今年の四月から、陽向は家から電車で一時間程揺られた先にある葵川中央高校に通っている。もともと高校生活に多大な期待を抱いていたわけでもなく、部活にも入っていないため、日々は退屈だった。彼女である千宙と同じ高校でないことも退屈の大きな要因だった。時間を合わせて遠回りし、帰路を共にすることもあるが、家の店の手伝いをしている千宙と都合が合わないことも多く、そんな日は一層つまらなかった。
葛西祐司を殺しかけてからも、陽向はこれまでと変わりなく学校に通った。
科学教科が好きな陽向は、本当は特別コースのある月ノ原高校に行きたかった。そこは、千宙の現在通う高校でもある。当初は同じ進学先を目指していたから、受験直前で陽向が志望校を変えたことに、千宙は戸惑い怒った。だが、自分に付き合わせて千宙の志望校の偏差値を落とすことが、陽向は嫌だった。
期末試験も終わり、夏休み間近の授業は、間延びした印象を受ける。教師もどことなく、のんびりした雰囲気だ。生徒たちは言わずもがな、高校生初めての長期休暇に胸を高鳴らせてそわそわしている。そんな中で陽向は、放課後に千宙のアルバイト先に向かう算段を頭の中で立てていた。チャットアプリのメッセージでははぐらかされるから、直接対面して言葉を交わすしかないと思ったのだ。
「プラナリアは、面白い生き物です」
陽向がぼうと眺めている黒板に、生物教師は変なイラストをチョークで描いた。三角頭にゴマのような目、ひょろひょろの胴を持った、奇妙な生き物の姿。
「皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、プラナリアという生物がいます。普通の動物は胴を切断されるとどうなりますか。……そうですね、死んでしまいます。けどこいつは」
雑談に入る初老の教師は、プラナリアのイラストに横線を二本引き、上中下の三つに分けた。右隣に矢印を書き、今度は縦一列に小さな三匹のプラナリアを描く。
「切断するとそこから再生し、新たな個体となります。凄まじい再生能力ですね。百を超える数に切り刻んでも、その数だけ増えるのだそうです」
それを聞いた一人の女子が「キモい」と率直な感想を口にした。
「そして彼らはもっとキモい……信じられない現象を成し遂げることができます。例えば、こいつがこいつを共食いする」
真ん中のプラナリアから伸びた矢印が、真上のプラナリアを貫く。
「共食いされた個体には、光を当てた後に電気ショックを与えるという実験を、事前に施していました。そして同じ実験を捕食した側の個体に行うと……どうなったと思いますか」
けだるげな生徒たちだが、試験と関係のない雑談はどういうわけか興味深く聞いていた。何名かが首を傾げて反応する。
「共食いをした個体は、他の個体より素早く回避行動を行いました。つまりプラナリアは、仲間の肉体だけでなく、記憶をも捕食したということです。記憶転移と言いますが……漫画のような現象ですね」
気を抜けば上の空になる陽向には、興味を惹かれる科学の話は良い気晴らしだった。残念なのがこれが雑談であり、試験の問題にはならない話であることだった。
ようやく放課後を迎えた教室をさっさと退散し、最寄りの駅から電車に乗り座席に座る。千宙の通う月ノ原高校まで、乗り継ぎはないが三十分ほどかかる。クーラーの効いた車両には、近隣の学校の制服を着た学生たちが乗り込んでいた。彼らがスマートフォンをいじるのを見て、陽向も鞄に手を入れる。が、機器に触れる前にその手を引っ込めた。バイトの日は会えないと以前から釘を刺されている。今日はその日だから、待ち合わせようと連絡をしても断られるに決まっている。必要以上に馴れ合わない距離感は互いに気に入っているはずなのに、今は少しだけ寂しく思える。
各駅停車の電車が停まり、ホームに降り立った。改札を抜けて駅舎を出ると、夏の夕刻の日差しがたちまち照り付ける。肌を焼く日射を感じながら歩き出した。
