MIKEさんの部屋での懇談は、みんながそれぞれの地方から持ち寄ったお土産をシェアしたり、全員にメッセージ付きのプチプレゼントを準備してきてくれた人もいたり、アクセサリー作りを得意とする人がMIKEさんにアクセサリーをプレゼントしたりと、自由に過ごした。
介護職についている多香奈さんは、祖母の認知症で泣いていたナツさんに
「手を握ってあげるといいよ。
触覚って五感の中で一番最後まで感覚が残るらしいから」
と助言してあげていた。
林野さんとマキさんは同じアイドルが好きだということが発覚して、コアな話を二人で延々としている。
ふみのさんと福水ちゃんは、MIKEさんが持参したカードを使って勝手にカードリーディングをしながら、出たカードの内容について考察をしている。
この懇談に限らず、MIKEさんと話をすることだけが目的ではなくて、メンバーのみんなと話をするのがとにかく楽しい。
それはわたしだけではないようで、MIKEさんをひとりぼっちにしてメンバー同士で話し込んでいる状況がまさに今この瞬間に発生していた。
「あー、うん、私、いない人として扱われているね……?」
ぼやいているMIKEさんが少し寂しそうだった。
MIKEさんが懇談時間の最後で、みんなに向けて言っていた。
「楽に生きる、と決めてください。
人はみんないつか死にます。
自分を含めてね。
だからこそ、生きているだけで価値があるというところを超えて、生きているだけで世の中に必要とされるお金や労働力や時間や様々なものすべてを生み出せるすごい存在である、というように自分の存在意義を高く設定してその事実を受け入れてください。
自己否定は殺人と一緒ですよ」
部屋割りは二人一組となっていて、わたしは仁和希さんと一緒だった。
講座中はあまり話す機会がなかったが、同じ業種の会社で働いていることが分かり、話が大いに盛り上がる。
部屋の電気を消して布団にもぐりこんだ後も、業界あるあるを話したり同じような悩みにうんうん頷いたりしていたら、目が冴えてまったく眠れなくなり、2時間しか眠れなかった。
早朝参拝は朝6時15分に旅館の玄関に集合することになっていた。
12月という時期にしては、昨日は気温がだいぶ高かったが、やはり早朝ともなると山陰の寒さは厳しい。
わたしは収納袋にしまって持ってきた軽いダウンコートを羽織る。
仁和希さんと一緒に玄関に行くと、福水ちゃんが寒いと言って震えていたので、これも持ってきていたふわふわネックウォーマーを貸してあげた。
ダウンコートがスタンドカラーになっていて、首元にネックウォーマーがなくても意外と寒くなかったからだ。
「神や……あったかい……」とつぶやく、ふんわりした雰囲気の福水ちゃんによく似合っていた。
外に出ると、少し明るくなり始めてはいたが、真っ暗な夜というほどでもなく、顔が見えるような見づらいような薄暗さだった。
見上げると細い三日月が遠慮がちに光っている。
空の色が濃紺から紫、そしてピンク色のグラデーションに染まっている誰彼時(かわたれどき)が美しい。
わたしは神社やパワースポットに詳しくなく、初詣くらいしか神社に行かないタイプなのだが、こういう神社参拝をよくしている人は、神社にあるすべての祠に参拝するらしい。
今回も、出雲大社の入り口にある大鳥居を抜けたすぐのところにある祓社(はらえのやしろ)という祠から参拝することになった。
参拝初心者にとっては、こんな小さな祠にまで参拝するんだという驚きから始まる。
マチルダさんは、小さいときから神社参拝に慣れているようで、ここでは祝詞をあげてくれた。
すごい、神主さんみたいだなあと思いながら祝詞を聴く。
