土曜日の昼下がり。控えめなノック音とほぼ同時に自室の扉が開き、瀬尾がひょっこりと顔を出した。
「入っていい?」
声かけとドア開ける順番、逆じゃない? なんて思ったものの、ひさしぶりに会ううれしさが先に出た。向かっていた勉強机から、ぱっと身体ごと振り返る。
「瀬尾も来てたんだ」
「うん、まぁ」
瀬尾がドアを閉めると、階下から響く和気あいあいとした声が遠くなった。代わりに近づいた声が問う。
「勉強?」
「ううん、本読んでた」
ぱたんと文庫本を閉じて、苦笑を向け直す。
「日向の友達が集団で来る話は聞いてたから、図書館でも行こうって思ってたんだけど、ちょっと寝すぎちゃって」
「へぇ、じゃあ、ちょうどよかった」
「なにが?」
「だって、先輩いなかったら、会えなかったじゃん」
さも当然という雰囲気にまじまじと見上げてみたものの、瀬尾の表情は変わらない。
「いや、……それは、まぁ、そうなんだけど」
というか、おまえ、日向に会いに来たんじゃないの。居た堪れない気持ちでしどろもどろに呟くと、瀬尾は少し困ったふうに眉を下げた。こちらの困惑を察知したらしい。
「ちょっと人数多すぎ。疲れた」
「ああ、そういう」
体のいい言い訳だったと納得して、「座る?」と俺はベッドを勧めた。
日向と違い友達を家に呼ぶキャラではないので、勉強机と本棚のほかはベッドくらいしかないのである。
「え、いいの?」
「いい、いい。あ、じゃあ、なんか布かけよかっか。たしかあった気がする」
母さんが。日向に買い与えたときに、「あんたも友達呼んでいいんだからね」と若干の憐みの目を向けながら、ベッドカバーをくれた気がする。
ほとんど新品のそれをクローゼットから取り出してベッドにかけると、安心した態度で瀬尾が腰を下ろした。なんとも言えず、行儀が良い。こういうところも、昼間シフトのおばさま方に大人気の要因なんだろうな。
隣に座ると距離が近すぎる気がして、勉強机の椅子に腰をかける。ベッドのすぐ隣に机があるから、まぁ、結局、近いんだけど。
「すげ。本当に本いっぱいある。図書館行こうと思ってたって言ってたもんね」
控えめながらしっかりと部屋を見渡した瀬尾の視線が本棚で止まる。物珍しげに眺めながらの感想に、「うん、まぁ」と俺は曖昧に頷いた。
「借りていい? なんかおすすめとかある?」
どうせオタクだって思ってるんだろうな、と。被害妄想を極めていたところだったので、きょとんとした顔を返してしまった。
「瀬尾、本読む人だった?」
「ううん、ぜんぜん」
「えっと、ネット小説とか。それか、小さいころ、実は児童書が好きだったとか」
「ううん」
「ええ、じゃあ、なんで」
「先輩が好きなら読んでみようかなって思ったんだけど、変?」
「変、ではないけど」
たらしだわ、完全に。もごもごと口にしながらも、すくりと立ち上がる。本好きのオタクというものは、他人に自分のおすすめを貸すことが好きなのだ。
張り切って本棚の前に移動して、なにがいいかな、と思考を巡らせる。あまり本を読まないのであれば、読みやすい文体のものがいいだろうか。それとも、ドラマ化になった話題作のほうがとっつきが易いだろうか。
うーんとひとりで唸って、背表紙を眺めたまま瀬尾に問いかける。
「瀬尾さぁ、どんなのが読みたいとかある?」
「どんなの」
「うん。たとえば、ミステリーがいいとか、映画になったやつがいいとか」
「先輩が一番好きな本ってあるの?」
「一番か」
一番と言われると、正直すごく悩んでしまう。そのときの気分で「今はこれが一番」みたいになることもあるし、それに、目立つところに並べている本は気に入っているものばかりだ。
――でも、そうだな。一番か。
上から二段目の一番左端。長らく定位置になっている場所から、目当ての文庫本を抜き出す。めちゃくちゃ流行った本ではないけれど、めちゃくちゃ無名の本でもない。いわゆる「ふつう」の本。
