「だぁーかぁーらぁー、卵は一日一人一個まで! ほら、ちゃんと冷蔵庫のここに、メモ貼ってあるでしょ?」

「えーだって、どおおおしてもお腹すいて、でもろくな食材がなくて仕方なかったんだよ」

「いやいやいや、だったら買い物くらいしてきてくれてもいいじゃん? こっちは仕事なんだし」

「私だって、ちゃんと仕事してるんだって」

「どんな?」

「“家主不在の家を守る”って仕事」


 あっけらかんとした物言いで、めちゃくちゃなことを言っているニートな彼女。
 チカッ……チカチカチカッ
 切れかけた蛍光灯がなおっていない。昨日の夜、あれだけ今日のうちになおしてくれるって言ってたのに。
 フライパンに焦げついた、卵の端くれをじっと見やる。
 食器も料理器具も洗ってくれていないなんて、いくらなんでもあんまりだ。
 はあ……もう、どうしてこんなことになってるんだろう。
 それもこれも、すべてあの日から始まった。
 時は二ヶ月前に遡る。
◇ ◇ ◇

 きらきらと雨上がりの澄んだ秋の空に、翼を大きく広げた渡り鳥が飛んでいく。トワイライトの空の下、頭上とは言えないくらいずっと遠く、高い位置で悠々と羽を広げる。あまりにも潔く、格好の良いその姿に、代々木公園からたった今足を踏み出したばかりの私は、野鳥観察をする人のように呆気にとられた状態で彼らの行末を見守っていた。視界の端っこからちぎれるようにして彼らの姿が見えなくなると、ようやく視線を空から地上へと戻す。ふう、と吐く息が今日一日の出来事をすべて洗い流してはくれないかと、意味もないことを願った。

 十月も半ばに差し掛かり、公園に生える木々が黄色く染まり出した今日、私は付き合っていた彼氏——健太(けんた)にフラれた。

「明日、仕事休みだろ? 代々木公園で会えない?」と言われたのはつい昨日の晩のことだ。交際期間が五年を過ぎて、メッセージや電話でのやり取りは事務的なものが多くなった。付き合いたての頃は取り留めのない日常の話や、後で読み返して自分で恥ずかしくなるほどの愛の囁き合いをしていたというのに、五年も経てばこのザマだった。
 それ自体、まあよくあることだとは思っていたものの、実際に自分がその立場になるとやっぱり寂しかった。事務職の仕事をする傍ら、いつか健太と結婚をして、彼の夢であるレストランを一緒に開くことを夢見ていたから、今日、彼にフラれたのは衝撃以外の何ものでもない。

 二十九歳——世間的には結婚をして、子供がいてもおかしくない歳に、長年付き合っていた彼氏からフラれた。
 これが人生においてショッキングな出来事ではなくして、一体なんだというのだろう。
 彼が去っていった後の公園から一歩踏み出して視界に映り込んだ渡り鳥の群れを、自分とは正反対のものとして感じてしまったのもそのためだった。

 今の自分には翼がない。
 彼と夢見ていた二人の将来は、突如として潰えてしまった。
 羽をもぎ取られた私は、前に進むことも後ろを振り返ることもできない。
 沈みかけた船に足を踏み入れて、間違えたと思ってももう遅い気がして。
 二十九歳のいい大人の私は、迷子になった子供みたいに、その場に立ち尽くしていた。
「ただいま」
 
 なんとか自我を保ったまま幡ヶ谷(はたがや)三丁目にある自宅へと辿り着く。誰もいない部屋なのに、つい「ただいま」と呟いた。
 1LDKの家は、一人暮らしをするには十分に広い。
 それもこれも、健太がいつ泊まりにきてもいいようにと選んだ部屋だからだ。会社から出るわずかばかりの家賃補助で高い賃料を払っていた。東京の中ではまだ安い方だけれど、地方に住んでいる人からすれば十分に高い家賃だ。さすがに、この歳にもなればユニットバスは嫌だし、間取りや内装にもそれなりにこだわりがある。不動産会社でいろいろと要件を伝えて、高過ぎない家賃で理想を叶えてくれる家が今住んでいるマンションの一室だった。

 今日は仕事をしていないはずなのに、働いた後よりもずっと身体が疲れている。何も考える気力がなくて、スマホを放り出してベッドにぼふんと身を投げた。

 時刻は午後六時半。いつもならお腹が空いてくる時間なのに、今日ばかりは彼からフラれたショックで食欲が沸きそうにない。せめて何か栄養を摂取しなければと冷蔵庫を開けたけれど、普段からほとんど自炊をしない私は、冷蔵庫に気の利いた食品のストックは持ち合わせていなかった。

