「お前さ、なんか嬉しそうじゃない?」
家で、海斗がいきなりそう言った。
「な、なんだよ。べつに何も嬉しくなんかないよ。」
岳斗はそう言いつつ、自分でも少し自覚している。恋をしてしまったから、世の中がバラ色なのだ。明日は部活があるから、萌に会えると思うと、自然と顔がにやけてしまう。ハッとして海斗を見ると、海斗はそんな岳斗のにやけ顔をジトーッとした目で見ていた。岳斗は取り繕うべく、何か言おうとして、やっぱりこういう時は恋の話が出てしまうもので。
「海斗はさ、彼女とかいないの?」
などと言ってしまう。すると、間髪入れずに返された。
「そんな暇あると思うか?」
と。確かに。電話やメッセージのやり取りさえも、している余裕はなさそうだ。ましてやデートなど、出来そうもない。サッカー部には女子がいないし、マネージャーは、希望者が殺到し過ぎるから募集していないそうだ。
「お前は……できたのかよ?」
遠慮がちに、海斗が尋ねる。
「え?い、いや、まだだよ。」
いない、ではなく、まだ、と言ってしまったのが失敗だった、と岳斗は思った。これからできそうだ、と言っているような感じになってしまった。萌とはいい感じではあるが、まだ付き合えるかどうかは分からない。夏休みまでにはそうなっているといいな、くらいには思っている岳斗ではあるが。
「ふうん。」
海斗はそう言って、まだ岳斗をジロジロ見ていた。岳斗は気恥ずかしくなって逃げた。
翌日、岳斗が部活でトレーニングをしていると、一階の渡り廊下の所に、海斗がいた。待ち伏せしていたようだった。そして、岳斗にではなく、一緒に歩いていた萌の方に話しかけたのだ。
「君、萌ちゃんだっけ。岳斗が仲良くしてもらってるそうだね。よろしくね。」
岳斗は、海斗が女の子に話しかけるところを初めて見た、と思った。そんな事をしたら、見ている女子が悲鳴を上げる。が、幸いここには誰もいなくて、悲鳴は上がらなかった。だが、海斗にあんな笑顔で話し掛けられたら、萌は……。いや、萌ちゃんは大丈夫だ、きっと大丈夫だ、と岳斗は思った。
「萌ちゃん?大丈夫?」
海斗がじゃあね、と手を振って去り、背中を見送ったところで、岳斗は萌の方を恐る恐る振り返った。すると、
「キャー、私、どうしよう!」
と、顔が真っ赤。両手を頬に当て、顔をフリフリさせている。やっぱり、そうなるか。それにしても、なぜ海斗は萌にあんな事を言ったのか。しかもわざわざ待ち伏せしてまで。まさか……。
(まさか、俺の恋路を邪魔するために?)
いや、そうとしか考えられない、と岳斗は思った。海斗は、自分に彼女がいないのに、岳斗に彼女ができる事が許せなかったに違いない。そうだ、かつて岳斗に彼女が出来た時にも、あれはバッタリ会ったのではなく、海斗は待ち伏せしていたのかもしれない。きっとそうだ、と岳斗は思い至ってしまった。なんてひどい事を。ただでさえ海斗のせいで散々な目に遭っているというのに、この仕打ちは許せない。
萌はすっかり海斗のファンになった。この日の帰り道、萌から海斗の事をあれこれ聞かれた岳斗。もう、海斗の話題しか上がらない。岳斗はすっかり興ざめだった。
(いいよ、俺には当分恋愛なんか。だが、それでも海斗の事は許せない。)
帰宅し、海斗が帰って来るまで、岳斗はずっとイライラしていた。海斗が帰ってきて、自分で二階まで上がって来た時、岳斗は自分の部屋を飛び出して行って、海斗にかみついた。
「海斗、今日のあれはなんだよ!お前、わざと俺の邪魔したんだろ!」
海斗は立ち止まったが、何も言い返さなかった。
「今までもそうなんだろ?俺の恋愛がうまく行かないように、邪魔してたんだろ。お前、自分に彼女がいないからって、いい加減にしろよ!モテるからって調子に乗るなよな!」
岳斗は我慢できなくなって、日頃の鬱憤も一気に吐き出すかのように、怒鳴って、そして海斗の体をドンとどついた。海斗はよろけて自分の部屋に入り、そのままベッドに倒れた。
「もう、お前とは口も利きたくない!顔も見たくない!」
岳斗はそう言い放ち、自分の部屋へ入ってバタンと勢いよくドアを閉めた。こんなに海斗に怒鳴ったのはいつ以来だろう、と岳斗は考えた。海斗と岳斗はほとんど喧嘩をした事がない。何でも海斗が許してくれるし、岳斗もあまりわがままを言った事がないのだ。だが、今回は許さない、許さないぞ、と岳斗は何度も自分に言い聞かせた。
翌朝、岳斗は学校へ行こうとして、玄関に海斗の靴があるのを見て驚いた。
「母さん、海斗は?学校行ってないの?」
岳斗が驚いて洋子に尋ねると、
「そうなのよー。熱があるんだって。」
という事だった。海斗が病気になるのは、ずいぶん久しぶりの事だった。
昨日は顔も見たくないと言っておきながら、岳斗は一晩眠ってすっきりしていた。言いたい事を言ったからだろうか。所詮、兄弟喧嘩というのはそんなものだろう。だからまた、海斗の心配などをしているのだ。昨日は頭に来たものの、萌の事は好きではなくなっても、海斗の事を本当に嫌いになったりはしないものだ。
岳斗は学校に行くと、まず朝一番に、朝練を終えてきた笠原から聞かれた。
「岳斗、海斗さんが朝練に来てなかったんだけど、寝坊したのか?それとも具合でも悪いのか?」
「ああ、なんか熱があるらしいよ。だから今日は学校も休んでるよ。」
この時はまだ、事の重大さを認識していなかった岳斗。一時間目が終わると、岳斗の教室にどっと人が、とくに女子が押し寄せてきた。
「ねえ、今日お兄さんはどうしたの?何があったの?」
と、岳斗は何十人もの人に取り囲まれた。
「え、え?えーと、兄は今日、熱があって、お休み、です!」
と言うと、
「えー、大変!お見舞いに行かなきゃー。」
「しんぱーい!お花買って行こうか。」
「それより、スポーツドリンクとかの方がいいんじゃなーい?」
などと、ザワザワザワ。まさかこの人達皆でうちに来るつもりじゃないだろうな、と岳斗は心配になった。うちを知っているのか。もしや、自分が帰る時に一緒に来るつもりではないだろうな、と。
そうして放課後、岳斗は誰にも見つからないように、まるで忍者のように隠れながら、ダッシュで帰った。後で友達から、先輩たちがお前を探していたぞとSNSで知らされたのであった。危なかった。
家に帰ってくると、洋子がご飯の支度をしていた。
「ただいま。母さん、海斗はどう?」
「おかえりー。海斗ね、さっきは眠っていたけど、まだ熱は高いみたいだったわよ。今はどうかしら。ちょっと様子見てきてくれる?」
洋子にそう言われた岳斗は、二階へ行き、海斗の部屋のドアをそっと開けた。海斗はベッドの中で布団をちゃんと掛けていた。目を閉じていたので、眠っていると思ったが、岳斗が部屋に入ると、
「お帰り。」
と、海斗が言ったので、岳斗は驚いた。
「あ、起きてたの?ただいま。気分はどう?」
岳斗が近づいて枕元に座ると、海斗は目を開けた。
「岳斗、昨日はごめん。俺、お前の気持ち考えてなくて。」
海斗は、目に涙を溜めていた。
「海斗、泣いてるの?」
岳斗が尋ねると、
「だって、お前が俺とは口利きたくない、顔も見たくないって言うから。」
海斗の目から涙が一筋流れた。岳斗は驚いた。確かに昨日は怒って怒鳴りつけたが、まさかこんなに海斗を悲しませたとは思いもよらなかったのだ。
「ごめん、言い過ぎたよ。」
岳斗は海斗のおでこに手をやった。確かにまだおでこは熱い。
「岳斗、ごめん、ごめんな。」
海斗は、おでこにあった岳斗の手を両手で掴み、涙を流しながらそう言って謝った。
