金曜日の帰り道、海斗が言った。
「岳斗、明日うちに来れるか?」
「うん。」
「実はさ、俺は試合だからいないんだけど、父さんと母さんがお前に会いたがってるから。」
岳斗は流石にがっかりした。海斗に会えると思ったのに。だが、家の中では二人きりにさせてもらえないだろう。そのために家を出たのだから。
「それでさ、日曜日にはデートしようぜ。」
と、海斗が言った。
「うん!」
岳斗は素直に嬉しかった。デートだなんて、考えた事もなかった。なるほど、別々に暮らすと、より恋人らしくなれるみたいだ、と岳斗は思った。
土曜日、岳斗は城崎家に戻った。ついチャイムも鳴らさずに玄関を開け、
「ただいまー。」
と言って入って行った岳斗。靴を脱ぎかけて、そうだ、自分の家ではないのだから、これはまずかったのでは、と思ったが、
「岳斗!お帰りなさい!」
と、洋子が走り出てきて、靴を脱いで上がったばかりの岳斗を抱きしめたので、そんな事はどうでもいい事だと知った。隆二も迎えに出てきてくれて、それから三人で食卓を囲んだ。色々あったが、元々土曜日の昼はこの三人でいつも食事をしていたので、以前と同じ、和やかな時が流れた。
岳斗がそろそろ帰ろうとすると、洋子が常備菜や漬物などをたくさん持たせてくれた。
「風邪引かないようにね。家は寒くない?」
洋子が心配そうに言った。確かにアパートは寒い。この家は暖かいし、すごく居心地が良かった。そう考えたら、岳斗は思わず泣きそうになった。だがダメだ、母さんにこれ以上心配をかけては、と自分を律した岳斗。もう子供ではないし、こうなったのは自分のせいなのだ。
「大丈夫だよ。母さんこそ、体壊さないようにね。俺が手伝ってあげられなくて、今までより忙しいんじゃないの?」
「そうなのよー。海斗の世話が大変。あの子ユニフォームを洗濯に出さないし、制服を掛けずにその辺に置きっ放しにするし。」
ああ、そうだった。俺がいないと海斗はダメなんだ、と岳斗は思い出した。いつもかっこいい海斗でいる為には、岳斗がいないとダメなのだ。岳斗はまた海斗に会いたくてたまらなくなった。あと数時間ここにいれば、海斗は帰って来るだろう。だが、家に帰って夕飯を作らなければならない。それに、明日はデートだから。我慢だ、と岳斗は自分に言い聞かせた。
「それじゃ、また来るね。あ、母さん、いつもお弁当ありがとう。」
岳斗がそう言って笑うと、洋子は少し目を赤くして、うんうんと頷いた。岳斗は心の中で洋子に(本当にごめん)と謝った。そして、後ろ髪を引かれる思いで城崎家を後にした。
翌朝、坂上はまだ寝ていたが、岳斗は身支度を整えて家を出た。電車に乗って、待ち合わせをしている映画館へ。海斗はちゃんと起きられただろうか。来なかったらどうしよう、などと胸の中は穏やかではない。
映画館に到着し、ぐるりと見渡すと、ひと際目立つ人、その人を遠巻きに見る人々が岳斗の目に飛び込んできた。背が高くスラッとして、日焼けしたゴージャスな顔を持ち、ロビーの真ん中の柱に寄りかかってスマホを見ているその目立つ人は、顔を上げて辺りを見渡し、岳斗に目を留めた。そして、スマホをポケットにしまい、岳斗の方へ歩いて来た。
「岳斗、おはよう。」
「海斗、早かったね。起きられないんじゃないかって心配してたのに。」
岳斗がそう言うと、海斗はちょっと拗ねたような顔をした。
「お前とのデートなのに、寝坊なんかしていられるかよ。」
岳斗の耳元に口を寄せて、そう言った。
予約していたチケットを発券し、ゲートの前に並んだ。
「二人で映画見るの、ずいぶん久しぶりだな。」
海斗が言った。
「うん。昔は良く一緒に見たよね。」
「ポケモン映画とか、戦隊ヒーローものとかな。」
母さんに連れられて、と話は弾む。懐かしさが溢れる。あの頃も、岳斗は海斗が好きだった。海斗と一緒にいたかった。岳斗は、実は自分はずっと変わってないのかもしれないと思った。
入場時間になり、指定席を探して座った。海斗が予約した席は、一番後ろの端っこだった。混んでいるわけではなく、周りの席はほとんどが空きのようだった。
「この席が良かったの?割と真ん中も空いてるみたいだけど?」
岳斗が言うと、海斗は岳斗の耳に手を当てて、内緒話のようにして言った。
「ここなら、上映中何をしていても見られないだろ?」
「え?」
「だってさ、学校や家では二人きりになれないし、外では人目につくし、まさかラブホに行くわけにもいかないしさ。俺たちがいちゃつける場所ってないじゃん。」
岳斗の顔はカーッと熱くなった。
「だろ?」
海斗が岳斗を見つめる。
「う、うん。」
そのうち電気が消え、スクリーンに映像が流れ始めた。それを待ち構えていたかのように、海斗は岳斗の肩に手を回し、振り返った岳斗にキスをした。岳斗は、なんだか泣きそうになった。こんなにも求められているという実感、それが心を揺さぶる。