千宙は母方の祖父母と共に暮らしている。昨年、一度身体を壊した祖父が高齢者施設に入所してからは祖母と二人暮らしだ。祖母は祖父の経営していた駄菓子屋を受け継ぎ、千宙も店の手伝いを行っている。一個百円に満たない駄菓子をぎっしりと詰め込んだ昔ながらの店で、陽向も何度か訪れたことがある。ドライなくせに面倒見の良い千宙は、特に小さな子どもに人気な様子だった。
迷惑は百も承知だ。だが、何度も話をはぐらかしているのは千宙の方だ。その理由を教えてくれるだけでいいのに。
当の理由が最悪なものだったらどうしよう。何度も頭をよぎる想像を、陽向はその度に追い払う。俺たちは付き合っているんだ。あいつが入る隙間なんてあるはずがない。よりによってあいつ、葛西祐司が。
月ノ原高校の前を素通りし、住宅街を十分も歩いた頃、陽向は見慣れた後ろ姿を発見した。月ノ原の方が、放課時刻が遅かったのかもしれない。セミロングの黒髪を肩に垂らして歩いている少女は、望月千宙に違いない。
だが、その隣にいる相手の背に、陽向は思わず息を呑んだ。間違いなく月ノ原の男子の制服姿。自分より五センチほど背の高い彼は、しきりに千宙に話しかけている。彼女がそれに応対し、時折笑う声が聞こえてくる。彼女は誰にでも愛想を振りまく女の子ではない。他人に媚びない真っ直ぐな姿が、陽向は好きなのだ。つまり、彼女の横にいるのは、それなりに心を許している存在ということになる。
そして自分の気配に気づき足を止めた相手、葛西祐司の顔を目にし、陽向は胸に冷たいこぶし大の石が沈んだ気がした。それはすぐに熱を持ち、戸惑いや怒りの感情となり、足を急がせた。
「千宙!」
目を丸くしてこちらを振り向く千宙に近寄り声を荒げる。
「どういうことだよ、これ!」
完全に面食らっている表情に、余計に腹が立つ。
「陽向……なんでいるの?」
「なんでもいいだろ! 俺がいたらまずいのかよ!」
大声に千宙が片耳を抑え、陽向はなんとか声を抑える。しかし、怒りは抑えられない。
「この間も、こいつと駅まで歩いてたよな。知ってるんだぜ」
「ちょっと……まさか、ストーカーしてたの」
「誰がストーカーだよ。それより千宙、浮気してたのかよ」
「同じ学校の人と歩いてただけで浮気って、何言ってんの。気持ち悪い」
顔をしかめる千宙。つい怒鳴りそうになった直前、千宙と同じく面食らっていた葛西祐司が声を挟んだ。
「え、ちょっと待って。きみ、誰?」
俺はこいつを知っているが、こいつは俺のことを知らない。呑気にへらへら笑いながら千宙と歩いていたこいつは。
「俺は、千宙の彼氏だ」
「彼氏? 千宙ちゃん、彼氏いたの?」
てっきり葛西祐司は彼氏持ちだと知りつつ千宙に近づいたのだと思っていたが、それは誤解だったらしい。だが、その方が陽向によって余程酷だ。千宙が自分の存在を黙っていたわけなのだから。
「なんで言わなかったんだよ、千宙」
陽向の知る千宙は、ドライだが誠実な少女だ。出来心だったとしても、謝罪の言葉を口にするだろうと予想していた。
「……別に」
だが彼女は視線を伏せ、ぶっきらぼうに弁解した。
「言う必要ないと思ったから。訊かれたわけじゃなかったし……」
「なんだよそれ……」
怒りの中に呆れが湧いた。彼女は、こんなに不誠実な女の子だったのか。自分という存在がありながら、それを相手に黙ったまま、こんなにも楽しげな時間を二人きりで過ごしていたのか。
「陽向、しつこいよ。そんなに束縛する人だった? 私が他の人とお喋りすることも許せないの」
「束縛とか大袈裟なこと言うなよ、俺は実際何度も……」
「そうやってストーカーしてたんでしょ。何度も何度も。彼氏だって言うなら、最初から堂々と出てきたらよかったじゃない」
こぶし一つ分目線の低い彼女は、その目できっと陽向を睨み上げた。
「そうやってこそこそして、証拠集めでもしてたの? 陽向の言う浮気ってやつの証拠。卑怯だよ、それ」
どっちが卑怯だよ。陽向がその言葉を絞り出す前に、千宙は間髪入れずぴしゃりと言った。
「私は、祐司くんと楽しく話して歩いてただけ。陽向の浮気の基準なんて知らない。少なくとも、隠れない私の方がずっと誠実でしょ」
