会社五階にある社長室。エレベーターの扉が開くと同時に現われる、長く続く廊下。その先に、社長室はどっしりと構えている。まるで、このフロアすべてを支配しているみたいに。ラスボスが待つ空間みたいに。
「凉樹くん」
「何? 朱鳥」
「そもそも今日って、社長いるんすか」
「いるよ。それに、グループで会いたいって伝えてる」
「えっ、先にアポ取ったんすか」
「まぁな」
「凉樹はホント仕事が早いよな」
「咲佑ほど早くはねぇよ。それに、咲佑のためを思って、のことだからさ」
夏生と桃凛が咲佑の前で顔を見合わせ、戸惑いと驚きの表情を浮かべる。
「咲佑くんのためって、凉樹くん流石っすね。俺には到底できそうにないっす」
頭を掻く朱鳥の肩に手をかける凉樹。
「大丈夫。朱鳥も、誰か大切に思える存在の人ができたら、簡単にできるから」
「そういうもんなんすか?」
凉樹の発言が冗談に聞こえたのか、朱鳥は半笑いするしかなかったみたいで、二人の何気ないやり取りによって、社長室に行く前の緊張は幾分解れたような気がした。
社長室が目前に迫る中、五人は緊張を改めて持ち始める。会議室からここまでは笑顔でいたが、社長に会うということで、表情も引き締める。
「よし、入るぞ」
「はい」
代表で凉樹が社長室の扉をノックする。中から社長 ― 風間倫太郎《かざまりんたろう》の太く、落ち着いた声が響く。
「失礼します」
凉樹が扉を開けた先には、輝きを放つガラス張りの壁とともに、紺色のスーツを纏った社長がいた。
「おぉ、NATUralezaじゃないか」
「社長、お久しぶりです」
「久しぶりだね、石井くん」
「急なお願いに応えてくれてありがとうございます」
「いいんだよ。それで、どんな要件かね?」
「それは俺からではなく、咲佑の口から説明を」
「そうか。分かった。まぁとりあえず、ソファに座って」
「ありがとうございます」
社長の指差した方向には、真っ黒の本革で包まれたソファが鎮座している。高級そうな見た目から、五人は思わず歩く、座るだけの単純な行動にすら緊張感が走る。
「じゃあ、早速米村くんの口から聞かせてもらおうかね」
手に持っていたコーヒーのカップをガラステーブルの上に置き、足を組む。カラーレンズの眼鏡の奥にある黒くて大きな瞳をギラリと光らせ、咲佑を捕らえる。
太陽は完全にビル群の向こうへと沈み、夜と化している。近隣に建つビルの明かりと、近くを走る幹線道路の街頭の明かりを、瞳は自分勝手に吸収していく。鏡に映る自分の姿を見た咲佑は、思わず息をのむ。纏わりついていた毛皮みたいなものが剥がれ、その向こうから美しい新たな毛皮が見え始めていたから。
あぁ、これで俺は新しい自分になれているんだな。
そう思った。
会議室に戻った五人を待ち構えるかのように付けられた暖房と部屋の明かり。長く感じられた廊下によって冷えた身体に染み渡っていく機械的な温かさと、オレンジの明かりから感じられる温もり。五人の緊張は自然と緩んでいく。
「とりあえず、方向性は決まったな」
「ですね」
「咲佑が抜けるまで残り三か月と少し。この三か月間は、今までにないぐらいファンのみんなを喜ばせよう。そのためには、まず俺たち自身が誰よりも一番楽しまないといけない。だから、前を向こう」
「決まったとはいえ、やっぱり気持ちの整理がつかないです」
「夏生がそういう気持ちになってるのも分かる。やっぱり今はまだ状況が受け入れられずに苦しい思いをしてるかもしれない。でも、俺たちが悲しい、苦しいって姿を見せたりしてると、ファンはもっと悲しい思いをする。だからこそ、俺たちは前を向かなきゃいけない。朱鳥、夏生、桃凛、お前らなら大丈夫だ。できる。でも、一人で何もかも抱えるのだけはやめろよ。苦しくなったら俺を頼れ」
三人は何も言わずに凉樹の言うことに頷くだけだった。それに対して凉樹もまた、頷くだけだった。
「咲佑は脱退するまでの三か月、全力でNATUralezaに貢献するんだ。お前のファンのために、五人のファンのために。公表したら色々言われたりするかもしれない。辛いと感じたら俺に相談しろよ」
「おう」
「場合によったら出るとこ出るぞ。メンバーのことを悪く言う奴はNATUralezaのファンである必要はないからな」
「分かった」
