「おお、あったあった」
 俺は地面に転がっていた黄色いグローブを拾い上げ、ひとりごちた。
 やや草臥れているそれには『朝見幸太郎(あさみこうたろう)』と書いてある。間違いなく、俺の名前だ。
 ここは、俺が通う都立狸穴(まみあな)高校の体育館裏。夜の十一時を越えた今、周囲は闇に包まれている。僅かに届く街灯りと、スマホのバックライトだけが頼りだ。
 入学してから一年半ほど経つが、こんなに遅い時間に訪れたのは初めてだった。たった今拾い上げたグローブは、今日の放課後、クラスメイトの矢田吹(やたぶき)とキャッチボールをしていて置き忘れたものだ。たいして高価ってわけでもなく、しかも俺の名前まで書いてある使い古された代物。こんなもん、一晩放置したとしても持ち去られることなんてないと思う。
 それでも、俺はこの黄色いグローブを取りにきた。夜の十一時に、自転車をせっせと漕いで。
 わざわざそんなことをした理由はただ一つ――なるべく、家にいたくなかったから。
 無事に捜し物を見つけ出せて安堵する一方で、微かに溜息を吐く。足元に、ようやく涼しくなった十月の風が吹き付けた。
 手の中にあるグローブは、三年前に親父や兄貴とお揃いで買ったものだ。自分の持ち物に記名するのが、うちの決まり事だった。それぞれのグローブを嵌めて三人でキャッチボールする様を、おふくろがニコニコと眺めてたっけ。
 あのころは、気の合う連中と遊ぶのと同じくらい、家にいるのが好きだった。こんな時間にいたたまれなくなって外に飛び出すなんて、考えられなかった……。
「あー、やめやめ!」
 そこで、ぶるぶると(かぶり)を振った。
 自分で言うのもなんだが、俺は明るいお調子者で通ってる。溜息吐いて落ち込むなんて、らしくねぇ上に何の解決にもならん!
 コンビニに寄って夜食でも物色してから帰るか……とりあえずそう思いながら、駐輪場の方へ足を向ける。
「おわっ!」
 その瞬間、身体に衝撃を感じた。
 何か白いものが思いっきり体当たりしてきたんだ。不意をつかれ、俺はあっけなく地面に転がる。
()ってぇな。何だよ、いきなり……って、は?」
 ぶつかってきた野郎に文句を言おうとして、そのまま何度か瞬きをした。
 十メートルほど先に、大小二つの物体がある。二つとも真っ白な毛に覆われ、顔の上には三角の耳が……。
「き、狐?!」
 それは二匹の狐だった。小さい方は普通のサイズだが、大きい方はその四倍ほどある。
 おい、いくらなんでもデカすぎだろ。それに、微かに光を放っているように見えるのは、錯覚……だよな。
 俺がゴクリと息を呑んだとき、後ろから大声が聞こえた。
「待て! 追いかけっこはここまでだ!」
 声の主は、一陣の風のように傍を通り抜けた。
 その横顔に見覚えがあり、俺は咄嗟に呼びかける。
「お前、倉橋(くらはし)! 倉橋伊月(いつき)か!」
 倉橋伊月は、狸穴高校二年B組の生徒――つまり、俺のクラスメイトだ。
 口をきいたことはないが、真面目な奴という印象だった。クソつまらん日本史の授業中、居眠りをしてない男子はこいつぐらいだろう。
 小柄な身体にいつもきっちりと学ランを纏っているが、今日の格好は奇妙だった。白い着物に水色の袴を合わせ、首には大粒の数珠をかけている。
 古風っていうか……何かのコスプレ?