特別なことはなにも起こらない柔らかな文体の小説で、退屈だという評価もあるものの、俺はなにも起こらない感じと、文体からにじむ柔らかい空気が好き。この数年の一押し。
文庫本を手に振り返って説明をすると、瀬尾はあっさりと手を伸ばした。
「じゃ、それがいい。貸して」
「え、……本当に? 俺は好きだけど、けっこう地味な話だと思うよ? あ、文章は読みやすいほうだと思うけど」
「だから、いいって」
ちょっとびっくりするくらいの柔らかい苦笑に、おっかなびっくりで一歩進んで本を渡す。ありがと、と受け取った瀬尾は、立ったままの俺を見上げ、不思議そうに瞳を揺らした。
「っつか、こっち座ったら?」
「あ、じゃあ」
そうしようかな、ともごもごと呟いて隣に腰を下ろす。もしかしなくても、挙動不審だったに違いない。ヤバい、恥ずいな。そっと息を吐いて、俺は右隣を見やった。
ぱらぱらと渡した本をめくる瀬尾の横顔は、テレビから飛び出してきたんじゃないかなと思うくらい整っている。それで性格も良いとか、改めてめちゃくちゃレアな生き物だ。
そんな生き物が、俺の部屋に存在していいのだろうか。むずむずと据わりの悪さを覚え始めたところで、瀬尾がこちらを向いた。
「なに? あ、大丈夫だよ、これ。ちゃんと読めそう。しっかり読むのは家でにするけど」
「あ、よかった」
変に意識しないように気をつけて、首を縦に振る。そういう意味で見ていたわけでは、たぶん、なかったのだけれど。「読めそう」という感想にほっとして、「しっかり読むのは家」という台詞をうれしく思ったことは本当だ。
日向は俺の本に興味はないし、学校でも読書が趣味という友達はいない。だから、余計に。俺が好きだというものに興味を示して、建前だけでなくきちんと読もうとしてくれる瀬尾の姿勢がうれしかった。
――いいやつなんだよな、本当。
「あのさ」
「ん?」
「文化祭の準備、楽しいんだって?」
よかったじゃん、と言うと嫌味に聞こえそうな気がしたので、そちらは呑み込む。きょとんとした瀬尾は「あー……」と迷うような声を上げ、本を閉じた。
「入っていい?」
声かけとドア開ける順番、逆じゃない? なんて思ったものの、ひさしぶりに会ううれしさが先に出た。向かっていた勉強机から、ぱっと身体ごと振り返る。
「瀬尾も来てたんだ」
「うん、まぁ」
瀬尾がドアを閉めると、階下から響く和気あいあいとした声が遠くなった。代わりに近づいた声が問う。
「勉強?」
「ううん、本読んでた」
ぱたんと文庫本を閉じて、苦笑を向け直す。
「日向の友達が集団で来る話は聞いてたから、図書館でも行こうって思ってたんだけど、ちょっと寝すぎちゃって」
「へぇ、じゃあ、ちょうどよかった」
「なにが?」
「だって、先輩いなかったら、会えなかったじゃん」
さも当然という雰囲気にまじまじと見上げてみたものの、瀬尾の表情は変わらない。
「いや、……それは、まぁ、そうなんだけど」
というか、おまえ、日向に会いに来たんじゃないの。居た堪れない気持ちでしどろもどろに呟くと、瀬尾は少し困ったふうに眉を下げた。こちらの困惑を察知したらしい。
「ちょっと人数多すぎ。疲れた」
「ああ、そういう」
体のいい言い訳だったと納得して、「座る?」と俺はベッドを勧めた。
日向と違い友達を家に呼ぶキャラではないので、勉強机と本棚のほかはベッドくらいしかないのである。
「え、いいの?」
「いい、いい。あ、じゃあ、なんか布かけよかっか。たしかあった気がする」
母さんが。日向に買い与えたときに、「あんたも友達呼んでいいんだからね」と若干の憐みの目を向けながら、ベッドカバーをくれた気がする。
ほとんど新品のそれをクローゼットから取り出してベッドにかけると、安心した態度で瀬尾が腰を下ろした。なんとも言えず、行儀が良い。こういうところも、昼間シフトのおばさま方に大人気の要因なんだろうな。
隣に座ると距離が近すぎる気がして、勉強机の椅子に腰をかける。ベッドのすぐ隣に机があるから、まぁ、結局、近いんだけど。
