一瞬。ほんとうに、僅かな時間っだったけど。
 黒髪の青年と目が合ったとき、心臓がどくんって跳ねた気がする。
 たぶん半裸のせいでドキドキしてしまった、という理由もあるけど、それだけじゃない。
 綺麗だったの……瞳が。
 これまでどの男性も、あんなに深い黒を持っていなかった気がする。
 もちろん、トランスインプレッションの光が出てしまってたから、すぐに逃げなくちゃって思ったのだけど。でもそれくらい、印象的な人だった。

(あの人……何者なんだろう。もう一人の方の身なりがすごくきちんとしていたから、ローヴェルグ公爵家と何か関係が?)

 いえ、それより――。
(私の獣紋、いったいなんの動物なの?)
 過去と同様、めったに光らない希少紋だと思ってたのに。
 二人の青年の前では、あっさり光ってしまった。黒髪の人が印象強すぎたけれど、もう一人の青髪の人も同様に光っていたのがわかる。
 ……となると、あの二人は同じ獣なんだろうか。

 そのときカランカランと鐘が鳴った。乗合馬車の出発の合図だ。
 予想より早い。速度を上げて林を突っ切り、はぁはぁと息を切らせて馬車のある場所まで戻る。
 迷わずに戻れたのは、休憩所からあがっている赤い旗が目印になってくれてるおかげだった。

「コルルさん、どうしたの? なにかあった?」
 馬車にもどってすぐ、荷物から水袋を取り出し、ごくごくと飲んだ。
 となりの席にはジュレさんが座っている。「予想よりも御者が早く到着したみたいなのよ。乗り遅れなくてよかったわ」と話しかけてくれるけど、しばらく息を整えるのに必死で返事ができなかった。
「す、みません――ぎりぎりになっちゃって」
 するとジュレさんは、手袋をしている私の手を取り、まじまじとその甲を見つめる。
「その光、トランスインプレッションね? おめでとうって言っていいのかしら」
「あっ」
 とっさに手を隠す。光が漏れていたらしい。手袋をしているから獣紋まではわからないだろうけれど、ちょっと迂闊だったかもしれない。
「で、好きになれそうな人だった? 再会の約束は?」
「いえ……、事情があるので、お祈りだけで終わらせてきました」
 すなわち「今後のお付き合いはお断りですよ」の意味合いだ。
 するとジュレさんは「あらー、残念」と肩をすくめ微笑する。
「まぁ、獣紋が合致しても好みとは限らないでしょうからね。でも男性のほうはしばらく大変よね。お気の毒に」
 同情するように言うので、「そんなに落ち込むんですか?」と聞き返してしまう。

 そういえば、回帰前は誰の告白もお断りした経験がない。トレミーとは会った瞬間に婚約成立のようなものだったし、思春期でさえ片想いをするような相手はいなかった。ずっと家にいてアカデミーにも通ってなかったから、いわゆる「恋バナ」というものすら交わしたことはない。
 結婚は婚約の延長で進んだし、騙されていたとわかるまではそれなりに相手に尽くしていたと思う。でもそれは、恋愛と呼べるようなものではなかった。ゆえに結婚やトランスインプレッションについては最低限の知識しかないのだ。

「落ち込むというより、トランスインプレのあと数日は、求愛期といってね。相手の女性が恋しくてたまらなくなるのよ。初期衝動ってやつね」
 え、初耳なんですが?
「そのあとは獣の種類によって差が出るの。相手が犬獣だったりすると、愛が深いからずーっと泣きながら長い期間を過ごしてしまうかもしれないわ。逆に、関係が成立して恋人になると、求愛期が終わっても愛が続くそうよ」
「そうなのですか……」
 今さらだけど、自分の無知さを恥じてしまう。回帰前、どれだけ世間と離れて暮らしていたのだろう。これでは両親も心配していたに違いない。 
「なら、犬紋を持つ女性は幸せですね。ずっと大事にしてもらえるもの」
 他愛のない相づちのつもりで返す。するとジュレさんはにこりと笑い、「たしかに犬はいいよね」と自分の左手の甲を見せてくれる。おそらく犬紋なのだろう。自分の紋と同じかどうか確かめてみるけれど、残念ながらまったく違う獣紋だ。
 ジュレさんは、さらに続けた。
「でもさ。私たちは平民だしね。あまり獣紋を気にしたりはしないかも。大事なのは気持ちの強さだと思うよ」 
 やや語調を強かったように思う。それが少し不思議だった。