【うん、習っていないよ。耳、聞こえないから】
聞いていいのかわからなかった。
けれど今聞かないと、ずっと聞けない気がした。
【中学二年生の時に、何があったの?】
抽象的な質問だけれど、質問の意図は伝わったようだった。
彼は顔色一つ変えることなく、スマートフォンに向き合った。
【病気になった】
高橋くんは画面から顔をあげた。
目が合うと、微かな笑みさえ浮かべた。
彼の雰囲気はあまりにも穏やかで、彼のことを話しているはずなのに、彼は自分ではない誰かのことを話しているようだった。
【中学二年生の冬に、突然高熱が出たんだ。次の日には聞こえなくなっていた。たまにいるんだって、俺と同じ病気になって、完全に聞こえなくなっちゃう人】
淡々と語られた事実を、ただ理解しようと何度も読み返す。
ある日突然、自分から音が全てなくなってしまったら。
ある日突然、自分の声が、家族の声が、友人の声が、ピアノの音色が、聞こえなくなってしまったら。
ある日突然、今まで通り会話ができなくなってしまったら。
想像が出来ない。
想像は出来ないのに恐怖だけが襲いかかってきて、すっと背中が冷たくなる。
自分から聞いておいて、何も返せない。
【病気になっちゃったんだから仕方がないよね。もう聞こえるようにはならないみたいだし】
やっぱりどこか他人事のような文面に不思議な感じがした。
辛かったはず。悲しかったはず。
それなのにどうして、こんなにも”普通に”できるのだろう。
のろのろと顔をあげると、『大丈夫?』と口を動かしながら、高橋くんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
【病気の話をするといつも暗くなっちゃうんだ。ごめんね】
”ごめんね”という文字に、なんとも言えない気持ちが湧き出てくる。
そもそも質問をしたのは私で、彼が謝る必要は何もないのに。
病気だって、彼がかかりたくてかかったわけじゃないのに。
何も言えない私に、【そうだ、さっき撮った写真、送ってくれる?】と高橋くんは分かりやすく話題を変えた。
悲しみとか、苦しみとか、何に対するものなのかわからない怒りとかが一気に込み上げてくる。
「うん」と頷く代わりに、その全てを腹の奥底に沈めた。