きんと張った冬の空気の中で聴いたマチルダさんの祝詞は崇高な響きを持っていて、祝詞をあげる彼女の横顔がかっこよかった。
すべての祠を参拝して有名な注連縄の神楽殿まで来たとき、空はすっかり明るくなっていて、すでに日が昇りきっていた。
早朝なので、入り口の大鳥居まで戻っても、車も人もほとんどいない。
大鳥居から最寄りの出雲大社前駅までの一本道は神門通りと呼ばれるらしいのだが、その通りをわたしたちだけで独占しているかのような気分になった。
人のいない神門通りを写真に撮っているMIKEさんの後ろ姿をミライコさんが撮っていた。
旅館の朝ご飯はこれまた豪華だった。
その中のメニューで初めて知ったけど、甘味のぜんざいというのは、出雲の神在月が由来で、神在と書いてじんざいと読んだところから来ているらしい。
出雲神在はあっさりしていて、朝から余裕で楽しめた。
朝食後、陰の出雲大社と呼ばれる日御碕神社にバスを使って移動し、参拝する。
日御碕神社はすべての建造物が朱色で彩られており、神社って境内がこんなに鮮やかだったっけと思ってしまったくらいだった。
マキさんの着ているおしゃれで真っ赤なコートが景色に馴染んでいる。
旅館に戻ってチェックアウトをしているとき、先に会計を済ませていたMIKEさんが声を上げた。
「ほら、やっぱり!」
手に持っているのは、なんとロシアンブルーの猫グッズ(箸置き)だ。
昨日行ってなかったはずの旅館のお土産屋に、今日は確かに売っていた。
「決めたゴールに必要な願いは、当たり前のように叶ってしまうんですよ。
これくらいの速さでね」
そう言ってMIKEさんは嬉々として猫グッズを購入した。
ようやく出雲大社に正式参拝する。
早朝にマチルダさんが祝詞をあげた祓社(はらえのやしろ)には、多くの人が集まっていて人だかりができていたので、わたしたちは軽く拝んで通り過ぎた。
神社参拝初心者のわたしは、小さな祠から全部参拝する人がこんなにもたくさんいるんだという事実をその目で確認してやはり目を丸くするしかない。
昨日の散策から数えるともう三度目なので正直慣れてしまったが、北島國造館まで来たとき、結婚式を挙げている人達に出会ったのが三回目だということに気づいた。
神社参拝しているときに結婚式を目にするのは、参拝を神社から祝福されているという意味があるらしい。
そうすると、わたしたちは出雲大社から大歓迎を受けたということになるのかもしれない。
何にせよ、大変うれしい。
稲佐の浜で集めた砂は、素鵞社(そがのやしろ)という祠の両側と後ろの部分に砂の入った箱があるので、そこに自分が持って来た砂を入れて元からある乾いた砂をいただくのだが、人がずらりと並んでいて、その並んだ人がどんどん箱に持って来た砂をいれるもんだから、元からある乾いた砂がどこからどこまでというのがいまいち分からない。
「これって、下手したら今日誰かが持って来た砂を、すぐに自分が持って帰ることになるよね?」
などとみんなで言いながら、できるだけ下の方の砂をいただいた。
ランチを終えて大鳥居まで戻ってきたとき、近くにある宝くじ売り場に行列ができていた。
そろそろ解散かなと思っていたら、ナツさんが見当たらない。
「あれ、ナツさんがいないね」
MIKEさんも気がついたらしく、誰かがナツさんに連絡したのだが返事が来ない。
しばらく待って、ようやくナツさんがどこかから戻ってきたので行先を尋ねると、どうやら宝くじ売り場に並んで宝くじを買っていたらしかった。
「どうせ買うならご利益がありそうだからここで買おうと思って、行列見た瞬間に並んでた」
優しく柔らかな空気をいつもまとっているナツさんと、思いついて即行動に移したその迅速さのギャップがおかしくて、みんなで声を上げて笑った。
