約束の放課後。拓海を誘って図書室へ行こうとした由紀は、その姿が教室から消えていることに気がついた。
彼の机の場所まで来ても、やはりそこは空席だった。おまけにスクールバッグまでなくなっている。
まさか、すっぽかされたのだろうか。疑っていると、足下に細長いものが落ちているのに気がつく。それを拾い上げた時、頭上から声が振ってきた。
「あ、いたいた由紀ちゃん」
「はいっ?」
聞き慣れない呼び名に顔を上げると、以前定期ケースを拾った金髪陽キャ・萩尾順平と、黒髪メガネの桜澤瀨那が、並んで立っている。警戒心が一気に上昇し、由紀は前髪を右手で押さえた。2人は拓海と一緒にいる高身長陽キャ、つまりは由紀の嫌いな人種である。自分に気づいて話しかけてきたことには驚くが、それだけで打ち解けることはできなかった。
そんな由紀の様子も気にせず、萩尾は側に近づいてくる。
「由紀ちゃん、もしかして拓海っち探してる?」
「やめろ萩尾。怖がっているぞ」
桜澤が呆れたようにヘラヘラしている萩尾をたしなめた。
しかし彼の言葉をさして重く受け止めなかったようで、萩尾の調子は変わらない。
「またまた、せなせなは冗談が上手いんだから。そんなことないよね、由紀ちゃん?」
関わりもないのに突然ちゃん付けで呼ぶあたり、警戒されないとは思わないのだろうか。やはり陽キャは恐ろしい生き物である。
由紀は内心ため息をつきつつ、拓海の行方を2人に問うことにした。
「拓海くん、どこに行ったか知ってるの?」
「ああ。あいつは委員会の仕事で先生に呼び出されている」
「そうそう。だから図書室集合って由紀ちゃんに言ってたよ。一緒に勉強するんだよね」
「う、うん……ありがと」
置いて行かれた訳ではないと分かり、由紀は深く安堵する。
萩尾は狐のように目を細めてにまにましながら、由紀の肩に手を置いた。
「先に行って待っててあげてよ。そのシャーペン持ってさ」
「これ、拓海くんのなの?」
由紀は先ほど拾った細長いもの――黒い高そうなシャーペンに目を落とした。
「うんうん、滅茶苦茶大事にしてるみたいだから。なくすと困ると思う」
「そうなんだ、じゃあ一緒に持ってくね」
由紀はシャーペンをポケットに入れ、萩尾と桜澤に見送られながら図書室に向かった。
普段は閑散としている図書室だったが、今日はたくさんの生徒がいた。テスト前でみんな勉強に忙しいのだろう。
由紀は空いていた4人がけのテーブルに陣取り、教科書やノートを机の上に並べていく。準備を終えてスマホでセピスカをプレイしていると、しばらくして拓海が忙しなくやってきた。
「ほんっとごめん、遅くなって! 委員会で先生に呼び出されて」
由紀はスマホをバッグにしまうと、向かい側に座った拓海へ顔を向ける。
「萩尾くん達から聞いたよ。お仕事お疲れ様」
「ありがと。ほんとは直接言いに行きたかったんだけど時間なくて……大丈夫? あいつらにいじめたりされなかったか?」
「いやいや、さすがになかったって」
よく一緒にいる相手なのに、ひどい言いようだと由紀は苦笑する。あの2人のことは確かに警戒していたが、話もちゃんと聞いてくれたし、失礼なこともされなかった。
拓海は由紀の落ち着いた様子に安堵の息をつくと、バッグから勉強道具を取り出していく。
「そういえば、午後の授業珍しく聞いてたな」
気づかれていたのか。
準備をしながらにんまり笑う拓海に、由紀は気まずさで顔を逸らした。
「その……ちょっとでも、迷惑かけないようにと」
「迷惑って、俺に?」
「……うん」
「へー……かわい」
拓海が微笑ましげに目細めた。
中学の頃に散々女子から言われて嫌気がしていた台詞なのに、拓海に言われるのは不思議と気に障らない。それどころか、なんだか照れてくさくなってしまう。ごまかすように、由紀はポケットの中に入れていたシャーペンを取り出し、拓海に渡した。
「このシャーペン、拓海くんのでしょ」
「えっ、俺落としてた!?」
拓海は慌てて自分のペンケースを開け、中を確かめる。
