ちなみちゃんに懇願され、俺と伊月は音楽準備室内の捜索を始めた。
 デスクの周りを掘り返し始めた我らが担任を視界の端に入れつつ、俺は伊月にそっと囁く。
「野狐より前に、事典を捜すことになったな」
 伊月は俺にさっと顔を寄せた。
「仕方ないよ。困っている花村先生を放っておくわけにはいかない。それに……事典がなくなったのは、野狐の仕業かもしれない」
「え、マジか」
「野狐は悪戯好きのあやかしだから、人のものを隠して困らせたりするんだ。ゆうべも幸太郎くんのグローブを持っていこうとしてただろう」
 そういやそうだった。あいつ、今度会ったら絶対に許さねー!
「実は今も野狐がこの部屋のどこかに潜んでいて、花村先生が途方に暮れている姿を笑いながら眺めている可能性があるよ。……僕は事典を捜しつつ、そっちの方にも注意を払ってみる。幸太郎くんは、事典を見つけることに集中してくれ」
「了解」
 伊月とひそひそ話を終えてから、俺は手と目を必死に動かした。大きくて分厚い本をイメージしながら、部屋の中のものを丁寧にひっくり返す。
 もちろん、ちなみちゃんも「事典、事典……」と言いながら室内を捜し回った。
 だが、三人で十分ほど捜索しても、目的のものは一向に出てこない。
「おい、伊月。これってやっぱり、野狐の悪戯か?」
 俺がそっと尋ねると、伊月はすぐさま小声で返してきた。
「いや、野狐はここにはいない。どんなに集中しても、気配が全くしないんだ。今回の件は、あやかしとは無関係だね」
「なら、マジで事典はどこにいったんだよ!」
 俺はとうとう頭を掻きむしった。
 絶対におかしい。音楽準備室の広さはせいぜい十帖くらいだ。三人で手分けすれば、事典の一冊や二冊、すぐ出てくると思ったんだが……。
「どうしよう……全然見つからないわ」
 とうとう、部屋の隅でちなみちゃんが手を止めて棒立ちになった。
「弁償するしかないわよね。でも、たとえ買って返したとしても、貸してくれた人はわたしのことを見損なうだろうな。借りたものをなくすなんて、わたしったら最低……」
 普段は元気な我らが担任の姿が、ひどく小さく見える。今にもくずおれそうだ。
 伊月はちなみちゃんに声をかけようとしたしたみたいだが、上手い言葉が見つからなかったのか、暗い顔で俯く。
 俺も肩を落としかけた。だが、すぐにぶるぶると(かぶり)を振る。
「二人とも、もう少し頑張ってみようぜ! 昼休みのうちに見つからなきゃ、放課後も捜せばいいじゃん。俺、いくらでも手伝うからさ!」
 落ち込むのはらしくねぇ。嘆いてたって状況は変わらん。俺は頭は悪いが、身体なら動かせる!
「そうね。諦めたら駄目だよね」
 思いっきり明るい声で言ったのが功を奏したのか、ちなみちゃんは零れかけていたぐいっと涙を拭った。
 伊月もふっと一つ息を吐いて、俯きがちだった顔をきりりと上げる。
「よし、落ち着いて状況を見直そう。花村先生。もう一度、貸主が事典をこの部屋に持ち込んだときのことを思い出してくれませんか」
 伊月の言葉に、ちなみちゃんは「えーと」と首を傾げた。
「さっき話した通りよ。わたしは百科事典が置かれるところを見てないの。貸主の先生の声は確かに聞いたんだけど……」
 そこで、伊月の手がすっと挙がった。
「待ってください。そもそも、花村先生に事典を貸してくれたのは誰なんですか」
「ああ、それまだ言ってなかったっけ。わたしに事典を貸してくれたのは――化学の浦辻先生よ」
「浦辻先生……?」
 くりっとした目が、限界まで見開かれた。
 数秒後、伊月は部屋の中をしきりに見回し、やがて『あるもの』を手にして俺たちの方をゆっくりと振り向く。
「――百科事典、あったよ」