日曜日、昨日はピアノを一日中触り続けたせいで夢の中までシューベルトの幽霊が出てきた。
太陽の位置がやけに高くて瞼が擽られるまで布団にくるまっていると掃除機の音が徐々に近付いてきて私の部屋の扉を小突いた。早く起きろということだろう、9時にセットしていた目覚ましがいつの間にか独りでに止まっていた。3時間の寝坊だ。
「椛、朝早くに倫太郎くん来てたのよ」
「倫が?起こしてくれれば良かったのに」
昨日今日は稲刈りで忙しいからとデートの誘いを涼やかに断った人がなぜ我が家へ?
カジュアルなワンピースに着替えて眠ったままの体をのろのろ動かす。台所でなにやら手の込んだ料理を作っている母の背中に、倫何の用事だった?と尋ねれば、
「さぁ、部屋に通したら寝顔だけ眺めて帰ったわよ。あと危ないから田んぼには来るなって伝言」
「……部屋通したの?」
「あらいいじゃない将来は私の息子でしょ。倫太郎くん滅多に感情出さないけどアンタのことを大事に思ってることだけは分かるからお母さんキュンキュンしちゃって」
胸を押さえて年甲斐もない反応をする母に呆れつつ、将来というワードに何故か息苦しくなった。
「今の関係が続くかなんて分からないよ」
居間のテレビから聞こえるローカル番組のキャスターにも負ける声量で言えば背中越しに、馬鹿ねぇ、と。自分でも馬鹿なこと言った自覚が数秒後には押し寄せてきたから今のは失言だったのだと察した。
無性に倫に会いたくなった。
「倫のとこ行ってくる」
「そうしなさい」
倫太郎の伝言を預かったはずの母は私を止めない。
この人はいつだって、私を引き留めることをしない。東京に行くことだってピアノを続けることだって全て認めてくれた。
愛していた人と別れ張り詰めていたものがプツリと切れた途端弱々しく崩れたあの頃の母は、いつの間にか決して豪華とはいえない木造の家で都会とはかけ離れたこの場所で幸せそうに暮らしている。
「お母さん、私ここを離れていいのかな」
なぜそんなことを口走ったのかは分からない。この人を独りにする選択をしたのは私なのに、なんて酷い娘なんだと罵ってくれて構わないのに。
少しの沈黙を埋めてくれたのは規則正しく野菜を刻む音。
「そのために、ここに来たのよ」
アンタが必要な時に必要な選択が出来るように。
最後までその背中が私を振り返ることはなく、夕方までには帰るのよ、と付け足した。母の偉大さに触れた気がした。