食器を下げたついでに、母は梨を剥いてくれた。共にそれをつまみながら、母は自分の生まれた神志名の家について語った。
 予想に反さず、母である雪の祖先は神志名之久であり、穢れを生み出した張本人だった。家督を継ぐべき長男が喰いつくされてしまうので、その弟妹たちが子孫を残し、細々と家が続いているのだという。
「神志名は古い家でね、今でも血縁の男の子が家を継ぐべきだって考えてるの」
「よく残ってきたね」
「本当にね」
 苦笑して、母はフォークに刺した梨を口に運ぶ。陽向も同じように梨を口にする。
「私の兄も、それで犠牲になったの」
「母さん、兄弟がいたの?」
 初耳だ。目を丸くすると、母は頷いた。
「そう。三つ年上の兄さんがいたのよ」
 遠い昔を見つめる瞳には、陽向には見えない兄の姿が映っているのだろう。懐かしそうに彼女は続ける。
「私たちは迷信深い家が嫌だった。そのせいというわけじゃないけど、十九の時に葛西さんと関係を持って、あなたがお腹に宿ったの。神志名はお堅い家だし、ものすごい反発でね、両親には勘当するって宣言されて。唯一味方としてそばにいてくれたのが、兄さんだった」
「でも、そのお兄さんって人は、狙われる立場だよね」
 母たち兄妹が末裔であるなら、長男である兄がターゲットとなるはずだ。母は頷いた。
「穢れっていう妖怪は、長男が十四歳頃を過ぎてから襲うから、とにかく子どもを残しておけって、兄さんには許嫁まで勝手に用意されていたのよ」
「え……十四?」
 許嫁という言葉より、陽向はその数字に引っかかった。ケガレに狙われるのは、確か二十歳を過ぎた成人だと、壬春が見せた記録には残っていた。
「昔は、今よりずっと若くして成人だったからね。きっとその影響じゃないかな」
 どういうことだ。母は何か勘違いしているのだろうか。しかし、実際に神志名の末裔として生まれた本人が言うのだから、間違いなく思える。だが、壬春も資料に基づいて教えてくれた。
「じゃあ、家督を継ぐべき長男が十四を過ぎれば狙われるんだ」
 混乱しながらも、陽向は先を促した。
「そう。だから家としては、私たちの時も早く次の代の子が欲しかったのね。そこまでして継がせる何があるんだって、兄さんとこっそり言ってたけど……。今の時代には現実的な年齢じゃないし、世間体も気にする人たちだった。兄さんはせめて結婚は大学を出てからにさせてくれって懇願して、二十三になる年の四月に結婚が決まってしまったの」
「許嫁って、知ってる人じゃなくって?」
「神志名の人間が勝手に決めた人。そんな人と無理に結婚させるんだから、時代錯誤だよね」
 小学生の頃に読んだ本には、家のために好きでもない人と結婚する昔話があった。大昔の因習だと受け止めていたが、まさか母の実家が未だにそれを踏襲していたとは。
「それで、お兄さんに子どもはできたの」
 もし生まれていれば、自分のいとこにあたるはずだ。それなら会ってみたいと思うが、母はゆっくりと首を振った。
「陽向が生まれた数日後に、兄さんは行方不明になって、後に外傷のない遺体だけが見つかった。それが、穢れに食べられた証拠なの。もう少しだったのにって悔しがる神志名の人たちが、私は心から腹立たしかった。彼らが悲しんでいるのは、兄さんが殺されたからじゃなく、跡継ぎがいなくなったためだから」
 湯のみに注いだ緑茶を喉に流し、母は切ないため息をついた。
「兄を失くして、当然彼らは陽向に目を付けた。勘当してたはずなのにね。……彼が亡くなってしまえば、神志名の家を守れるのは私の子どもだけだから」
 恐ろしさに、陽向は微かに身震いした。血を守ることしか考えていない人たちに取り上げられれば、母やその兄のように一人の人間として扱われることはない。一族が辛うじて名前を残すための道具となるのだ。
 母が逢坂と籍を入れてまで家から逃げた理由が理解できた。四百年前だけではない、神志名は今でも罪深い一族なのだ。
「……よく逃げ切ったね」
 感慨深い陽向の台詞に、母は微笑む。
「神志名だけじゃなく、きっと穢れからも逃げられたと私は思ってる。もう陽向は神志名じゃなく、逢坂陽向なんだから」
「お守りもそのため?」
「そう。私の母親から教わったやり方で、三ヶ月もかかっちゃった。母も自分で作ったお守りを兄さんに渡していたはずだけど、防ぎきれなかったんだろうね……。だから気休めかもしれないけど、私も万が一にと思って」
 あのお守りは、確かにケガレから自分を守ってくれた。母の力や想いが強かったのか。それが手元にないことは、母に言えなかった。
 もう一度、暝島に渡る。その決意を固めてしまえば、お守りも妖についても伝えられない。罪悪感で胸が張り裂けそうになる。
「教えてくれて、ありがとう……」
「どういたしまして」母は微笑み、首を傾げた。「それにしても、こんな話を信じてくれるなんて。陽向は現実主義だと思ってたから、ちょっと意外だったかな」
「まあ……」こめかみをかく。「そういうのも、きっとあると思うし」
 母は腕を伸ばし、嬉しそうに頭を撫でる。陽向はただ目を閉じてじっとしていた。