それからひとつ大きな変化があった。それは瀬戸くんが僕を「佐倉」と呼ぶようになったことだ。今までは「おい」とか「お前」だったのに。
彼に呼ばれると、他の人に呼ばれるよりも嬉しく感じる。
数日後、帰りのホームルームが終わり、僕は浮かれ気分で瀬戸くんと一緒に教室を出た。
なんと今日は瀬戸くんからゲームセンターに誘われたのだ。彼から誘ってもらえるなんて初めてのことで、嬉しくて仕方がない。瀬戸くんには「ニヤニヤすんな」って怒られちゃったけど。
校門を出てゲームセンターに向かおうとした時。
「壱馬」
後ろから声をかけられ振り返ると、そこには四十歳くらいの女性が立っていた。着物を着ており、すっきりとした涼しげな目元が印象的な綺麗な人だ。傍らには高級そうな車が停まっている。瀬戸くんは小さく舌打ちをした。
「……何でいるんだよ」
「だってあなた、電話に出ないしメールも返さないじゃない」
瀬戸くんはその女性を睨み付けた。よく見ると二人は少し似ているかもしれない。女性は僕に目を向けると、柔らかく微笑んだ。
「こんにちは。壱馬の母です」
「あっ、僕は佐倉優弥といいます。初めまして」
慌ててお辞儀をする。瀬戸くんのお母さんだったんだ! どおりで似ていると思った。
「あら、礼儀正しい子ね。壱馬とは大違いだわ」
「うぜえんだよ、早く帰れ」
「あなたを迎えに来たのよ。車に乗りなさい」
「嫌に決まってんだろ!」
瀬戸くんは声を荒らげた。周囲の人達がこちらをちらちらと見ているが、二人はお構いなしといった様子だ。
「いい加減にしねえとマジでぶん殴んぞ」
「せ、瀬戸くん、落ち着いて……」
「お前は黙ってろ」
彼は僕には目もくれず、母親を睨み続ける。
「お父さんが体調を崩したのよ。顔くらい見せなさい」
「知らねえよ。勝手に死んどけ」
「いいから来なさい」
「俺の顔なんか見たくもねえだろ、あいつは!」
瀬戸くんはそう叫ぶと、僕の手を引いて走り出した。母親は追いかけてこない。僕は驚いて、ただ彼に手を引かれるまま走った。
「はぁっ、はぁっ……」
しばらく走って、やっと立ち止まる。僕は膝に手を当てながら呼吸を整えた。
「悪かったな、巻き込んじまって」
「そんなこと気にしないで。それより、瀬戸くんは大丈夫……?」
「……」
答えはなかった。その表情からは何を考えているのか読み取れない。僕は不安になり、思わず彼の服を掴んだ。
「あの、お母さんのこと……」
「放っといてくれ」
「えっ……」
「あんな奴、家族でも何でもねえよ」
瀬戸くんは吐き捨てるように言った。
結局、寄り道せずにそのまま寮に戻った。でも瀬戸くんはずっと無言で、部屋に戻るとすぐにこちらに背を向けてベッドに寝転んでしまった。
それから瀬戸くんの母親が現れることはなかった。たまに連絡が来ているようだが、瀬戸くんが返事をしている様子はない。
瀬戸くんの母親は、見るからにお金持ちだった。そして、瀬戸くんは家族と上手くいっていないようだ。でも僕に何ができるのか、そもそも彼の事情に踏み込んでいいのかすらも分からず、なるべく話題に出さないように気をつけた。
そのうち季節はすぎ、期末テストを終えた。僕は今回も瀬戸くんに勉強を教えてもらい、そこそこの点数を取れた。もう冬休みは目前だ。
「瀬戸くんはいつから帰省するの?」
「しねえよ」
「えっ、お正月も?」
「正月なんて一番面倒くせえ」
「で、でも、お母さんが……」
言いかけて、口を噤む。きっと僕が口出しをすることじゃない。
「佐倉は帰るんだろ」
「うん、二十八日から」
「そうか」
彼はそれ以上は何も言わず、窓の外を見つめた。僕も黙り込む。なんだろう、この空気は……。沈黙に耐えきれず、僕は話題を探した。