キスの後、二人は手を握り合い、肩を寄せ合い、頭を寄せ合って、映画を観ていた。映画が終わり、エンディングロールが流れていても、まだそのまま座っていた。そして、電気が点いた。まだ残っていた客もいて、皆ゾロゾロと出口へ向かう。自分たちも行かなくてはと、岳斗と海斗は握り合った手をやっとの思いで放した。男女のカップルが、手を繋いで歩いているのが見えた。それが羨ましい、と岳斗は思った。そうしたら、海斗が岳斗の手を取った。
「海斗、それは、ちょっと。」
岳斗が言うと、
「やっぱダメ?」
そう言って、手を放した。
「不自由だなあ、俺たち。」
海斗が言った。
それからファーストフード店で食事をし、どうしようかと話して、カラオケに行くことにした。カラオケ店に入って個室に案内され、座るや否や、
「あ、ここって、二人きりになれる場所じゃん!」
と、海斗が言う。
「でも、外から覗けるから。」
岳斗がドアを指さす。ガラス窓がある。けっこう人が頻繁に通る。それでも、ジーッと見ている人はいないし、ちょっとくらいなら……。魔が差す。
いやいや、人生邪魔が入る事ばかりだ。抱き合った途端、ドアにノックの音がしてびっくりする二人。店員が飲み物を持って入って来た。歌を歌い、手を繋ごうとすると、人が通ってジロリと中を見て行く。海斗がラブソングを歌ったので、何となく気分が盛り上がり、キスをしようとしたら、部屋の電話が鳴る。
「あと十分で終了時間となりますが、どうされますかー?」
「出ます。」
カラオケボックスは、イチャイチャする場所ではない。今日はそれが良く分かった岳斗と海斗であった。
夕方になった。海斗はいつも、日曜日は宿題やら何やらで忙しい日なのだ。これ以上一緒にいたら、海斗が後で困るに違いない、と岳斗は思った。今は昼休みも勉強できないのだ。させないとも言えるが。
「じゃあ、ここで。」
岳斗がそう言って、駅のホームで別れようとすると、
「家まで送るよ。」
と、海斗が言う。
「でもお前、忙しいだろ?いいよ。」
岳斗が遠慮すると、海斗は一瞬黙ったが、岳斗の乗る電車が来てドアが開くと、岳斗よりも先に乗り込んだ。
「海斗。」
「送る。」
頑固にそう言う。それなら岳斗の方が送れば良かったのかもしれない。けれども、あの家の前まで行ったら、その後今の家に帰るのがつら過ぎる気がして、岳斗はそう言い出せなかったのだ。また明日会えるのに、どうしてこういつまでも離れがたいのだろう、と岳斗は思った。自分も、海斗も。
岳斗の家の前に着くと、海斗は意外にもあっさりと帰った。人目があるからだろうか。それとも、これ以上一緒にいたらキリがないと思ったのか。岳斗は海斗の背中が見えなくなるまで見送った。少しだけ、涙が出そうになる。深呼吸してからくるりと向き直り、アパートの階段を上がった。
正月も、坂上は仕事だった。なので、岳斗は例年通り、城崎の家族と共に初詣に行き、親戚の家を回った。隆二の運転する車に乗り、後部座席に海斗と岳斗が二人で乗る。バックミラー越しに見られている気がして、あまりくっついて座るのは気が引けた。
こうしていると、岳斗には一年前と何も変わらないように思えた。親戚には岳斗が引っ越した事も、海斗との関係が変わった事も、もちろん話していない。いつも通り新年の挨拶をして、お年玉をもらった。親戚の家を回った後、車に乗っていると海斗が眠った。海斗はだいたいいつも無理をしているので、車に乗るとすぐに眠ってしまう。今日はここまで眠らなかったのが珍しいくらいだった。
海斗ははじめ、シートに上向きに寝ていたが、車が揺れて岳斗の肩に頭が乗った。バックミラーから見られる、と岳斗は思ったが、出来ればこのままにしておきたいと、とっさに岳斗も眠ったフリをした。海斗の方に頭を寄りかからせる。目を閉じていると、眠っているのか眠っていないのか、自分でも分からないような不思議な感覚に陥った。
「寝ちゃったわね。」
洋子が話しているのが、岳斗にも何となく聞こえた。
「出来ればずっと、こうしていたかったのになあ。」
隆二が言う。更に、
「何を間違ってしまったんだろうな。」
とも言った。
「間違えたわけではないわ。うちで引き取る前から、あの二人は魅かれ合っていたもの。もし岳斗を引き取らなかったとしても、いずれこうなる運命だったのよ。」
洋子が言った。
運命……。母親同士が親友だった事、その母親同士が出会ったのも、運命のなせる業なのか。岳斗が目を閉じて考えていると、海斗の手がダランと落ちてきて、岳斗の手に当たった。そうしたら、そのまま岳斗の手を握るではないか。こいつ起きてるな、と岳斗は思った。だが、岳斗もそのまま眠っているフリを続けた。
岳斗は家の前まで送ってもらい、三人に別れを告げた。アパートの灯りが点いていた。岳斗はお土産におせち料理をもらって、家の中に入った。殺風景な部屋。小さいテレビを見ながら、坂上が酒を飲んでいた。おせち料理をちゃぶ台に乗せると、
「お、有難い。」
と言って、坂上が手づかみで一つつまんで口に入れる。
泣くな、と自分を鼓舞しつつ、岳斗は端っこの壁に寄りかかって、スマホを眺めた。