解散してそれぞれが帰路についたが、わたしはこの後まっすぐ帰るかどこかに寄るか思案していて、バスを待っている福水ちゃんと最後まで大鳥居の場所に留まり、とりとめない話をしていた。
「さあ、これからのけろっこさんはどうなっていきたい?」
福水ちゃんの質問に、虚を突かれる。
これからの自分がどうなりたいかなんて、全然考えていなかった。
そうだなあ。
わたしは少し考えて、こう答えた。
「不安だけど、最後にはいつも大丈夫になる!」
「いいね!」
福水ちゃんが元気よく肯定してくれる。
生きてく中で不安や心配がなくなることはないけれど、それすら丸ごと受け入れて大丈夫で終われるわたしへ変わるんだ。
この同志たちと一緒に、わたしは新しい世界に行く。
年が明けて、3月も終わりに近づいていた。
よく1月は行く、2月は逃げる、3月は去るなんて言うけれど、本当にそのとおりだと実感する。
わたしの場合、1月から正社員になり、あらゆる仕事から逃げられなくなったのもあって、人以上にその言葉が真実であることをひしひしと噛みしめていた。
部長との共同生活は今も続いている。
わたしは1月以降も部長と生活したかったが、部長はどう思っているのか分からなくてどうしたものかと考えあぐねていたけど、出雲旅行から帰ってきてすぐ、部長からこう切り出された。
「白川さん、1月以降もここで一緒に暮らしてくれる?」
「もちろんです!
部長がよろしければ、わたしも是非そうしたいと思っていました」
「あー安心したー!
いやね、あなたが旅行に行っている間、どうにも物足りなくって」
ふふふ、とわたしは笑う。
「それ、わたしも部長が出張でいなかったときに、まったく同じことを思っていました」
「えー、そうなんだあ!」
嬉しそうに部長が驚く。
「ですが部長、1月以降はわたしも正社員になるので、これまでどおりの家事分担は難しくなると思います」
「そうね、もちろん分かってるわ。
もう一度家事分担を考え直しましょう」
そうして再検討した結果、やはり家賃は払わせてもらえず、生活費全般はこれまでと同じように部長が負担し(この二つは絶対に譲ってもらえなかった)、部長の服が多いことも考慮して洗濯担当が新たに部長の家事として加わった。
料理については、平日夜は毎日作らなくてもよいというルールにしてくれた。
お弁当を作りたいので結局は作っているが、できないときはできなくてよいと決めてもらえて、気持ちの面でかなり楽になった。
その分お弁当のおかずは冷凍食品をうまく活用することにして、スーパーのはしごも仕事が休みの土日に集中させている。
服と言えば、正社員になるにあたって、洋服の数を倍に増やして年間30着で回すことにした。
それでも少ない方だ。
靴も、これまでは黒いスニーカー2足でよかったけど、新しくベージュと黒のパンプスを1足ずつ追加したし、リュックでの通勤をやめ、きちんと感のあるトートバッグを新しく購入した。
後は、誕生日祝いと正社員登用祝いを兼ねて部長がプレゼントしてくれた、キラキラ光る一粒ダイヤのピアスが貴重品に加わった。
このダイヤの輝きに恥じない自分でいようと、毎朝鏡に向かって気持ちを奮い立たせている。
「部長、今日の夜は送別会ですよ」
「おお、そうだった。
忙しすぎて忘れるところだった。
お花の手配は白川さんが担当だったよね?
任せていたけど大丈夫?」
「はい、ばっちりです!」
春が近づいていて、少しずつあたたかみを増しつつある空気を胸いっぱいに吸い込みながら、同じような朝の通勤ルートをたどる人たちと共に、部長と二人で最寄り駅に向かう。
今日は金曜日。
仕事がんばって、美味しくお酒飲むぞ!