「おい、何だよその服。それに、どうしてお前がここに……」
「黙って! 少し下がっていてくれ、朝見幸太郎くん」
 厳しい目つきと鋭い声が飛んできた。俺のフルネームが淀みなく出てきたことに、少し驚く。
 休み時間、倉橋伊月はたいてい読書か勉強に没頭している。挨拶しても、会釈が返ってくればいい方だ。部活動には入ってないらしくて、放課後になるとすぐ校内から姿を消す。孤高を貫くタイプだと思ってたが、ちゃんとクラスメイトの顔と名前、覚えてたんだな。
 俺が奇妙な装束に身を包んだ姿をまじまじと見ながらそんなことを考えていると、当の倉橋伊月本人が二匹の狐をキッと睨み、両手を顔の前で組んだ。
「もう逃げられないぞ。この狸穴で、お前たちに悪さはさせない!」
 ああこれ、漫画で見たことある。確か『印』を結ぶポーズだ。
 倉橋伊月はその姿勢を保ったまま眉間に皺を寄せ、袴に包まれた右足をばっと前に踏み出す。
 途端に、ごごごごご……と、微かな地響きがした。
「うわっ、何だ、地震か?!」
 狐に体当たりされてヘタり込んでいた俺は、慌てて立ち上がった。ごく狭い範囲にある雑草だけがわさわさと揺れていて、薄気味悪い。
 狐たちの毛は、ぴりぴりと逆立っていた。なんか二匹とも微妙に苦しそうっていうか、動きがぎこちない気がする。
 倉橋伊月が、術か何かを使っているのか? いや、まさかな……。
 目の前で起こっていることを受け入れようとする気持ちと、そんなバカなという思いが、俺の中で激しく交錯していた。
 そうこうしているうちに、大きい方の狐が尻尾をふわりと振る。
「くっ……!」
 ばちりと音がして、見えない何かに弾かれたかのごとく、倉橋伊月がよろめいた。印を結んでいた手がほどけ、地響きがピタリと止まる。
 動きが鈍くなっていた狐たちは、自由を取り戻した様子でぴょこぴょこと跳ねた。
 あ、もしかして、倉橋伊月の術が……解けたのか?
「尻尾が九つ。大きい方はやはり――九尾(きゅうび)か」
 倉橋伊月はぐっと顔を歪めた。
 数えてみると、確かにデカい方の狐には尾が九本ある。
「おい。何だよあれ。突然変異か?」
 俺は奇妙な格好のクラスメイトに詰め寄った。
 だが、答えが返ってくるより早く、二匹の狐がこっちに向かって突進してくる。
「うわっ、嘘だろ……狐が、空飛んだ!」
 俺にぶつかる寸前、狐たちはぶわっと舞い上がった。あっという間に十メートルの高さに到達した二匹は、宙に浮いたまま俺と倉橋伊月を見下ろしている。
「あ、俺のグローブ!」
 よく見ると、小さい方の狐が黄色いグローブを咥えていた。
 ヤバい! このまま、どこかに持ち去る気なんだ。
「やめろよ。それ返せ!」
 俺が叫ぶと、小さい方の狐はくるりと回って俺たちに尻尾を振ってみせた。「返すもんか、へへん」とでも言っているような仕草だ。
「あ、あいつ……」
 歯噛みする俺をよそに、デカい狐が小さい狐を促した。二匹は上空を何度か旋回したあと、すぐ傍にある体育館の屋根を越えて、向こうに逃げていく。
「しまった! 校舎の中に侵入される!」
 倉橋伊月が血相を変えて駆け出した。俺も奴の横にぴったりくっついて、狐どものあとを追いかける。
「朝見幸太郎くん。邪魔だから、僕についてこないでくれるかな」
 走りながら、倉橋伊月は顔を顰めた。
「お前についていくわけじゃねーよ。小さい方の狐が咥えてたグローブ、俺のなんだ」
「ああ、あの少し使い込まれていたやつか。見た感じ、さほど高級そうじゃなかったよね。悪いけど、諦めて新しいのを買……」
「断る!」
 俺は倉橋伊月の声を遮った。
 あのグローブには、以前の……まだうちが平和だったころの思い出が詰まってるんだ。だから――。
「そんなことより、あの空飛ぶ狐は何なんだよ。倉橋伊月。お前、事情を知ってるんだろ」
 重たくなりそうだった自分の心をなんとか押し留めて、尋ねる。
「あれは、あやかしだよ」
「……は?」
 漫画とかゲームでしか聞いたことのない単語が飛び出し、俺は目をしばたたかせた。
 倉橋伊月は袴の裾をはためかせながら、真顔で告げる。
「人知を超えた力を持つ存在――それがあやかしさ。僕はあやかしたちからこの狸穴一帯を守る、陰陽師だ」
「はあぁぁぁ――っ?