四月。新学年を迎え、海斗は三年生、岳斗は二年生になった。無事、変わらぬ毎日を過ごしてきた岳斗。最近は、土曜日には海斗の試合の応援をしに行き、日曜日には岳斗が城崎家へ赴く事が多くなった。たまには外でデートもするが、海斗がゆっくりしたいだろうからと、岳斗が早めに行って、両親との時間を過ごし、海斗が起きてきたら四人でご飯を食べ、二~三時間海斗の部屋で二人で過ごすという感じだった。両親も、そのくらいなら二人きりの時間を許してくれた。
ただ、一つ気がかりな事が岳斗にはあった。坂上の事だ。最近、家で酒を飲む事が多くなって来ていた。岳斗と一緒に住み始めた頃は、時々ビールを一缶飲む程度だったのが、正月辺りから日本酒の一升瓶を買ってくるようになり、それを飲んでだいぶ酔っぱらっていた。飲むのはいいが、酔ってふらついて物を壊したり、何かわけの分からない事を岳斗に向かって怒鳴ったりするのが嫌だった。岳斗はいつも無視している。関わらないようにするのが精一杯だった。
ある日、学校で弁当を食べていると、
「相談があるんだ。」
と、海斗が言った。
「何?」
岳斗が応える。
「大学の進路希望を出すんだけどさ。俺、工学部にしようと思うんだ。」
「ここの系列大学の工学部って、北海道にキャンパスがあるんだよね?他大学を受けるのか?」
「いや、系列大学の工学部だよ。北海道の。それでさ、お前も工学部に来れば、俺たち向こうで一緒に住めるじゃん。」
海斗はどうだ、いい考えだろうと言わんばかりの得意顔だった。
「お前、理系だよな?工学部がいいと思わないか?」
海斗が言った。岳斗も、多少は進路の事を考えていた。工学部に興味があったが、北海道に行くのは無理だと思い、それなら他大学を受ける事になるが、難しいだろうと思っていた。理学部ならば神奈川県にキャンパスがあるから、そっちにしようかな、などと考えていた。
「今のままだと、いつまでも一緒に暮らせないだろ?うちの両親が許してくれたとしても、お前が親父の元を離れてうちに来るタイミングが難しいと思うんだよ。でも、北海道のキャンパスに通うなら、向こうで下宿するわけで、そうしたら兄弟一緒に暮らすのは当たり前だろ?」
そんな時だけ兄弟だなどと、虫が良すぎるような気もするが、それで確かに筋が通るというか、スムーズに事が運ぶに違いない、と岳斗は思った。他大学を受ける事は、リスクも大きい。受験なしで行ける系列大学の工学部に行く、それは説得力がある。
だが岳斗は、なんだかモヤモヤする。胸の中でアラーム音が鳴りやまない。何かすごく困る事がある。それは何だろう、と考えた岳斗。そして答えが出た。それは、岳斗と海斗は学年が一つ違うという事だ。つまり、海斗が一年先に北海道へ行ってしまう。一年間、離れて暮らす事になるのだ。そんなのつら過ぎる、と思ったのだ。
「海斗は平気なのか?」
「何が?」
「一年も離れていて。」
「平気だよ。いや四年だろ?親元を離れるのも悪くないじゃん?」
「いや、親じゃなくて、俺と。」
海斗は急に言葉を失い、岳斗の顔を凝視した。
「え?まさか、俺とお前、同時に行くと思ってた?」
岳斗は思わず声を大きくした。
「わ、すれてた。お前、年下だっけ。」
海斗は表情を無くしてそう言った。
「バカなの?」
岳斗は思わず言ってしまった。
「お前が、そういう口の利き方するから!」
海斗はそう言うと、あーと言っておでこに手を当て、天を仰いだ。
「俺ダメ、一年も我慢できない。」
海斗がそう言うのを聞いて、岳斗は少し冷静になった。先ほどまで、海斗があまりに平気そうだったものだから、つい怒ってしまったのだが。
「父さんと母さんには相談したのか?」
岳斗が聞くと、
「うん。父さんは俺に工学部に入って欲しいみたいで、北海道に行ってこいって言ってた。父さんも工学部出身だし、将来性があるからとか。母さんも概ね賛成みたいだったよ。」
海斗はおでこに手を当てたまま、そう答えた。
「それなら、北海道に行けよ。俺も来年行くから。」
海斗が岳斗の顔を見た。
「でも、心配だなあ。俺がいない間。」
いかにも心配そうな顔をして海斗が言う。心配なのはこっちだよ、と岳斗は思った。東京にいてもこれだけ目立っているのに、地方へ行ったらどんな事になるのやら。それこそ毎日電話しないと……と思ったが、考えてみたら、電話しても出なかったり、出たのが女だったり、男だったり、何が起こっても心配でいても立ってもいられないのではないか。今さっき言った事を既に後悔し始めた岳斗だった。
「考えてみるよ。」
海斗はそう言った。
海斗はまたギターの練習に忙しくなり、部活の引退試合も近づいて来て、体力的にきつい毎日が始まった。学校からの帰りと、弁当の時間以外は、ほとんど岳斗と一緒に過ごす時間がなくなった。日曜日に邪魔をしない事と、部活の試合の後も時間を取らせない事。岳斗は寂しさを我慢して、海斗の体力温存に努めた。
