「んー、君さ、俺の全てが好きって、俺のなにを知ってんの?」
「えっ」
「俺の全てが好きなら、俺がすること全て許してくれんの?」
「も、もちろん!」
「ふーん? じゃあ、今すぐここで抱かせてって言っても良いんだ。誰かに見られながらするの好き?」
声の主は無表情のままこちらにチラリと視線を寄越した。おそらく告白されていたのだろう現場に居合わせてしまった俺は、その場でギクリと身体を強張らせた。
告白をしていたらしい女子は目の前の男の視線に気付き、後ろへと振り向くと俺が立っていたもので、小さく「ひっ」と悲鳴を上げた。
そしてガバッと再びその男へと振り向くといきなり『バシッ』と大きな音を立て、その男の横っ面に平手打ちをかました。
その行動に今度は俺のほうが「ひっ」と小さく声を上げてしまい、平手打ちをかました女子は涙目で俺を睨み、走り去って行ってしまった。
シーン…………ほんの少しの沈黙の時間が流れ、ハッと我に返り、そろりと俺はその場を離れようと足を踏み出す。
俺は悪くない……。だって、ここ……靴箱! 靴箱のすぐ傍! いくら奥まっている端のほうでやり取りをしていたにしろ、俺の靴はそのすぐ傍を通らないと取れないんだよ!
内心そう訴えながら、無言のまま自身の靴箱へと向かう。
目の前のこの男は、佐久間千尋。高三になり始めて同じクラスとなったクラスメイト。茶色い髪に色素の薄い瞳で、精悍さというよりも、中性的な綺麗さのある爽やかそうなイケメンだ。だからなのか、佐久間は高一の頃から知っていた。いや、知っていたというか、嫌でも耳に入って来るというか……。
チラリと横目で佐久間を見るが、殴られた頬に手を当てスリスリと撫でている。まあ、自業自得だよな……告白してきた女子にあの返しは最低だろ……。俺が居合わせてしまったのは不可抗力だし……俺のせいにされても困る。
佐久間は関わり合いになりたくないタイプ。チャラいというか、所謂陽キャだ。こいつの周りにはいつも男女問わず大勢の奴がいる。いつも賑やかで騒がしい。必要最低限以上には関わったことなど一度もない。
たまたま告白現場に居合わせてしまった俺は野崎奏。ま、俺は普通ですよ。至って普通……際立つものもなにもない、黒髪眼鏡ですよ。それがなにか。
俺は陰キャというほどでないと自分で思っているが、陽キャグループとは明らかに違う部類だ。本が好きで休憩時間はほぼ読書をしている。友達がいない訳でもないし、同じような趣味の人間となら男女共に仲の良い奴もそれなりにいる。
趣味でもある読書のためにと言っても過言ではない理由で、図書委員をしているため、だから今日もそれで放課後図書室に残っていた。そのせいでまさかこんな現場に居合わせるなんて思うはずもなく。
靴箱の脇で告白とかやめてくれよな。いくら放課後でひと気がないとはいえ、誰か通るかもしれないだろうが。現に俺は委員会で遅くなって今からの下校なんだよ……普通に人が通ることを考えろっつーの。
そろりと佐久間の横を通り過ぎ、見てません聞いてません、と素知らぬ顔で通り過ぎた。いやまあ無理があるのは分かってる。分かってるけど、そこは佐久間だって突っ込まれたくないだろ。
「よお、野崎、今の見てただろ」
しかし、俺の予想に反して佐久間は俺に声を掛けて来た。ギクリと身体が強張ったが、顔を逸らし視線は自身の靴箱へ。
「見てない!」
否定しようとするあまり、無駄にデカい声になってしまった。
「ハハ、そんな全力で否定するなんて見たって言ってるも同然だぞ?」
「ぐっ」
まさか声をかけられると思っていなかったため、思わず大きな声で否定してしまったじゃないか。くそっ。俺は関わりたくないんだよ。しかし、俺がそんなことを考えているのを知ってか知らずか、佐久間は気にする様子もなく呑気な声を上げた。
「いやー、まさか殴られるとはなー。ハハ、内緒にしといてくれよ。かっこ悪いし」
ヘラッと笑って言う佐久間にイラッとしてしまう。なにがそんなにおかしいんだよ。女子の真剣な告白にあんな最低な返事を返しておきながら。靴箱の靴を取り、不機嫌なまま地面へと放り投げた。
「お前が悪いんだから仕方ないだろ」