すみれちゃんからの電話はひどく久しぶりで、あまりも突然だった。
牧本すみれちゃんは、数年前の職場で仲良くしていた後輩だ。
同じ契約社員で、二人でよく飲みに行ったり、お互いの家でご飯を食べ合ったりした。
15歳も年が離れていて、わたしとは一回り以上年齢が違ったけれど、彼女に人懐っこい笑顔を向けられてすぐに打ち解け、大事な後輩になった。
部長と夕食を食べ終え、夜9時を過ぎたころだった。
スマホが振動して、数年ぶりにすみれちゃんの名前をディスプレイに映し出した。
「わ、懐かしい後輩から電話がきました。
出てきます」
リビングのソファで隣にいた部長にそう告げて、自室の扉を閉めてから応答ボタンを押す。
「もしもし、すみれちゃん?」
「けろっこ先輩?
お久しぶりですー。
元気でしたか?」
「うん、元気にしているよ。
すみれちゃんは元気?」
彼女は自分から電話してきておいて、返事に困ったように押し黙った後、次のような近況を教えてくれた。
すみれちゃんはわたしと知り合ったときにはすでに結婚していたのだが、数年前から夫からのモラハラを受けており、それと同時期にわたしと一緒に働いていた会社とは別の会社で上司からのパワハラも受け続け、オンとオフ両方で心身を病んだ結果、逃げるように他県の実家に帰ってきたのだという。
「一緒に住んでいる間、夫からは、『俺と離婚しろ!』って毎日言われましたね」
「そうか……。
本当に大変な思いをしたんだね。
旦那さんとは離婚するの?」
「実は、今日夫から記入済みの離婚届が届いたんです。
子どもがいなかったんで、それに私が記入して役所に出せば終わりです。
離婚の手続きってこんなにあっけないんですね」
返す言葉が見つからない。
「今、実家近くの居酒屋にひとりで飲みに来てるんですよ」
さっき話の中で精神科に通院していると言っていたので、薬とお酒の飲み合わせは大丈夫なのか気になったが、指摘するのはやめた。
彼女が電話口の向こうで泣いていたから。
彼女の話を否定せずに聞いていたら、すみれちゃんが
「けろっこ先輩は憧れです。
私も先輩みたいに強くなりたい」
と言い出す。
言われ慣れない言葉に、なんだか落ち着かない。
「わたし強くないよ。
豆腐メンタルだよ」
「私から見た先輩は強いです」
「そうかなあ?」
どこらへんを見たらそう思ってもらえるのか、自分には皆目見当がつかなかった。
「先輩、今幸せですか?」
これまた突然の質問をされ、言葉に詰まった。
幸せって……そもそも何なの?
一般的な幸せってあったっけ?
自分の誕生日に嬉しいことが起きても、その喜びは一日中ずっとは続かなかったのに。
確かに今、正社員になれて、部長との共同生活を楽しんではいる。
でもそれを幸せという言葉で括ってしまうことには違和感があった。
彼女の求めている幸せかという問いかけの答えとは、ずれている気がする。
正社員にはなれたが、だからこそ仕事は以前より増えているし、残業も増えている。
部長との共同生活も、完全な他人との生活だから、家族など身内との生活のような気楽さというものはなく、細やかな気を遣いながら続けているというのが実態だ。
わたしは「幸せだね」とは即答できなかった。
だけど、代わりに口をついて出た言葉がある。
「今さ、人生が楽しいんだよね。
それは間違いないよ」
気を遣ったりはするけれど、それでも部長との共同生活が楽しいことは変わりない。
正社員は仕事もその時間も増えて大変だけど、仕事の幅は広がったし、見える世界が去年とは少しずつ変わってきている。
それは、楽しい、という言葉でくくっても何の違和感もなかった。
「そうなんですね」
後輩が相槌を打つ。
「すみれちゃんは療養中なんでしょ?
自然に囲まれた場所に行ってみた方がいいんじゃない?