一方、坂上の家の方でも変化があった。坂上が家にいる時間が減ってきた。それは岳斗にとって良い事なのだが、酔っぱらって夜遅くに帰って来る事が多くなった。ほぼ毎日になったと言ってもよい。ちゃんと働いているのかさえ疑わしい。そして、岳斗は食費を下ろそうと銀行へ行き、愕然とした。かなり残高が減っていたのだ。
「な、なんだこれ。」
坂上の預金口座である。岳斗は月に一度食費を下しに行くだけだ。坂上の給料もそこに振り込まれているわけで、坂上が金を下ろして使うのは当然だ。だが、城崎の両親が振り込んでくれる分まで使われては、光熱費も払えなくなる。
「食費を下ろしたら、もう残高ほぼゼロじゃん。電気とか止まるのか?どうしよう。」
岳斗は怖くなった。だが、城崎の両親に相談したら、もっと金をくれるだろう。そんなのは申し訳ないと思った。それでは、岳斗の為にではなく坂上の為に金を出してもらうようなものだ。
岳斗は意を決して、意見する事にした。
「坂上さん、今日銀行に行ったら、お金がほとんどなかったんですけど。」
岳斗が坂上に話しかけると、多少酔っている風でゴロンと横になっていた坂上は、岳斗を見上げた。
「あん?なかった?なかったら城崎さんの所でもらえばいいだろう。」
岳斗はカッとなった。だが、カッとなって何かしでかしたらこの人と同じだと思った。だから、黙った。
「俺だって働いてんだよ。」
坂上が捨て台詞のように言って、そっぽを向いた。
次に城崎の両親から金が振り込まれた時に、無事に光熱費が支払えたが、食費が足りなくなった。岳斗は仕方なく、かなり切り詰めた。昼に洋子の弁当があるからと、他は野菜をかじるだけとか、飲み物だけで済ませる時もあった。時々我慢しかねて、城崎家にご飯を食べに行こうかとも考えたが、変な行動をすると心配をかけると思い、やめた。正月にもらったお年玉も、とうに使い果たした。
やっと金が振り込まれる日が来て、岳斗が学校から帰ってすぐに銀行に行ったら、なんと既にほとんど引き出されていた。岳斗は目の前が真っ暗になった。食費がない。もう、耐えられない。
坂上が帰って来たので、岳斗はとうとう怒りを抑え切れず、
「お金、返してください。」
といきなり言った。
「何の事だ?」
坂上はとぼける。
「今日、下ろしたでしょ。今月分の食費ですから。」
岳斗が言うと、坂上はカッと目を見開いた。
「なんだ、その態度は!お前、自分が働いたわけでもねえのに、偉そうに返せだ?働いてから言ってみろ!」
坂上はそう言って、ぷいっとまた出て行こうとした。
「ちょっと、金、返して!」
生死がかかっているように思えて、岳斗は坂上の腕を両手でつかんだ。あの金を使われてしまったら、自分は餓死すると思った。
「放せ、こら!」
坂上はそう言うと、岳斗の腕を振り払い、体を押した。岳斗は床に倒された。すると、坂上は足で岳斗の腹を蹴った。何度も、何度も。
岳斗がしばらく体を丸めて我慢していると、坂上は出て行った。岳斗はどうしようもなく絶望した。思考回路が正常に働かない。だから、いつもは気を使って我慢しているのに、今日はためらいもなく海斗に電話をかけた。床に転がったまま。
「もしもし?どうした、珍しいじゃん、電話くれるなんて。」
海斗の嬉しそうな声が聞こえた。
「海斗、俺、腹減った。」
「岳斗?どうした?飯食ってないのか?」
のん気な海斗の声に、涙が溢れた。
「飯、買えないんだ。金がもうない。」
岳斗が涙声で言うと、海斗は一瞬黙った。
「岳斗?どうしたんだ?何があったんだよ!」
海斗が言ったが、岳斗は何を言えばいいのか分からず、ただ電話を握り締めていた。
「今行く!」
電話が切れた。そして、驚くほど早く、海斗が来た。玄関のカギは閉めていなかったので、海斗はいきなりドアを開けた。
「岳斗?お前、どうしたんだよ?どこか痛いのか?とにかく、うちに来い。今父さんに車で連れてきてもらったから、車に乗れよ。」
岳斗は海斗に抱き起こされ、車に乗せられ、城崎家へ連れていかれた。家に入ると洋子が飛び出して来た。
「岳斗!あら、こんなに痩せて……。海斗、どうして気づかないのよ!」
洋子も無茶を言う。毎日見ていたら気づかないものだ。
岳斗は、これまでの事情を話した。話さざるを得なくなった。この一、二カ月の間ほとんど食事をしていない事、坂上が金を使い込んでいる事、坂上に乱暴された事。
「どうしてもっと早く言わないの。」
洋子は涙を流しながら、岳斗の事を抱きしめて、背中を何度も撫でた。
「ああ、そうだ。今何か作るわね。ラーメンでいい?」
洋子がそう言って台所へ立って行った。岳斗はまた涙を流した。この家に住んでいた時なら、インスタントラーメンなんて、粗末な食事くらいに思っていたのが、今では何と豪華な御馳走に思える事か。すぐにできるインスタントラーメンには、卵やほうれん草が入っていて、湯気がもうもうと立ち込めていた。
「いただきます。」
岳斗は深々とお辞儀をしてそう言った。美味しいなんてものではない。弁当もいつも美味しいが、出来立ての温かい料理はまた格別だった。