咲佑は凉樹とアイコンタクトを取る。二人の間で結ばれた絆は、永遠に切れない。
「凉樹くんが苦しくなったら、僕ら三人がいつでも話聞くので、そのときは遠慮せずに頼ってください。これからは四人で頑張らないといけないですから」
「ありがとな、夏生」
「いえ」
五人は顔を見合わせ誓い合った。もう涙を流さない、と。もう誰も泣かせない、と。
社長に、咲佑が同性愛者であること、NATUralezaを脱退したいとの意向を伝えてから一週間。世間は両者をニュースを大きく取り上げた。テレビでは芸能ニュースのトップを、各有名新聞でも一面を飾っていた。そして五人が一番心配していたSNSでの非難。やはり発表と同時に拡散され、時間が経つとともに咲佑に対する非難の声が、咲佑を応援する声を大きく上回っていった。脱退と同時に報じられた咲佑が同性愛者であるという事実。テレビや新聞はこぞって咲佑が同性愛者であることを取り上げる。中には過去のインタビュー映像を引っ張ってきて、咲佑の恋愛に関する質問と、その答えを流していた。
同性愛者であるという事実が、突然独り歩きをはじめ、ありもしないような噂までも流れ始めた午後。五人は音楽番組の収録が行われるテレビ局へと集まった。
「咲佑、お前大丈夫か?」
「何で?」
「いや、朝からSNSで色々呟かれてるし、メンタル的にどうかと思ってな」
「あぁ、うん。まあ、何とか」
「ならいいけど」
咲佑は嘘をついた。心はダメージを受け、ボロボロの端切れ状態。これ以上裂けようがない生地なのに、まだ裂けようとしている。このあとの音楽番組までメンタルが保てるだろうか…。
「咲佑くん、ちょっといいですか」
「どうした?」
「これって、事実じゃないですよね…?」
そう言って夏生がスマホを咲佑の前に突き出す。画面では一本の動画が流れていた。
「なんだよ、これ」
「今、再生回数が急上昇してるんですけど、これ明らかに咲佑くんのこと言ってますよね」
「ちょっと、最初からもう一回見せて」
咲佑は夏生のスマホを取り、画面を注視する。動画は、人口的に作られた人物が、モザイクがかけられている咲佑のことを、不自然な語り口調で何の感情もなく喋っている。内容は、咲佑が仲のいい後輩俳優Hを連れてホテルに泊まり、そこで刺激的な一夜を過ごした、という事実無根のものだった。
「咲佑くんは、こんなことしてないですよね」
夏生の声が震える。朱鳥と桃凛は自分たちのスマホで同じ動画を無音で見始める。
「俺が、こんなことするわけないだろ?」
「…、ですよね…!」
「でも、このホテルに連れて行ったのは事実だ」
「それって、どういうことですか」
「ホテル近くにある会員制のバーに誘われて行ったんだが、後輩が酔い潰れてな、家がどこにあるか答えてくれなかったからさ。俺ん家までも遠いし、連れて行くのもどうかと思ったから、仕方なくホテルに泊めることにしたんだよ。それでホテルの部屋まで連れて行った。だが俺はその場で別れて、電車で家まで帰った。だからその夜、俺はホテルで過ごしてない」
「あー、そういうことだったんですか。咲佑くん、驚かせないでくださいよ」
「悪かったな」
「でも、こういうことはすぐに嘘だとバレる。だから大丈夫だろ。な、とりあえず今は収録に向けて準備するぞ」
「はい」
楽屋の外では、あわただしくスタッフたちが駆けている。その中に、誰かに謝っている正木の声が混ざる。その声は五人の胸を締め付けていく。咲佑は、自分のせいでメンバーや正木を苦しめていると責めてしまう。自分なんていなければ。その苦しい思いは声にはならない。
出番十分前、正木が楽屋に入ってきた。表情は酷く疲れているように見えたが、メンバーに心配されたからか、目じりを垂らし頬を緩め、疲れていないように見せるが、目の奥はすべてを物語っていた。
「いやぁ、参ったよ」
「今までかかってきてたの、俺に関する電話だろ?」
「あぁ、ホテルの一件でな。あんな嘘を信じた奴らが拡散して炎上してる。それに関することで関係者から電話がな…。はぁ、ほんと呆れるよ。言っちゃまずいだろうがな」
「まさっきぃ、俺のせいで迷惑かけてごめん。今度お詫びさせて」
「お詫び? いいよそんなの。これもマネージャーの仕事だから。あ、でも食事は行くよ? 咲佑と呑みたいからな」
「おう。任せといて」