海とか山とか」
「海は見に行けないです。
飛び込みたくなっちゃうから。
山は遠いんですよね。
飲んでいる薬の影響で車を運転できないから、遠いところは親に車で連れて行ってもらわないといけないから難しいんですよ」
「そうなんだね」
「趣味のネイルチップを作ったりもするんですけど、全然気分が晴れないんです。
このまま離婚したら、もう誰かを好きになることも二度とできないかもしれない。
私みたいな人間を好きになってくれる人もいない気がして、再婚なんてとてもじゃないけどできないだろうし。
子どもも持てないまま死ぬのかなって思うと、辛すぎる。
生きるのがしんどすぎて、もう無理です」
そう言って彼女はまた嗚咽を漏らして泣いた。
彼女の住んでいるところは隣県というわけではなく、わたしの住んでいる場所からはそれなりの距離があるので、今から彼女のために駆けつけて一緒にお酒を飲むことはできない。
それでも……と思う。
泣いているすみれちゃんのそばに寄り添いたくて、わたしと彼女の間に横たわっている絶対に動かせない距離がもどかしくてたまらなかった。
「わたしは、すみれちゃんが、必ず立ち上がれるって信じてるよ。
すみれちゃんが今ある苦しさも乗り越えられて、あなたの未来は明るい、大丈夫だって、心から信じてる」
何とか言葉を尽くして自分の気持ちが届くように伝えたけど、どこまで彼女に響いたのかは分からなかった。
電話を切った後、これまですみれちゃんに話していなかったが、もうずいぶん前に別れた恋人のことを思い出していた。
9年付き合っていた。
結婚の話を具体的に進めようというときに、職場の女性を妊娠させて、その人と結婚することになったから別れてほしいと恋人から切り出された。
怒りを通り越して呆れ返ってしまい、その申し出をそのまま受け入れた。
31歳のときだった。
もっと進んだタイミングじゃなくて、この段階でまだよかったよと自分を何度も納得させながら。
もう恋愛はいいかな、と思った。
やりきった感が大きかった。
この人との恋愛が人生最後になるかもしれないことは、本当に癪だったけど。
それ以降、色恋沙汰に心を乱されることなく、今日まで来ている。
気を取り直して、思い出したくもない記憶を頭から追い出し、リビングに戻った。
リビングでは、テレビの中から歌番組が流れていた。
「おかえり」
電子レンジで作った熱燗を飲んでいた部長が振り向く。
つまみはわたしが作り置きしていたこんにゃくのピリ辛炒め煮だ。
「わたしも飲んでいいですか」
「いいよ。
自分の分のおちょこ出してきて」
部長は季節問わず熱燗が好きで冷酒を飲まないのだが、熱燗もこれまたちょっと熱めが好きなのだ。
わたしも部長と過ごしてきて、いつの間にか飲み過ぎてしまう冷酒よりも、ぬるい日本酒よりも、熱々でちょびちょびと飲む熱燗が好きになっていた。
ちなみに熱燗を部長が好きな理由はずばり、飲み過ぎなくて済むから、である。
「電話の用件は何だったの?」
「それがですね……」
かいつまんで話す。
「ああ、みんな通ってきた道だよね」
離婚経験者の部長は深く頷きながら、こんにゃくをつまんだ。
「ですよねえ」
「彼女も早く楽になるといいね」
「はい、そう願ってます」
わたしも熱々の日本酒を少しだけ口に含んだ。
ただ、わたしのすみれちゃんのことを思ってる気持ちが、もっと伝えられたらよかった。
文字や言葉で伝える自分の力の限界を感じてしまう。
もっと伝わる方法ってないのかな。
そのとき、テレビから合唱曲が聴こえてきた。
歌番組で卒業シーズン特集が組まれていたらしく、アイドルグループがスタジオで歌っている。
昔自分も学生のときに歌ったなあと思いながら聴いていたが、歌詞を見てとっさに思いついた。
「これだ!」
立ち上がって叫ぶ。
「どしたの?」