思わず口に出た言葉にヤベッとなる。思ったにしろ、そのまま口に出すなんて馬鹿じゃないのか、俺! キレられたらどうすんだ。若干ビビりながらチラリと佐久間を見ると、しかし、佐久間は怒るでもなく頭をガシガシと掻いてブツブツと言う。
「はぁ? 俺が悪いかぁ? 告白されるまであの子のことなんも知らんかったし、喋ったこともないし……多分。好きだからなんでも許せるなんておかしいだろ。そんなんでいきなり付き合ってとか言われても怖いだけだし、知らん人間と付き合えるほど単純じゃないんですー、俺は。デリケートなもんでね」
意外と正論で、拗ねるようにブーブーと口を尖らせ反論している佐久間に、なんだか子供のように見えてしまい、思わず「プッ」と噴き出してしまった。
「おい、なに笑ってやがる」
拗ねた子供のような顔のままでジトッと睨まれる。
「んぐっ、い、いや、笑ってない……」
「いや、笑っただろ」
「笑ってない」
「頑固な奴だな」
ジィィッと顔を近付けられ、慌てて顔を逸らすが、そのとき今度は佐久間から「プッ」と笑い声が漏れた。
「お前、面白い奴だな」
振り向くと佐久間は声を上げて笑っていた。なんで俺が面白い奴なんだ、とそう反論しようとすると、なぜかフッと急に寂しそうな顔となり、どこを見ているのか遠い目をして呟いた。
「俺ってさー、誰かを好きになったことないしなー。ひとを好きになる気持ちなんて分かんないんだよねー」
ぼそりと呟かれた言葉は弱々しく、消え入りそうな声で、俺はなにも言葉を返せなかった。
なんだかそこにいないようなそんな儚さを感じる顔。その横顔になぜか惹き付けられ目が離せなかった。しかし、佐久間自身はそんな顔をしていたことには気付いていないのか、すぐさまいつも通りの飄々とした顔で「じゃあな」と手を振って帰って行った。
寂しそうに見えたのは勘違いだったのかもしれない。そうだよ。あの陽キャである佐久間がそんな顔をする訳がない……。
でも……なぜだか俺はあのときの佐久間の顔が忘れられなかった。
それからはなにやら佐久間のことが気になり始めてしまい、教室内にいるときはしょっちゅう目で追ってしまう自分がいた。趣味の読書も集中出来ず、同じページを何度も読んでいる気がする。いやいや、ちょっと待て。なんで俺が佐久間を気にしないといけないんだ。特に変わった様子もなくいつも通りの佐久間だ。俺が心配する必要なんかないだろ。いや、心配じゃないし!
そんなことを悶々と自問自答しているが、しかし、よくよく観察していると佐久間はいつもどこか一歩下がって、他人と距離を置いているように見えた。クラスメイトといつも通り仲良くしているし笑ってはいるが、どこか俯瞰しているような、周りに壁を作っているというか……。誰とも深く付き合っているようには見えなかった。
それが不思議で……佐久間が言った『誰かを好きになったことがない』という言葉がいつも心のどこかで引っ掛かった。
ひとを好きになったことがない、というのはただ単に恋愛的なことだけではないのかもしれない……そう思ってしまい、『佐久間』という人間が酷く気になった。
あの告白事件以降、佐久間はなにかにつけて俺に話し掛けるようになってきた。佐久間の周りにいる奴らはなぜ俺に話し掛けるのか分からないといった顔をしていたが、そんなことは全く気にしていないのか放課後、図書室にまでやって来るようになった。
「佐久間って本好きなの? 読むようなイメージないんだけど」
「んー、まあまあ?」
「なんだよ、まあまあって」
「俺も自分が読むイメージなんかなかったけど、読んでみたら意外と好きだった」
「なんだそれ」
よく分からない返答だが、なぜかそんな馬鹿みたいなやり取りを楽しんでいる自分がいた。佐久間もそんな俺との会話を楽しんでくれているような気がした。
俺が貸し出し当番のときは必ずやって来るようになった佐久間。
図書室ではなにを会話するでもない。お互い本を読んでいるだけ。佐久間は図書室の一番奥、唯一ある窓の傍でいつも本を読んでいた。たまに居眠りをしやがって、閉館する際に俺が起こしに行くまで机に突っ伏して眠っていた。
