「あの時、帰ってきて店で泣き崩れた私を見た父の顔が忘れられません。ペンネームに母の名前まで借りてるのにこのザマです。とんだ親不孝者です。私は、逃げ出したんです」
「逃げたんじゃないでしょう」
重ねられた否定に、俯いていた視線が上がる。意志の強そうな三白眼の奥が、少しだけ揺れた。
「春乃先生は、守ったんです」
「…は…?」
「自分が紡いできた言葉がクソみたいな奴らに穢されることから守っただけです。先生がそのままで居てくれたから俺はまた、貴女の書く言葉を好きになった」
険のある目つきをそこで漸く解いた新座さんは、ぽたりと頬を伝うものに私より先に気づいて指先でそっと拭い取ってくる。
「新座さん、何者ですか」
「構想社《こうそうしゃ》の文芸編集部で編集者をしてる新座《にいざ》 千萱《ちがや》と申します」
「…外資系コンサルタントだとお聞きしてましたが」
「自分で言いながらその職種にピンとこなさすぎて、まじで後悔してた」
気まずそうに視線を逸らす男は疲労感たっぷりに溜息を漏らす。
「編集者だと名乗らなかったのは、私に気を遣ってですか?」
「…まあ、朔さんに嫌われたくなかったし。あと約束してたんで」
「え?」
「朔さん、逸見さんの過保護っぷり分かってなさすぎ」
困ったように眉を下げて微笑む男は、ぽんぽんと私の頭を撫で付ける。状況が読めず戸惑う私に言葉を繋げる。
「初めて「いつみ」に来た日。俺、割と落ち込んでました。新卒で配属された漫画編集部で、初めて担当した漫画家さんが辞めると聞いたからです」
「…そうだったんですか」
「連載の打ち切りが続いて、そろそろ区切りをつけたいと吹っ切った笑顔でした。彼の家からの帰り道に偶然「いつみ」を見つけました。それでメニュー表にこっそり載ってるコラムを読みました」
――アパートを引き払って実家に戻った私は、突然父から無茶振りを受けた。
『朔。お前メニュー表の裏に、なんか書け。サイドメニューが売れるようなやつ』
確かにサイドメニューの売れ筋には偏りがある。野菜系のおつまみは原価が安い分、利益が取りやすいからもっと売り出したいと思ったのが、コラムを書いたきっかけだった。