「あっ、そういえば、クリスマスは予定あるの?」
「ねえよ」
「じゃあさ、一緒に過ごさない?」
「はぁ!?」
瀬戸くんは素っ頓狂な声を上げた。
「一人だと寂しいじゃん」
「男二人のクリスマスもどうなんだよ……」
「僕は楽しいと思うけど……ダメかな?」
「……まあいい、好きにしろ」
「やった!」
嬉しくなって、思わず飛び上がった。
「何だよ、いきなり……」
瀬戸くんは呆れたように笑った。その笑顔を見てほっとする。
「よかった、やっと笑ってくれたね」
「……うるせえ」
「照れてる~可愛いなあ~」
「佐倉……お前、調子に乗ってんな」
「痛い! 痛いです!」
頭を鷲掴みにされて悲鳴を上げる。でも本気で怒っているわけじゃないことは分かる。こんな風に冗談を言い合えるくらいに、僕らは仲良くなっていた。
翌日、授業が終わり寮へ帰った後、瀬戸くんは先生に呼び出された。どうしたんだろう……。気になって廊下に出ると、ちょうど彼が戻ってくるところだった。
「何かあったの?」
「何でもねえ」
瀬戸くんは苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。何でもないようには見えない。
「大丈夫? 何かあったんだよね」
「だから、何でもないって言ってんだろ」
「で、でも……」
「うるせえな、ほら部屋戻るぞ」
そう言うと、瀬戸くんは僕の腕を引いて歩き出した。振り払おうにも力が強くて無理だった。仕方なくそのまま引っ張られて部屋に戻る。
「あのさ、俺のこと心配してんのか知らねえけど、そういうの迷惑だから。余計なお世話っつーかウザい」
「……」
余計なお世話……きっとそうなんだろう。僕は無力だと思う。それでも、瀬戸くんに何かしてあげたいと思う気持ちは消えない。
何も言えないでいると、瀬戸くんは舌打ちをして僕の腕を離した。
「とにかく……俺のことはお前には関係ねえだろ。放っとけよ」
突き放すような言い方に、頭の中で何かが切れるような音がした。
「……関係なくない」
「……あ?」
「関係なくないよ!」
自分よりも背の高い瀬戸くんを見上げ、精一杯叫ぶ。
「友達が悩んでるのに放っておけないよ! 力になりたいって思うのはおかしいこと!?」
そう告げると、瀬戸くんは目を大きく見開いたまま固まった。しばらくして、小さな声が聞こえる。
「俺は別に……ただ……」
「ただ?」
「いや、なんでも……ねえ……」
瀬戸くんはそのまま黙り込んでしまった。次の言葉を待つが、なかなか続きを口にしない。
「……」
僕は思い切って彼に近づき、手を握った。
「何すんだよ……!」
驚いた様子で手を引こうとするが、僕はそれを許さなかった。強く握りしめたまま彼を真っ直ぐに見上げる。
「僕じゃ頼りないかもしれないけど、瀬戸くんの力になりたい」
「……」
「話して楽になるなら、僕はどんな話でも聞くよ。一人で抱え込まないで」
しばらくすると、瀬戸くんは抵抗をやめ、静かに語り始めた。
「……親父が、あぶねえって」
「お父さんが……?」
そういえば、以前瀬戸くんの母親に会った時、体調を崩していると言っていた。
「俺が電話もメールも返さないからってわざわざ学校に連絡しやがった」
彼は自嘲気味に笑うと、「でも、行くつもりねえけど」と続けた。
「どうして? 会いたくないの?」
「会いたいわけねえだろ」
「でも、家族なのに……」
「……もう、疲れた」
彼はぽつりと言った。その表情はとても辛そうで、僕は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「俺の家、ガキの頃からすげー厳しかったんだよ」