 あやかしに陰陽師。
 現実離れしすぎて、ただでさえ考えるのが苦手な俺の脳はオーバーヒート気味だった。
 こうなったときは、いつも成り行きのまま突っ走ることにしている。『考えるより産むがやすし』とか言うだろ? あれ、ちょっと違うか。
 とにかく、やるべきことは一つ――あのグローブを、絶対に取り戻す!
 上空にいた狐たちは校庭を突っ切り、メイン校舎へと向かった。四階建ての建物には窓ガラスがずらりと並んでいるが、奴らは二階の一枚をぶち破って中に飛び込む。
 倉橋伊月は閉まっている昇降口まで走った。そこで着物の袂から銀色の鍵を取り出し、躊躇いもなく鍵穴に突っ込む。
「どうしてお前が、ここの鍵なんて持ってるんだよ」
 追いついた俺はギョッとして、倉橋伊月の手元を指さした。
「僕は『役目』を全うするために、ここのマスターキーを預けられている」
「役目? 何言ってんだか分かんねー。それに、鍵を開けたところで、校内にはセキュリティーが作動してるはずだろ」
 このご時世、学び舎も警備システムを利用していると聞く。中に踏み込めば、アラームか何かが鳴り響くはずだ。
 だが、倉橋伊月はこともなげに言ってのけた。
「それなら、すでに解除した。僕は然るべき機関から、深夜の校舎への立ち入りを許可されているんだ。だから余計な心配はしなくていいよ、朝見幸太郎くん」
 然るべき機関ってどこだよ……そう尋ねる暇もなく、倉橋伊月は校舎の中に駆け込んだ。俺もすぐさま走り出す。
 ああ、もう。こうなったら、細かいことはあとだ、あと!
「いた! 上に向かってる」
 二人で階段を駆け上がっていると、倉橋伊月が叫んだ。
 前方に大小二つの毛玉が見える。小さい方は、まだ俺のグローブを咥えたままだ。
「あいつ、逃がさねぇ!」
 俺はスピードを上げて倉橋伊月を追い越した。「危ない」とか「待て」とかいう声が聞こえてくるが、こんなところで止まってたまるか!
 校舎は四階建て。二匹の狐どもはよふよと飛びながら最上階に到達した。
 階段を上がりきったところにあるのは一枚の扉だ。開ければ屋上へ通じている。
「よっしゃ、追い詰めたぜ」
 扉の前で浮いている二匹を前に、俺は拳を握り締めた。
 屋上への立ち入りは基本的に禁止だ。だからこの扉は、昼夜問わず頑丈に施錠されている。しかも、分厚い鉄板製。窓みたいに簡単に壊せるはずが……。
「――危ない!」
 俺が狐たちに向かって足を踏み出す寸前、倉橋伊月が脇腹に飛びついてきた。その直後、ばたん、とものすごい音が響き渡る。
「う、嘘だろ!」
 さっきまで俺が立っていた場所には分厚い鉄扉が横たわり、もうもうと埃を巻き上げていた。壊れて倒れたんだ。倉橋伊月が俺を抱えて横に飛んでなきゃ、今ごろ下敷きに……。
「九尾の術なら、このくらいのことは簡単にできる。だから待てと言ったのに」
 俺に怪我がないことを確認したのか、倉橋伊月は腰に回した腕を緩め、渋い顔をして立ち上がった。そのまま、倒れた鉄扉を乗り越えて屋上へ出る。
 俺もよろよろとあとを追いかけた。扉があった場所を通り抜けた途端、夜風が身体にまとわりつく。
 ここ――都立狸穴高校は、東京都港区にある。
 校内は緑が多いものの、やはり都会のど真ん中だ。屋上に立てば、赤く光る東京タワーや六本木ヒルズの存在を、間近に感じることができる。
 だが、今は周りの景色なんて目に入らなかった。四角い石のタイルが敷き詰められた屋上の真ん中あたりに、二匹の狐……あやかしが浮かんでいる。
「くっそおぉぉ、俺のグローブ、返せ!」
 俺は半ば自棄(ヤケ)になって小さい方の狐に突進した。
「あっ、無茶は駄目だよ!」
 倉橋伊月の制止の声が、背中に覆い被さる。
 無茶なんて承知だっつーの。あやかしとかよく分かんねーし、ぶっちゃけ怖い。だけどな――ここで諦めるわけにはいかねーんだよ!