「もういいよ。もう怒ってないから。」
岳斗がそう言うと、
「本当か?許してくれるのか?」
と、海斗は岳斗の顔を見上げた。
「ああ。」
「俺の事、嫌いになってない?」
「ああ、嫌いになってないよ。」
「ほんと?俺の事、好きか?」
「ああ、好きだよって、何言わすんだよ。」
岳斗は苦笑いをした。海斗は自分の両手で今度は自分の両目をこすり、ニコッと笑ったかと思うと、岳斗の頭をいきなりその両手で抱き寄せた。
「あわわ!」
海斗は岳斗の頭を自分の胸に抱き、
「ありがとう、岳斗!俺、岳斗の事、だーい好きだよ!」
と言った。子供の喧嘩じゃないんだから、このやり取りはなんだ、兄弟で好きとか嫌いとか、気持ち悪い、と岳斗は思いつつも、少しだけ嬉しかった。自分の事が憎くてやったのではないようだ。海斗は自分の事が好き、それが分かっただけでもまあいいか、と思った。
海斗は少し元気になり、夕飯は下へ降りてきて食べた。その後、しばらくそれぞれ部屋で過ごし、岳斗が風呂に入った後、洋子がまた海斗の様子を見てくれと言った。なので、岳斗は海斗の部屋を訪れた。
「海斗、入るよ。」
岳斗が入ると、海斗はベッドの上に座ってスマホを見ていた。
「熱はどう?下がった?」
岳斗は海斗のおでこに手を当てた。ちょっと温かいような気がして、自分のおでこにも手を当ててみる。どうやら自分のおでこも温かい。どっちの方が温かいのか分からないので、岳斗は自分のおでこを直接海斗のおでこに付けた。すると海斗が、
「うわっ!」
と言って飛びのいた。岳斗はそれこそびっくりした。熱があるかどうか分からなかった。
「なんだよ、熱、わかんないじゃん。」
海斗は目をまん丸くしている。壁際に引っ込んでしまったので、岳斗は仕方なく、ベッドに手をつき、屈み込んでもう一度おでこを付けた。今度は海斗もじっとしていてくれるようだ。海斗の熱は下がっていた。
おでこを離したら、海斗の“マジな目”が岳斗を捕らえた。まだ手に体重が乗っていたので、岳斗は思わずそこで止まった。こんなに近くで海斗の顔を見るのは、すごく久しぶりだった。こうしてまじまじと見ると……目が綺麗すぎる。海斗がマジな顔をしているから、余計に綺麗すぎる……と思った。
「ね、熱は下がったようだなっ。」
岳斗はぱっと立ち上がった。自分はなぜドギマギしているのだろう、と思いながら。ちらっと海斗の顔を見ると、まだ“マジな顔”をしていて、何かを考え込んでいる様子だった。
「海斗?」
「あ?何?」
「何考えてんの?」
「え?いや、別に。」
岳斗は、海斗が綺麗な顔をしていて羨ましいと思った。そんな“マジな顔”を見たら、女子たちはどんなに悲鳴を上げることだろうか。迂闊に見せてはいけないものだ、とも思った。
かくして岳斗と海斗は、無事に仲直りしたのであった。海斗はすっかり熱も下がり、また翌朝から元気よく学校へ通ったのであった。めでたしめでたし。岳斗の恋は終わったけれど。
強い日差しが照り付ける、五月晴れの土曜日。体育祭の日がやってきた。岳斗たちは、皆で「あちぃあちぃ」と言いながら、クラスごとの応援席を埋めていた。
岳斗は何をしていても、ついつい海斗に目が行ってしまうのだった。これは身内だから仕方がない。だが、岳斗以外の多くの生徒も、海斗に目が行っているのが岳斗にも分った。
応援団が、黒くて長い法被の裾をなびかせて、縦割りクラスの前で応援合戦を繰り広げた。応援団の人たちもかっこいい、と岳斗は思う。海斗を見ると、そんな応援団たちを盛り上げようと、声を張り上げて声援を送っていた。海斗のそういう所がまたいいのだ。すかしているのではなく、自然体で。
体育祭の花形と言えば、運動部の部活対抗リレーである。と、岳斗は先輩から聞いた。山岳部もれっきとした運動部なので、リレーに参加しなければならない。六人制なので、部長の門倉以外全員出る事になっていた。つまり、岳斗も、萌も。男子が多いので、男子の部に出る。
男子の部の中でも、二つのレースに分かれていた。最初に走るのが山岳部、剣道部、柔道部、空手部、体操部、バレー部である。山岳部には女子が入っていて不利ではあるが、何しろ彼らは重たいリュックを背負って走るので、勝とうとは思っていないのだった。それは、胴着を着て素足で走る剣道部も同じだった。それぞれの部がユニフォームなどを着て走る。部活の宣伝、アピールの場という事だ。
岳斗はリレーに出る為、「山岳部」と書かれたゼッケンをつけ、列に並んだ。山岳部には特にユニフォームなどが無いので、代々体育祭のリレー用に受け継がれているゼッケンがあるのだった。岳斗は何故か第一走者にされた。一年からね、と篠山に言われたから仕方がない。第一走者が位置に着く。岳斗も位置に着く。
「よーい!」
バン!
号砲が鳴り、一斉にスタートした。岳斗は一応頑張って走ったが、何せ重たいものを背負っているのでスピードは出ない。それでも、素足で真面目に走っていない剣道部よりは少しだけ先を走っていた。すると、
「や、ま、とー!頑張れー!」
と、ひと際大きい声援が聞こえた。岳斗がそちらを見やると、やっぱり海斗だった。海斗の周りを女子たちがキャーキャー言いながら取り囲んでいた。海斗が自分の席にいる時にはクラスメートに守られているが、一歩外へ出ると先輩後輩、様々な女子のファンたちがすぐに取り囲んでしまうようだ。だが、海斗はそんな事は気にしない様子で、岳斗に向かって手を振っていた……今日もまた、穴があったら入りたい境地の岳斗である。ただでさえ頑張って走って暑いのに、急に顔がボッと熱くなった。だが、目の前を通り過ぎる時に、無視するのもどうかと思った岳斗は、ちらっと海斗と目を合わせ、ニヤッとした。岳斗としては、したと思った。顔が多少引きつっていたかもしれないが。
そして、岳斗は萌にバトンを渡した。海斗が萌の事も応援するのではないか、と岳斗はヒヤヒヤした。何しろ、そんな事をしたら周りの女子たちがどうするのかと心配したのだ。だが、岳斗が走り終えると、いつの間にか海斗の姿は消えていた。取り巻き女子がいなくなっていたのですぐに分かるのだった。
アンカーは篠山だ。最初はやる気のなかった剣道部だが、最下位にはなりたくないと見え、山岳部とはアンカー同士意外と燃えるレースを展開していて、岳斗も他の部員も懸命に応援した。会場も盛り上がった。重い荷物を背負っていても、素足の剣道部よりは少し有利だったのか、最後の最後で篠山がレースを制した。剣道部が最下位になったのだった。因みに、バレー部は、こちらのレースに入らされる事に不満タラタラだったのだが、実際に走ってみたら、一番だったのはバレー部ではなく体操部だったから皆驚きだった。体操部、バレー部、空手部、柔道部、山岳部、剣道部の順だった。
次はサッカー部、野球部、バスケ部、バドミントン部、テニス部、陸上部のレースだった。足の速い生徒はこれらの部活に所属しているわけで、どの部も今年こそは一番になるぞと気合を入れているのが見て取れる。水泳部は、陸の上では勝負しないという事で、レースには参加しないのだそうだ。
岳斗は海斗を見つけた。やっぱりサッカー部の選手に入っていた。消えたと思っていたら、次のレース待ちで入場門のところに並んでいたというわけだ。先輩情報によると、毎年このレースを制するのは陸上部だが、サッカー部と野球部が二位をかけてデッドヒートを繰り広げるのが見ものだそうだ。