楽屋ドアがノックされ、女性スタッフが出番であることを知らせに来た。正木は時計を見て、あぁ、と額に手を当てる。
「もう出番か、色々大変だろうけど、とりあえず頑張ってこいよな」
正木に背中を押され、五人は楽屋を出る。すれ違う出演者たちの視線を感じつつ、収録が行われているスタジオへ続く道を足早に歩く。
生放送の出演が決まったのは四日前。社長や正木からは今置かれている状況的に大変だから断っていいと言われたが、五人は出演させてほしいと懇願した。発表当日だって構わない。俺らにしかできないステージにしてやるから、と。
そして迎えた今日。五人はメインスタジオの裏で、スタッフらの視線を集めながら円陣を組む。
「本番で何を言われたとしても、俺たちは真実を答えるだけだ。いいな」
凉樹が四人の目を見て伝える。四人は強く頷き、そして手を重ね合い、静かに天に向けて突き上げた。
「続いてはNATUralezaの皆さんの登場です」
二十時十分過ぎ。司会者の声掛けとともに、五人はメインステージへと足を運ぶ。観覧者、司会者、この場にいるスタッフたちの視線が、NATUraleza五人ではなく咲佑一人に、一斉に向けられる。その視線はまるで今晩の獲物を捕らえた肉食動物のように。また、一部は死んだ魚のごとく濁った眼で見るものもいた。これほどに送られる視線が怖いと思ったことは無かった。もう二度とこんな視線を浴びることはないだろう。
「NATUralezaのみなさんはまさに今日、グループに関して大きな発表をされましたね。そのことについてリーダーの石井さん、視聴者の方へ一言もらってもいいかな」
「はい。えーっと、本日発表しましたように、俺たちNATUralezaは五月三十一日をもって五人体制から卒業する運びとなりました。そして今、咲佑に関しての様々な憶測、噂がSNS上で拡散されておりますが、俺たちが今日発表させていただいた内容以外、どれも真実ではございません。これだけはお伝えさせていただきたく、本日少しお時間をいただきました。各出演者の皆さま、番組を支えてくださっているスタッフの皆さまには、一グループのために貴重なお時間を割いていただき、申し訳なく思っております」
凉樹が頭を下げるタイミングで四人も頭を下げる。
「咲佑が脱退するまで三か月しかありません。この三か月間、俺たちにできることは何でもさせていただきます。放送後にSNSのほうで質問箱を用意するので、どのようなことでも構いません。質問を送ってください。どのような質問であってもメンバー自身が偽りなく答えさせていただきます」
隣に立つ司会者が、ほぉ、とマイクが拾うか拾わないか絶妙なラインの声を漏らす。
「不器用な俺たちですが、最後まで五人のNATUralezaを応援していただけたら、と思います。よろしくお願いします」
もう一度五人は揃って頭を下げる。咲佑は先ほどよりも深く、礼儀正しく首を垂れた。
一呼吸あったところで、司会者が咲佑に視線を移し、じろっと見ながらこう聞く。
「米村さん、なぜ君は脱退の道を選んだんだい? 発表した以外にも理由、ありますでしょ?」
咲佑は司会者の態度に動じず、嘘をつかず、自分の意思を述べた。そのことをただ隣で静かに聞く凉樹。後ろから咲佑のことを見守る三人は、五人でこうして歌番組に出られることに喜びと、これが五人で最後の出演になるかもしれないという悲しみを、秘かに抱いていた。
生放送だというのに、咲佑に対する質問は止まらなかった。しゃべり過ぎる司会者が、皆が抱いているであろう質問を、まるで自分が代表して聞いているかのような、偉そうな態度で聞いてくる。そんな空気にも一瞬たりとも流されることなく、真剣に答える咲佑。四人は話が振られるまでの間、ずっと黙ったままでいた。
「まだまだ米村さんに対して色々お聞きしたいんだけどね、もう時間みたいだから、最後に一言もらえるかな」
「はい。突然の発表に驚かれた方も多いと思います。僕のことで悲しませてしまったのなら、本当に申し訳ありません。六月からNATUralezaは四人になりますが、変わらず応援していただけたらと思いますし、僕自身、応援してくださっているファンの皆さま、支えてくださった方に恩返しができるよう精一杯頑張らせていただきますので、最後までよろしくお願いします」