瀬戸くんはぽつりぽつりと家族のことを話し始めた。瀬戸くんの父親は料亭を何軒も経営しており、母親は茶道の家元の生まれで、厳格な人だったらしい。
瀬戸くんは跡取りとして幼い頃から厳しく育てられていた。幼稚園から帰れば家庭教師による勉強の時間が始まり、箸の持ち方から姿勢まで、あらゆることを注意された。特に食事のマナーは厳しく、食事中は常に正座をし、食べ終わるまでは絶対に足を動かしてはならない。少しでも音を立てようものなら怒鳴られるそうだ。そして、食べ終わった後は母親との稽古。毎日それが繰り返されていたという。
その話を聞いた僕は、息苦しさを感じて俯いた。
「……で、中学の時に限界が来て、親父をぶん殴って家出した。まあすぐ連れ戻されたけどな」
瀬戸くんは鼻で笑った。その瞳は暗く淀んでいる。
「それからは腫れ物扱いだ。早く家を出たかったけど、高校くらいは出てないとやべえと思って寮があるここを選んだんだよ」
「そっか……」
「俺は跡取りなんかになるつもりはない。弟に継がせるんじゃねえかな」
「瀬戸くん、兄弟いるの?」
「ああ。まだ三歳だけどな。俺みたいな失敗作と違って、大事にされてる」
自分のことを失敗作と呼ぶ彼の顔には、深い影が落ちていた。そんな顔をしてほしくなくて、僕は必死に言葉を探す。
「でもさ、瀬戸くんは優しい人だよ。いつも僕のこと助けてくれるもん。それはやっぱりすごいことだと思うよ」
「……」
「みんなは瀬戸くんを怖いって言うけど、僕は違うと思う。入学した頃の喧嘩も、きっと何か理由があったんでしょ?」
「理由っつーか……向こうから絡んできたんだよ。で、ちょっとやり返したら俺が一方的にやったことにされた。それからは下らねえ奴の相手をするのはやめたけどな」
瀬戸くんは理由もなく自分から暴力を振るう人ではないと信じていた。口調や外見から誤解をされやすいけれど、やっぱり心根は優しいのだ。
「話してくれてありがとう」
笑いかけると、瀬戸くんは困惑したように俯いた。
「……俺の話なんて、誰も聞こうとしなかった。親も、教師も……なのに、何でお前は……」
「そんなの、大事な友達だからに決まってるよ」
僕の言葉を受けて、瀬戸くんの目が大きく見開かれる。
「僕ね、瀬戸くんのこと大好きなんだよ。だから、瀬戸くんには笑っててほしいんだ。僕にできることだったら何でもするから、いつでも頼ってね」
瀬戸くんは驚いた表情のまま僕を見つめ、しかしすぐに目を逸らした。
「……お前、馬鹿だろ」
「え?」
「そういうの……勘違いされるぞ」
「勘違い……?」
首を傾げると瀬戸くんはため息をついた。
「お前、無防備すぎるんだよ」
「うーん……? でも、本当にそう思ってるんだ。瀬戸くんはいい人だし、一緒にいて楽しいし、好きだよ」
そう言うと、何故か瀬戸くんは固まってしまった。
「あの……瀬戸くん?」
「……お前さぁ、わざとやってるわけじゃねえよな?」
「え?」
「……何でもねえよ」
瀬戸くんは呆れたように呟き、すっと立ち上がった。
「とにかく、俺は大丈夫だから気にすんな」
そう言って部屋を出ようとする瀬戸くんを慌てて呼び止める。
「あ、待って!」
「何だよ」
「僕は、お父さんに会った方がいいと思う」
「……今更、どんな面下げて会えばいいんだよ」
「でも、このまま会わないでいたら……もしもう会えなくなっちゃったら、きっと後悔するよ」
瀬戸くんは黙り込んだ。そしてしばらくすると、細く長く息を吐く。
「……わかった」
彼はゆっくりとこちらを振り向いた。その目は赤く染まっていた。
「明日行く」
次の日、朝食をとると瀬戸くんは寮を発った。彼の家までは電車で一時間ほどかかるらしい。僕はただ見送ることしかできなかった。
