その後、律子は当時の職場を辞め、俺も職を手放し、何かから逃げるようにその地を離れ、この田舎へと越してきた。

誰も俺たちを知らない地で、ひっそりと暮らしたかった。

そういう暮らしが、俺たちの心を徐々に癒してくれたんだと思う。

だけど、不安を完全に払拭することは、不可能だ。




「……律子」


笑えるくらい情けない声が出た。
まるで縋るような力で律子を抱き締める。


「…俺……、」


怖い。
ものすごく、怖い。

けれどその言葉を口にはできなかった。だってきっと、律子の方が俺よりも何倍も怖いに決まっているから。


律子の小さな手が、俺の手の甲を撫でる。

まるで俺の不安や葛藤、全てを分かっているかのように、優しく。


「拓くん、もう子供は諦めようって言ってたのに、治療に付き合ってくれて、本当にありがとう」


ふるふると首を横に振る。

怖気付いてしまった俺とは対照的に、律子は死産後も二度目の妊娠に向けて前向きだった。絶対に諦めたくないと、強い瞳で俺に訴えてきた。


「拓くん」

「…ん?」

「こわいね」


俺の指をきゅっと掴む律子の指先が微かに震えていて、まるでマグマが煮えたぎるように、目頭が熱くなった。


「でも、私どうしても、私たちの子供を抱っこする拓くんを見てみたいの」

「…っ」

「こんなの、エゴだよね」


ごめんね、と弱々しい声でそう言う律子に、また首を横に振って、ぎゅうっと抱き締める。「苦しいよ」と笑う、涙に濡れた声が聞こえて、心臓が潰されてしまいそうだった。



「私、思うの。かなしいことって、そう何度も続かないんじゃないかなって。それに…」


律子は俺の手を自身のお腹に乗せ、そのまま優しく擦る。


「…この子には、お姉ちゃんがついてるから」


今も空で俺たちを見守ってくれているであろう、あの子を思う。

優しくて強い、俺の自慢の奥さんの血を受け継いだ、かけがえのない子。

たとえ戸籍に残らなくても、誰がなんと言おうとも、俺たちにとって初めての子供は、あの子以外にはいない。



「だからきっと、大丈夫だよ」


律子がそう言うと、本当に大丈夫な気がしてくるから、不思議だ。

肩越しに振り返った律子はすっかり涙でぐしょぐしょになってしまった俺の顔を見て、噴き出すように笑う。

俺は律子のその笑顔に、ずっと恋焦がれているままだ。




「お鍋、食べよっか」