だと思えた。きっと、悠真が思っている以上にオレの頭の中はあの瞬間の事でいっぱいだから。
多分オレはこの先ずっと、あの時感じたキスの味を覚えている。
逃げ場のない熱に肩を落とすと、ブブ、と小さく呼出機が手の中で震えた。
「俺が取ってくる」
スリと手の中から小さい機械を抜き取られると、そのままオレを置いて受け取り口へ悠真が行く。
こうした行動一つ一つが、人に好かれるところなのだろうか。きっと気のある人間なら一発で落ちるだろうそれを眺めて、同時に今まで考えた事もなかったような内容に他でもないオレ自身が驚いた。無意識に、右手は唇をゆっくりなぞっていた。
「お待たせ……直くん?」
「うお!」
突然頭上から降ってきた悠真の声に、わざとらしいくらい肩を揺らす。手を引っ込めると運良く見られていなかったようで、不思議そうに首をかしげていた。
「な、なにか持つぞ」
「いや、大丈夫だ。直くんはそのままで構わない」
両手に持ったお盆の上にはクレープらしきものとドリンクのカップが二つ並んでいた。
「こっちが直くんのだな、ここに置くぞ」
「ありがとう、な……」
お礼の言葉は、途中で無意識に飲み込んでしまった。
目の前にあるそれに釘付けになり、手には取らず見つめ合う。
大きめのクレープの上で器用にオレを見ているそれは、間違いなくクリームで作られたハリネズミだった。たまごボーロの手と鼻、アーモンドの耳。そしてなにより、チョコで作られた目。
「……直くん? なにかあったのか?」
「……目が」
「目が?」
「目が、合っちまった」
チョコチップの目は、案外罪なものだ。
それが付くだけでつぶらに見えて、オレだけじゃなくきっと見た人間すべてを魅了してしまう。
「……ふふっ」
「おい悠真、今笑っただろ」
隠しきれていない悠真の笑顔になんだか強く言えず、むしろ笑われる自覚があったから反論の余地も用意されていない。
腹を括って、木製スプーンを手に取る。
呼吸を整えてしばらく眺め、そこでやっと手を動かした。
「……いただきます」
「直くん、顔から行かないのか?」
「うるさい」
顔はなんだか崩すのに後ろめたさがあって、後ろの方からクリームを掬う。思った以上に固くないそれに驚きつつ口へ運んで、ふと自然と頬が緩くなる。
「ん、美味い……!」
ここまで形を保ったものだからてっきりバタークリームかと思っていたそれは、正真正銘ホイップクリームらしい。チョコクリームで作られた針もホイップ同様そこまで重たくなく、むしろ軽くて甘すぎない。チョコチップの目とは合わさないようにもう一口とスプーンを突き刺すと、ホイップクリームにしては少し固いものに当たる。固いけど、少し弾力があるような。覗き込むと、餅だろうそれが見える。口に入れると冷たく、すぐその正体はわかった。
「うお、これ中に大福アイス入ってる」
「大福アイス……あぁ、あの餅でアイスを包んでいるものか」
「そうそれ、さすがにクリームだけじゃ形が保てねえのかも……冷たくて驚いた」
確かに、いくら軽いホイップクリームでも全部だったら飽きたかもしれない。仕込むように隠されたそれは表から見たら想像もできなくて、それが楽しいと思える。
「あぁ、これおもしれえ……やっぱり、スイーツは嘘つきだ」
見た目からは想像できない、口にして初めてわかる味。甘いもの酸っぱいもわからないそれが面白くて、また一口と食べ進めて行く。悲しいと思いつつハリリくんが半分消えた辺りでスプーンを使わず大きく口を開けると、口の中はクリームでいっぱいになる。
「直くん、またクリームが……」
指先が、そっとオレの頬を撫でていく。
それだけのはずなのに悠真は目を丸くして、じっとオレを見て顔を赤くしている。その行動の意味は嫌でもわかって、オレの方まで呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
「……す、すまない!」
「いや、そんな驚かなくてもいいだろ」
オレの方がびっくりするよ、その声量は。
咄嗟に引かれた手が少し面白くて、悠真には悪いけど笑ってしまう。それでも悠真にとってはこんな一挙手一投足ですら気にしているらしく、口の中でなにか言葉を転がしていた。
「……俺は、その」
「いいってもう、いちいち落ち込まれたらこっちもテンション下がる」
言語化するのは難しい感情はオレの中にだって確かに存在していて、だからこそこいつに強く言えないと思っていた。ただ、それだけの理由だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「オレは、もう気にしていない」
