駅舎の二階の喫茶店に入る。カウンターで商品を受け取ってから席に着くタイプの店で、青年は勝手にアイスティーを二つ頼んだ。奥の二人掛けの席に向かい合って座る。シロップとミルクを勧められたが、陽向はストローだけをグラスに突っ込んだ。七月の夕刻に、冷房が効きすぎている感もあったが、寒くはなかった。左手の大きな窓からは、帰路に着く人々の姿が見える。一口含んだアイスティーは不味かった。
「俺は、(なぎ)っていうんだ」
 ミルクを入れたグラスをストローで混ぜながら青年が言い、陽向は伏せがちの目をようやく彼に向けた。二十歳過ぎの大学生風だ。白いシャツに黒のサマージャケットとジーンズがよく似合っている。派手さのない穏やかな顔立ちで、これはこれでモテるんだろうなと、陽向は場違いなことを思う。咄嗟に右目の上の白く小さな傷痕に触れてしまうのは、劣等感ではなくただの癖だ。
「……逢坂陽向」
「高校生?」
葵川(あおいがわ)の一年」
 正式には葵川中央高校だが、凪は頷いた。
「さっきの彼も、同じ高校?」
 少し黙って、陽向はゆっくりとかぶりを振った。さっきの彼という言葉を耳にすると、奴の姿を思い出してしまい歯噛みする。あらゆる悔しさが再びやって来る。
「あいつは、月ノ原(つきのはら)の二年。葛西(かさい)祐司(ゆうじ)ってやつ」
「なるほど、違う高校なのか。部活の繋がりとか」
「そんなんじゃない」
 根掘り葉掘り聞くなという言葉は出なかった。むしろ、誰かに質問されるのを待っていたような気さえする。誰にも言えない、自分の中だけに溜め込んだ事柄を、他人に吐き出したい気持ちがある。この凪という青年は、その「他人」として理想的な存在に思えた。
「じゃあ、どういう繋がり? 殺そうとするなんて、よっぽどのことがあるんだろう」
「あいつは……」
 それでも吐き出せるのは、気持ちだけ。根っこの部分を余さず語り尽くす気にはなれない。
「俺の彼女を、横取りしようとしてるんだ」
 呆れられる用意は出来ている。それっぽちのことで、という返事は容易に想像ができる。だが、凪という青年は目を丸くしたものの、予想された台詞は口にしなかった。
 奴を突き落とそうとしたとき、肩越しに見えたスマートフォン。そのチャット画面には「望月(もちづき)千宙(ちひろ)」という恋人の名前があった。
「彼女とは、もう長いのかい」
「……付き合ってからは、一年ぐらい。中三の時から」
「大事な娘なんだ」
 そう言われて、自分の情けなさを痛感する。大事な彼女に近づかれただけで、相手の男を殺そうとするなんて、正気の沙汰じゃない。自分の嫉妬心が気持ち悪い。
「葛西くんって子とは話したの」
「……いや」
「殺そうとするぐらいだから、思い違いではなさそうだけど」
「千宙とあいつが並んで歩いてるのを、何度も見かけたんだ。駅に着く前も、二人が一緒に歩いてて……それを見たら、我慢できなくて」
 千宙と別れて機嫌よく改札を抜ける葛西祐司の横顔に、殺意が湧いた。お気に入りの女子と話せて心が躍っているのが、外側からも見て取れた。調子に乗っているこいつを、今すぐ殺さねばと思った。
 一口しか口をつけていないグラスを前に、陽向は項垂れて唇を噛む。あいつに何もできないのが、悔しくて堪らない。
「その彼女には聞いてみたのか」
「聞いてるけど……なんだかんだかわされて。バイト先の客だって、偶然学校が同じなだけだって、それしか言わない」
「一度彼女と、出来れば葛西くんともしっかり話をした方がいいよ。きみは彼氏なんだから、堂々としていたらいい」
 諭され、陽向は曖昧に頷いた。ことはそう簡単ではない。そう言いたいが、言うからには根っこから自分を語る必要がある。現金だが、そこまでの信頼は初対面の凪に抱けなかった。自分の勝手さに嫌気がさす。
 浮かない顔から何かを察したのか、彼はグラスの中身を減らすと微笑んだ。
「きみは、少し気分転換をした方がいい。物事が上手くいかない時っていうのは、どうしてもやってくる」
 月並みの励ましだ。そんなの分かってると心中で呟く陽向に、凪は続けた。
「もうすぐ夏休みだろう。よければ、俺のところでアルバイトしてみないか」
「バイト?」
 眉を顰める陽向に、彼は笑いながら首と手を横に振る。