 料理は健太がしてくれたからな……。
 同棲こそしていなかったが、健太は頻繁にうちに上がりこんでいた。彼は実家暮らしだったので、私の方が彼の家に行くことはなかった。イタリアンレストランを経営することを目標にしていた健太だったので、彼の料理は文句なしに美味しかった。特に好きだったのはラザニアと、特製手作りマルゲリータ。どちらもトマトの香りが鼻から抜けて、私の好みに合っていた。普段からコンビニ弁当ばかり口にしていた私は、健太の料理を食べる時ほど幸せだと感じる時間はなかったのだ。

 そんな健太の大好きなご飯も、もう食べられなくなる。
 一気に現実の世知辛さを思い知り、枕に顔を沈めて泣いた。
 この歳になれば、失恋で泣くこともないんだろうって勝手に想像してた。でも違う。失恋はいつだって辛く、まるで自分が十代の少女に戻った時みたいに感情の整理がつけられなくなる。いや、むしろアラサーという年齢だからこそ、傷つく量が増えているのかもしれないな。

 枕に必死に顔を押し付けているのに、涙がとめどなく溢れた。このまま、夜が明けるまで枕を濡らし続けるのかもしれない——なんて本気で考え始めた時だ。

 ピンポーン

 部屋の中に軽快なチャイムの音が響き渡り、全身がぴくりと跳ねた。
 宅配か何かだろうか。
 それなら、玄関先に置いてもらうように伝えよう——と、インターホンの画面に近づいた。ちなみに我が家はオートロックではないので、インターホンを鳴らした人はすでに玄関の前にいることになる。

 玄関外の映像を映し出す画面を見てびっくり。そこに映っていたのは明らかに宅配の人ではない。

「はい」

 訝しく思いながら、「通話」ボタンを押した。
 女の人だった。歳は自分と同じくらい——いや、というか、知っている人だ。
 記憶の中でショートカットだった彼女からは想像もつかないほど髪の毛が伸び切っていて、肌も陽に焼けてこんがり茶色みを帯びていた。が、彼女のことを認識できないほどではない。次の一言を放とうと思った瞬間、画面の向こうでこちらの返事を聞いた彼女が「おお」と口を開いた。
「出てくれた! 浪江(なみえ)です。どうもー! 久しぶり。ちょっと荷物が多くてさ、トイレにも行きたくて。中、入れてくれない?」

「カオル? 久しぶり。突然どうしたの? ていうか何その大荷物。え、なんで私の家、知ってるの?」

「細かいことは後で話すー! とにかく入れて! トイレ行きたいの〜〜〜」

 突然の彼女の訪問に面食らう暇もなく、お手洗いに行きたいという彼女の切羽詰まった事情に配慮して、私はあたふたと玄関扉を開けた。

「ありがとう、ちょっとお借りします!」

 使い古してかかとがよれよれになった靴を脱ぎ散らかして、そそくさと私の家に上がり込んでお手洗いの扉を開ける。荷物は玄関先に置いたまま。それにしてもすごい荷物だ……。バックパッカーが持っているような大きなリュックサック、手提げの鞄が三つほど。一体どうしてこんなに大荷物でうちに来たの? というか、そもそもなんでうちに——。

 もうわけが分からなくて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。さっきまで失恋の痛手に苦しんでいたはずなのに、それ以上にテンパっていた。

「ふう〜あー良かった! ぎりぎりセーフ。日波(ひなみ)が家に上げてくれなかったら完全にアウトだったよー」

 呑気な台詞を吐きながら洗った手をブンブンその場で振っている彼女。私は潔癖というほどではないが、突然上がり込んできた彼女がタオルで手を拭かずに自然乾燥を試みているのには若干引いてしまった。

 それから彼女は玄関先に置きっぱなしにしていた大荷物たちを、えっちらおっちらと私の家の中に運び込む。私はまだ何も了承はしていないのだけれど、有無を言わさない勢いがあった。

「いやあ、疲れた〜! 今日だけでもう二万歩も歩いてる。どうりで足が痛いわけだわ」

 私の家の、ソファにへたりこんだ彼女は、疲れたと言いつつハリのある声で吐き出した。

「あの、カオル。ちょっといきなり過ぎて頭が追いついてないんだけど……一から説明してくれる?」

 もはや彼女——高校時代のかつての友人である浪江カオルが我が家に上がり込んで一息つこうとしていることは受け入れざるを得ない状況だった。それはもういい。お茶だって今から準備するつもりだ。それよりも何もよりも、一体なぜ大荷物を持った彼女が唐突に我が家に上がり込んできたのか、その理由を知りたかった。
 私が純粋な疑問をぶつけた後、彼女は目を丸くして不思議そうに瞬きを繰り返した。テレビCMで見かけるような美人な猫を思わせるその瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
 ……いやいや、そうじゃなくて。一体なぜ、あなたがそんな目をして私を見ているの?