「もう、あのアパートへ返すわけには行かないな。」
隆二が言った。
「そうね。私、とにかくあの人に電話しておくわ。」
洋子も言った。
「でも、ここに住むわけには……。」
岳斗が言うと、
「とにかく、今日はここで寝なさい。明日は土曜日だし、明日話しましょう。」
洋子がそう言ってくれたので、岳斗は体の力がどっと抜けた。気を失うようにして、かつての自分のベッドで眠ったのだった。
翌朝岳斗が目を覚ますと、海斗はもう部活に出かけた後だった。両親は家にいた。リビングへ降りて行くと、二人で話しているのが聞こえた。
「まだ高校生なのに、あんなに苦労しなくたって。」
「まったくだ。岳斗には何の罪もないのに。」
二人は深刻そうに話し、ため息をついていた。
「おはよう。」
岳斗が声を掛けて入って行くと、二人はパッと顔を明るくした。
「おはよう。よく眠れた?」
洋子が言った。
「うん。ごめんなさい、迷惑かけて。」
岳斗がそう言うと、
「何言ってんの。岳斗のせいじゃないでしょ。」
と、洋子が言った。
「岳斗、海斗が工学部に行く話は聞いてるか?」
隆二が言った。
「うん。決めたの?」
「いや、まだ決めかねているようだったが、これを機に決めてもらおうと思う。海斗は北海道へ行く。岳斗はここに住む。万事上手く行くだろ?」
と、隆二が言った。なるほど、と頷きかけた岳斗。だが、それでいいのだろうか。
「海斗が北海道へ行くまでの間は、父さんと一緒に近くのウイークリーマンションで寝よう。」
隆二がそう言った。
「今日これから、坂上さんの所へ行って話を付けてくる。お前の荷物も持って帰って来るから、お前は行かなくていい。あの人には、お前に会えなくて気の毒だが、自業自得だろう。飢えさせた挙句に暴力をふるうなんて。」
「そうよ。自業自得よ。ストーカーされない為にも、あなたはお父さんと一緒にいて、四月にはここに戻ってくる。それがいいわ。」
岳斗は、自分は何て恵まれているのだ、と思った。本来ならあの、どうしようもない親と一緒にいるか、独りで路頭に迷うしかないものを。
「ありがとう、本当に、ありがとう。」
岳斗はまた目に涙を溜めて、深々と頭を下げた。
それから岳斗は、城崎家から歩いて五分ほどの所にあるウイークリーマンションに寝泊まりするようになった。寝室扱いなので、朝起きたらそのまま城崎家へ行き、朝食を済ませ、制服に着替えて学校へ行く。学校から城崎家へ戻り、ご飯を食べ、風呂に入ってからウイークリーマンションに戻る。それを、隆二といつでも共に行動した。なので、海斗とゆっくりしている暇はなかった。ただ、家まで一緒に帰れるのと、ご飯を一緒に食べられるのが救いだった。
弁当は、また家から岳斗が自分で持っていく事になったのだが、今まで通り海斗と一緒に食べる事にした。もう周りの皆がそれを期待しており、海斗のファンは昼休みにはそこへ行って、遠くから海斗を眺めるのが日課になっているのだ。と、岳斗は予想していた。
「君たちさあ、そのブラコンはそろそろやめた方がいいんじゃないか?」
ある日、白石が昼休みに岳斗と海斗の所へやってきた。もう、生徒会長ではなくなっている。
「ブラコン?俺たちが?」
海斗はそう言って、肩をすくめた。
「おかしいだろう、兄弟で毎日、学校でも一緒にいるなんて。」
白石が言う。
「今更何言ってんだよ。俺たちがどれほど仲がいいか、校内のみーんなが知ってるぞ。」
海斗はもう、以前のように白石に対して敵対心を抱いてはいない。
「それにさ、俺もうすぐ北海道に行っちゃうからさ。岳斗と毎日会えるのも、後少しだし。」
海斗はそう言って、岳斗の肩に腕を回した。更に頭と頭をスリスリさせる。岳斗はびっくりして目をパチクリさせた。人前でこんな事をして、と。
「後少しなのは、お前だけじゃないだろ!」
白石がいきなり怒鳴ったので、岳斗と海斗はキョトンとして白石の顔を見た。白石は二人を、いや、ほぼ岳斗の方をじっと見て、黙ってしまった。
「白石、悪いけど、岳斗の事は諦めて。お前にはやらん。」
海斗はそう言って、岳斗の頭を撫でた。なんだか、変な兄弟って感じになっているぞ、と岳斗は思い、恥ずかしくなって、自分の肩に回された海斗の腕を取り払った。海斗はそれを、眉根を寄せて見た。なぜ外すのだ、とでも言いたげに。
「岳斗くん、君は……もう売却済みなのか?これに。」
白石はそう言って、海斗を指さした。
「え?」
売却済み。何という言葉を使うのだ、と岳斗は驚きつつ、これはどう答えたら良いものか、と思案した。海斗は岳斗の顔をじっと見守っている。
「はあ、まあ。」
岳斗は曖昧に答えたつもりだったが、白石は驚いたように目を見開いた。
「そうか。」
白石は目を閉じ、一つため息をついた。そして、
「じゃあな。」
そう言うと、髪をなびかせてくるりと体を反転させ、去って行った。かっこいい、と岳斗は感心してしまった。
「よしよし、よく言ったな。」
海斗がまた岳斗の頭を撫でた。
(言っちゃったのか、俺?)