「返せ。返せよ!」
 俺は小さい方の狐に身体ごとぶつかった。捨て身の攻撃を喰らった白い毛玉は遠くに吹っ飛び、屋上の柵を越えて視界から消える。
 奴は咥えていたものをその場に落としていった。当て身を喰らわせれば、相手だけじゃなく自分自身にもダメージがくる。痛みを堪えつつ、俺はそれに手を伸ばす。
「……っつ、俺のグローブ」
 だが、指先が黄色い革に触れる寸前、背中にすさまじい悪寒が走った。追い打ちをかけるように、後ろから低くて張りのある声が聞こえてくる。
「――ただの人間風情が、あやかしに楯突くとは面白い」
 振り返ると、そこには見知らぬ男がいた。
 長い銀髪を一つに束ね、白い着物みたいなものを纏ったそいつの顔は、男の俺ですら息を呑むほど整っている。
 細身だけど、背が高かった。百九十センチを超えてるんじゃないか? そんじょそこらの芸能人が、泣いてひれ伏しそうな見た目だ。
 ただ、そのイケメンの頭には、普通の人間にはないものが二つ付いていた。
 ふさふさの白い毛に覆われた……狐の、耳?
「これは許されざる所業だよ。覚悟があって、しでかしたことだよね」
 イケメンは膝を折り、俺の顎を指でくいっと押し上げた。
 俺は目と口を閉じたり開いたりすることしかできなかった。何かこう、動きを封じられているような……。
 あ、もしかして、何かの術をかけられてるのか?!
 そう気が付いたタイミングで、倉橋伊月の苦しそうな声が割って入ってきた。
「九尾……やめろ。彼には手を出すな」
 なんとか目だけを横に向けると、俺のクラスメイトは必死にもがいていた。どす黒い縄のようなものが、小柄な身体にまとわりついている。
 突然現れたイケメンの正体は、さっきのデカい狐……九尾とかいう奴らしい。きっと、人間っぽい姿に変身してるんだ。でもって、倉橋伊月も俺と同じく、九尾の術のせいで動けない。
 ――って、これ、かなりヤバくねぇ?!