気持ち良さそうな寝顔しちゃってさ。あまりにその寝顔が幼子のようで……あまりに気持ち良さそうで……思わず頭を撫でてしまった。佐久間の髪は猫っ毛なのかふんわり柔らかく、シャンプーの匂いなのかほんのりと甘い香りが漂った。
そのことにドキリとし、慌てて手を離す。気付かれてはいないか、ドキドキと心臓が早鐘を打つ。
幸いにも佐久間が起きることはなく、スヤスヤと気持ち良さそうな寝息を立てていた。俺はなにやら居た堪れなく、自分の行動の意味も分からなくなり、慌ててその場を離れた。
少し気まずい思いをしながら、時間を置いて再び起こしに行くと、すでに佐久間は起きたようで、大きなあくびをしながら身体を伸ばしていた。内心ドギマギとしながら声を掛ける。
「もう閉めるぞ」
「おー、じゃあ帰るかー」
佐久間が気付いた様子はなく、ホッと胸を撫で下ろす。なにやってんだ、と自分に辟易しつつ、ソワソワとしながら帰り支度を整える。佐久間は律儀に扉のところで俺を待っていた。そのことになにやら妙な気分となる。ソワソワとしている自分の気持ちに気のせいだと言い聞かせ、今まで自分の周りにいないタイプだから緊張しているだけだ、と、そう思い込もうとしていた。
いつもなら他愛もない話をしながら歩くのだが、その日は佐久間の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった……。
そうやって佐久間との関係が変わりつつある日々を過ごしていると、いつからか佐久間は女と寝る仕事をしていると噂になった。深夜に歓楽街で目撃されたらしいのだ。そこからなぜかそんな噂に。
今まで佐久間の周りにいた奴も表面上は庇いつつも、どこかぎこちなくなっていった。佐久間は言い訳をするでもなく、なにも言わない。違うなら違うと言えば良いのに、なぜなにも言わないんだ。
今ではひとり椅子に座り、窓の外を眺めてボーッとしている。
「おーい、佐久間、放課後ちょっと職員室まで来い」
佐久間は担任に呼び出された。そのときの教室の微妙な空気は居心地が悪かった。
放課後、佐久間はひとり無言のまま教室を出た。いつも一緒にいた連中はこんなときですら声を掛けない。それどころかコソコソと耳打ちし合っている。そのことに腹が立ち、しかし、俺もどうやって声を掛けたら良いのか分からずなにも言えない自分に腹が立ち……。グッと拳を握り締め、廊下へと飛び出した。
「佐久間!」
佐久間は俺が呼ぶ声に振り向き、弱々しくも笑った。その顔はなにもかも諦めているような、なにも期待していないような、そんな顔。それに酷く胸が苦しくなった。
「ハハ、なんでお前がそんな顔」
どんな顔をしているんだ、俺は。自分でも分からない。でも……きっと泣きそうになっているんだろう……。
「俺、今日当番なんだ。後で来いよ」
結局なにも言えない自分に腹が立つ。そんなことしか言えない自分に腹が立つ。俺はなんて不甲斐ないんだろうか。
しかし、そんな俺の自己嫌悪とは裏腹に、佐久間は少し目を見開き驚いた顔をしたかと思うと、フッと笑った。その顔は先程までの諦めたような、そんな顔ではなくなっていた。
「あぁ」
ふんわりと微笑んだ佐久間は嬉しそうに見えた。そして、ひらひらと手を振り職員室へと向かって行く。
教室に戻ると、視線は一気に俺へと集まり、めちゃくちゃ居心地が悪かった……。そそくさと鞄を持ち、図書室へと向かった。
その途中、廊下の角を曲がろうとしたときなにやら女子の会話が耳に届く。
「えぇ、佐久間くんの噂を流したのって……」
「しっ。だって見掛けたのはほんとだもん」
「で、でも、女と寝る仕事してるなんて嘘なんでしょ?」
「いいじゃん。私にあんなこと言ったんだし、きっと誰彼なしに寝てるんだよ」
話しの内容的に佐久間の噂を流したのはこの話している女子か。チラリと陰から覗くと、そこにいたのはあの女子だった。
佐久間に告白をして断られ、思い切り殴っていたあの女子。
こ、こいつ、あることないこと勝手に噂にして流したのか。怒りのあまり声を上げようとするが、女子の話はそこで終わらなかった。
「なんか佐久間くんて深夜によく出歩いてるらしいんだよね……ほんとになんか怪しい仕事でもしてんのかな……」
「付き合わなくて正解かもね」
深夜によく出歩いてる……そのせいでそんな噂が?
