『好き嫌いは無い』という彼の言葉は本当だったようで、少し作り過ぎたかな、と心配していたかずたちは、あっという間に高橋くんの胃袋の中に消えていった。
最後のおにぎりを頬張る高橋くんの傍でぼんやりくつろいでいると、かすかにバイオリンの音色が風にのって聞こえてきた。
ストリートライブかな。
知らない曲だけれど、しっとりとした深みのある音が曲を紡いでいく。
【どうかした?】
ぼんやりと曲が聞こえてくる方向を見つめていたことを不審に思ったのか、高橋くんはスマートフォンを持ったまま首をかしげた。
【バイオリンの音が聞こえてきたから、ちょっと聞き入っていた】
【バイオリンか、いいね】
高橋くんはふわりと笑う。
【そういえば、もしかして、泉本さんもピアノやってたりする?】
彼の何気ない質問に、胸がギュッと掴まれた気がした。
【少しだけ。でも最近は全く弾いていないよ】
【そうなんだ。どんな曲弾いていたの?】
文字を打ち終えた高橋くんは、私をまっすぐ見る。
【簡単な曲しか弾いていないよ。そもそもコンクールとか出たことはないし。もう最近は弾いていないから】
私は「本当にもうピアノとは疎遠だから」という感じのぎこちない苦笑いを作った。
【そうなの? クラシック、詳しそうだったけど】
【そんなことないよ。有名な曲しか知らないし】
【でも、ある程度音楽やっていないと、曲名すぐ出てこないでしょ】
顔にかかった横髪を払う仕草で、彼から視線を外す。これ以上自分のことを話すのが嫌になって、話の主人公を高橋くんに変えた。
【そういう高橋くんは? ピアノ、習っているの?】
高橋くんは少しだけ瞳に翳りを見せてから【中学二年までは習っていた】と教えてくれた。
【今は? もう習っていないの?】
小さい頃に近所のピアノ教室で習っていただけ、というレベルではなかった。
ピアニストでもプロでもない、ただ趣味で音楽をやっていただけの人間の私でも、彼の繊細な演奏はある程度の頻度で弾きこんでいないと出来ないということがわかった。