それからあっという間に五日が過ぎた。その間はずっと連絡もない。心配だったけれど、自分からは連絡しない方がいい気がした。きっと彼から連絡をくれるはず……そう信じて待とうと決めた。
一人で部屋にいても暇なので、ふたつ隣の佐伯くんの部屋に遊びに行ってみた。
「一人だと気楽でいいだろ」
「うーん……ちょっと寂しいよ」
「マジかよ……やっぱり佐倉って瀬戸と仲良いの?」
「いつもそう言ってるじゃん」
僕がみんなの前で怒ってから、佐伯くんは僕に瀬戸くんの悪口を言わなくなった。でも印象が良くなったわけではないようで、本当に友達なのかと度々確認される。佐伯くん、いい人なんだけど、こういうところは少し困るな……。
「あ、そういえば、この映画知ってるか? めっちゃ泣けるってバズってるんだよ」
佐伯くんが差し出してきたスマホの画面にはとある恋愛映画のホームページが表示されていた。主演は人気アイドルグループのメンバーで、ヒロインは最近CMでよく見かける女優だ。映画自体は知らなかったけれど話題を集めそうな印象を受けた。
「クリスマスに彼女と見に行こうと思ってるんだ」
「いいと思う! 雰囲気ぴったりだね」
わくわくとした様子の佐伯くんとは対照的に、僕の心は沈んでいた。
クリスマスは瀬戸くんと出掛ける約束をしているけれど、こんな状況になってしまってはそれも叶わないかもしれない。仕方がないこととはいえ、どうしても気落ちしてしまった。
翌日、瀬戸くんは門限の間際に戻ってきた。五日間離れていただけなのに、待ち遠しくて仕方なかった。この部屋は一人でいるには広すぎるのだ。
「おかえりなさい」
「……おう」
出迎えると、瀬戸くんは照れ臭そうな顔をしながら荷物を置いた。そして僕に向き直る。
「親父、死んだよ」
「えっ……」
「俺が行った日の夜にな。で、昨日葬式が終わったから帰ってきた。親戚連中は相続だなんだで揉めてたけど、俺が口出すことじゃねえし」
「お父さんに会えた?」
「ああ」
瀬戸くんは俯いて拳を握りしめた。
「謝られたよ。悪かった、好きに生きろって」
「そっか……」
「本当は……最後に今までの恨み言全部言ってやろうと思ってた。でも、何も言えなかった」
「……うん」
「……今更謝られたって許せるわけねえだろ」
絞り出すような声でそう言うと、瀬戸くんは唇を強く噛み締める。
「あいつに言われなくたって好きに生きる。俺の人生は、俺だけのもんだ」
「瀬戸くん、前向きになれた?」
「まあ、そうだな。お前のおかげで吹っ切れそうだ」
そう言うと、瀬戸くんは笑みを浮かべた。それはいつも通りの笑顔だった。
「ありがとな」
その言葉を聞いた瞬間、僕の目からは涙が溢れ出した。
「え……おい、どうしたんだよ」
慌てる瀬戸くんを前に、僕は必死になって首を横に振る。泣き止まないと……そう思うほど余計に涙は流れてくるばかりで、なかなか止めることができない。
「ごめん……僕……嬉しくて」
やっとのことでそう言うと、瀬戸くんは小さく息を吐いた。
「泣くなよ」
「うぅ……」
「ったく、しょうがねえな」
瀬戸くんは頭を掻きむしると、引き出しからタオルを取り出して僕に渡してきた。
「これで顔拭けよ」
「ありがとう……」
受け取ったタオルでごしごしと目を擦る。すると、瀬戸くんが突然笑い始めた。
「ぶっさいくな面だな」
「ひどいよ……誰のせいで泣いてると思ってるの……」
「悪い、つい面白くて」
そう言って彼はさらに笑う。つられて僕も吹き出してしまった。
ひとしきり二人で笑ってから、瀬戸くんは言った。
「まあ……これからもよろしく頼むわ」
「うん、こちらこそ」
「そういえば、明日のクリスマス、どこか行くんだろ」
瀬戸くんは約束を覚えていてくれた。嬉しいけれど、色々あって大変だっただろうにいいんだろうか?