めちゃくちゃだ。そんな理論、あるはずがない。
そう言えなかったのは、彼女の台詞に奴の名前が含まれていたからだった。「葛西さん」でも「祐司先輩」でもなく、「祐司くん」という言葉が、陽向の心を深く抉っていった。
葛西祐司を殺しかけてからも、陽向はこれまでと変わりなく学校に通った。
科学教科が好きな陽向は、本当は特別コースのある月ノ原高校に行きたかった。そこは、千宙の現在通う高校でもある。当初は同じ進学先を目指していたから、受験直前で陽向が志望校を変えたことに、千宙は戸惑い怒った。だが、自分に付き合わせて千宙の志望校の偏差値を落とすことが、陽向は嫌だった。
期末試験も終わり、夏休み間近の授業は、間延びした印象を受ける。教師もどことなく、のんびりした雰囲気だ。生徒たちは言わずもがな、高校生初めての長期休暇に胸を高鳴らせてそわそわしている。そんな中で陽向は、放課後に千宙のアルバイト先に向かう算段を頭の中で立てていた。チャットアプリのメッセージでははぐらかされるから、直接対面して言葉を交わすしかないと思ったのだ。
「プラナリアは、面白い生き物です」
陽向がぼうと眺めている黒板に、生物教師は変なイラストをチョークで描いた。三角頭にゴマのような目、ひょろひょろの胴を持った、奇妙な生き物の姿。
「皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、プラナリアという生物がいます。普通の動物は胴を切断されるとどうなりますか。……そうですね、死んでしまいます。けどこいつは」
雑談に入る初老の教師は、プラナリアのイラストに横線を二本引き、上中下の三つに分けた。右隣に矢印を書き、今度は縦一列に小さな三匹のプラナリアを描く。
「切断するとそこから再生し、新たな個体となります。凄まじい再生能力ですね。百を超える数に切り刻んでも、その数だけ増えるのだそうです」
それを聞いた一人の女子が「キモい」と率直な感想を口にした。
「そして彼らはもっとキモい……信じられない現象を成し遂げることができます。例えば、こいつがこいつを共食いする」
真ん中のプラナリアから伸びた矢印が、真上のプラナリアを貫く。
「共食いされた個体には、光を当てた後に電気ショックを与えるという実験を、事前に施していました。そして同じ実験を捕食した側の個体に行うと……どうなったと思いますか」
けだるげな生徒たちだが、試験と関係のない雑談はどういうわけか興味深く聞いていた。何名かが首を傾げて反応する。
「共食いをした個体は、他の個体より素早く回避行動を行いました。つまりプラナリアは、仲間の肉体だけでなく、記憶をも捕食したということです。記憶転移と言いますが……漫画のような現象ですね」
気を抜けば上の空になる陽向には、興味を惹かれる科学の話は良い気晴らしだった。残念なのがこれが雑談であり、試験の問題にはならない話であることだった。
ようやく放課後を迎えた教室をさっさと退散し、最寄りの駅から電車に乗り座席に座る。千宙の通う月ノ原高校まで、乗り継ぎはないが三十分ほどかかる。クーラーの効いた車両には、近隣の学校の制服を着た学生たちが乗り込んでいた。彼らがスマートフォンをいじるのを見て、陽向も鞄に手を入れる。が、機器に触れる前にその手を引っ込めた。バイトの日は会えないと以前から釘を刺されている。今日はその日だから、待ち合わせようと連絡をしても断られるに決まっている。必要以上に馴れ合わない距離感は互いに気に入っているはずなのに、今は少しだけ寂しく思える。
各駅停車の電車が停まり、ホームに降り立った。改札を抜けて駅舎を出ると、夏の夕刻の日差しがたちまち照り付ける。肌を焼く日射を感じながら歩き出した。
千宙は母方の祖父母と共に暮らしている。昨年、一度身体を壊した祖父が高齢者施設に入所してからは祖母と二人暮らしだ。祖母は祖父の経営していた駄菓子屋を受け継ぎ、千宙も店の手伝いを行っている。一個百円に満たない駄菓子をぎっしりと詰め込んだ昔ながらの店で、陽向も何度か訪れたことがある。ドライなくせに面倒見の良い千宙は、特に小さな子どもに人気な様子だった。