岳斗たち、先のレースの参加部は退場し、自分のクラスの席から応援する事になった。身内が走るのを見るのはハラハラするものだ。海斗もそんな思いで前まで来て応援していたのだろう。岳斗は引っ込み思案だからというよりも、海斗の親衛隊の前へ出られるわけもないので、クラス席から見ていた。むしろ後ろから応援した方が見えやすいという事もある。
会場が盛り上がり、スタートの号砲が鳴った。歓声が響く。海斗は足が速い。母親が陸上部で短距離走をやっていたので、海斗は素質もある上に、母親から走り方を教わっているので走り方がきれいなのだ。更に背が高いという事は足も長いので、鬼に金棒である。岳斗も母から走り方は教わったような気もするのだが、やっと普通になれた程度。元々素質がないのだろうと思っていた。
海斗にバトンが渡った。すると、キャー!という女子の甲高い声援がより一層響き渡った。
「頑張れ、海斗!」
回りの声援にかき消されながらも、岳斗は思わずそう叫んだ。海斗は、少し前を走っていた野球部の選手を追い抜き、陸上部の次にバトンを渡した。サッカー部は大喜び。そして、そのまま順位が変わる事なく、陸上部、サッカー部、野球部の順でゴールしたのだった。因みにその後は、テニス部、バスケ部、バドミントン部の順だった。
お昼休憩になり、それぞれ教室へ戻ろうとした時、岳斗は二年生数人に取り囲まれた。
「お前、城崎の弟なんだろ?全然兄貴に似てないな。」
ヘラヘラと笑いながら、岳斗に突っかかってくる。岳斗は何と答えてよいか分からず、立ち尽くした。
「お前も気の毒になあ。いいとこ全部兄貴に持って行かれてさあ。ああそれか、お前、もらわれっ子なんじゃないのか?」
アハハハ、とその人たちが笑う。すると、岳斗の胸の辺りにガシッと誰かの腕が絡まった。
「おい、俺の可愛い弟になんか用か?」
海斗の声だった。可愛いは余計だよ、と岳斗が思って振り仰ぐと、そこにはものすごい形相の海斗の顔があった。今まで岳斗をからかっていた先輩たちは、急に凍り付いたように顔をひき引きつらせた。そして海斗を、というよりも周りの目線を気にして、何も言わずにそそくさと去って行った。
「岳斗、俺が走るとこ、見ててくれたかー?」
奴らが去ると、気を取り直して笑顔になった海斗が、岳斗の顔を覗き込んでそう言った。そして海斗は、気分が落ちて暗い顔をしていた岳斗の頬を両手で包んだ。
「あんなの、気にするなよ。」
海斗は小さい声でそう言った。岳斗はそれこそ人目が気になった。周りの女子たちが、口に手を当ててキャー!と言ったからだ。岳斗は海斗の手を自分の頬から引っぺがした。恥ずかしくて逃げ出したい気もしたが、あまりないがしろにすると海斗が拗ねると思い、
「大丈夫だよ、あんなの慣れっこだから。それより、また足が速くなったな。」
と言ってやった。海斗はパアッと顔を輝かせた。これで充分だろうと思い、岳斗は挨拶もそこそこに、海斗から離れて教室へ向かった。
午後には騎馬戦やクラス対抗リレーなどがあり、相変わらず海斗は目立っていた。女子からはキャーキャー騒がれるし、足は速いし、皆が海斗を見ているようだった。それでいて、海斗自身は自然体で、楽しそうだった。海斗はどうしてあんなにも輝いているのだろう、と岳斗は思った。
体育祭の余韻冷めやらぬ中、制服に着替えて一斉に生徒が下校するさなか、岳斗は後ろから肩をガシッと抱かれた。
「岳斗、今日部活ないから、一緒に帰ろ!」
と、海斗が。そして、そのまま肩を抱いて歩こうとする。キャー!という悲鳴が後ろから上がる。おいおい、ずいぶんたくさんのお連れ様がいるではないか、と岳斗は思った。普段は部活で遅いし、流石にこんなに後ろにファンを侍らせて帰るわけではないのだが、今日はずっと海斗を見ていてその眩しさに当てられた者たちが、こうやって聖者の行進よろしくゾロゾロと後ろについてくるのだ。
岳斗は、海斗と一緒に帰るのはべつにいいけれど、こういうのは嫌だなあと思った。だが、海斗に独りでこの聖者の行進をさせるのは忍びなく、また、嫌だと言っても結局同じところに帰るのだからと諦めた。岳斗は海斗の為すがまま、肩を抱かれて帰途に就いたのだった。もう、聖者の行進だから仕方がない。岳斗は神に捕らわれた仔羊である。
予習や宿題、試験など、様々な試練があったが、岳斗はどうにか一学期を無事に終える事が出来た。そして、夏休みである。去年の海斗は、夏休みも毎日部活だの試合だのと言って一日中家を空けていて、退屈する暇もない様子だった。八月に一週間程完全な休みがあるが、それ以外は月曜から土曜まで、いつも家にいなかった。今年も同じなのだろう。山岳部は、合宿がある八月の初旬に向けて、月曜から金曜まで毎日部活があるという事だった。毎日二時間程活動して、合宿を終えたら後はずっと休みなのである。
岳斗は、朝はゆっくり起き、午後から部活に行き、夕方には帰宅する。だが、海斗は朝早くから夕方まで部活で、帰ってくるとそのまま風呂場に直行し、シャワーを済ませたら食事をし、早めにバタンキューの毎日だった。夕食は一緒にとるが、それ以外は顔を見る間もない日々が始まった。海斗の日焼けもどんどん増す。増々かっこよくなる。
「あ、岳斗、お前今度の土曜日暇?」
夕食の後、部屋に戻ろうとした岳斗に、海斗がそう尋ねた。
「土曜日?暇だけど?」
岳斗が答えると、
「お前、試合見に来い。絶対来い。詳細はスマホに送るから。」
と言って、海斗も部屋に消えた。
(なんだ?試合を見に来いとは。)
まあ、サッカーの試合を見るのも悪くないが、と岳斗は思った。後で送られてきた詳細を見ると、公式戦だという事だった。負けたら三年生は引退の、トーナメント戦に突入しているという。海斗はまだ二年生だが、先発メンバーに選ばれているらしい。岳斗が応援に行かなくても、またたくさんの親衛隊がキャーキャー言っているのだろうと想像されるが、来いと言われたから行く事にした。
七月下旬の土曜日、岳斗は地元の小さなスタジアムにいた。観客席というほどの物でもないが、フィールドの外にスペースがあり、そこに立っている。そして、岳斗の隣には萌がいる。部活の時に海斗の試合を見に行くと言ったら、一緒に行きたいとせがまれてしまったのだ。岳斗はもう、萌とどうにかなろうとは思っていないのだが、行きたいと言うのだから仕方がない。その更に横には、同じ高校の女子たちが自作のポンポンを持って待機している。数十人いるようだ。
「ピー!」
キックオフ。海斗はフォワードだ。2トップのようだ。相手チームにも応援団がいて、お互いトップがボールを持つと、ものすごい歓声が沸く。岳斗もつい熱くなって海斗の応援をした。萌も大はしゃぎで海斗の応援をしている。海斗がシュートを決めた時、思わず岳斗と萌は手を取り合って飛び上がった。
前半を2-1でリードして終え、十分間の休憩になった。最初は監督から指示を受けながら水分補給をしていた剣星チームだったが、それから各々散って座り始めた。と思ったら、海斗はまっしぐらに岳斗の方へ向かって歩いてきた。観客席の方に来る選手は他にいない。
目の前に海斗が来たので、萌は両手を口に当てて固まった。だが、海斗は萌の方は一切見ずに、岳斗の事を見ていた。親衛隊の方からキャーキャーと悲鳴が上がっているが、流石に試合中の(今はハーフタイムではあるが)海斗に接触しようとはせず、遠巻きにして見ていた。写真を撮る音もかなり響いている。
「海斗?」
海斗が岳斗の前に来ても何も言わないので、岳斗が訝しんでいると、海斗は手を出した。
「あれ、持ってきたか?」
と言う。
(は?何の事やら……まさか俺、やらかしたか?何か頼まれてたんだっけ?)
