「終わったー!」
 3週間後。テストもテスト返しも全てが終わった放課後に、由紀はすがすがしい気持ちで正門を出た。
「お疲れさま」
 隣には拓海が並んで歩いていた。彼は自分と同じく帰宅部のようで、ホームルームが終わった後、最寄り駅まで一緒に行こうと誘われたのだ。
「成績上がってたんだって? おめでとう」
「拓海くんのお陰だよ」
 彼との猛勉強の成果もあり、由紀はなんと全教科五十点以上を取ることができたのだ。テスト返しの最中に、前回はバツばかりだった答案用紙にちらほらマルがついていたのを見て、思わず涙ぐんでしまった。
 ちなみに拓海はオール満点だったらしい。自分の勉強が彼の成績に影響を与えなかったことが分かり、由紀は心の中でほっとした。
「でも一緒に勉強するの、楽しかったな。よければ、また次もやらない?」
「いいの? ならお願いしよっかな……」
 次のテスト勉強の約束なんて、なんだか普通の友達みたいだ。自分なんかが学年の人気者と友達なんておこがましい気もするけれど、心の中で思うくらいは許してほしい。
 最寄り駅まで徒歩十分。ようやく茜色に染まり始めた通学路は、同じ制服の男子生徒や、暑そうなスーツ姿のサラリーマンが行き交っている。その道を由紀と拓海は二人並んでセピスカの話をしながら歩いて行った。
 夕方とはいえ、あと一歩で夏本番。気温も高く、歩けば当然のように汗が滲んだ。けれども拓海といる時間は、不思議とそれが気にならない。
「ああ拓海と冬野。今帰りか」
「じゃーね2人とも。拓海っちは明日一緒に昼飯食う約束忘れんなよ!」
 途中ですれ違った桜澤と萩尾が、ひらひらと手を振ってくれた。最近2人は仲のいい拓海だけでなく、由紀にも声をかけるようになってくれる。お陰で2人に対する警戒心も薄まっていた。
 由紀は小さく手を振りながら、頬を赤く染める。今まで人と関わらなかったせいか、なんだか照れくさい。
 胸の奥がぽかぽか温かくなるのを感じていると、不意に拓海が足を止めた。
「ちょっと寄ってかない?」
 彼が指さす先には、広い駐車場の付いたコンビニがある。
 由紀は二つ返事で頷いた。
 テストから解放されて安心したせいか、ちょうど小腹が空いていたのだ。
 駐車場の中を通り抜け、ガラスの自動ドアをくぐり抜ける。店内に入ると耳なじみのあるチャイムが流れると同時に、エアコンの涼やかな風が凪がれてきた。
 火照った身体を身体を癒やしながら、由紀と拓海はコンビニ内を巡っていく。
 日用品、ご飯系、お菓子、飲み物、と来て、最後にアイスのコーナーで足を止めた。
「由紀、好きなの選んで。俺が奢るよ」
 冷蔵庫の中身を見ていた由紀は、唐突な提案に首をぶんぶん横に振った。
「だ、大丈夫だよ。悪いし」
「遠慮すんなって。お金ならバイトで稼いでるし」
「拓海くん、バイトしてたんだ」
「土日にな。だから奢らせてよ。赤点回避祝いにさ」
 そういうことなら、と由紀はアイスのショーケースからチョコミントの棒アイスを取って拓海に渡した。初めて見る商品なのか、拓海は興味深そうにアイスの袋を眺めている。
「チョコミント、好きなの?」
「うん。このアイスはよく食べてるんだ。ミント強めで、スッキリするからお気に入り」
「へー、食べたことないや。後で一口ちょうだい」
 彼はバニラ味のカップアイスを取り出すと、チョコミントと一緒にレジへ持って行った。お金を払って外へ出た二人は、コンビニの壁を背もたれに並んで腰を下ろした。
「はい、チョコミント」
「ありがとう」
 由紀は受け取ったチョコミントアイスの包装を破り、いそいそと齧り付こうとする。だがそのとき、拓海の手が顔の前まで伸びてきた。
「前髪、アイスにつきそうになってる」
「あ、ほんとだ」
 食べようとしてうつむくと、鼻の頭まで伸びきった前髪がアイスの先についてしまう。とはいえ由紀にとってはいつものことなので、気にせずそのまま食べようとした。
 けれども拓海は見逃せなかったのか、バッグを探って何かを差し出してきた。
「俺のだけど。よければ使って」
 彼の手のひらの上には、ヘアクリップが一つ乗っていた。大きめサイズで、前髪を一気に横へ分けられそうな。
 けれども由紀は、すぐに受け取ることはできなかった。
「…………」
「顔、出すの嫌?」
「絶対って訳じゃないけど……僕、目の色がちょっと変わってて」
 小学生の頃、それが原因でいじめられていたことがある。故にその頃から、自分の目を他人に晒すのが怖くなってしまった。この長い前髪は、自分を守る盾でもあるのだ。