「いいよ、疲れてるでしょ?」
「いや、むしろ気分転換したい。どっか行こうぜ。行きたいところあるのか?」
行きたいところ……そう問われて、ふと昨日の佐伯くんの話を思い出した。
「映画とか、どう?」
たしか恋愛映画だったはずだ。あまり見たことがないジャンルで、ストーリーも知らないけれど、話題作ならきっと面白いに違いない。
「よし、決まりだ」
「本当に大丈夫? 無理してない?」
「してねえよ」
「そっか……それじゃあ、明日は楽しみにしてるね!」
彼に呼ばれると、他の人に呼ばれるよりも嬉しく感じる。
数日後、帰りのホームルームが終わり、僕は浮かれ気分で瀬戸くんと一緒に教室を出た。
なんと今日は瀬戸くんからゲームセンターに誘われたのだ。彼から誘ってもらえるなんて初めてのことで、嬉しくて仕方がない。瀬戸くんには「ニヤニヤすんな」って怒られちゃったけど。
校門を出てゲームセンターに向かおうとした時。
「壱馬」
後ろから声をかけられ振り返ると、そこには四十歳くらいの女性が立っていた。着物を着ており、すっきりとした涼しげな目元が印象的な綺麗な人だ。傍らには高級そうな車が停まっている。瀬戸くんは小さく舌打ちをした。
「……何でいるんだよ」
「だってあなた、電話に出ないしメールも返さないじゃない」
瀬戸くんはその女性を睨み付けた。よく見ると二人は少し似ているかもしれない。女性は僕に目を向けると、柔らかく微笑んだ。
「こんにちは。壱馬の母です」
「あっ、僕は佐倉優弥といいます。初めまして」
慌ててお辞儀をする。瀬戸くんのお母さんだったんだ! どおりで似ていると思った。
「あら、礼儀正しい子ね。壱馬とは大違いだわ」
「うぜえんだよ、早く帰れ」
「あなたを迎えに来たのよ。車に乗りなさい」
「嫌に決まってんだろ!」
瀬戸くんは声を荒らげた。周囲の人達がこちらをちらちらと見ているが、二人はお構いなしといった様子だ。
「いい加減にしねえとマジでぶん殴んぞ」
「せ、瀬戸くん、落ち着いて……」
「お前は黙ってろ」
彼は僕には目もくれず、母親を睨み続ける。
「お父さんが体調を崩したのよ。顔くらい見せなさい」
「知らねえよ。勝手に死んどけ」
「いいから来なさい」
「俺の顔なんか見たくもねえだろ、あいつは!」
瀬戸くんはそう叫ぶと、僕の手を引いて走り出した。母親は追いかけてこない。僕は驚いて、ただ彼に手を引かれるまま走った。
「はぁっ、はぁっ……」
しばらく走って、やっと立ち止まる。僕は膝に手を当てながら呼吸を整えた。
「悪かったな、巻き込んじまって」
「そんなこと気にしないで。それより、瀬戸くんは大丈夫……?」
「……」
答えはなかった。その表情からは何を考えているのか読み取れない。僕は不安になり、思わず彼の服を掴んだ。
「あの、お母さんのこと……」
「放っといてくれ」
「えっ……」
「あんな奴、家族でも何でもねえよ」
瀬戸くんは吐き捨てるように言った。
結局、寄り道せずにそのまま寮に戻った。でも瀬戸くんはずっと無言で、部屋に戻るとすぐにこちらに背を向けてベッドに寝転んでしまった。
それから瀬戸くんの母親が現れることはなかった。たまに連絡が来ているようだが、瀬戸くんが返事をしている様子はない。
瀬戸くんの母親は、見るからにお金持ちだった。そして、瀬戸くんは家族と上手くいっていないようだ。でも僕に何ができるのか、そもそも彼の事情に踏み込んでいいのかすらも分からず、なるべく話題に出さないように気をつけた。
そのうち季節はすぎ、期末テストを終えた。僕は今回も瀬戸くんに勉強を教えてもらい、そこそこの点数を取れた。もう冬休みは目前だ。
「瀬戸くんはいつから帰省するの?」
「しねえよ」
「えっ、お正月も?」
「正月なんて一番面倒くせえ」
「で、でも、お母さんが……」
言いかけて、口を噤む。きっと僕が口出しをすることじゃない。
「佐倉は帰るんだろ」
「うん、二十八日から」
「そうか」