岳斗は今更ながら赤面した。
海斗は部活を引退した。夏休みの家族旅行は、北海道になった。海斗の住む場所の下見を兼ねていた。今年は旅行中、海斗と岳斗の二人部屋にはしてもらえず、トリプルとシングルの部屋だった。つまり、洋子が一人でシングルの部屋に泊まり、隆二と海斗と岳斗は三人でトリプルに。警戒されていると思うと恥ずかしいやら悲しいやらの二人だが、隆二は酒を飲んで早く眠ってしまい、いびきをかいているので、岳斗と海斗はそれなりに二人きりの時間を満喫できた。いびきを聞きながらではあるが。
二学期に入り、今年も文化祭がやってきた。海斗のバンドの演奏は、それは盛況で、去年よりも出番を増やしたけれど、希望者が入りきれない状況だった。そしてまた、新たに一年生のファンをどっと増やす事となったのである。
そして、いよいよ海斗の工学部進学が決定し、本格的に引っ越しの準備が始まった。岳斗は、考えると不安で胸が苦しくて仕方がなかった。だが、とにかくできるだけ長く、海斗との時間を作ろうと思った。一緒に居られる時間は、なるべく楽しく過ごそうと。
ちなみに、坂上は何度か城崎家を訪ねて来た。岳斗の事よりも、金の無心に来たと言った方がいいかもしれない。それで、警察を呼んで注意してもらったら、それからは来なくなった。
海斗の卒業式があり、いよいよ引っ越しの日がやってきた。
「ちょくちょく電話するから。」
空港まで見送りに行った岳斗に、海斗がそう言った。岳斗は泣かないように頑張った。海斗の方が色々と不安に違いない、と思って。海斗が搭乗口に消えていくのを見送った後、岳斗が両親と一緒に帰ろうとすると、少し離れた所に前園を見つけた。こっそり見送りに来たのだろうか。ふと気づけば、反対側に大勢の女子高生がいる。皆肩を抱き合って、涙を流していた。海斗のファンたちなのだろうか。海斗にはもう恋人がいるのに、と岳斗は思った。もちろん自分の事である。その事実は限られた人しか知らないから、いつまでも海斗はフリーだと思われて、ファンが絶えないのだろう。大学生になった海斗は、周りにどう言うのだろうか。恋人がいると言うのだろうか。それとも、いないと言うのだろうか。
岳斗は高校三年生になった。もう学校に海斗はいない。弁当は級友たちと食べている。スーパースターがいなくなり、学校が静かになったように感じる岳斗である。だがしかし、あの笠原が、サッカー部のエースだとかで、意外に後輩女子に人気があるのには驚きを隠せない岳斗だった。放課後になるとフェンスに張り付いてキャピキャピしている女子が何人かいるのだ。
「俺、けっこうモテるんだぜ。海斗さんほどじゃねーけどよ。」
笠原が言う。
「へーえ。」
岳斗が大したリアクションもしないでいると、笠原が岳斗の顔を見て、
「お前も、割と人気があるらしいぞ。」
と言った。
「は?」
初耳だった。地味な山岳部員にファンがいるとは到底思えない岳斗である。
「去年、海斗さんと一緒に昼休みに注目を浴びていただろ?あれは、海斗さんのファンだけじゃなくて、岳斗のファンもいたんだって。」
おこぼれか。神様の弟は神聖なる存在、みたいな?と思った岳斗である。
岳斗のウイークリーマンション住まいは解消し、かつての自分の部屋に寝るようになっている。洋子は、海斗がいなくなってからというもの、前よりも岳斗にかまうようになり、岳斗は寂しくはない。何しろあのアパートの地獄に比べたら、快適この上ない。だが……海斗の部屋の前を通る度に、ため息がこぼれるのだった。こんなに長く海斗と離れた事はなかった岳斗。洋子も同じで、二人で慰め合っている感じだった。わざと二人で明るく振舞ったりしている。だが、岳斗も洋子も、寂しくて仕方がないのだ。
洋子には申し訳ないと思っているのだが、岳斗はほぼ毎日電話で海斗と話していた。夜になると海斗から電話がかかってきて、それほど長電話でもないが、声を聞いて「お休み」を言うのが日課になっていた。あまり電話し合う事のなかった岳斗と海斗なので、電話で話すのは新鮮だった。電話だと、声が耳元で聞こえて、すごく近くにいる感じがする、と岳斗は思った。会えないのはつらいが、毎晩の楽しみがあるので、我慢もできた。
ところが、しばらくすると海斗からの電話は毎日ではなくなっていった。
「俺さ、バイト始めたんだ。イタリアンのお店なんだけど、夜まで仕事だから、電話は今までみたいに毎晩は出来ないかも。」
ある日海斗が言った。仕送りはあっても足りないだろうし、バイトが必須なのは分かる。だが、こう言われると不安にさいなまれる岳斗。毎晩の電話がなくなったら、何を楽しみに毎日を過ごせばいいのか、と岳斗は思う。あの、飢えに耐えていた時でさえ、毎日海斗に会えるから我慢ができたのだ。会えず、電話もできなくなったら、たとえ衣食住が満たされていても、生きている甲斐がない。
そして本当に、電話が来なくなった。バイト中かもしれないと思い、岳斗の方からかけるわけにもいかず、昼間は岳斗が学校に行っている。週末なら大丈夫かと思い、岳斗は土曜日の夜、海斗に電話をかけてみた。
「はい。もしもし?」
岳斗はびっくりした。女の子が出たのだ。岳斗は思わず電話を切ってしまった。なぜ、海斗の電話に女の子が出るのか。まさか、海斗の家に女の子がいるという事なのか。岳斗は考えた。海斗はあれだけモテるのだ。自分が近くにいないなら、彼女や彼氏の一人や二人、作ってもおかしくないのではいか。そうでなければやっていられないのではないか。知り合いもほとんどいないし、寂しくて、誰かに一緒に寝て欲しいとか……。そこまで考えて、
「オー、ノー!」
