終業式が終わり、夏休みに突入した。同級生たちは、家族で海外旅行をしたり、友人同士で花火大会に行くらしい。陽向は一人ぼっちではなかったが、特に親しい友人もいなかった。周囲のクラスメイトの話をぼんやりと聞き、訊かれた時にはバイトをするとだけ言った。彼らは訝しむでもなく、頑張れよと言った。
 凪によると、期間は夏休みいっぱいいてくれたら有難いとのことだった。ともあれ、何もない田舎だから、嫌になれば中断も考慮してくれるらしい。大して詳細も訊かないまま、なるようになれと投げやりに思った。
 母には、友人の元に遊びに行くのだと大嘘をついたが、しつこく掘り下げられることはなかった。先日の一件から僅かに気まずい空気が残っていたし、母自身も葛西に誘われるまま家を空けることも多々ある。それが後ろめたいのか、単に鬱陶しがっているだけかもしれないが、架空の友人の名とそれらしい地名を伝えると、至極あっさりと納得した。当日の朝、手土産という紙包みを渡してくるのに、陽向は思わず笑いそうになった。こんな見栄なんか張らなくてもいいのに。そう思いながら、中学校の修学旅行で使ったボストンバッグに、その包みをしまった。
「お守りは持ってる?」
 いざ出て行こうとすると、そう呼び止められる。「持ってる」と、わざとぶっきらぼうに返事をした。心配しているのか無関心なのかわからない。「本当に?」などと追撃してくるので、ポケットから小銭入れを取り出した。隅には、物心つく前から母に持たされているお守りがくっついている。五色の紐の先に小さな鈴がついただけの簡素なそれを、肌身離さず絶対に持っておけと幼い頃から言い聞かされてきた。いい加減鬱陶しかったが、こんな鈴一つで小言を言われずに済むなら安いものだ。
 母はそれを見て安心したのか、もう何も言わなかった。

 午前九時に待ち合わせた駅から、凪と電車に乗った。陽向の荷物がバッグ一つしかないことに彼は驚いていた。
 七月らしい快晴で、ボックス席の窓からは真っ青な空が見える。陽向は、葵川市を離れることが滅多にない。遠足や修学旅行を除けば、数えるほどしか出たことがなく、港方面の電車に乗るのは初めてだった。電車の車輪が回る毎に、その振動の度に、住み慣れた町を離れていくのは少し不思議な気さえする。陽向が朝食を食べ損ねたと知り、凪は駅で弁当を買ってくれていた。車内で食べる変哲のない幕の内弁当は、むしょうに旨かった。
「そうだ、島では電波が通じないんだ」
 お茶を飲みながら凪が言うのに、陽向は行儀悪く割り箸を咥えたまま目を丸くした。
「スマホが使えないとこなんてあるの」
「そりゃああるよ」
「どうやって暮らしてるの」
「スマホがないと暮らせないわけでもないさ」
 いまいち答えになっていない気もしたが、一大事だ。しかし改めて考えると、暇つぶしを除けば特に問題はない。まめに連絡が来るような友人もいなければ、毎日のログインが必要なゲームもしていない。
「暇つぶしになるようなこと、ある?」
「図書館ならあるよ。夏休み中読んでも、全部読み切るのは不可能だ」
 ふーんと頷き、それならまあいいかと思う。最悪、図書館に通えば退屈で死にはしないということだ。
 唯一、連絡の必要な相手にメッセージを考えた。あれから一度もやり取りをしていないから、千宙は自分が当分町を離れることを知らない。こればかりは悔しいなんて言っていられない。彼女宛のチャットに文字を打ち、少し考えては消し、消しては文字を打ち込む。あの日のことに触れるべきか否か。自分の気持ちを書き連ねるか否か。文字だけのコミュニケーションは難しい。考えた末、陽向は短い言葉だけを送信した。
 ――しばらくバイトに行ってる。戻ってきたら連絡する。
 我ながらあまりに簡素だが、だらだら書き連ねたところで自分が女々しく虚しいだけな気がした。
「次の駅だぞ、準備してくれ」
 凪に声を掛けられ、足元のバッグを手に取った。