部長が怪訝そうな顔でこちらを見上げる。
「いえ、何でもないです」
慌ててソファに座り直す。
そうだ、ピアノで伴奏を弾きながらこの曲を歌った動画を送ろう。
とてもいいことを思いついた気持ちになった。
自己満かもしれない。
でも、いいんだ。
伝えたい気持ちの方が大事だから。
久しぶり、というか28年ぶりにピアノを弾く。
わたしが最後にピアノに触れてから、すみれちゃんの年齢と同じだけの年月が経っていた。
どれだけ弾けるだろうか。
指は動くだろうか。
楽譜は読めるだろうか。
シャープが3つくらいついていたら読めないかもしれないな。
この曲、最後の大サビが転調するから、高音を綺麗に歌える自信はないけど。
とにかくやってみるしかない。
わたしが所有している数少ない紙の本の中に、合唱曲の楽譜本を残していたことは覚えていた。
試しに歌だけでも歌ってみるか。
音楽のサブスクで合唱曲名を検索してみると、二部合唱、三部合唱、カラピアノというピアノ伴奏のみの曲まで見つかった。
「部長、ちょっと部屋にこもってきます」
「はーい」
わたしはおちょこに残った日本酒を飲み干し、再び自室に向かった。
レンタルスタジオには1回以上通うことになった。
楽譜は、今回の曲にはシャープが1つしかついていなかったので何とか読めた。
しかし、全然弾けない。
さらに、途中で何度も指がつる。
わたしの指の筋肉はこんなにまで衰えていたのかと悲しくなるほどだった。
何度も何度も何度も、左手と右手それぞれで伴奏の練習を繰り返した。
曲が弾けなければアカペラになってしまう。
3回ほど通って、ようやく両手同時に最後まで弾けるようになった。
歌の練習はばっちり終わっていた。
家でサンちゃんとシイちゃんに聴いてもらいながら練習した。
連続で練習しすぎて、次の日に多少喉が痛くなってしまうほどやりすぎた。
猫たちはすぐに飽きて逃げるかと思いきや、意外と長く聴いてくれた。
やはり聴衆のいる方が心を込めて歌える。
4回目のレンタルスタジオ。
歌いながら演奏することに初めて挑戦したが、おぼつかないながらも何とかできた。
よしよし、この調子でがんばろう。
数回練習して、どきどきしながら動画撮影の開始ボタンを押した。
歌詞を口に出すときに、すみれちゃんへの気持ちを思いっきり言葉に乗せた。
言葉にはそのとき発する人の感情の状態が全部乗っかって届くからね、というMIKEさんの教えを思い出しながら。
そして、同じ言葉でもきっと歌の方が人には届く。
それはメロディーの力だ。
あなたは大丈夫だって、信じてるよ。
きっとわたしなんて軽々超えて強くなる。
何とかなるから。
いつか絶対何とかなる。
寂しいよね。
自分はもう誰も人を愛せないんじゃないかって思うよね。
彼のどこを好きだったんだろうって思うよね。
一度好きになった人と対立しないといけないしんどさ、あるよね。
わたしだって、ひとりで出歩くのはそんなに得意ではないよ。
でもさ、仕方ないじゃん。
死ぬときは誰でもひとりだから。
だったら、ひとりでも楽しくなるように生きてやる。
大好きなものをたくさん見つけてやる。
わたしは楽に生きるよ。
この世界には、自分とまったく同じ目線で世界を眺められる人間は、自分ひとりしかいないから。
それは、寂しいってことじゃなくて、すべての物の見方を自分でどこまでも自由に作り出せるってことなんだよ。
だからわたしは「世界が自由に作り出せるのなら、さあ、何を作ろうか?」っていうワクワクを体感しながら生きていくよ。
わたしの幸せは、全部全部わたしが決める。
そして世界は、わたしが決めた幸せを実現するために、そのとおりに動いていくよ。
また必ず会おうね。
遠くにいるけど、いつも思ってるよ。
あなたが自分の幸せを、外側にいる誰かの声に惑わされることなく、自分で決められるようになりますように。