迷惑は百も承知だ。だが、何度も話をはぐらかしているのは千宙の方だ。その理由を教えてくれるだけでいいのに。
当の理由が最悪なものだったらどうしよう。何度も頭をよぎる想像を、陽向はその度に追い払う。俺たちは付き合っているんだ。あいつが入る隙間なんてあるはずがない。よりによってあいつ、葛西祐司が。
月ノ原高校の前を素通りし、住宅街を十分も歩いた頃、陽向は見慣れた後ろ姿を発見した。月ノ原の方が、放課時刻が遅かったのかもしれない。セミロングの黒髪を肩に垂らして歩いている少女は、望月千宙に違いない。
だが、その隣にいる相手の背に、陽向は思わず息を呑んだ。間違いなく月ノ原の男子の制服姿。自分より五センチほど背の高い彼は、しきりに千宙に話しかけている。彼女がそれに応対し、時折笑う声が聞こえてくる。彼女は誰にでも愛想を振りまく女の子ではない。他人に媚びない真っ直ぐな姿が、陽向は好きなのだ。つまり、彼女の横にいるのは、それなりに心を許している存在ということになる。
そして自分の気配に気づき足を止めた相手、葛西祐司の顔を目にし、陽向は胸に冷たいこぶし大の石が沈んだ気がした。それはすぐに熱を持ち、戸惑いや怒りの感情となり、足を急がせた。
「千宙!」
目を丸くしてこちらを振り向く千宙に近寄り声を荒げる。
「どういうことだよ、これ!」
完全に面食らっている表情に、余計に腹が立つ。
「陽向……なんでいるの?」
「なんでもいいだろ! 俺がいたらまずいのかよ!」
大声に千宙が片耳を抑え、陽向はなんとか声を抑える。しかし、怒りは抑えられない。
「この間も、こいつと駅まで歩いてたよな。知ってるんだぜ」
「ちょっと……まさか、ストーカーしてたの」
「誰がストーカーだよ。それより千宙、浮気してたのかよ」
「同じ学校の人と歩いてただけで浮気って、何言ってんの。気持ち悪い」
顔をしかめる千宙。つい怒鳴りそうになった直前、千宙と同じく面食らっていた葛西祐司が声を挟んだ。
「え、ちょっと待って。きみ、誰?」
俺はこいつを知っているが、こいつは俺のことを知らない。呑気にへらへら笑いながら千宙と歩いていたこいつは。
「俺は、千宙の彼氏だ」
「彼氏? 千宙ちゃん、彼氏いたの?」
てっきり葛西祐司は彼氏持ちだと知りつつ千宙に近づいたのだと思っていたが、それは誤解だったらしい。だが、その方が陽向によって余程酷だ。千宙が自分の存在を黙っていたわけなのだから。
「なんで言わなかったんだよ、千宙」
陽向の知る千宙は、ドライだが誠実な少女だ。出来心だったとしても、謝罪の言葉を口にするだろうと予想していた。
「……別に」
だが彼女は視線を伏せ、ぶっきらぼうに弁解した。
「言う必要ないと思ったから。訊かれたわけじゃなかったし……」
「なんだよそれ……」
怒りの中に呆れが湧いた。彼女は、こんなに不誠実な女の子だったのか。自分という存在がありながら、それを相手に黙ったまま、こんなにも楽しげな時間を二人きりで過ごしていたのか。
「陽向、しつこいよ。そんなに束縛する人だった? 私が他の人とお喋りすることも許せないの」
「束縛とか大袈裟なこと言うなよ、俺は実際何度も……」
「そうやってストーカーしてたんでしょ。何度も何度も。彼氏だって言うなら、最初から堂々と出てきたらよかったじゃない」
こぶし一つ分目線の低い彼女は、その目できっと陽向を睨み上げた。
「そうやってこそこそして、証拠集めでもしてたの? 陽向の言う浮気ってやつの証拠。卑怯だよ、それ」
どっちが卑怯だよ。陽向がその言葉を絞り出す前に、千宙は間髪入れずぴしゃりと言った。
「私は、祐司くんと楽しく話して歩いてただけ。陽向の浮気の基準なんて知らない。少なくとも、隠れない私の方がずっと誠実でしょ」
めちゃくちゃだ。そんな理論、あるはずがない。
そう言えなかったのは、彼女の台詞に奴の名前が含まれていたからだった。「葛西さん」でも「祐司先輩」でもなく、「祐司くん」という言葉が、陽向の心を深く抉っていった。