彼はそれ以上は何も言わず、窓の外を見つめた。僕も黙り込む。なんだろう、この空気は……。沈黙に耐えきれず、僕は話題を探した。
「あっ、そういえば、クリスマスは予定あるの?」
「ねえよ」
「じゃあさ、一緒に過ごさない?」
「はぁ!?」
瀬戸くんは素っ頓狂な声を上げた。
「一人だと寂しいじゃん」
「男二人のクリスマスもどうなんだよ……」
「僕は楽しいと思うけど……ダメかな?」
「……まあいい、好きにしろ」
「やった!」
嬉しくなって、思わず飛び上がった。
「何だよ、いきなり……」
瀬戸くんは呆れたように笑った。その笑顔を見てほっとする。
「よかった、やっと笑ってくれたね」
「……うるせえ」
「照れてる~可愛いなあ~」
「佐倉……お前、調子に乗ってんな」
「痛い! 痛いです!」
頭を鷲掴みにされて悲鳴を上げる。でも本気で怒っているわけじゃないことは分かる。こんな風に冗談を言い合えるくらいに、僕らは仲良くなっていた。
翌日、授業が終わり寮へ帰った後、瀬戸くんは先生に呼び出された。どうしたんだろう……。気になって廊下に出ると、ちょうど彼が戻ってくるところだった。
「何かあったの?」
「何でもねえ」
瀬戸くんは苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。何でもないようには見えない。
「大丈夫? 何かあったんだよね」
「だから、何でもないって言ってんだろ」
「で、でも……」
「うるせえな、ほら部屋戻るぞ」
そう言うと、瀬戸くんは僕の腕を引いて歩き出した。振り払おうにも力が強くて無理だった。仕方なくそのまま引っ張られて部屋に戻る。
「あのさ、俺のこと心配してんのか知らねえけど、そういうの迷惑だから。余計なお世話っつーかウザい」
「……」
余計なお世話……きっとそうなんだろう。僕は無力だと思う。それでも、瀬戸くんに何かしてあげたいと思う気持ちは消えない。
何も言えないでいると、瀬戸くんは舌打ちをして僕の腕を離した。
「とにかく……俺のことはお前には関係ねえだろ。放っとけよ」
突き放すような言い方に、頭の中で何かが切れるような音がした。
「……関係なくない」
「……あ?」
「関係なくないよ!」
自分よりも背の高い瀬戸くんを見上げ、精一杯叫ぶ。
「友達が悩んでるのに放っておけないよ! 力になりたいって思うのはおかしいこと!?」
そう告げると、瀬戸くんは目を大きく見開いたまま固まった。しばらくして、小さな声が聞こえる。
「俺は別に……ただ……」
「ただ?」
「いや、なんでも……ねえ……」
瀬戸くんはそのまま黙り込んでしまった。次の言葉を待つが、なかなか続きを口にしない。
「……」
僕は思い切って彼に近づき、手を握った。
「何すんだよ……!」
驚いた様子で手を引こうとするが、僕はそれを許さなかった。強く握りしめたまま彼を真っ直ぐに見上げる。
「僕じゃ頼りないかもしれないけど、瀬戸くんの力になりたい」
「……」
「話して楽になるなら、僕はどんな話でも聞くよ。一人で抱え込まないで」
しばらくすると、瀬戸くんは抵抗をやめ、静かに語り始めた。
「……親父が、あぶねえって」
「お父さんが……?」
そういえば、以前瀬戸くんの母親に会った時、体調を崩していると言っていた。
「俺が電話もメールも返さないからってわざわざ学校に連絡しやがった」
彼は自嘲気味に笑うと、「でも、行くつもりねえけど」と続けた。
「どうして? 会いたくないの?」
「会いたいわけねえだろ」
「でも、家族なのに……」
「……もう、疲れた」
彼はぽつりと言った。その表情はとても辛そうで、僕は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「俺の家、ガキの頃からすげー厳しかったんだよ」
瀬戸くんはぽつりぽつりと家族のことを話し始めた。瀬戸くんの父親は料亭を何軒も経営しており、母親は茶道の家元の生まれで、厳格な人だったらしい。