俺は怒鳴りそうになっていた感情が見事に揺れ動き、壁に凭れ呆然と考え込んでしまった。
深夜に出歩くようなことってなんなんだろうか。女と寝ている訳でなくとも、なにかしら深夜に出歩く必要性があるということか? 歓楽街を出歩く必要性ってなんだよ。そんな夜に出歩いて親もなにも言わないのか?
最近、佐久間とよく話すようにはなったが、俺は佐久間のことをなにも知らないんだな、と痛感した。
俺は佐久間のことをなにも知らない。どこに住んでいるのかも、家族構成も、好きなものも、嫌いなものも。
ただほんの少し……本を読むのが好き……俺との会話は楽しんでくれている、と思いたい……。普段、俺は佐久間となにを話していただろう。昨夜見たテレビの話や、読んだ本の話はしていた気がする。しかし、これといって大した話をしていた記憶はない。
ただ……ただ、傍にいるだけ……言葉がなくともなんだかそれに違和感などなかった。居心地が悪いと思ったことはなかった。会話がなくともお互い自然と傍にいて居心地が良かった。
そう思っていたのは自分だけだろうか。
俺は佐久間が分からない……。
図書室で当番をしながらカウンターで本を読んでいる。しかし、内容は全く頭に入って来なかった。
今日、佐久間は来るだろうか。担任になにを言われているんだろうか。佐久間は……大丈夫だろうか……。
そんなことがグルグルと頭を巡り、全く本に集中出来ず、ふぅっと息を吐く。本を閉じ机に置いて、椅子の背凭れに深く凭れ掛かり、天井を見上げた。
そのときガチャッと図書室の扉が開き、ビクッと身体を起こした。慌ててガバッと立ち上がってしまい、椅子がガターンッと倒れ、静かな図書室内に響いた。
「ブッ、なにそんな慌ててんの?」
「さ、佐久間!」
思わず大声を上げてしまい、慌てて口を噤む。キョロッと回りを見回し誰もいないことを確認する。
カウンターから出て佐久間の傍に寄る。
「だ、大丈夫だったか? その……」
「あー、ハハ、一応担任は俺の事情を知ってるから、説明したら解放された」
「事情……」
俺は佐久間のことを知らない。なにも知らない。そのことがこんなに……いや、俺が踏み込んで良いことではないか……。俺と佐久間の関係は友達ですらないのかもしれない。ただのクラスメイトでしかない俺が知る権利などない。
そう思うと、酷く苦しくなった。
佐久間もなにも話さない。それなら俺から聞けるはずもない。無理矢理にでも聞いたほうが良いのか、佐久間自身が話したいと思うときまで待ったほうが良いのか……クラスメイトでしかない俺には分からなかった……。こんなとき親友と呼べるような間柄なら一体どうしただろうか……。
チラリと佐久間の顔を見ると、視線を逸らした佐久間は寂しそうに笑っていた。
佐久間はいつものように一番奥の机まで向かった。そして、静寂のなか、俺たちは離れた場所でただ本を読んでいた。
閉館時間となり、声を掛けに行くと、案の定佐久間は机に突っ伏して眠っていた。
起こすには忍びないくらいに穏やかな寝顔。窓から差し込む暖かな夕陽。冬に向かっている今の時期は暖かく気持ちが良い。
「佐久間」
そっと声を掛けると、佐久間はゆっくりと目を開いた。机に突っ伏したまま、見上げるように俺の顔を見た。その目は優しく、嬉しそうに微笑む。
窓から差し込む夕陽のせいで、なにもかもがセピア色に見える。机に伏せる佐久間の茶色い髪はキラキラと輝き、微笑む佐久間の落とす影すらもがひとつの絵画のように見え、思わず見惚れた。
「俺、お前といるの居心地よくて好き」
寝惚けているのか、ふにゃりと笑いながら言ったその言葉にドキリと心臓が高鳴る。
今の言葉は大した意味ではないはず……ないはずだと思いながら、誰かを好きになったことがないという佐久間の『好き』という言葉にどうしても高揚する自分がいる。
その言葉は俺の心に深く刻まれ、急速に沁み渡って行ってしまった……。
セピア色に広がる光景、差し込む夕陽に俺は目を細めた……。