「ようやく、自分が置かれている状況を把握したみたいだね」
 ゴクリと息を呑んだ俺に、九尾が微笑んだ。優しさからくる笑みじゃない。怒りが透けて見えるような、要するにめちゃくちゃ(こえ)ぇ顔だ。
 そんな表情を浮かべたまま、狐の耳を生やしたイケメンは俺の顎から手を離し、傍らに落ちていたグローブに目を留める。
「我らに歯向かった代償は、その身体で受けてもらうよ――朝見幸太郎」
 九尾に名前を呼ばれた瞬間、身体じゅうに痛みが走った。まるで、固い鎖でギリギリと締め上げられてるみたいだ。
 おまけに、頭まで痛くなってきた。とうとう耐えられなくなって、俺はその場に倒れ込む。
「朝見幸太郎くん!」
 倉橋伊月の、悲痛な声が耳に届いた。
 そうこうしているうちに、俺は自分の身体の『異変』に気が付いた。
「あ……れ、何か生えてる」
 頭の上に、妙な感触がある。伸ばした指先に柔らかいものが触れた。ふわふわの毛に覆われた、三角形の何かが二つ……。
「朝見幸太郎――真名(まな)を記しておいてくれたお陰で、簡単に呪いをかけられた。このままでいけば、君はいずれ『狐』になる」
 九尾はグローブから目を離し、俺の頭に生えたそれ――狐の耳にそっと触れた。
「俺が、狐に……?」
 気付けば苦しさや痛みはすっかり消えていた。だが、突然生えてきた『異質なもの』の存在が、俺に重くのしかかる。
「そうさ。君は人としての理性を失って、ただの獣になるんだ。――楽しみだね」
 呆然とする俺の前で、九尾の身体は再び大きな狐の姿に戻った。そのまま屋上のタイルをひと蹴りし、夜空へと舞い上がっていく。
「待て! 彼にかけた呪いを解け、九尾!」
 ようやく動けるようになったらしい倉橋伊月が、上空に向かって叫んだ。
 しかし、優美な狐の姿はあっという間に遠ざかってしまった。残されているのは、俺の名前がデカデカと書かれたグローブだけ……。
「嘘だろ。何だよこの耳。痛ててっ!」
 俺は自分の頭から生えているふわふわの三角形を何度も引っ張った。そのたびに痛みが走り、涙目になる。
 痛みがあるってことは、これ、もう俺の身体の一部ってことじゃん。
「何だよこれ、何だよ!」
 ぶるぶると(かぶり)を振り、再び、躍起になって狐の耳を引っ張る。
「朝見幸太郎くん、やめた方がいい。痛いだけだ」
 駆けつけてきた倉橋伊月が、深刻な顔で俺を止めた。俺はもうわけが分からなくなって、小柄な身体に縋り付く。
「なぁ、何だよこの耳。呪いって、どういうことだよ。俺は、一体どうなっちゃうんだよ……うっ!」
 泣き事の途中で、猛烈な不快感を覚えた。
 尻のあたりが、どうしようもなくむず痒い。
「うわっ、気色(わり)ィ!」
 履いていたいたチノパンが少し盛り上がり、太腿に長くて柔らかいものが触れていた。目で見なくても、感覚で分かる。何てったって、これは俺の身体なんだ。
 尾骶骨のあたりから――狐の尻尾がにょきっと生えている。
『君は人としての理性を失って、ただの獣になるんだ』
 さっき言われたことが耳の中に蘇った。
 狐になるって……理性を失うって、どういうことだ。俺が俺でなくなるってことか?
 そんなのは嫌だ。
 ――怖い。
「朝見幸太郎くん、落ち着いてくれ。僕がなんとかする」
 心が崩壊する寸前、力強い声で現実に引き戻された。傍にいた倉橋伊月が、引き締まった表情で俺を見つめている。
「なんとかするって……どうやって」
「僕が、君にかけられた呪いを弱める。ただ、あくまで応急処置、だけど」
「そんなことができるのか?! なら、やってくれ!」
 そういえば、こいつは陰陽師だとか言ってたな。かなり胡散臭いけど、どうにかしてくれるならそれでいい。応急処置だろうが何だろうが、今は縋るしかない。
「なぁ、倉橋伊月。なんとかしてくれ。頼む!」
「分かった。分かったから焦らないでくれ、朝見幸太郎くん。……それから、僕のことは伊月と呼んでくれていいよ。いちいちフルネームだと、長いだろう」
「なら、伊月も俺のこと、幸太郎って呼べよな。……で、俺は何をしたらいい。どうやったら、この耳と尻尾が引っ込むんだ」
「幸太郎くんは、何もしなくていい。ただ、身体の力を抜いてくれ」
「……こうか?」
 俺は言われるまま、両手をだらりと下げた。目を瞑った方が力がより抜ける気がして、瞼も閉じる。
 しばらくそうしていると、ふいに俺の背中に二本の腕が回った。そのまま、じわじわと力が籠められていく。
 ……ん?