「うわ、ほんとに落としてる。ありがとう、由紀は恩人だ」
シャーペンを受け取った拓海は、本当に嬉しそうな顔をする。
そんな反応をされたのは初めてで、由紀は初めて拾い物をして良かったと思った。
「大げさだよ。けど拾えて良かった。大事なものなんだってね」
「そうそう。受験の合格祈願に親から貰ったんだ。俺のお守り」
拓海は懐かしむようにシャーペンを眺めた後、由紀に頬を緩ませた。
「これを由紀に拾って貰うのは二度目だな」
「えっ、前にもあったっけ」
そういえば前にも、拓海は引っかかるような言葉を残していた。
しかし高校に入ってからの記憶を掘り起こしてみるも、やはり拓海と話したのはマルチに誘われたのが始まりだった。
「全然思い出せないんだけど」
「うーん、だろうと思ってたけど地味にショックだな……」
由紀の反応に、拓海は苦笑いを浮かべる。
「受験の日の昼休みだよ。思い出さない?」
「…………あ」
言われてみれば高校受験当日、廊下に落ちていたシャーペンを拾って誰かに渡した気がする。前に拓海が引っ掛かるようなことを言っていたのはそれか。
確かにその時はすぐ受け取ってくれた記憶があるが、あのときは次の試験科目のことで頭がいっぱいで、その出来事自体を忘れていた。
「あのとき俺、お守りなくして滅茶苦茶焦っててさ。だから由紀は、その……ずっと前から、俺の恩人で」
「そ、そっか……」
微笑む拓海に、由紀は曖昧な返事しか返せなかった。向こうにとっては恩人かもしれないが、いかんせんこっちはほとんど覚えていない。加えて落とし物を拾うなど日常茶飯事で、恩人と言われてもなんだか実感が湧かなかった。
由紀の戸惑いを察したのか、拓海はおどけるように口を開いた。
「まあだからって訳じゃないけど。今日はたくさん勉強に付き合いますよ、恩人さん」
「よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「……ふふっ」
互いにかしこまって頭を下げたのがおかしくて、由紀は思わず吹き出してしまう。笑い声と一緒に気まずさもどこかへ去ってしまった。
調子の戻った由紀へ、拓海は教科書を見比べながら問いかける。
「で、苦手な教科は?」
「数学かな……」
「じゃ、それからやろう」
由紀は数学の問題集とノートを広げ、テスト範囲の問題を解いていった。
紙をめくる音と、シャーペンがノートを滑る音が、2人の間へ流れていく。
拓海は本当に復習が終わっているようで、教科書を片手間に眺めながら、由紀のペンが止まった時はその度に声をかけてくれた。
「んで、あとは代入すれば終わり」
「すごい……僕、初めて数学が理解できた気がする」
「ははは、それは大げさすぎるだろ」
「大げさじゃないって」
お世辞でもなく、彼の教え方はわかりやすかった。なにせ意味不明だった数学がみるみるうちに解けていくのだから。阿呆な陰キャの勉強も見れるなんて、学年一位の名は伊達ではないらしい。
そのうち嫌いだった勉強も楽しくなってきて、由紀は夢中で問題を解いていった。
けれども勉強の習慣がない人間は、長く集中が続かない。ゆえに一時間後。見事に由紀は、勉強に飽きてしまった。
「無理、もう限界」
問題集2ページは進んだのだから、少しくらい休憩してもいいだろう。由紀はペンを投げ出すと、スマホを取り出しセピスカを立ち上げる。
だが手にしたスマホは、正面から奪われた。
「だーめ」
拓海は由紀から没収したスマホを自分の側に置く。
身長も腕も短い由紀には、手を伸ばしても届かない位置だ。
「終わるまでスマホは禁止」
「えぇー……ちょっとくらい許してよ」
「ちょっとで済まないかもしれないからな」
「僕、恩人なのに……?」
「恩人だからこそだよ。さ、勉強続行。赤点回避、頑張ろうな」
そう言って拓海はにっこり笑った。その笑顔が、なんだか今では恐ろしい。昼休みには後光が差しているようにさえ見えたのに。
この人鬼だ!
泣く泣く問題集のページをめくりながら、由紀は心の中で叫んだのだった。