大事な物を忘れてきたのかと、すごく不安になりつつ、岳斗は何となく自分が背負って来たデイバッグを開けた。すると、何とその中に自分では入れた覚えのないゼリードリンクパウチが入っていた。凍っていたのか、手に取るとかなり冷たかった。岳斗がそれを取りだし、
「これ?」
おずおずと差し出すと、海斗はニヤッと笑ってそれを受け取った。
「サンキュ、岳斗。」
海斗はそう言って、その場で開けて飲み始めた。そして、岳斗の隣に座る。まあ、芝生だから座ってもいいのだが、ここにいる皆は立っている。海斗だけが座るのも何か変だと思い、岳斗も隣に腰かけた。海斗は岳斗の方を見てニコッと笑った。つられて岳斗も笑う。
「何?」
笑顔になりつつも岳斗が尋ねると、
「元気もらった。後半も頑張れるよ。」
と言う。はあ、と岳斗はため息が出た。そう言う事は、彼女とかに言いなさい、と言いたかった。家族にその役目を求めてどうするのだ、と。それより、岳斗のところに来る口実を作る為に、岳斗のバッグにゼリードリンクを仕込んでおいたのだろうか。海斗はかっこいいけれど変な奴だ、と岳斗は思った。
「あ、あの、後半も頑張ってください!」
萌が、岳斗の隣からそう言った。何と言うだろうかと、岳斗は海斗の顔を凝視した。が、海斗は何も言わずに軽くうんうんと頷いただけだった。そして、シュタッと立ち上がり、岳斗の腕を引っ張って立たせ、
「じゃ、行くな。」
と言って、空になったパウチの蓋を閉め、岳斗に渡した。
海斗がフィールドへ去って行き、岳斗がパウチをデイバッグにしまおうとすると、中に海斗のタオルも入っている事に気が付いた。タオルを敷いて、その上に凍ったパウチを置いたのだろうか。いや、今度は試合が終わった後に、タオルをよこせと言いに来るのではないか。やる事がセコイというか……子供じみていないか。海斗はどうしてしまったのだ、と岳斗は少し心配になった。岳斗はちらっと萌の方を見た。試合が再び始まり、萌は飛び跳ねる勢いでキャピキャピと海斗を見ていた。海斗は萌の事を意識しているようにも見えなかったが、まさか萌に近づく為にここに来たとか。分からない。岳斗には、海斗の考えている事が、最近全然分からないのだった。
試合は3-1で剣星チームが勝利した。三得点の内二得点は海斗が挙げたものだった。勝ってチームが喜びに沸き、チームメイトから海斗はバンバン背中を叩かれていた。よくやったな、というジェスチャーだろうか。しばらくして、岳斗たちも帰ろうかと歩き始めると、海斗がまた岳斗のところへ小走りにやってきた。周りからキャー!と歓声が上がる。
「岳斗、ちょっと待ってて。一緒に帰ろうぜ。」
と言う。
「え、でも萌ちゃんが……」
と言いかけると、
「萌ちゃん、先に帰ってくれる?」
と、海斗が萌に話しかけた。萌は思わず、
「はい!」
と言った。海斗が手を振るので、萌はその場を離れざるを得ない。岳斗は萌をある程度送って行くつもりだったので、追いかけようとしたら、背負っているデイバッグを海斗ががっしり掴んでいて、一歩も進まなかった。萌が手を振る。岳斗も手を振って、その場で別れた。親衛隊たちはまだその場でキャピキャピしていたが、海斗が一瞥をくれて、岳斗を引っ張って行ったので、歓声がフェイドアウトし、彼女たちもすごすごと帰って行った。
「海斗、どうしたんだよ。」
勝って浮かれているのかと思いきや、何となく不機嫌ではないか。海斗は岳斗を自分の荷物が置いてあるところに連れて行き、やっと手を離した。そして着替えを始める。ユニフォームを脱ぎ、やっぱり岳斗の方に手を出す。岳斗はデイバッグからタオルを出し、海斗に手渡した。海斗はそのタオルで汗を拭き、持ってきた別のTシャツを着た。そして、適当にカバンの中にあれこれ詰め込み、
「さ、帰ろう。」
と言って、先に立って歩き出した。そう言えば、さっきの岳斗の質問に答えていない。どうしたんだよ、と海斗に問いかけたのに。
「海斗、なんかあった?」
海斗の背中に向かって岳斗が声を掛けると、海斗は歩きながら振り返った。
「いや、何もないけど?」
いつの間にか、いつもの海斗に戻っていた。怒っているように見えたのは気のせいだったのだろうか、と岳斗は考えた。それとも、もしかして萌を連れてきた事が原因だったのだろうか。いや、意味が分からない。それでどうして怒るのかが分からない。海斗は岳斗の恋路を邪魔したが、それは岳斗に先に彼女ができるのが面白くなかったのだろうし、明らかに萌は海斗のファンになってしまって、もうこれ以上海斗が邪魔をする必要がないはずだ。それでも、女の子と連れ立って来る事自体が海斗にはできない事で、羨ましいと思うのだろうか。凡人には分からない何かがあるのかもしれない。可哀そうに、と岳斗は思った。シュートを二本も決めておきながら、気持ちが晴れないなんて。
「海斗、今日のシュート、かっこ良かったぞ。いや、シュートだけじゃなくて、トラップとかフェイントもすげーかっこ良かったよ、うん。」
岳斗が海斗の肩に手を掛けてそう言ってやると、海斗は嬉しそうに笑った。少しは兄孝行をしてもバチは当たらないよな、と岳斗は思った。
八月の初頭に洋子の母、つまり岳斗の祖母の十三回忌があった。岳斗に祖母の記憶はない。親戚の集まりには、最近は部活だの受験だのと言ってほとんど行っていなかったので、祖父や叔父、伯母たちに会うのは久しぶりだった。
「まあ、二人とも大きくなったわねえ。」
「立派になったなあ。」
滅多に姿を見せなかった海斗と岳斗が姿を見せると、親戚中が大騒ぎだった。岳斗は目立つのが苦手なので、こういうのも苦手だった。
法要を済ませ、食事会になった。親戚においても海斗は大叔母たち、つまり祖母の妹たちに大人気で、呼ばれてお酌をさせられ、そのまま捕まっていた。岳斗が自分の席で食事をしていると、前に座っていた大叔父二人が、岳斗に話しかけてきた。
「岳斗くんも、立派になったねえ。」
「もう七年?八年になるかな、お母さんが亡くなって。」
「もうそんなになるかね。洋子ちゃんも偉いよねえ、いくら親友の子って言っても、なかなかよそ様の子を引き取って育てるなんざ、出来るもんじゃないよ。」
「そうだよなあ。」
岳斗に話しかけておきながら、大叔父たちは二人で話していた。岳斗には、大叔父たちが何の話をしているのか、よく分からなかった。けれども、洋子ちゃんというのは自分たちの母親の事だから、全く知らない他人の話をされたわけでもなさそうだ。
(母さんがよその子を引き取った?お母さんが亡くなって八年?八年前というと、俺が七歳か。七歳の頃って何してたっけ。小学校二年生くらいか……。)
考えてみても、岳斗に小学校二年生の記憶はほとんどなかった。入学式は、と考えてみたが、小学校入学の記憶は、探してもどこにもない。そういうものだろうか。
「岳斗、ちょっと来い。」
大叔父たちの話を半分聞きながら、物思いに耽っていた岳斗の腕を、海斗が引っ張った。岳斗は立ち上がり、海斗の後に着いて部屋を出た。
靴を履いて外に出て、海斗と岳斗は大きな木がある場所へと歩いてきた。岳斗の頭の中は、さっきの大叔父たちの話がぐるぐる回っていた。お母さんが亡くなって?洋子ちゃんが引き取った?
「岳斗。岳斗、大丈夫か?」
海斗に肩をゆすられ、岳斗はハッとした。
「海斗、俺、小学校の入学式の記憶がないんだ。考えてみたら、どこの幼稚園だったかも分からないぞ。それって普通なのか?俺、俺……。」
ふと、体育祭の時にどこぞの先輩から言われた言葉が、岳斗の頭をよぎった。
(全然兄貴に似てないなーああそれか、お前、もらわれっ子なんじゃないのか?)
もらわれっ子?
(洋子ちゃんも偉いよね―よそ様の子を引き取って育てるなんざ―)
岳斗はドキリとした。心臓が飛び跳ねたかと思った。その後、岳斗の胸の奥に、ドーンと重たいものが落ちてきた。思い出せない事ばかりだが、自分はどうやら八年前に城崎家に引き取られたのだ。どうして覚えていないのだろう。その前は、自分はどうしていたのか。
「岳斗、何も思い出さなくていいんだ!お前は、今のままでいいんだよ。」
海斗はそう言うと、岳斗の事を抱きしめた。ギューッと抱きしめるので、岳斗は苦しかった。苦しい。胸が苦しい。涙が出そうだ。
家に帰るまで、岳斗は一切口を利かなかった。分からない事だらけで、頭がパンクしそうだった。
大きな木の所で、岳斗は動けなくなった。海斗が父、隆二を呼んで来て、隆二が岳斗の肩を抱いて、車に連れて行ったのだった。お開きになって、洋子と海斗も車に戻ってきて、四人で家に帰って来た。着替えてから、洋子が岳斗の部屋を訪ねてきた。
「岳斗、入るわよ。」
岳斗がベッドに腰かけていたので、洋子も隣に腰かけた。
「岳斗。」
何から聞けばいいのか分からず、岳斗はしばらく黙っていたのだが、洋子の顔を見ていたら、急に悲しくなり、涙が出た。
「母さん、俺は、母さんの子じゃないの?」
岳斗は泣きながら聞いた。
「岳斗、思い出したの?」
洋子からそう聞かれて、岳斗は首を横に振った。
「でも、知りたいんだ。本当の事が。」
岳斗がそう言うと、洋子は岳斗の手を握った。
「そうね、思い出せないのはきっとつらいし、自分の事を知らないのは、フェアじゃないよね。もう大きくなったし、知っても大丈夫だね。」
洋子はそう言うと、ぽつりぽつりと語り出した。
「あなたの本当のお母さんは、私の高校時代からの親友なの。麻美って言ってね、高校時代山岳部だったのよ。陸上の短距離やってた私とは対照的だったんだけど、妙に馬が合ってね。卒業してからもずっと仲良しだった。それぞれ結婚して、子供が出来て、前程頻繁には会えなくなったけど、時々麻美があなたを連れてうちに遊びに来たのよ。あたなは海斗によく懐いていて、海斗は一人っ子だったから、あなたたちが来るのをいつもすごく楽しみにしていたわ。」
「なんで、僕のお母さんは死んじゃったの?」
岳斗が質問すると、洋子はそれまでの懐かしむような表情から一変して、暗い表情になった。
「あなたのお父さんがね、実は麻美やあなたや、あなたの三つ年下の妹に、暴力をふるっていたそうなの。でも、私は全然気づいてあげられなかった。うちに来た時には、麻美も私もすっかり高校時代に戻ったかのようで、楽しい話ばかりしていたから。麻美が悩んでいた事に、気づいてあげあれなかった。それが悔やまれてね。あなたのお父さんは会社を経営していて、それが少し上手くいかなくなっていたようなの。それで家族への暴力が始まったみたいなんだけど、あの日、会社がいよいよ倒産する事になって、やけになったあなたのお父さんが、あなたたちに暴力をふるって、麻美やあなたの妹さんは頭を打って亡くなってしまったの。あなたも頭を打って、気を失っていたけれど、何とか一命をとりとめたの。」
自分の父親がDVを……。岳斗は自分が呪わしいと思った。そんな男の血を受け継いでいる自分が。
「それで、どうして俺を引き取ってくれたの?」
岳斗が聞くと、洋子はさっきよりは穏やかな表情になった。
「あなたたちが病院へ運ばれたという連絡を受けてね、私と海斗はすぐに病院へ駆けつけたのね。そこで目を覚ましたあなたが、海斗を見たら海斗にギューって抱き着いて離れなくて。私もあなたの事は小さい頃から知っていて可愛いと思っていたし、海斗があなたを弟にするって言い張るしで、すぐにあなたをうちに引き取る事に決めたの。あなたのお母さんには兄弟もいなくて、親御さんはお父さんがお独りで地方にお住まいだということで、あなたを引き取るのは難しい状況だったし。」
「俺の父親は?生きてるの?」
岳斗が気になって聞いてみると、
「あなたのお父さんは警察に捕まって、実刑判決を受けたのよ。でも、当然出てきたらあなたを探すでしょう。だから、思い切ってあなたの名前を変える事にしたの。あなたの元の名前は坂上空也。山が好きだったあなたのお母さんの事を想って、それに海斗の弟だから岳斗にしたのよ。」
自分の名前も忘れていたのか、と岳斗は思った。空也……
(くうや、おいで)
母親の声が聞こえたような気がした。
(あなた、やめて!)