瀬戸くんは跡取りとして幼い頃から厳しく育てられていた。幼稚園から帰れば家庭教師による勉強の時間が始まり、箸の持ち方から姿勢まで、あらゆることを注意された。特に食事のマナーは厳しく、食事中は常に正座をし、食べ終わるまでは絶対に足を動かしてはならない。少しでも音を立てようものなら怒鳴られるそうだ。そして、食べ終わった後は母親との稽古。毎日それが繰り返されていたという。
その話を聞いた僕は、息苦しさを感じて俯いた。
「……で、中学の時に限界が来て、親父をぶん殴って家出した。まあすぐ連れ戻されたけどな」
瀬戸くんは鼻で笑った。その瞳は暗く淀んでいる。
「それからは腫れ物扱いだ。早く家を出たかったけど、高校くらいは出てないとやべえと思って寮があるここを選んだんだよ」
「そっか……」
「俺は跡取りなんかになるつもりはない。弟に継がせるんじゃねえかな」
「瀬戸くん、兄弟いるの?」
「ああ。まだ三歳だけどな。俺みたいな失敗作と違って、大事にされてる」
自分のことを失敗作と呼ぶ彼の顔には、深い影が落ちていた。そんな顔をしてほしくなくて、僕は必死に言葉を探す。
「でもさ、瀬戸くんは優しい人だよ。いつも僕のこと助けてくれるもん。それはやっぱりすごいことだと思うよ」
「……」
「みんなは瀬戸くんを怖いって言うけど、僕は違うと思う。入学した頃の喧嘩も、きっと何か理由があったんでしょ?」
「理由っつーか……向こうから絡んできたんだよ。で、ちょっとやり返したら俺が一方的にやったことにされた。それからは下らねえ奴の相手をするのはやめたけどな」
瀬戸くんは理由もなく自分から暴力を振るう人ではないと信じていた。口調や外見から誤解をされやすいけれど、やっぱり心根は優しいのだ。
「話してくれてありがとう」
笑いかけると、瀬戸くんは困惑したように俯いた。
「……俺の話なんて、誰も聞こうとしなかった。親も、教師も……なのに、何でお前は……」
「そんなの、大事な友達だからに決まってるよ」
僕の言葉を受けて、瀬戸くんの目が大きく見開かれる。
「僕ね、瀬戸くんのこと大好きなんだよ。だから、瀬戸くんには笑っててほしいんだ。僕にできることだったら何でもするから、いつでも頼ってね」
瀬戸くんは驚いた表情のまま僕を見つめ、しかしすぐに目を逸らした。
「……お前、馬鹿だろ」
「え?」
「そういうの……勘違いされるぞ」
「勘違い……?」
首を傾げると瀬戸くんはため息をついた。
「お前、無防備すぎるんだよ」
「うーん……? でも、本当にそう思ってるんだ。瀬戸くんはいい人だし、一緒にいて楽しいし、好きだよ」
そう言うと、何故か瀬戸くんは固まってしまった。
「あの……瀬戸くん?」
「……お前さぁ、わざとやってるわけじゃねえよな?」
「え?」
「……何でもねえよ」
瀬戸くんは呆れたように呟き、すっと立ち上がった。
「とにかく、俺は大丈夫だから気にすんな」
そう言って部屋を出ようとする瀬戸くんを慌てて呼び止める。
「あ、待って!」
「何だよ」
「僕は、お父さんに会った方がいいと思う」
「……今更、どんな面下げて会えばいいんだよ」
「でも、このまま会わないでいたら……もしもう会えなくなっちゃったら、きっと後悔するよ」
瀬戸くんは黙り込んだ。そしてしばらくすると、細く長く息を吐く。
「……わかった」
彼はゆっくりとこちらを振り向いた。その目は赤く染まっていた。
「明日行く」
次の日、朝食をとると瀬戸くんは寮を発った。彼の家までは電車で一時間ほどかかるらしい。僕はただ見送ることしかできなかった。
それからあっという間に五日が過ぎた。その間はずっと連絡もない。心配だったけれど、自分からは連絡しない方がいい気がした。きっと彼から連絡をくれるはず……そう信じて待とうと決めた。
一人で部屋にいても暇なので、ふたつ隣の佐伯くんの部屋に遊びに行ってみた。
「一人だと気楽でいいだろ」
「うーん……ちょっと寂しいよ」