「怪しいバイトじゃないし、難しいことじゃない。ただ、遠くにあるから泊まりになるんだ。喫茶店の手伝いとか、必要だったら近所の人の手伝いなんかをしてほしいんだけど」
「……ものすごく怪しい」
 予想だにしない展開に困惑しながら、陽向は手に取ったグラスのストローを咥えて舌を湿らせた。
「遠くって、一体どこ」
「島だよ」
「島?」
暝島(かすかじま)っていう島なんだ。港から船で一時間もかからない」
 確かに市内には港があり、陽向は乗ったことはないが船も出ている。しかし、暝島なんて聞いたことがない。第一、海を越える必要があるとは、ちょっと想像しなかった。
「そんな島、聞いたことないよ」
「小さな島だからね。島民も二十人程度しかいない」
「それなのに、バイトが必要なの」
「それだから、人手不足なんだ」
 そう言ってから、「ああ」と凪は思いついた顔をする。
「人手っていうのは、間違いだな」
 意味の解らない陽向に、彼は爽やかささえ感じさせる笑顔を見せた。
「そこに住むのは、俺も含めて人間じゃないんだ」
 ぽかんとした後、陽向はこの男に自分の気持ちを語ったことを痛烈に後悔した。常識人に見えたのに、自分は人間でないなどと言う、頭のおかしなやつだった。これからバイトという名目で宗教にでも勧誘されるのか、はたまたネズミ講のお誘いを受けるのか。優しさを感じ、つい弱気になって愚痴を漏らしてしまったことが悔やまれる。
「そんな顔するなよ」
「帰る。お茶ありがとう」
「ちょっと待てって、せっかちだな」凪は口をへの字に曲げる陽向に苦笑する。「俺がどうしてきみを止められたのか、わかるかい」
「どうしてって、あいつを突き落とそうとするのを見てたからだろ」
「きみが相手の背中に手をかざしていた時間は数秒だ。すぐそばにいたとしても、その動作の意味を察するには短すぎる」
 そう言われ、奴の背に手を向けていた瞬間のことを思い出すが、陽向にはそれが何秒に至る時間だったのかわからなかった。一秒にも思えるし、数分にも思える。だが、電車の接近が確認出来てから構えたのは間違いない。それなら、経過したのはほんの数秒だ。近くでその姿を目撃したとしても、咄嗟に腕を掴んで止めるには短すぎる気もする。
「じゃあ、なんでわかったんだ」
「きみの殺意が見えていたからだよ」
 凪は自分の目元を指先で軽くつついた。
「俺は、他人の強い感情を目で見ることができる。色のついた靄、とでも言ったら通じるかな。殺意は黒に近い赤色だ。それがきみの全身、特に両手からこれでもかと湧いていたんだ」
 思わず、陽向は自分の両手に目を落とす。当然、何の変哲もないいつもの手のひらだ。
「これはまずいと思って後ろから見ていたんだが、予想通り電車が来る頃、きみはその両手で目の前の背中を突き落とそうとした。だから俺はその手を掴んで、未来を変えたんだ」
 未来を変える。やや大袈裟にも聞こえる台詞を吐くのに、陽向はうさん臭さと困惑を覚える。だが、彼の説明はもっともなようにも聞こえる。自分の行動を予測していたから、凪はそれを防げたのだ。
「暝島には、俺みたいな人と妖怪が混ざった(あやかし)たちが集まって住んでいる。けど、人に危害を加えることはないし、きっと若いバイトを歓迎してくれる」
「そんなこと言って、取って喰う気だろ」
「もし俺らが人間を食べるとすれば、通りかかった船でも襲うだろうね」
 近海で船が行方不明になったという話は、少なくとも陽向は聞いたことがなかった。
「俺はあくまで、バイト候補を探しに来たんだ」
 そう言って、凪はテーブルの隅に置かれたスタンドから、店のアンケート用紙を一枚取り出した。同じく備え付けのボールペンをノックし、紙の裏面にメモを書く。

 七月十八日午後五時 葵川駅正面口

「便利なケータイやスマホなんかは持ってないから、もしバイトを受けてくれるなら、ここで返事をしてほしい。もし三十分経ってもきみが来なかったら、諦めるよ」
 彼はアンケート用紙をテーブルに置き、陽向の方に軽く押す。今日が十二日だから、六日後の日付だ。
「やらないよ、そんな怪しいバイト」
「まあまあ。受け取るだけ受け取ってよ」
 何はともあれ、彼は恩人に違いない。犯罪者となる未来から救ってくれたのだ。渋々、陽向は用紙を手に取り、二つに折って鞄のポケットにしまった。凪が立ち上がったので、釣られて腰を上げる。ふと目をやった窓の外は、すっかり夜の帳を下ろしていた。