と叫ばずにはいられなかった。
岳斗は頭を抱えながら、考え過ぎかもしれない、と何度も考えた。だが、海斗から折り返しの電話が来ない。LINEしてみようかとも思ったが、何か用があるわけでもなく、何と書けばいいのか分からず、断念した。
岳斗は夜中、眠れずに過ごした。海斗が引っ越してから一カ月以上が経った。夏休みまで会えないのか……それまで何回電話が来るだろうか……と考えた。もしかしたら、他に好きな人が出来て、岳斗の事などどうでもよくなったのかもしれない、と思った。きっと、バイト先でいい人を見つけてしまったに違いない、とも。朝になり、あまりにも気分が落ち込んで、ぐるぐると悪い事ばかり考えてしまった岳斗は、
「海斗のバカ」
とLINEに打った。そろそろテスト勉強を始めなければならないので、岳斗はなるべく海斗の事は考えないようにして、勉強に励んだ。
テストが終わった金曜日。クラス中が浮かれまくっている。
海斗からは、あれから電話もLINEも来なかった。テストの為にと煩悩を封じ込めていた岳斗だが、テスト勉強から解放されて晴れ晴れとした顔をした級友たちが、遊びに行く計画を話したりしているのを聞くにつけ、無性に悲しくなってきた。自分は、まさか失恋したのだろうか。こんな風にあっさりと。だが、二人は戸籍上兄弟だ。海斗は夏休みには家に帰って来るのだ。その時、あいつはどんな顔をして帰って来るのだろろうか、と岳斗は考えた。
怒りとか、悲しみとか、いろんな負の感情が湧き出して来て、気を許したら涙がこぼれそうになる。岳斗は部活のトレーニングに精を出して汗を流し、帰宅してすぐに風呂に入った。風呂の中で泣いた。顔をぐちゃぐちゃにして、泣いた。
少々瞼が腫れぼったいが、何食わぬ顔で夕飯を食べ、岳斗が部屋へ戻ろうと階段を上りかけると、玄関のドアがガラッと開いた。隆二にしては早い、と岳斗が思って見やると、
「ただいま!」
何と、そこに海斗が立っていた。そして、靴を脱ぐのももどかしい様子で、海斗は急いで上がってきて、岳斗を思いっきり抱きしめた。
「岳斗!」
岳斗はびっくりし過ぎて、声も出なかった。びっくりしたからなのか、胸がドキドキしている。すると、
「誰か来たの?あら?海斗?なに、あんたどうしたの?」
洋子が現れて、素っ頓狂な声を出した。洋子とて、当然驚くだろう。
「ただいま。いや、ちょっと帰って来ただけだから。また明日には北海道に戻るよ。」
と、海斗は洋子に行った。岳斗を抱きしめたまま。
洋子は喜んで、海斗に夕飯を食べさせた。隆二の分が無くなった。海斗は洋子に、バイトを始めた事や、大学がどんな感じなのかを話して聞かせた。そして、帰って来た理由は、
「俺、何カ月も岳斗に会わないの、無理だ。だからバイトして、交通費稼いで帰って来たんだ。月に一度は帰って来ようと思う。そのためにバイトと学業を頑張んないとだから、ちょっと電話とかしてる暇なくなるけど。」
だそうだ。これを、岳斗と洋子の前でケロッと言ってのけたのだ。
そんなわけで、岳斗と海斗は夜、岳斗の部屋のベッドの中にいた。
「あのさ、二週間くらい前に電話したら、女の子が出たんだけど。」
海斗が岳斗の事を離さないので、狭いのを承知で、二人で岳斗のベッドに寝ていた。こんな状況で、浮気を疑うというのも変だが、岳斗は海斗の腕の中でそう言ってみた。
「え?ごめん、気づいてなかった。バイト中かな。」
「土曜日だよ。」
「土日もバイト入れてるから。たぶん、休憩室に置きっぱなしにした時だろうな。」
そう言われると、返す言葉がない岳斗。実際、そうだったのだろうと思ってしまう。
「でも、俺はちょっとでもいいから声が聞きたかったのに。」
「そっか。ただ、お前テスト期間中だっただろ?だから、勉強の邪魔しちゃいけないと思ってさ。」
「え?テストの予定知ってたんだ?」
「だって、毎年同じじゃないか。」
そうだった。同じ学校だったから知っているのは当然だ。
「でもさ、LINEくらい返してくれたっていいじゃないか。」
岳斗は、ちょっと目がウルウルしてしまった。今こうされていても、やっぱり不安が消えない。
「岳斗?泣いてるのか?」
岳斗は先ほど泣いたものだから、涙腺が緩んでしまっていた。今日会えると分かっていたら、泣いたりはしなかったのに。
「なんで、今日来るって教えてくれなかったんだよ。」
「今日来られるとは限らなかったんだ。空港行って、キャンセル待ちして、キャンセル出たから飛行機に乗れたんだよ。もしかしたら、明日の朝になっていたか、あるいは今週は来られなかったかもしれなかったんだ。もし、期待させてダメになったらって思って……。」
海斗は言葉を切って、チュッと短いキスをした。
「ごめんな、寂しい思いさせて。」
海斗は岳斗の頭を何度も撫でた。両親も、流石にこの状況を許さざるを得なかった。たった一日の為に帰って来た海斗を、岳斗から引き離したりは出来なかったのだ。
そして翌日、岳斗と海斗は午後から羽田空港へ行った。両親は遠慮してくれた。元々夏休みまで会えないと思っていた息子が、また来月も帰って来ると言うのだから、それほど別れを惜しまなくても良いのだろう。海斗と岳斗は空港で、飛行機のキャンセル待ちをした。
観光シーズンではないし、土曜日の午後という半端な時間ゆえ、それほど客も多くなくて、キャンセル待ちも長くはなかった。座って待っている間、海斗は岳斗にべったりで、肩に腕を回し、絶えず顔で岳斗の頭をスリスリしている有様。時々顔を見て、頬を撫でるなども。たまに人からチラッと見られるのが恥ずかしいと思う岳斗。だが、またしばらく会えないから、拒むことが出来なかった。