 駅を出ると、もう目の前は海だった。
 胸の高さほどの防波堤から覗き込むと、穏やかな波がコンクリートを叩いていた。透き通ってはいないが、ゴミも浮いていない。視線を上げると、遠いところに水平線が見える。空の青と海の碧は、全く違う色をしていた。それは濃淡だけでなく、人間の有する言葉や技術では描けない意味を含んでいる気がした。
「おーい、こっちだぞ」
 うっかり足を止めていた陽向は、手を振る凪の元に駆け寄る。彼は慣れた様子で、すたすたと歩いていく。
 桟橋を歩いていると、凪は再び手を振った。今度は向こうで誰かが手を振り返す。桟橋の端には小型の船が停まっていた。
「やあ、武藤(むとう)さん」
 凪が挨拶したのは、煙草を咥えた一人の老人だった。腰が曲がっていないので若く見えるが、短い髪は全て真っ白だ。反対に肌の色は黒く日に焼けていて、実に健康そうに見える。彼は腰に提げている使い古したキャップを被った。
「おう、凪。そっちが前に言ってた子か」
 歳のせいか煙草のせいか、しわがれた老人の声だ。凪は陽向を振り向き、紹介した。
「そう、逢坂陽向くん。……それで、こっちが武藤さん。毎回船を出して、港を渡してくれているんだ」
 陽向はぺこりと軽く頭を下げた。武藤という老人は、陽向の思い描く海の男のイメージにぴったりだった。小さな町で見かける、ジムで鍛えた人間とは異質な力強さがある。たとえ自分が全力で向かったとしても、あっさり海に投げ落としてしまうだろう。
「島の人、なんですか」
 問いかけると、「いんや」と武藤は否定した。
「俺は船を出してるだけで、住んでるのはこっちの方だ」海と反対側に顎をしゃくる。「まあ、島とは付き合いが古いからな。ついでに出してやってるんだ」
 ということは、この人は人間らしい。
 頭から信じたわけではないが、凪が以前に言った「人間じゃない」という言葉が陽向の中に引っかかっていた。凪を含め、島には人ではない妖たちが住んでいると言う。まるで突飛な話で到底納得できていないが、少なくとも武藤は人間のようだ。
 そのことについて訊いてみたかったが、武藤は船の方に親指を向けた。
「早速出るぞ、乗れ」

 船のエンジン音が響き、強い風が吹いていく。空と海があっという間に流れ、陸地がどんどん離れていく。
 後部デッキで、陽向は遠ざかる景色を眺めていた。こんなにあっさりと自分の住んでいた土地が去っていくのは、ちょっと信じ難い。しかし、吹き付ける風も白い波しぶきも、とても夢ではなかった。
「気分は」
 操舵室からこちらにやって来た凪が問いかける。てっきりホームシックを疑われているのかと思ったが、彼が心配していたのは船酔いについてだった。
「気持ち悪くないか?」
「いや、大丈夫」
「ならよかった。弁当食べるタイミング間違えたかと思ったんだ」
 彼は腰を下ろしたが、陽向は手すりを掴んで立ったまま、じっと景色を眺めていた。自分が街を離れて喜んでいるのか、それとも知らない場所に不安を覚えているのか見定めようとした。
 だが、見つかったのはどちらでもなかった。期待も不安も忘れてしまったらしい。どうにでもなれ。辛うじて見つかったのは、そんな投げやりな感情だった。
 凪の横に座り込み、バッグのポケットから取り出したスマートフォンを眺める。
「まだアンテナ立ってるのか」
「ううん」
 かぶりを振った。画面の表示は、初めて見る「圏外」だった。確認した限りでは、千宙からの返事は来ていない。側面のボタンを長押しし、電源を落とした。真っ暗な画面には、自分の憮然とした表情だけが映り込んでいた。