そして、岳斗は思い出した。母が、最期にそう叫んだのを。胸が張り裂けそうになって、大きく深呼吸をした。そして、父親の鬼のような形相も思い出した。怯える妹の顔も。妹は葉子と書いて「ハコ」という名前だった。葉子は可愛かった。
洋子が、岳斗の事を抱きしめた。岳斗は涙を流していた。だが、これでよく分かった、と岳斗は思った。海斗と自分が似ていないのは当たり前だったのだ。血が繋がっていないのだから当然だった。あんな風になれなくていいのだ、むしろ嬉しいくらいだ、と思った。隆二と洋子には……今まで当然だと思っていた愛情、海斗と同様に扱ってくれた事、全てにおいて深く深く感謝の気持ちを噛み締めた。
「母さん、俺を救ってくれてありがとう。今まで、ずっとずっと、ありがとう。」
岳斗は洋子にすがって泣いた。洋子は何度も岳斗の背中を撫でてくれた。こんな、海斗に比べて全然可愛くない自分を、こんなに分け隔てなく育ててくれるなんて、と岳斗は感激していた。
だいぶ落ち着いて、涙も引いて、岳斗は洋子から離れた。少し照れくさい。
「俺なんて、海斗に比べたら全然可愛くないのに、良く育てられたね。」
自分でも変な言い方だと思ったが、岳斗はそんな風に言った。
「あらあ、岳斗は可愛いわよー。それに岳斗はいい子。よくお手伝いしてくれるし、海斗の面倒も見てくれるしね。」
そう言って、洋子はウインクした。
「それにね、海斗に兄弟を作ってあげたかったから。海斗は本当に岳斗の事が好きだもんねー。」
と言って、洋子は笑った。岳斗もそれは否定しない。海斗は岳斗の恋路の邪魔をするくらい……何かが引っ掛かった。気のせいかな、と岳斗は首を傾げた。
その後少し部屋で休んでから、岳斗は隆二にも感謝の気持ちを伝えに行った。照れくさいとはいえ、岳斗は今すごくすごく、感謝の気持ちが溢れてきて、とても黙ってはいられなかったのだ。
「父さん、今までありがとう。俺を育ててくれて、海斗と分け隔てなく扱ってくれて、本当にありがとう。」
正座してそう言い、岳斗は頭を下げた。顔を上げると、隆二の目はウルウルしていて、真っ赤だった。
「岳斗、お前こそ、父さんに懐いてくれて、ありがとうな。俺は嬉しかったんだよ。父さん遊ぼうって言ってくれて。」
隆二はとうとう目頭を押さえた。考えてみれば、本当の父親には怯えていたのに、よく新しい父に懐いたものだ、と岳斗は思った。きっと、海斗が隆二に接するのを見て、学んだのだろう。海斗は、家でどう振舞えばいいのかを教えてくれた。一つしか年が違わないが、岳斗の知らなかった普通の家庭、暖かい家庭の事を全部教えてくれたのだ。自分が今まで幸せに暮らしてこられたのは、海斗も含めて家族のお陰なのだ、と岳斗は思った。改めて、海斗にも感謝したのだった。海斗には、まだありがとうは言わないけれど。
岳斗の生活は何も変わらなかったが、岳斗の意識は大きく変わった。何の変哲もない、特に人と違ったところのない凡人だと思っていた自分が、そうではなかったと思い知らされたのだ。七歳までの記憶をずっと失っていた自分。思い出してみたら、深い悲しみを心の奥に押し込めていた自分。また、家族がずっと、他人だった自分の事を、岳斗が気づかないくらいに普通に家族として扱ってくれていた事が、衝撃だった。病気や怪我をした岳斗を、本当に心配してくれた両親。これから、自分はどうやって恩返しをしていけばいいのか分からない、と岳斗は思う。けれども、岳斗の意識がこんなに変わっても、やっぱり両親は変わらずに接してくれる。岳斗は、将来働いて、必ず恩返しをしようと心に誓った。
そんな風に意識が変わってすぐ、山岳部の合宿の日がやってきた。本当の母親が好きだった山。山岳部に入ると言った時、洋子が一瞬止まったのを思い出す。偶然なのか運命なのか、それとも血は争えないという事なのか、母親と同じ山岳部に入った岳斗。向いていると言われたのも、そういう意味があったのか。
七人で集合し、電車とバスを乗り継いで奥多摩の雲取山へ。今夜は山小屋で一泊するのだ。まずはふもとで準備運動をし、列を作って進む。時々お互いの顔色を見ながら進んで行った。山登りは苦しい事もあるが、この清々しい空気を吸う事自体、意義のある事だと岳斗は思った。無事全員怪我をする事もなく、山小屋に到着した。自炊をして、食事をする時、門倉から言われた。
「城崎君、なんか顔つきが変わったんじゃない?気のせいかな。」
皆が岳斗を見る。
「あー、そうですか?」
岳斗がそう言うと、
「そう言えば。」
「そんな気がする。」
皆が口々に言う。岳斗は、
「実は、失っていた記憶が戻ったんです。」
と言った。そもそも、失われた記憶の事を知っていた人はおらず、皆どういう事なのかと顔にはてなマークを貼り付けたまま、岳斗の次の言葉を待っている。岳斗は迷ったが、自分の素性が分かった事を皆に話した。皆、それは驚いた様子だった。
「よく話してくれたね。隠しておくという選択肢もあっただろうに。」
二年の広瀬が言った。
「今まで、兄貴と似てないとかよく言われてて。不審に思われるよりは、知ってもらった方が、気が楽ですから。」
と言いつつ、岳斗は自分が誰かに話したかったのだと気づいた。大きな変化や衝撃があった事を、心の中にとどめておくのは苦しい。皆はうんうんと頷いた。皆、海斗と岳斗が似ていないと思っていたのだろう。
「じゃあ、海斗さんは、二人が兄弟じゃないって事、前から知ってたって事?」
萌が言った。
「そう、だね。八歳の出来事だから、普通は覚えているよね。」
岳斗は苦笑いしてそう言った。今でも、自分が覚えていなかったのが不思議で仕方がない。もう、病院で海斗にしがみついた時には、忘れていたのだろうか。それとも、徐々に忘れて行ったのだろうか。それすら岳斗にも謎だった。
「それにしては、すっごく仲がいいよね、二人は。」
萌がそう言った。岳斗は曖昧に笑った。
雑魚寝していて、ふと岳斗は目を覚ました。外はうっすら明るかった。皆はまだ眠っていたが、岳斗はこっそり起きて外に出た。寒いくらいに涼しく、そして雄大な景色が広がっていた。
岳斗は大きく深呼吸をした。生きているって素晴らしい、そんな思いを抱いた。そして、ふっと海斗の顔が浮かんだ。海斗は、岳斗の事を可哀そうだと思って大事にしてくれていたのかもしれない、と思い始めた。きっとそうだ。母親を亡くして可哀そうだと思ったのだ。だから喧嘩もほとんどしないし、何でも許してくれた。それは、少しだけ残念な事だった。それは、本当に仲が良いという事にはならない気がした。何も知らない岳斗と、可哀そうだと思って接していた海斗。全然フェアじゃない。対等じゃない。兄弟は対等だとよく言われるが、その点で、二人はやっぱり兄弟ではないのだ。残念だ、と岳斗は思った。だが、海斗無しの人生は考えられない。海斗がいなかったら、この上なくつまらない、とも思う。今まで寂しくなかったのは、両親の愛情はもちろんだが、海斗の存在はすごく大きい。それは否めない。
そんな思いに逡巡していると、部のメンバーたちが次々に起き出してきた。
「おはようございます。」
「おっはよう!」
「さあ、朝ごはんにして、早々に出発するぞ!」
三年の篠山が号令をかけ、皆で朝食の準備を始めた。
疲れたけれど、最高に楽しかった登山。達成感と疲労感でいっぱいになった岳斗たちは、それぞれ家路に着いた。家に帰り着く頃には、すっかり暗くなっていた。岳斗は空腹だった。
「ただいまー。」
玄関に入り、重い荷物をどっこいしょ、と下ろし、靴を脱ぐために玄関に腰かけると、後ろからガシッとハグされた。
「岳斗、お帰り。」
海斗だった。
「あ、暑いだろっ。」
岳斗は体がカーっと熱くなり、ついそんな風に言って払いのけてしまった。いつもなら、それでも嫌がらせのように海斗はもっとくっついて来そうなものだが、今日はもうくっついて来なかった。岳斗があれ、と思って振り返ると、マジな顔をして海斗が立っていた。いや、マジな顔というより、不安そうな顔だろうか。考えてみれば、毎日一回は顔を合わせていた海斗と岳斗だが、ほぼ二日間ぶりに顔を見たのだ。海斗はだいぶ日焼けしていた。岳斗も今日は日焼けして、顔が赤い。