手に残っていたクレープを口の中へ押し込むと、飽きさせないためかベリーの酸味とチョコフレークのザクザク感が、口いっぱいに広がる。
そんなオレの言葉を、こいつはどう思ったのか。
驚いたように目を丸くすると、嬉しそうな苦しそうな、不思議な顔を貼り付けている。
「……それは」
「なんだよ、言いたい事があるなら言えって」
別に怒るつもりはないし、言われたところでこいつの言葉なら気にならないはずだ。
我ながらかなり不確かな確証に笑ってしまうと、悠真はゆっくり言葉を選び顔を上げる。まっすぐなアイスグレーの瞳に、オレを閉じ込めて揺れている。
「なぁ直くん……直くんは、俺をどこまで許してくれるんだ?」
投げられたそれは、一瞬なにを言っているのかわからなかった。許すって、なにを。そう言葉を投げる前に伸びてきたのは悠真の手で、そっとオレの頬を撫でていく。それだけでなにを言いたいのかはわかってしまい、あまりにも真剣だから振り払う事はできなかった。
「教えてほしいんだ、どこまで許してくれるのか」
「許すもなにも、それは……」
どこまで、なんだろうか。
一度言葉にして聞かれると、オレもよくわからない。ただ腹の底でこいつならいいか、と思っている自分自身がいるのもまた事実で、その答えを見つける事はできない。けど、一つ言えるなら。
「……別に、嫌じゃねえ」
それだけは、今のオレでもはっきりわかる。
頬を撫でた手に応えるようおそるおそるこちらからも頬を擦り付けると、少し控えめな咳払いをされた。まずい事でもしたかと思ったがそうではないらしく、悠真の瞳がまた静かに揺れる。
「直くん……そういった事は、俺以外にはやらないでほしい」
「元から相手がいねえって」
なにに対してなのかイマイチ察する事はできなかったが、悠真にとっては大切な事なのだろう。
オレの行動も、言葉も。
きっとこいつにとってはなにもかもが大切で、だからこそ傷つけられたくない。それはオレだって一緒だからこそ、取り繕うように笑い返してみせる。
「ほら、もうなんも気にしてねえ」
「……直くん」
ふと頬が一瞬緩んだが、すぐ表情を固くする。普段からなにを考えているかわからない時もあるが、今日はそれに輪をかけるように腹の底がわからない。触れていた手がゆっくりと離れて、オレの右手を両手で包み込まれる。
「それでも、ちゃんと謝らせてほしいんだ……勝手にあんな事をしたのは、紛れもない事実で許されない行為だと思っている。本当にすまなかった」
「だから、その話は」
「けど……やはり俺は諦めきれないと思った」
「っ……」
なにがとは、どうしてだか聞く事ができない。
「直くんにとって、同性をそういった対象としていないのはなんとなくわかっていた。そもそも、直くんがそういったのに興味がないって事も。そしてそれは、俺だって同じのはずだった……けど、直くんじゃなきゃだめだと思ったんだ」
オレの手を包み込む力が、少しだけ強くなる。
「あの時、俺は直くんに釘付けになったんだ。好きなものを大切に食べて、幸せそうに微笑む直くんに。噂に聞いていたのとは違う、優しい表情の直くんに」
きっと、あの時。
出会った時の事をこいつは言っている。手に取るように、懐かしむように大切に言葉を選んでいる。
「俺はおそらくだが、たまらなく直くんがほしいんだ……直くんには笑顔であってほしいとあの瞬間、初めて会った時に思えたんだ」
オレも、これだけの言葉を投げられて気づかないような鈍感ではない。嫌でもわかってしまうそれはオレだけのもので、真剣な悠真から視線を外す事ができなかった。
「直くん、改めて言わせてほしい――俺は、直くんに俺だけを見てほしいんだ」
ないものねだりのようで、それでもオレだけを見ていて。やけにうるさい心臓の音が、店内に響いてるように錯覚すらしてしまう。
「……けど、オレ。わかんねえよ」
好きとか嫌いとか、愛とか惚れたとか。
そんな感情と無縁だったからこそ、同じ男だからこそ尚の事オレにはよくわからない。
「あぁ、わからなくて構わない」
小さく、優しく首を横に振る。
「今返事は要らない……俺が、その気になってもらえるよう頑張るから」
あまりにも熱烈でまっすぐな言葉は、オレを掴んで離そうとしない。それを言われてしまえば否定なんてできるはずもなく、釣られるように首を縦に動かす。
オレとこいつだけが、世界でふたりぼっちにされたように静かだ。静かで、やけに呼吸だって浅くなる。
今はただ、この心臓の音が届かないよう願う事しかできなかった。