 俺、今、思いっきり抱き締められてねぇ?
「お、おい、伊月!」
 慌てて閉じていた瞼を開いた瞬間、耳元で囁かれた。
「ごめん、幸太郎くん。じっとしてて。僕の『気』を君に注入しているんだ。こうすれば、呪いの力が抑えられるから」
「お、おう……わ、分かった」
 俺は再び目を瞑った。
 背中に回る腕の感触で、どれだけ強く抱きしめられているか把握できる。ピタリと合わさった胸板から、伊月の温もりが伝わってくる。
 なんだか妙に心地がよかった。許されるなら、このまま眠ってしまいたくなる……。
「幸太郎くん。耳と尻尾、引っ込んだよ」
 しばらくして、身体が解放された。
 俺は咄嗟に頭の上に手をやった。さっきまで生えていた三角の物体は、跡形もなく消えている。もちろん、チノパンの中ももたついてない。
「おお! すげぇじゃん! 助かったぜ伊月」
 安堵のあまり、俺は小躍りしそうな勢いだった。だが伊月はふるふると(かぶり)を振って、神妙な顔をする。
「いや、たいしたことないよ。これはあくまで応急処置だ。効果は長続きしない。……陰陽師の仕事に幸太郎くんを巻き込んだせいでこんなことになって、ごめん」
「そんな。謝るなよ。俺が勝手に伊月たちを追いかけたんだ」
 俺は、頭を下げようとする伊月を止めた。こいつは全然悪くない。制止を振り切って無茶をしたのは俺だ。
 伊月は肩を竦ませて、ぽつぽつと話し出した。
「僕の力はここまでだけど、先代の陰陽師……僕の祖父なら完全解呪の方法を知っているかもしれない。ただ、祖父は今、ちょっと遠くに行ってるんだ。対応策が見つかる前に、十中八九、応急処置の効果が切れる」
「効き目が切れたらどうするんだ?」
 俺が首を傾げると、伊月はふっと溜息を吐いた。
「もう一度応急処置をして凌ぐしかない。僕の気を入れ直すんだよ。――さっきみたいなやり方で」
「……えっ?」
 校舎の周りを囲む豊かな樹々の向こうに、東京タワーと六本木ヒルズが聳えている。
 大都会のオアシスみたいなこの場所で、俺はただ、奇妙な格好をしたクラスメイトを呆然と見つめるしかなかった。




 深夜ということもあり、ゆうべは結局、伊月とあれ以上話ができなかった。
 翌朝。目が覚めた俺は、真っ先に耳と尻尾が生えてきてやしないか確認した。
「あ、大丈夫っぽいな」
 どうやら伊月が注いでくれた気の効果は、まだ続いているようだ。ひとまず安堵したところで制服に着替え、自室を出る。
 ちんたらリビングに向かっていると、廊下の途中に皿の乗ったトレイが置かれていた。すぐ脇にあるのは、兄貴の部屋のドアだ。
 皿には、昨日の晩飯……カレーが半分ほど残っていた。サラダは手つかずで、半分萎びている。俺はそれをトレイごと持ってリビングに行き、流しまで運ぶ。
 キッチンではおふくろがコーヒーを淹れていた。やってきた俺を見て「おはよう」と僅かに口角を上げたが、手にしていたトレイを見てすぐに表情を暗くする。
一哉(いちや)、ゆうべもあまり食べてくれなかったのね……。そろそろ部屋の掃除もしてあげたいけど……いつ、中に入れてくれるかしら」
 トレイを渡しながら、おふくろってこんなに小さかったっけ、と思った。
 一哉っていうのは、四歳上の俺の兄貴だ。
 ごく普通の大学生だった兄貴は、半年前、突然部屋から出てこなくなった。
 それから、うちの中が一変した。家族揃って飯を食うことはなくなったし、キャッチボールもしていない。