「あれ? LINE入れたけど見てない?」

 彼女にそう言われて初めて、私はベッドの上に置き去りにされていたスマホを素早く手に取る。家に帰ってきた時、自暴自棄になってスマホをベッドの上に投げ捨てていた。LINEを開くと、見たくもないのにピン留めされた健太とのトーク画面が一番上に表示されている。しかも、彼からメッセージが一件。「日波の家に置いてる私物、明日以降に取りに行く」——事務的な一文に、この騒動で忘れかけていた傷口が開いた。

 しかし、今は健太からのメッセージにいちいち感傷的になっている場合ではない。
 健太とのトーク画面の下に表示された新着メッセージに視線を移す。「浪江カオル」のアカウントから、確かにメッセージが届いていた。
 時刻でいうと、今日の午後三時半ごろ。その時私は代々木公園で健太と最後のデートをしていた。だから、LINEなんて見ていなくて。その後の展開はお察しの通り。健太にフラれ、スマホを見る気力すらなかった。

 カオルからのメッセージは「久しぶり! 急なんだけど今晩泊めてくれない?」というシンプルなものだった。返事をしていないのに突撃してきたのは、自由奔放な彼女の性格を考えれば何もおかしなところはない。
 カオルとは高校時代からの付き合いだ。大学まで同じだったのだが、彼女は大学四年生の春に、「世界一周しに行ってくる」と言ったきり、大学に現れなかった。その頃私は就職活動に追われていて、あまり他人のことを気にする余裕もなく。けれど、就活の大事な時期に世界一周をしに行くという彼女の言葉には、度肝を抜かされた。

「いつ帰ってくるの?」

「うーん、分かんないけど、多分一年はかかると思う!」
 
 飄々と言ってのける彼女に対し、私は異星人でも目にしているかのような心地にさせられていた。大学四年生のこの時期に世界一周して一年も帰ってこない? なんだそりゃ。しかも、カオルはその時まだ就職先だって決まっていなかった。時々、早い時期に会社から内定をもらっている人を見かけたが、カオルは違った。そもそも、就活をしているそぶりすらない。

 驚いている私をよそに、カオルはそれから二週間もしないうちに、本当に世界一周旅行へと旅立ってしまった。その後、彼女は一年して日本に帰ってきて、一年留年して大学を卒業したと聞いた。その後のことは本当に分からない。旅をプロデュースするベンチャー企業に就職したという噂もあったけれど、共通の友人から「カオルならまた海外だよ」と聞かされた記憶も新しい。とにかくカオルは、破天荒で自由奔放な女なのだ。

「……メッセージは見てなかった。ごめん。でもさ、なんで私の家なの? 他にも友達いるでしょ。私たち、社会人になってから全然やり取りもなかったじゃん」

 私は当然疑問に思っていたことを尋ねた。よりによってなんでこんな日に、どうして私の家を選んだんだ——そう問いただしたくて、つい強い口調になってしまう。
 けれどカオルは、私の言葉の裏に潜むわずかばかりの苛立ちにさえ気づいていない様子で、あっけらかんとした口調で言ったのだ。

「えーだって、約束したじゃん。高校生の時、『お互い三十歳まで独身だったらルームシェアしようね』って」

「……は?」

 カオルに言われて絶句する。そんな約束したっけ? 高校時代といえば、もう十年以上も前の話だ。彼女とルームシェアをする約束……あ、そうだ。確かにしていた!
 頭の中に閃光が駆け抜ける。
 高校のセーラー服に包まれた私とカオルが、三年二組の教室の前後の席でお弁当を食べている。あの頃、私はカオルと仲が良かった。というと今は違うのかと思われるかもしれないが、最近は疎遠になっていたから、仲が良いとは違う気がして。あの頃の彼女は、私の持っていないその楽観的な明るさを周囲に振り撒いて、それでいて「自分が主役!」なんて鼻にかけるようなところもなく、私にはとても爽やかで眩しく映っていた。
 