動画を撮っては中身を確認してという作業を繰り返して、一番いいと思ったものをメッセージアプリ経由ですみれちゃんに送信する。
そういえば、彼女の住んでいるところには行ったことがなかったな。
その事実に気づいたわたしは、ひとり旅行の計画でも立ててみようかと、宿泊サイトのページをスマホで検索し始めた。
後日、すみれちゃんからメッセージが届いた。
「先輩の動画、泣きながら見ました。
先輩の気持ち、いっぱい届きました。
本当にありがとうございます。
これから何度も見返します」
その内容に続いて、離婚が成立したことの報告を受ける。
わたしは皮肉まじりにこんなメッセージを送った。
「世間はね、結婚を一度もしないまま独身でいる人間より、一度結婚してから離婚して独身になった人間に対しての方が、信用が高いんだよ。
すみれちゃんがその信用を持っている事実だけは知っていてね」
まあ、わたしにはないものだけど、それがなかったところで何も困ることはない。
そういうものはわたしの幸せに必要ないからだ。
だけど、彼女がほんの少しでも離婚したことに前向きな気持ちを持てるように。
そういう意味で、わたしはいわゆる世間的には負け犬なのかもしれない。
わたしに勝ちたいならいくらでも勝たせてあげる。
わたしはマウントに屈しないし、他人と比べられて何かを他人から決めつけられても気にしない。
独身貴女の何が悪い。
4月に入ったある日の夕食時、部長がいきなり言った。
「ねえ、私の養子にならない?」
わたしは飲もうとしていたお茶を吹き出した。
「は、え、よ、養子?
わたしが、部長の養子に?」
「そう。
どうかしら?」
自分の心に、どうしたい?と問いかけるのに10秒使ってから、答えた。
「分かりました。
養子になります」
10秒で即答できた自分に自分でも驚く。
「ところで……これって部長が亡くなったら、わたしが部長の遺産をひとりじめすることになりますよね?
他の相続人とか大丈夫ですか?」
即答しておきながら、相続問題に巻き込まれる可能性はあるのだろうかと考える。
「いや、両親も他界してるし、私一人っ子だから、弁護士によると私の財産って国のものになっちゃうみたいなのよね」
「なんだか、自分の財産が自分の死後とはいえ国のものになるのは、抵抗がありますね」
「そうなの!
生きてるときはたくさん税金を払わされて、死んだらさらにそれ以上を国に取られるのはさすがに嫌だなと思って。
国に私の財産を渡すくらいなら、あなたに使い切ってほしいのよ。
その代わり、介護はよろしく」
部長がニヤリと笑って言う。
「そっちのギブアンドテイクでしたかー!」
わたしも笑った。
「それでも……実の両親の介護をするよりマシかもしれません。
血の繋がりがある方が逆にやりづらかったりしますので」
あの母親の介護が自分の未来に待っているかと思うと、わりと真剣に憂鬱だった。
「私も両親二人を看取って、思うところがあったこその養子縁組の提案なの。
もちろん、すぐにというわけじゃない。
3年から5年後くらいかな。
すぐできないわけでもないけど、そうしてしまったら白川さんが部署を異動させられそうだもんね。
さすがに親子が一緒の部署というのは、会社が認めないだろうし。
そうしたら、白川さんを正社員にした意味がなくなっちゃうから」
「分かりました。
じゃあ、『新海恭子』になるのをわくわくして待ってます。
その前に、部長はちゃんとそのときまで元気でいてくださいね!」
「大丈夫。
白川さんのおかげで以前より健康になってるから。
あとね、改姓したら結構手続き大変だからね。
銀行口座とか免許証とかありとあらゆるものを名義変更するんだから」
「そのときはご指導お願いします!」
わたしはニヤニヤしながらダイニングテーブルを挟んで部長に頭を下げた。