「すげ。本当に本いっぱいある。図書館行こうと思ってたって言ってたもんね」
控えめながらしっかりと部屋を見渡した瀬尾の視線が本棚で止まる。物珍しげに眺めながらの感想に、「うん、まぁ」と俺は曖昧に頷いた。
「借りていい? なんかおすすめとかある?」
どうせオタクだって思ってるんだろうな、と。被害妄想を極めていたところだったので、きょとんとした顔を返してしまった。
「瀬尾、本読む人だった?」
「ううん、ぜんぜん」
「えっと、ネット小説とか。それか、小さいころ、実は児童書が好きだったとか」
「ううん」
「ええ、じゃあ、なんで」
「先輩が好きなら読んでみようかなって思ったんだけど、変?」
「変、ではないけど」
たらしだわ、完全に。もごもごと口にしながらも、すくりと立ち上がる。本好きのオタクというものは、他人に自分のおすすめを貸すことが好きなのだ。
張り切って本棚の前に移動して、なにがいいかな、と思考を巡らせる。あまり本を読まないのであれば、読みやすい文体のものがいいだろうか。それとも、ドラマ化になった話題作のほうがとっつきが易いだろうか。
うーんとひとりで唸って、背表紙を眺めたまま瀬尾に問いかける。
「瀬尾さぁ、どんなのが読みたいとかある?」
「どんなの」
「うん。たとえば、ミステリーがいいとか、映画になったやつがいいとか」
「先輩が一番好きな本ってあるの?」
「一番か」
一番と言われると、正直すごく悩んでしまう。そのときの気分で「今はこれが一番」みたいになることもあるし、それに、目立つところに並べている本は気に入っているものばかりだ。
――でも、そうだな。一番か。
上から二段目の一番左端。長らく定位置になっている場所から、目当ての文庫本を抜き出す。めちゃくちゃ流行った本ではないけれど、めちゃくちゃ無名の本でもない。いわゆる「ふつう」の本。
特別なことはなにも起こらない柔らかな文体の小説で、退屈だという評価もあるものの、俺はなにも起こらない感じと、文体からにじむ柔らかい空気が好き。この数年の一押し。
文庫本を手に振り返って説明をすると、瀬尾はあっさりと手を伸ばした。
「じゃ、それがいい。貸して」
「え、……本当に? 俺は好きだけど、けっこう地味な話だと思うよ? あ、文章は読みやすいほうだと思うけど」
「だから、いいって」
ちょっとびっくりするくらいの柔らかい苦笑に、おっかなびっくりで一歩進んで本を渡す。ありがと、と受け取った瀬尾は、立ったままの俺を見上げ、不思議そうに瞳を揺らした。
「っつか、こっち座ったら?」
「あ、じゃあ」
そうしようかな、ともごもごと呟いて隣に腰を下ろす。もしかしなくても、挙動不審だったに違いない。ヤバい、恥ずいな。そっと息を吐いて、俺は右隣を見やった。
ぱらぱらと渡した本をめくる瀬尾の横顔は、テレビから飛び出してきたんじゃないかなと思うくらい整っている。それで性格も良いとか、改めてめちゃくちゃレアな生き物だ。
そんな生き物が、俺の部屋に存在していいのだろうか。むずむずと据わりの悪さを覚え始めたところで、瀬尾がこちらを向いた。
「なに? あ、大丈夫だよ、これ。ちゃんと読めそう。しっかり読むのは家でにするけど」
「あ、よかった」
変に意識しないように気をつけて、首を縦に振る。そういう意味で見ていたわけでは、たぶん、なかったのだけれど。「読めそう」という感想にほっとして、「しっかり読むのは家」という台詞をうれしく思ったことは本当だ。
日向は俺の本に興味はないし、学校でも読書が趣味という友達はいない。だから、余計に。俺が好きだというものに興味を示して、建前だけでなくきちんと読もうとしてくれる瀬尾の姿勢がうれしかった。
――いいやつなんだよな、本当。
「あのさ」
「ん?」
「文化祭の準備、楽しいんだって?」
よかったじゃん、と言うと嫌味に聞こえそうな気がしたので、そちらは呑み込む。きょとんとした瀬尾は「あー……」と迷うような声を上げ、本を閉じた。