岳斗はとにかく靴紐をほどき、家に上がった。立ち上がると、黙って立っていた海斗と顔が近づく。相変わらず海斗は綺麗な顔立ちをしている。
「何黙ってるんだよ。」
岳斗が言うと、
「あ。」
と、海斗が言う。
「何が“あ”だ。ふざけやがって。」
岳斗がそう言ってニヤリとすると、海斗はふっと笑った。そして、二人でダイニングへと向かった。
次の週、海斗の部活が休みに入り、城崎一家は毎年恒例の家族旅行へと出かけた。城崎家では、毎年家族で海に出かけていたが、この二年、海斗と岳斗と連続して高校受験だったので、泊りがけの旅行には行っていなかった。つまり、今年は三年ぶりの泊りがけの家族旅行なのである。両親は張り切って、岳斗の受験が終わるや否や、飛行機とホテルの予約をし、沖縄旅行が実現したのであった。
三年前は海斗も岳斗も中学生で、まだ世間から見れば子供だったので、親子で飛行機に乗る事など普通だったが、今回は大人ばかりでなんだか妙な気がする岳斗だった。羽田空港には人が溢れ、外国人も多くいるが、それでも海斗は何となく目立っている。若い女性同士の旅行客などは、悉くこちらを振り返る。こそこそキャッキャとしながら。沖縄旅行ということで、Tシャツ短パンサンダルといういでたちの彼らである。更に、サングラスも持ってきていた。岳斗は、早速海斗にはサングラスを掛けさせた方が良いと思った。
「海斗さ、いっそ芸能人にでもなったら?」
だが岳斗は、サングラスをしろ、ではなく、そう言った。
「興味ない。」
海斗は即答した。俺ってかっこいいよな、と得意になったりしないのだろうか、と岳斗は考えた。むしろ煩わしいと思っているのだろうか。有名人になったらこんなものではないだろうし。それか……もしかしたら、自分が有名になったら岳斗が誰の息子かという事が表沙汰になることを心配して……というのは考え過ぎか。
飛行機に乗り込み、通路をゾロゾロと並んでゆっくり歩いて行くと、既に座っていた外国人の老婦人が、
「彼、俳優さん?」
と、岳斗に問いかけてきた。片言の日本語で。
「いえ、違います。」
と、岳斗は答えたが、周り中が一斉に海斗を見た。岳斗の前を歩いていた海斗を。老婦人は、これだけ顔が良くて背が高い日本人は、俳優かモデルくらいしかいない、と思ったのだろう。それでも、東京中探せばたくさんいるはずだ。だが、岳斗の知っている人間で、これほどの一般人はいない。それを、毎日見ているのだから、自分はなんて幸運……いや、不運か。どちらなのかよく分からないが、見ている事自体は、悪くない気がする岳斗である。むしろ、出来ればずっと見ていたいかもしれない。あまりジロジロ見ているわけにもいかないから、意外に毎日会っていても、それほど海斗の顔を眺めてはいないものなのだ。
那覇空港に着いて、レンタカーを借り、ホテルへと向かった。家族だけになって、やっと安心した岳斗。空港でもレンタカーを借りるところでも、海斗が非常に目立っていて、一緒にいる自分までジロジロ見られて、落ち着いていられなかったのだ。見られるというのは、けっこうしんどい、疲れる、と岳斗は思った。海斗はいつも大変だな、と改めて思う。海斗は至って普通だった。家族とも時々話すし、洋子が写真を時々撮るが、それにはちゃんとポーズをとって応えていた。周りの目を意識している様子もない。勝手に写真を撮っている人がいると、隆二が海斗とそのカメラとの間にさっと入るのを岳斗は見た!そうやって息子を守っているのだという事に感心した。自分もそんな風に海斗を守らないといけないかもしれない。今までの恩返しも含めて、それは岳斗があえて買って出るべき事かもしれない。学校でも。と思った岳斗だが、あまり自信が持てない。
大きなホテルに着いた。プライベートビーチを持っていて、プールもあり、豪華なホテルだ。チェックインの順番を待つため、ロビーのソファに座った。
「すごいホテルじゃん!父さん、母さん、ありがとう!」
岳斗はけっこうはしゃいでいた。洋子は岳斗の頭を撫で撫でした。洋子もはしゃいでいて、
「まず海に行く?それともプール?部屋に入ったらすぐに水着に着替えないとね。」
と言う。
「まずは昼飯じゃない?」
海斗はそう言ったが、
「じゃあ、水着に着替えてからランチね!まずは海に行こうよ。」
と、洋子。洋子は海が大好きなのだ。ランチの時間も惜しい様子だ。隆二はそんな洋子を見て微笑んでいる。
城崎家の番が来て、チェックインを済ませた。もう大人四人なので、二人ずつ二つの部屋に分かれて宿泊しなければならない。和室のあるホテルなら四人部屋もあるが、洋風のホテルでは、四人で一部屋に泊まろうとすると大抵ベッド三つにエキストラベッド一つという事になる。エキストラベッドは小さい。昔は一つのベッドに海斗と岳斗が二人で寝ていたが、もうそういう訳にも行かないのだ。
そう言えば、と岳斗は思い出した。岳斗が城崎家に来た頃、岳斗は独りになるのが怖くて、いつも海斗にくっついていた。ちゃんと岳斗の個室とベッドをしつらえてもらったのに、風呂に入るのも、ベッドに寝るのも一人では嫌で、海斗と一緒だった。海斗もよくこんな自分を疎ましく思わなかったものだ、と岳斗は思った。いつも岳斗を受け入れ、一緒に寝てくれた。それを、今更ながらに思い出したのである。
いつの間にか、岳斗は独りでも怖くなくなっていた。外に友達もできたし、海斗と一緒にいたくて始めたサッカーも辞め、土日に海斗と別行動をするようになって、徐々にべったりではなくなっていったのだった。
両親の部屋と岳斗たちの部屋は隣同士で、部屋の前で別れた。十五分後に水着に着替えて出発しようと約束して、それぞれの部屋に入った。
「うわっ、部屋から海が見える!」
岳斗はまだはしゃいでいた。部屋は十五階で、眼下にはプールのある中庭が見えていた。
「ふー、疲れた。岳斗は旅に強いな。」
海斗がベッドに横になってそう言った。だから、海斗は人に見られているから余計に疲れるんだって、と岳斗は思ったが、それは言わない。ああ、そしてこの、人の多いプールなどに出かければ、また大勢の人に見られて疲れるのだろう、と岳斗は中庭を見やった。
十五分後、部屋をノックする音が聞こえ、岳斗たちも部屋を出た。ノックしたのは洋子だ。水着の上に全員パーカーを着て、ビーチサンダルを履いて、出発だ。エレベーターで一階へ行き、中庭へ出る。
「だから、昼飯でしょ。」
海斗がそう言って、四人は中庭からまたホテルの中に引き返し、一階にあるレストランで食事を摂った。
さて、食事も終わり、ビーチへ。外には照り付ける太陽。洋子はサングラスをし、フードを被った。ビーチに出ると、バナナボート乗り場があった。ホテルのプライベートビーチなので、混雑しているほどではなかった。隆二は荷物を持っていると言って留守番をし、洋子と二人の息子はバナナボートに乗った。その様子を隆二がビデオに撮っていた。
シュノーケリングもできるそうだが、今日はこれからプールに行こうという事で、ホテルの中庭へ戻った。今度は隆二に代わって岳斗が荷物番をすると言って、皆の荷物を預かり、パラソルの下に腰かけた。岳斗は特別水泳が得意なわけでもない。海は好きだが泳ぎたいわけでもない。
パラソルの下にはテーブルと椅子があり、飲み物を買ってくればそこで飲める。綺麗な色のジュースを飲んでいる人を見て、岳斗も欲しいなあと思いつつ横目で見ていると、隣の椅子に人が座った。
お酒と思われるドリンクを持ってきたその男性は、椅子をわざわざ岳斗に近づけて座った。なんだこの人、と岳斗はその男性を一瞥した。すると、男性は岳斗の事をジロジロと見ている。そして、
「Where are you from?(どこから来たの?)」
と話し掛けてきた。
「トーキョー。」
と、岳斗は答えた。するとその男性は、テーブルの上に置いていた岳斗の腕を、指先でツーッと触った。
「え?」
岳斗はびっくりした。
(何?セクハラ?痴漢?それとも何か別の意味があるのか?)