 まあ、明るくて自由な感じは今も変わっていないようだけど。
 とにかく私は毎日カオルとお弁当を一緒に食べて、休日には映画を見に行ったりカラオケに行ったりしていた。どちらかと言うと真面目で根暗な私がカオルと一緒にいると、他のクラスメイトたちからは「凸凹(でこぼこ)コンビだよね」と揶揄われることもあった。けれど、カオルはそんな周囲からの評判さえ、「凸凹だって。確かに私ら、身長差十五センチもあるもんね!」とケラケラ笑っていた。百六十五センチのカオルと、百五十センチの私は、確かに見た目からしても凸凹に違いなかった。けれど、カオルが他人の悪意さえ笑いに変えてしまうところが、私には不思議で、心地よかった。

 彼女の隣にいれば、その明るい性格が移るような気がして、喜んで隣を歩いていたように思う。
 高校三年生の時、当時放送されていたドラマに二人してハマったときも、教室で彼女が大きな声で感想を語りながら、「日波はどう思う?」と私に意見を求めてきた。カオルとドラマについて一緒に話したくて、私もカオルが見ていたドラマを一緒に見た。婚活中の女性がダメ男に次々ハマっていくというブラックラブコメのような話だったと思う。

「私は、できれば三十歳までには結婚したいかなあ」

「うん、分かる分かる。晩婚化で平均初婚年齢が上がってるって言うけどさー、中央値で見たら、みんな普通に二十代後半で結婚してるんだよー。平均って言葉、本当にトラップだよね?」

 数学の授業で習った「平均値」や「中央値」をここぞとばかりに強調しながらカオルは笑っていた。そうだ。あの時だ。彼女が一緒に住みたいと言い出したのは。

「私たち、もしお互い三十歳になっても独身だったら、ルームシェアしない? きっと楽しいよ」

 ルームシェア、という響き自体、若い自分たちには新鮮で、キラキラしたお祭りのような華やかな想像を掻き立てられるものだった。女二人でルームシェア。なんて楽しそうなんだろう。それならいっそのことわざと彼氏はつくらないでおこうかな——なんて、十八歳の私は呑気にそんなことさえ考えていた。

「いいね、しよう。三十歳になって独身だったらね。あ、でもどっちかが既婚者だったらすごく切ないよね」

「まあ、それも十分ありえる。そんときはそんときで、老後に旦那に先立たれて一人になったらまた一緒に暮らそう!」

「なにそれ、気早過ぎ」

 結婚して、夫に先立たれて、独り身になったあとにルームシェアしようなんて、そこまで計画を立てるカオルがあまりにおかしくて。私はお腹を抱えてくつくつと笑っていた。
「……思い出したわ。確かにそんな約束した。てことはカオル、今晩だけじゃなくて今日から私と一緒に暮らすつもり?」

「ご名答!」

 ふふん、と得意げに鼻を鳴らす彼女を見ていると、高校時代の底抜けに明るい彼女の姿と重なった。やっぱり変わっていない。
 
「なるほど、あんたの言いたいことは分かった。でもね、まず前提が間違ってる。私、まだ三十歳になってないよ。誕生日、来月だよ。だからまだ約束の期限は来てないの」

「えーそうだっけ? あ、そっか。日波の誕生日、十一月だったか。てっきり十月だと思い込んでた。ごめんごめん」

「……そう。だからあいにくだけど、まだルームシェアするには早くない?」

「え、でもさ、一ヶ月なんて誤差だよ誤差。それとももしかして、日波って来月までに結婚する予定とかある!? そうだったら諦める……だってさすがに新婚夫婦の邪魔はできないし」

「いや……そんな予定はございませんが」

 しまった。自ら失恋の傷を抉るような話の持っていき方をしてしまったと後悔する。カオルと話している間は健太のことなど忘れられていたのに、結婚の話になるとつい健太の顔が浮かんでしまう。

「そっか、それならいいじゃん! 誕生日、私が盛大にお祝いしてあげるから!」

 ぱあっと子供みたいに純粋な笑顔をこちらに向けて、両手で私に握手を求めてくるカオル。私は、強引に迫ってくる彼女のその手を振り払うこともできず、握ってしまった。結局私は、今でもカオルに対して憧れがあるのだ。仕事や上手くいかない恋愛に囚われてうじうじ悩んでしまう自分とは対極にいる人間、それが彼女で。だから彼女の隣にいれば、人生が明るい方向へと転じていくような気がするのは、昔から変わらなかった。

 カオルは私の手を取って「よろしく!」とブンブン上下に振った。お、おう、とその勢いに流されるだけの私。それでも心はなぜか充足している。健太にフラれたからって何だってんだ。あんな男、こっちから願い下げてやる——なんて、強気で言い返せそうなぐらい、今の私はカオルの波のような激しい勢いに押されていた。
 
 こうして私は、かつての友人、浪江カオルと共同生活を始めることになったのだ。