「マジかよ……やっぱり佐倉って瀬戸と仲良いの?」
「いつもそう言ってるじゃん」
僕がみんなの前で怒ってから、佐伯くんは僕に瀬戸くんの悪口を言わなくなった。でも印象が良くなったわけではないようで、本当に友達なのかと度々確認される。佐伯くん、いい人なんだけど、こういうところは少し困るな……。
「あ、そういえば、この映画知ってるか? めっちゃ泣けるってバズってるんだよ」
佐伯くんが差し出してきたスマホの画面にはとある恋愛映画のホームページが表示されていた。主演は人気アイドルグループのメンバーで、ヒロインは最近CMでよく見かける女優だ。映画自体は知らなかったけれど話題を集めそうな印象を受けた。
「クリスマスに彼女と見に行こうと思ってるんだ」
「いいと思う! 雰囲気ぴったりだね」
わくわくとした様子の佐伯くんとは対照的に、僕の心は沈んでいた。
クリスマスは瀬戸くんと出掛ける約束をしているけれど、こんな状況になってしまってはそれも叶わないかもしれない。仕方がないこととはいえ、どうしても気落ちしてしまった。
翌日、瀬戸くんは門限の間際に戻ってきた。五日間離れていただけなのに、待ち遠しくて仕方なかった。この部屋は一人でいるには広すぎるのだ。
「おかえりなさい」
「……おう」
出迎えると、瀬戸くんは照れ臭そうな顔をしながら荷物を置いた。そして僕に向き直る。
「親父、死んだよ」
「えっ……」
「俺が行った日の夜にな。で、昨日葬式が終わったから帰ってきた。親戚連中は相続だなんだで揉めてたけど、俺が口出すことじゃねえし」
「お父さんに会えた?」
「ああ」
瀬戸くんは俯いて拳を握りしめた。
「謝られたよ。悪かった、好きに生きろって」
「そっか……」
「本当は……最後に今までの恨み言全部言ってやろうと思ってた。でも、何も言えなかった」
「……うん」
「……今更謝られたって許せるわけねえだろ」
絞り出すような声でそう言うと、瀬戸くんは唇を強く噛み締める。
「あいつに言われなくたって好きに生きる。俺の人生は、俺だけのもんだ」
「瀬戸くん、前向きになれた?」
「まあ、そうだな。お前のおかげで吹っ切れそうだ」
そう言うと、瀬戸くんは笑みを浮かべた。それはいつも通りの笑顔だった。
「ありがとな」
その言葉を聞いた瞬間、僕の目からは涙が溢れ出した。
「え……おい、どうしたんだよ」
慌てる瀬戸くんを前に、僕は必死になって首を横に振る。泣き止まないと……そう思うほど余計に涙は流れてくるばかりで、なかなか止めることができない。
「ごめん……僕……嬉しくて」
やっとのことでそう言うと、瀬戸くんは小さく息を吐いた。
「泣くなよ」
「うぅ……」
「ったく、しょうがねえな」
瀬戸くんは頭を掻きむしると、引き出しからタオルを取り出して僕に渡してきた。
「これで顔拭けよ」
「ありがとう……」
受け取ったタオルでごしごしと目を擦る。すると、瀬戸くんが突然笑い始めた。
「ぶっさいくな面だな」
「ひどいよ……誰のせいで泣いてると思ってるの……」
「悪い、つい面白くて」
そう言って彼はさらに笑う。つられて僕も吹き出してしまった。
ひとしきり二人で笑ってから、瀬戸くんは言った。
「まあ……これからもよろしく頼むわ」
「うん、こちらこそ」
「そういえば、明日のクリスマス、どこか行くんだろ」
瀬戸くんは約束を覚えていてくれた。嬉しいけれど、色々あって大変だっただろうにいいんだろうか?
「いいよ、疲れてるでしょ?」
「いや、むしろ気分転換したい。どっか行こうぜ。行きたいところあるのか?」
行きたいところ……そう問われて、ふと昨日の佐伯くんの話を思い出した。
「映画とか、どう?」
たしか恋愛映画だったはずだ。あまり見たことがないジャンルで、ストーリーも知らないけれど、話題作ならきっと面白いに違いない。
「よし、決まりだ」
「本当に大丈夫? 無理してない?」
「してねえよ」
「そっか……それじゃあ、明日は楽しみにしてるね!」