「ヘイ!」
いきなり岳斗の腕が掴まれ、その男性の指から放された。今度は誰?!とパニックになった岳斗。
「何してんだよ、おっさん!」
それは海斗だった。
「Are you his boyfriend?(君、彼のボーイフレンド?)」
「イエース!Don’t touch him!(彼に触るな)」
海斗がそう言うと、男性はチッと舌打ちをして去って行った。
(いやいや海斗、英語分かってるか?そこはイエスじゃなくてノーだろ。周りの日本人が理解していませんように。)
岳斗は心の中で祈った。
「岳斗!お前、無防備過ぎるだろ。ちゃんと抵抗しろ!」
「か、海斗、何でそんなに怒ってるんだよ。」
岳斗がそう言うと、海斗は黙った。
「でも、ありがと……。」
だが、助けてくれたのだ。岳斗は一応礼を言っておいた。と、その時岳斗の目に、パーカーを脱いだ海斗の上半身が、その立派な筋肉が映った。さらに、髪が濡れていて水も滴るいい男、というやつだ。ほらほら、ビキニ姿の女子たちがキャピキャピし始めたぞ、と岳斗は思った。
「ねえ君たち、私たちと一緒に遊ばなーい?」
などと声を掛けてきた女性も。かなり年上だと思われる。相手は岳斗の事も誘っているようだが、どう考えても海斗が目当てなので、岳斗は自分が断るのは筋違いだと思い、海斗を見ていた。海斗は無視するようだ。
「岳斗、部屋に戻ろう。」
海斗はそう言って、岳斗を促した。岳斗は両親の荷物を持って、歩き出した。
「父さん、俺たち部屋に戻ってるから。タオルとパーカーはそこに置いておくぞ。」
海斗はプールにいる隆二にそう声を掛けた。タオルはホテルのタオルで、使ったらホテルの入り口にあるボックスに入れておけば、また新しいタオルをエレベーターホールから持って行っていいのだ。海斗は自分の体を一枚のタオルで拭き、ボックスに入れ、岳斗の手からパーカーを受け取って羽織った。ホテル内は水着での往来禁止となっている。
部屋に戻ると、海斗はすぐにシャワールームに入ろうとして、
「お前も来いよ。」
と言う。
「いや、海斗が先に使っていいよ。俺はもう乾いてるし。」
岳斗が断った。すると海斗は、
「でも、海に入ったんだから、そのままベッドに腰かけない方がいいだろう。早く流して着替えた方がいいよ。」
と言う。
「立ってるから、いいよ。海斗が先に着替えなよ。」
岳斗がそう言うと、海斗はそれ以上何も言わず、独りでシャワールームに入った。当然だ、と岳斗は思った。いくら男同士とはいえ、狭い部屋で一緒に脱ぐなど変だ、と。
海斗がシャワーを浴びている間、岳斗は窓の下を眺めていた。さっきの外国人は、なぜ自分の腕を触ったのだろう、と考えた。水着の女の子がたくさんいるところで、自分なんかをいじって何が楽しいのだろう、と。やはり、あの人はゲイだったのだろうか。だから、海斗が来た時にお前はボーイフレンドなのかと聞いたのだろうか。岳斗はそう考えると、腕をツーッと触られた事が、急に気持ち悪く感じて、寒気が走った。
「大丈夫か?」
海斗がいつの間にかシャワーを終えて出てきていた。腰にタオルを巻き、小さいタオルで髪の毛を拭いている。
「う、うん。平気、平気。じゃ、俺シャワー浴びるね。」
岳斗は急いでシャワールームに入った。
食事を済ませ、みやげ物店を覗いたりして、家族で一階を徘徊しているうちに、辺りはすっかり暗くなった。中庭に小ステージがあり、誰かが歌ったり、子供を集めてゲームをしたり、様々なイベントが行われていた。部屋に戻ってすぐ、打ち上げ花火の音がして、窓の方を振り向いた岳斗はびっくりした。ホテルのプライベートビーチから打ち上げられていて、すぐ目の前で花火が弾けた。
「すげー!近い。」
海斗もさすがにはしゃいだ。二人はそれぞれベッドに腰かけ、花火を見た。オーとか、ワォとか言いながら見ていたが、その花火も終わり、イベントも終了した夜十時頃、海斗が急に立ち上がった。
「岳斗、花火やろうぜ!」
と言う。
「花火、今見たじゃん。」
「いや、打ち上げ花火じゃなくて。売ってたの見たんだよ。ビーチでやろうよ。俺たちだけで。」
確かに、子供の頃は夜にビーチになど行かれなかったし、それは楽しいかもしれない、と岳斗は思った。両親は酒を飲んでけっこう酔っぱらっていたので、今頃部屋で寝ているだろう。海斗と岳斗は二人で部屋を出た。
売店で花火を一袋買い、ライターと口の広い缶の飲み物を買った。飲み物を二人で飲み干す。ここに水を入れて燃え尽きた花火を入れるのだ。海へと繰り出すと、砂浜は真っ暗だったが、ホテルの灯りのお陰で、足元が完全に見えないわけでもなかった。遠くで同じように花火をやっている若者たちがいたが、岳斗たちが花火を始めると、まもなくホテルへ戻って行った。そして、完全に静かになった。
花火が盛んに燃えている時には、お互いの顔が見えるが、消えてしまうと暗くて見えない。そうやって、お互いの顔を見たり、花火を見たりしていたが、残すところ数本の線香花火のみとなった時、海斗はその場に尻をついて座った。なので、岳斗も隣に座った。海斗は手にした線香花火に火を点け、足の間でそれを灯す。その海斗の顔を見ると、すごく美しかった。岳斗も線香花火に火を点けた。線香花火を見て、ふと海斗の方を見たら、海斗は岳斗の顔を見ていた。
今まで、海斗はこんな目で自分を見た事があっただろうか、と岳斗は思った。こんな、熱い目で。なぜだか岳斗の胸は締め付けられるように感じた。鼓動も速くなる。
(どうしたんだ、俺……。)
ポトッと線香花火の先端が落ちた。海斗の花火も落ちて、辺りは暗くなった。一瞬何も見えなくなり、岳斗は思わず海斗の方に手を伸ばした。すぐ隣にいるのだから、手を伸ばせばすぐに触れる。岳斗は海斗の腕を握った。すると、海斗は反対側の手で岳斗の手を握った。目が暗闇に慣れてくると、岳斗には海斗の顔も見えるようになってきた。まだ、さっきの熱い目で岳斗を見ている。
はっ、いけない、と岳斗は思った。とっさに立ち上がった。
「帰ろう。」
岳斗がそう言うと、海斗も立ち上がった。
「そうだな。」
言葉少なな二人は、花火の片づけをし、部屋に戻った。もう一度それぞれシャワーを浴び、ホテルの浴衣に着替えた。
岳斗は急に緊張した。この、二人だけの部屋。ベッドが二つあって良かった……と考え、自分は何を考えているのだ、と焦った。兄弟なのに。いや、本当の兄弟ではない。海斗にとっては、ずっと兄弟ではなかったのだ。だが、幼馴染、親友だと思えば、別に二人でホテルに泊まっても良いではないか。それなのに、なぜ変な感じになっているのだろう。そうだ、海斗がやたらと顔がいいから変に取ってしまうだけなのだ、自分が意識し過ぎなのだ、と岳斗は考えた。岳斗は海斗の方を見ないようにして、ベッドにもぐりこみ、海斗に背中を向けて眠ろうとした。だが、なかなか寝付けなかった。海斗が今どうしているのか、どんな顔をしているのか、眠ったのか……気になって仕方がない。岳斗は寝返りを打って海斗が寝ている方を向いた。
すると、海斗は両手を枕にして仰向けになっていたが、岳斗が寝がえりを打ったので、岳斗の方を振り返った。目が合う。部屋の灯りは消したのだが、ホテルの中庭にある灯りのせいで、ほんわりと明るい。
「眠れないのか?」
海斗がそう言った。
「うん、まあ。」
岳斗が曖昧に答えると、海斗はベッドを降りようとしている。何をするのかと岳斗が身構えると、やはり、海斗は岳斗のベッドに入って来る!
