扉の上部に掲げられたプレートには『視聴覚倉庫』と書かれていた。こんな名前の部屋があるなんて、今まで知らなかったぞ、俺。
「ここなら誰も来ないから、ゆっくり話ができる。――ゆうべの『あの件』について、幸太郎くんに伝えたいことがあるんだ」
 伊月は引き戸に手をかけながら言った。
「あ? じゃあ、先生が呼んでるっていうのは……」
「あれは嘘だ。ゆうべの件は、他の人には伏せておきたい。それに、今までたいして関わっていなかった僕が、個人的な用件で幸太郎くんを連れ出したらクラスメイトが不審がるだろう。だから一計を講じたんだよ」
「あー、そういうことか。びっくりさせんなよ。俺、てっきり叱られんのかと思ったぜ」
 教師からの呼び出しと聞いて、内心ビクビクだった。数学の小テストで二問しか解けなかったのがマズかったか、それとも三日前が締め切りだった国語表現のレポートの催促か……心当たりは無限にあるからな。
 ホッと胸を撫で下ろしていると、伊月は真顔で尋ねてきた。
「僕は『先生が呼んでいる』と言っただけだよ。幸太郎くんはなぜ、叱られると思ったの?」
 うるせーな。優等生の伊月と違って、こっちは職員室に嫌な思い出しかねーんだよ!
 小さく舌打ちする俺を促して、伊月は視聴覚倉庫に足を踏み入れる。
 室内にはDVDデッキだの壊れたアンプだの……いろんなものが雑多に置かれている上に埃っぽかったが、引き戸をしっかり閉めてから、俺たちは向かい合った。
 今から話すことは誰にも言わないでくれ。そう前置きして、伊月は口を開いた。
「まずは僕のことから話そうと思う。ゆうべも言った通り、僕は陰陽師だ。先代の祖父と一緒に、狸穴神社の庫裏で暮らしている」
 ゆうべはバタバタしてて、伊月のことをろくに知らないままだったから、自己紹介からやってくれるのは正直ありがたい。
 ちなみに、狸穴神社というのはこの高校から百メートルくらい離れた場所に建つ(やしろ)だった。俺はふむふむ頷きながら、何の気なしに言う。
「へー。あの神社が伊月の家なんだな。一緒に住んでるのは、じいちゃんだけか? 親は?」
「両親は亡くなったよ。五年前に、交通事故で」
「えっ」
 マズった! 無神経なこと聞いちまった……。
 俺はあたふたしたが、伊月はなんでもないといった顔つきで淡々と先を続けた。
「狸穴神社は、この狸穴の地を鎮守するために建てられた。僕の先祖は代々そこで神職に就く傍ら、陰陽師としての役目を担ってきたんだ」
「……なぁ、伊月。そもそも陰陽師って、一体何なんだ」
 この際だから、めっちゃ基本的なことを聞いてみる。
「陰陽師というのは、陰陽道の知識や技能を用いて占術・呪術・祭祀などを行う人のことさ。古代の日本においては役人だった。最も有名な陰陽師は、安倍晴明だろうね」
 いくら歴史が苦手な劣等生の俺でも、安倍晴明くらいは知ってる。おふくろが以前に晴明が主役の映画をレンタルしてきたんで、一緒に見た。
 その映画で、晴明は術を駆使して妖怪みたいなのを倒していた。ゆうべの伊月みたいに、印も結んでいた。
 あれはただのフィクションだと思ってたが、陰陽師はちゃんと存在してたんだ。いまだに信じられねーけど、何せ『実物』が目の前にいるんだから、受け入れざるを得ない。
 俺が理解した様子を感じ取ったのか、伊月は話を進めた。
「陰陽師は日本各地に散って、それぞれの場所を守り続けている。僕の一族は、代々この狸穴の地を任されてきた。ここの地名は、狸が住む穴がたくさんあったことが由来と言われているだろう。狸は人を化かすあやかしとしてポピュラーな存在だ。昔からこのあたりには、あやかしが集まっていたんだよ」
「ふーん。狸穴って、そんな由来があったんだな」
 俺がポンと手を打つと、伊月は呆れ顔になった。
「このあたりに住んでいるなら、狸穴の由来は小学校で習っただろう。先週、日本史の先生も話していたよね」
「あー、俺、日本史の時間は寝てっから! そんなことより、伊月はこの辺に出るあやかしを退治してるのか?」
「うん。奴らが活動するのは主に夜だから、僕の仕事もその時間になることが多い。……明治時代になって陰陽師は公式には役を解かれた。文明が開化して、科学の世の中になったからね。だけど、それは表向きの話。実は今も僕たちには密かに公の後ろ盾があって、あやかしが公共の施設に現れた際は、自由に立ち入っていいことになっている」
「なるほど。それでゆうべ、伊月はこの高校のマスターキーを持ってたんだな」
「そういうことだ。でも、後ろ盾がある一方で、僕らの役目は表沙汰にしないことになっている。あやかしが出るなんてことが広まったら余計な混乱を招くし、よからぬことを企てる人もいるかもしれないからね。だからあやかしが事件を起こしたとしても、それは公の力で伏せられる。……ゆうべ僕があやかし退治に巻き込んでしまったから、幸太郎くんにはこうして話をしているけど、本来は機密事項なんだよ」
 そういや、ゆうべ窓ガラスが割れたり鉄の扉が外れたりしたが、登校したら『夜に野犬が忍び込んだ』という噂が広がっていた。あやかしだのなんだのという話は、一切出ていない。これが『公の力』ってやつか。
 俺は今までの話を咀嚼しつつ、まだ残っている疑問を口にした。
「伊月。俺に呪いをかけた九尾っていうのは、何者なんだ」
 すると伊月はぐっと顔を顰め、絞り出すように言った。
「一言で表すなら――九尾は最強のあやかしだよ」