 昼夜逆転の生活をしている兄貴が寝ているこの時間は、比較的平和だった。俺はそそくさと朝飯をかきこんで、玄関から外に飛び出す。
 俺たちの住まいは、四階建てのビルの最上階。一階は、親父とおふくろが経営する薬局だ。その薬局の看板の横をすり抜けて通りに出たところで、箒を持ったおばちゃんに声をかけられた。
「幸太郎ちゃん。行ってらっしゃーい」
 このおばちゃんは、うちの向かいで煎餅屋をやっている。朝はこうやって、店の前を掃除してることが多い。
 俺は口の端っこを無理やり持ち上げて「はよーっす」と返し、停めてある自転車に跨った。
 風を顔に受けながら走り出すと、目に映るのはいわゆる商店街の光景だ。
 通称、麻布十番と呼ばれるこの界隈は、一応、セレブの住む港区に属しているものの、漂っている空気は完全に下町のそれだった。俺が生まれる前は交通の便が悪くて、陸の孤島だったという。昭和の香りがするとか言われているのは、開発が遅かったせいだろう。
 そんな麻布十番に軒を連ねる『朝見薬局』はわりと老舗で、親父は四代目の店主。薬局と住居を兼ねる四階建ての細長いビルは、俺ん()の持ち物だ。
 二階と三階を他人に貸しているお陰で、港区の地価が爆上がりした今でもなんとか税金を払える……と親父が言ってた。
 ちなみに、俺が通う都立狸穴高校も港区にある。校名は江戸時代の地名からきてると前に誰かから聞いたが、詳しいことは忘れた。
 俺、歴史は苦手だからな。まぁ、英語も国語も得意じゃねーし、理系科目に至っては吐き気がするけどさ……。
 そうこうしているうちに学校につき、俺は「うぃーっす!」と周囲に挨拶しつつ教室へ向かう。
 二年B組の戸を開けたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは、出入り口の一番近くに座る伊月の顔だった。
「……あ、伊月。おはよう」
 俺は軽く手を挙げてみせた。だが伊月はちらりと視線を投げてきただけで、すぐに机上の教科書と向かい合う。
 あまりの不愛想ぶりに驚いた。
 まぁ、伊月ってもともとこんなタイプだったわ。でも、ゆうべはちゃんと口をきいてくれたじゃん。あんなに密着もしたし。……っていうか、くっつきすぎだったよな。仕方ねぇけどさ。
 俺は昨夜のことをぼんやり思い出しながら自分の席に座った。
 授業中、居眠りの合間にこっそり様子を窺うと、伊月はいつもしゃんと背を伸ばしていた。
 うーん、よく見ると顔はそこそこ整ってる。目は大きくて鼻筋は通ってるし、短く切り揃えられた髪は天パ気味でふわふわだ。
 身長は俺より七、八センチ低かったから、百六十五ってとこか。弟系っていうか、小型犬系? これで愛想がよけりゃ、女子にモテそうなのに。
 なんかこう、近寄りがたい雰囲気があるんだよなぁ。伊月と同じクラスになって半年だが、ろくに話したことがなかったのはそのせいだ。
 ……と、まぁこんな感じで、午前中は伊月の観察(と居眠り)に時間を割いた。
 昼休みのチャイムが鳴ると、その伊月が自分の席から立ち上がった。机と椅子の間を器用にすり抜け、最短ルートで俺のところまでやってくる。
「朝見幸太郎くん。職員室で先生が呼んでるよ」
「……え、マジ?」
 前の席の矢田吹と昼飯を調達しに行こうとしていた俺は、その場でズッこけそうになった。伊月はそんな俺に、冷めた目を向ける。
「とにかく、僕と一緒に来てくれ」
「あ……ああ、分かった」