「なに?なんで?」
岳斗が慌てて言うと、
「一緒に寝ようぜ。久しぶりに。」
と、けっこう嬉しそうな顔で押し入って来る。
「狭いだろ。」
と、岳斗が言っても聞きやしない。海斗はベッドに入ってきて、岳斗のすぐ目の前に横たわる。海斗はやはり美少年だ。ドキドキドキドキ、と岳斗の鼓動が速くなっている。もうこれは自分の事も誤魔化せない。
「岳斗、好きだよ。」
海斗はそう言って、岳斗を抱きしめた。岳斗は、気を失った……のではなく、眠りについた。懐かしかったのだ。いつも、こうやって抱きしめてもらって眠っていた。あの七歳の夏を思い出したのだ。
岳斗が目を覚ますと、目の前に海斗がいた。岳斗は一瞬ドキンとしたが、海斗が眠っていたので落ち着きを取り戻した。岳斗は少し体を起こし、海斗の寝顔をよく眺めた。やはり綺麗な寝顔だ。眉が秀で、まつ毛が長く、鼻筋が通り、唇が……。触りたい、と岳斗は思った。触ってみたい。しっとりしているのか、柔らかいのか、どうしても知りたくなった。我慢できなくなり、恐る恐る手を伸ばす。そして、唇にそっと触れる。と、海斗の目が開いた。岳斗はびっくり。だが、海斗の方がびっくりしたようだ。焦点を岳斗の顔に合わせた途端、
「うわぁっ。」
と叫んでいきなり上半身を起こした。びっくりした海斗にびっくりした岳斗。一瞬二人して黙ったが、海斗は一息つくと、またベッドに倒れ、肘をついて岳斗の方を向いた。
「おはよ。」
海斗が言い、
「おはよ。」
岳斗が返す。一つのベッドに二人で横たわる、の図。
「岳斗、お前寝付くの早過ぎだよ。」
海斗は笑いながらそう言って、岳斗の前髪をいじる。
「だってさ、懐かしかったんだもん。」
岳斗は正直に言った。
「そうだな。昔はいつも一緒に寝てたもんな。お前はいっつも俺にくっついてたよなあ。」
海斗はそう言って目尻を下げる。
「その節はどうも。本当は煩わしかっただろ。父さんや母さんの事も半分取っちゃったわけだし。」
岳斗が上目遣いで海斗を見た。
「いいんだよ。そろそろ親の愛情が重たく感じられてくる年頃だったし、ちょうど良かったんだ。それに、ああ、岳斗が俺にギューって抱き着いてくるのが可愛くてしょうがなかったなあ。それが、大きくなるにつれて可愛げがなくなっていって。」
ハッと短くため息をついた海斗。わざとらしく。
「ちょっとやってみ、ギューって。ほれ。」
と言って、海斗は両手を広げた。岳斗は海斗と目を合わせ、
「んな事できるかい!」
と言ってパッと起き上がった。そこへ、ピロリンとスマホが鳴った。二人のスマホが同時に鳴ったようだ。みると、洋子から家族LINEに連絡が入っていた。
「先に海に行ってるね!午後から車で出かけよう」
と書いてある。今は八時。七時にも実は連絡が入っていて、
「おはよう!先にご飯行ってるね」
と書いてあった。四人旅行のようでいて、二人ずつの別行動になっている。
岳斗と海斗は着替えて朝食をとりに行き、ホテルを出た。水着は着ていない。両親を見に行くつもりで出たのだ。ビーチへ出る。昨日花火をした場所を見て、岳斗は少しドギマギした。
朝のビーチは気持ちが良い。岳斗は、朝の海と海斗を写真に収めた。我ながら素晴らしい写真が撮れた気がした。岳斗が写真を眺めて満足していると、パシャパシャと音がして、振り向くと複数の人間が海斗の写真を撮っていた。ハッとして、父を見習わなければと思った岳斗は、海斗にぴったりくっついて、海斗の写真を撮らせまいとした。海斗は岳斗を振り返り、岳斗の肩に腕を回した。
「おい、そういうんじゃないから。」
岳斗は抗議した。これではまるで、くっついているカップルみたいだ。しかも、それを写真に撮られているのだ。そう、岳斗はやり方を間違えたのだ。海斗にくっつくのではなく、カメラの前に立ちはだかるようにすべきだったのだ。俄かには難しい。もっと海斗を守る術を磨かなければ、と岳斗は思った。
だが、海斗は岳斗の肩に腕を回したまま、海岸を歩き出した。カメラなど無視というわけだ。
「お前さ、今朝、俺の唇触っただろ?」
海斗が言った。気づいていたのか。
「え?いや、触ってないよ。」
ここは胡麻化す岳斗。
「本当かー?」
「うん。」
だが、岳斗は思わず笑ってしまった。そして、走って逃げた。海斗が追いかける。砂浜は走りにくい。そして、足の長い俊足の海斗には、当然捕まる岳斗。二人は意味もなく大笑いした。
昼前に、隆二の運転するレンタカーで美ら海水族館へ行き、夕方にはホテルに戻ってきて、プールで泳いだ面々。また海斗に女子が群がった事はもう語るまい。夕食を済ませ、両親はバーで飲むと言って別行動になり、岳斗と海斗は部屋でまた花火を見た。だが、昨日打ち上げ花火を見た時とは少し違う感じだった。
昨日と同じように、岳斗は自分のベッドに腰かけて窓の外の花火を見ていた。すると、海斗が岳斗のベッドに座った。つまり、岳斗の隣に。なんだろうと思って岳斗が海斗の顔を見ると……。
また、夕べビーチで見た時のような目をしていた。
(どうしてそういう目で俺を見るんだよ。その目を見ると、胸がどうかしてしまうんだ。)
「な、なに?」
沈黙が苦し過ぎて、岳斗は言葉を発した。海斗は、立ち上がって部屋の中をうろうろし始めた。岳斗には訳が分からない。
「海斗?どうしたんだよ?」
「岳斗が、可愛過ぎるんだよ!」
ちょっとイライラしたような口調で、海斗がそう言った。岳斗の方を見ずに。岳斗は、開いた口がふさがらない。もしくは目が点。岳斗は頭をがしがし掻いた。更に首をかしげる。解せない。自分のどこが可愛いのか。いや、顔の問題ではないのかもしれない。自分はきっと、海斗にとっては可愛い弟なのだろう。
バババーンとひと際激しく音が鳴り、花火は終わった。部屋が少し暗くなる。
「海斗、分かったよ。ギューってして欲しいんだな?してやるよ。」
岳斗は諦めて、そう言った。今朝の話だとそんな感じだったよな、と岳斗は考えたのだ。海斗がパッと振り返る。岳斗は立っている海斗の方へ歩いて行き、昔のように首に腕を回して、ギューっと抱き着いた。そして、離れた。やれやれ。きっと昔と違って可愛くないなどと言い出すのだろう、と思った岳斗。
しかし、海斗の方を振り返ると、海斗は……倒れた。ベッドの上にだが、仰向けに倒れた。岳斗は海斗の事は放っておいて、シャワーを浴びた。今日は疲れたから、さっさと寝てしまおう、と心の中で呟きながら。
朝になって目が覚めた岳斗。海斗を探すと、トイレから出てきたところだった。
「おはよう。」
なんだか、ずっと前から起きていたような顔をしている海斗。
「おはよ。眠れた?」
岳斗はそう言って、二人のベッドを見比べた。どうやら、夕べはそれぞれのベッドで寝ていたようだ。岳斗は自分のベッドの真ん中で寝ていたし、海斗のベッドも使用後の様相だ。
「んー?まあね。」
海斗は曖昧に答えた。どうやらあまり眠れなかったようだな、と岳斗は思った。
旅行も最終日を迎えた。那覇市内を観光した後、飛行機に乗って羽田へ。飛行機の中で、海斗はずっと眠っていた。洋子が時々、海斗の寝顔を見ては岳斗の方を見てクスッと笑うのだった。岳斗には分かる。可愛いね、と言いたいのだという事が。