 傷つきたくなくて、ずっと盾の後ろに閉じこもっていた。けれども自分の話を聞いてくれた拓海なら、とつい望んでしまう気持ちもある。
「……わ、笑わない?」
「当たり前じゃん。由紀は由紀だし」
 その言葉に、胸が熱くなった。
 由紀は震える手でヘアクリップを受け取ると、アイスの棒を拓海に預ける。そしてゆっくり前髪を左にかき分け、端をクリップで留めた。
「ね、変な色でしょ?」
 苦笑いしながら顔を上げると、拓海はぽかんとこちらを見ていた。その表情は、やがて柔らかい笑みに変わる。
「綺麗だ……」
「ふえっ!?」
 予想外の言葉が飛んできて、変な声を上げてしまった。
「どっ、どこが!? どう見ても変でしょ! そもそも僕、ハーフとかでもないのに!」
「関係ないって。綺麗なものは綺麗だよ。青くて夏の空みたいだ」
「うぅ……」
 あまりにも当然のように褒められて、ついつい顔が火照ってしまう。
 血縁に外国人は一人もいないのに、由紀の瞳は青みがかった色をしていた。日本人の顔立ちにこの瞳なんて、ちぐはぐで不格好だと思っていた。なのに拓海の一言が、一瞬で長年のコンプレックスを吹き飛ばす。
 やはり拓海はすごい人間だ。自分が教科書の編集者だったら、絶対に歴史の教科書へ偉人として彼を乗せるだろう。
 火照りを冷ましたくて、拓海からミントアイスを返してもらい一口かじる。前髪を避けたことで、当然ながら普段より格段と食べやすかった。
「はぁ、スーッとするー……」
 一口かじったとたん、ミントの爽やかな香りが鼻の奥を抜けていった。清涼感で顔の熱も和らいだ気がする。混じっているチョコチップも、パリパリとしていて食感が楽しかった。
 調子を取り戻した由紀は、先の約束を思い出し、拓海へ棒アイスを差し出した。
「拓海くん、一口食べる?」
「ん、ありがと」
 彼は食べかけていたカップアイスのスプーンを置く。
 そしてなんと、そのままアイスに齧り付いた。
「――!?」
「おおっ、ほんとだ。めっちゃスーッてするな」
 棒ごと受け取って食べると思ったのに、まさかそのままいくなんて。
 動揺して固まる由紀をよそに、拓海は興味深そうにチョコミントアイスを味わっている。
 そして再びスプーンを持ち、自分のアイスをすくって差し出してきた。
「はい、お返し」
 口元に差し出された、バニラアイスの載ったスプーン。
 どう見てもそのまま食べろと言いたげだ。
 由紀は内心混乱していた。こうやって互いに食べさせ合うのは、漫画やアニメだと恋人同士でやる行為だ。けれど拓海の様子はあまりに平然としすぎている。とすると、陽キャの中では普通なのだろうか。
 迷った末に、由紀は思い切ってスプーンにぱくついた。陽キャの世界を知らない自分のせいで、拓海を傷つけたくはない。
「おいしい?」
「おいしい、です」
 嘘だ。混乱のあまり、全く味がしなかった。
 早まってしまった鼓動をごまかすように、由紀は自分のアイスに齧り付く。無心で半分食べ進めたところで、ようやく心が落ち着いてきた。
 一息ついて見上げると、空は茜色に染まりきっていた。遠くから聞こえるカラスの声が、人々を帰り道へと急がせている。コンビニの駐車場を越えた先、歩道を歩く人々を、由紀はぼんやりと眺めてふと思う。
「なんだか、高校生みたいだなぁ……」
「ん?」
「コンビニで買い食いって、高校生っぽいなって」
 最寄り駅まで約十分。それ以上の時間を、由紀はかけたことがなかった。授業が終わったらすぐに学校を出て、寄り道せず家に帰り、オンラインゲームをするのが当たり前の日々だった。
 なのにここ最近は、人と一緒に勉強したり、コンビニに寄り道したりしている。
 まるで、普通の高校生みたいだった。ずっと前に、諦めたはずの。
「確かに、中学の頃とはなんか違うよな」
 拓海はアイスのスプーンを口にくわえたまま、楽しげに笑った。
 彼の解釈は、由紀の考えていたものとは違っている。しかしそれを訂正する必要もないと思った。いずれにせよ由紀がこうして今を過ごせているのは、彼のおかげなのだから。
「ありがとう、拓海くん」
「あははは、なんだよ急に礼なんて」
 彼は笑いながら、由紀の肩にぽんと手を置いた。
「高校生活、いっぱい楽しもうな」
「うん」
 拓海がの笑顔は、夕日に照らされ温かかった。
 だから由紀もゆっくり頬を緩ませた。
 茜色の光の中で、固まっていた心が溶けていく気がした。