「じゃあ、行くな。」
「うん。」
「また来るから。」
「うん、待ってる。」
そうして、海斗は搭乗口へ消えて行った。でも良かった、と岳斗は思った。海斗が心変わりしたのではなくて。他にいい人がいたら、こんな風に帰ってきたりはしないはずだ。岳斗は、寂しいという気持ちを打ち消すため、海斗は自分の事が大好きなのだ、と自分に言い聞かせた。だから、嬉しい。嬉しいのだ、と言い聞かせる。胸が痛いくらい、嬉しいのだ。
「慣れ」というのは恐ろしいもので、あれだけつらいと思っていた事が、つまり、海斗と毎日会えない事が、岳斗にとって普通の事になってきた。電話が出来ない事にも慣れて来た。それは海斗にとっても同じはずだ。岳斗が慣れてつらいと思わなくなると同時に、海斗も、岳斗に会えない事に慣れて普通になってしまうはずである。それが、岳斗にとっては不安材料なのであった。
海斗が最初に一泊で帰って来たのが五月下旬で、次に帰って来たのが六月下旬だった。六月に帰って来た時には、驚きもせず普通に家族で海斗を迎え入れ、海斗も五月の時ほど岳斗にべったりでもなかった。別れる時も、割とドライだった。もちろん、海斗と岳斗は一晩一緒に寝たのだが。狭い岳斗のベッドで。
日常がそれなりに流れ、一カ月が経つ。また海斗が来てくれると信じ切っていたから、岳斗はそれに向けて無心に試験勉強なども出来たし、無事に試験をクリアした。
だが、七月下旬、この週末に海斗が来るだろうと岳斗が予想していたところに、海斗から連絡があった。もうすぐ夏休みだから、今週末には帰らないという内容だった。味気ないメッセージで。
岳斗の心がザワリとした。いや、夏休みに長く帰って来るのだから、その少し前に帰らない事は当然だ。だが、岳斗に会えないのがしんどくて、頑張ってバイトをして交通費を稼いでいる海斗。バイトばかりしているから、電話もする暇がない二人。それが、帰って来ないというのを、電話ではなく文字で送ってきた海斗。何だか本末転倒のような気がする岳斗である。同時にその事(文字で送って来た事)は、帰って来ない事がお互いにとってそれほど重大な事ではないという証明のようで、岳斗の心がざわつくのだ。そして不安がよぎる。だが、夕方から夜は海斗がバイトなので電話しても出ない。他の変な時間を見つけてかけても、もし出てくれなかったり、忙しいからと適当にあしらわれたりしたら……そういう怖さがあり、かけられない。いや岳斗は、全然慣れていないし、つらくないわけではなかった。蓋をしているだけなのだ。海斗がいないという事実に目を向けないようにしているだけなのだ。
それでも、夏休みになれば海斗が帰って来る。岳斗はそれを楽しみに待っていた。海斗の夏休みは、自分の履修した授業の試験が終わる七月二十六日に始まる。二十七日か、遅くとも二十八日には帰って来るだろうと岳斗は踏んでいた。ちなみに、夏休みが始まる日は、洋子が把握していたのであって、海斗から岳斗に連絡があったわけではない。ここも、岳斗が引っ掛かる所である。
ところが、七月二十七日に海斗から家族LINEに連絡があった。
「友達と鉄道で帰ります。あちこち旅をしながら、数日かけて帰ります。」
まさか、そんな事が……岳斗は愕然とした。五月に、岳斗の元に飛んで帰って来たあの海斗はどこへ行ったのだ、と信じられない思いでその文字を眺めた岳斗。洋子が「了解」と入力したが、岳斗はリアクション出来なかった。しばらく経ってから、隆二が「いいね」のスタンプを送っていた。岳斗は、泣いているスタンプでも送りたい気分だったが、家族LINEにそれは恥ずかしいのでやめた。
分かったぞ、と岳斗は思った。海斗は、七月の下旬に帰って来なかったので、その分の浮いた交通費をこの鉄道旅に使うのだろう。そもそも、一緒に旅をする友達とは誰なのだ。同じ高校から行った人なのか。男か、女の子もいたりするのか。
(ああ、ダメだ。全然ダメだ。俺は女々しくてジメジメしていて……海斗にふさわしくない。)
岳斗は今、気づいてしまった。自分は、海斗とお似合いではない。それに、海斗は毎日毎日、岳斗の事ばかり見ていたから好きになったが、しばらく見なければ、岳斗が大した事ない男だという事に気づくに違いない。もっと可愛い子や素敵な人がいるという事に、そろそろ気づいた頃なのでは。
海斗は結局、六日間帰って来なかった。そんなにも長く、旅を楽しんできたわけだ。しかも、六日後の八月二日は、岳斗たち山岳部の合宿の出発日だったのだ。今回は少し遠くへ行くので、夜に出発して夜行バスで現地まで行き、早朝から山登りを開始する事になっていた。
八月二日。夕飯を済ませた岳斗は、大きいリュックを背負って玄関を出ようとした。そこへ、海斗が帰って来たのだ。予告もなしに。
「ただいま!」
海斗が玄関を開けて元気よくそう言った。
「あれ?岳斗、今から出かけるのか?」
久しぶりに会ったのに、なんだかその普通の声かけが、岳斗の神経を逆なでした。すぐ帰ってきてくれなかった事に、ただ拗ねているだけなのかもしれない。だが、素直に帰って来た事を喜べない岳斗である。
岳斗は、視線だけ海斗の目を追ったが、結局何も言わずに玄関を出た。夜行バスの時間もある。ゆっくり立ち止まって話している暇はない。だが、そうではないだろう。自分でも分かっている。時間がなくても、もう少し愛想の良い出迎え方があったはずなのに。後悔、そして自己嫌悪。
(俺はこれから山に登る!これが最後の部活動なのだ。海斗の事は忘れて!……いや、俺が忘れたら、海斗も俺を忘れるよな。うう、泣きたくなってきた。やっぱり女々しいよ、俺。)
岳斗は心で泣いた。