咲佑の締めのコメントに、一部の観客がまばらな拍手を送る。
「はい、ありがとうございます。それでは、歌っていただきましょうか。スタンバイよろしくお願いします」
「お願いします」
神妙な空気から一変、アニメ主題歌に起用された新曲のポップ過ぎるイントロが流れ始め、五人はまるで別人格が憑依したような表現力で、ダンスで、歌で、会場を魅了していく。そのステージは間違いなく、五人だけの空気で支配されていた。
歌い終わりと同時に巻き起こる拍手。NATUralezaに向けられる視線は、歌う前と変わらなかった。むしろ厳しくなっているように感じられた。咲佑に向けられる視線はナイフのように鋭い。刺されたら致命傷になるかもしれないほどに。もう誰も咲佑のことを信じていないみたいに。咲佑の味方はいないことを知らしめるかのように。
「NATUralezaの皆さんでした」
「ありがとうございました」
出番を終えた五人は、ほかの出演者たちに紛れて楽屋へ戻る。その足取りは重く、ただ脚を上げて前に進んでいるだけのような状態だった。
「お疲れさん。凉樹、咲佑、ナイスコメント。朱鳥も、夏生も、桃凛も、ナイスフォロー。受け答え完璧だった」
「いえ」
「まさっきぃ、まだ炎上してるんですか?」
「いや、放送観た人たちがコメントを載せてからか、だいぶ落ち着いてきた。ただ、やっぱりまだあの一件の解決がされてないから荒れてる部分も否めない」
正木がスマホを五人の前に差し出し、炎上しているSNSの画面を見せてくる。
「そっか。少しでも落ち着いてくれたらいいんですけどねぇ」
「それより、みんな大丈夫か? 俺のせいで迷惑かけて―」
「かけてないですよ」
「僕たちは大丈夫ですよぉ」
「早く落ち着いて欲しいっすね」
「そうだな。咲佑、お前は大丈夫なのか?」
「俺か? うん、まあな」
「ならいいけどさ、強がるなよ」
「ありがとな、凉樹」
咲佑は余裕あり気な笑顔を浮かべる。
「ってか、あの司会者、結構咲佑くんに詰め寄ってましたよね」
「僕だったら、あんな感じで聞かれたらまともな答え出せないですよ。咲佑くん流石ですね」
「いや、俺だってギリギリだったから。実際、どんな質問されたか覚えてないし」
「でも咲佑くんの答え聞いて、見てたお客さんとか結構頷いてたっすよ。まぁ、俺が見れる範囲なんであれですけど」
「僕も見ましたよ。頷いている人のことぉ」
「いずれ落ち着くと思うので、それまでの我慢ですね」
「朱鳥も、夏生も、桃凛も、ありがとな」
三人は少しだけ戸惑いを見せながらも、すぐに少しだけ歯を見せて笑う。
「よーし、今からSNSで質問箱やるから、もうひと頑張りしてくれよ」
手を叩いて空気を変える正木。五人は口々に叫び、気合を入れ直す。そんなとき、正木が手に持っていた仕事用のスマホが鳴り出し、一定のリズムで着信音が狭い楽屋内に響く。正木は画面を一瞬だけ凝視したのち、即座に耳元に当て、そのまま楽屋を急ぎ足で出て行った。正木の元にかかってきた一本の電話。誰からかかってきた電話か五人は分からなかったが、何となくいい予感がした。
「凉樹くん」
「何? 朱鳥」
「そもそも今日って、社長いるんすか」
「いるよ。それに、グループで会いたいって伝えてる」
「えっ、先にアポ取ったんすか」
「まぁな」
「凉樹はホント仕事が早いよな」
「咲佑ほど早くはねぇよ。それに、咲佑のためを思って、のことだからさ」
夏生と桃凛が咲佑の前で顔を見合わせ、戸惑いと驚きの表情を浮かべる。
「咲佑くんのためって、凉樹くん流石っすね。俺には到底できそうにないっす」
頭を掻く朱鳥の肩に手をかける凉樹。
「大丈夫。朱鳥も、誰か大切に思える存在の人ができたら、簡単にできるから」
「そういうもんなんすか?」
凉樹の発言が冗談に聞こえたのか、朱鳥は半笑いするしかなかったみたいで、二人の何気ないやり取りによって、社長室に行く前の緊張は幾分解れたような気がした。
社長室が目前に迫る中、五人は緊張を改めて持ち始める。会議室からここまでは笑顔でいたが、社長に会うということで、表情も引き締める。
「よし、入るぞ」
「はい」
代表で凉樹が社長室の扉をノックする。中から社長 ― 風間倫太郎《かざまりんたろう》の太く、落ち着いた声が響く。
「失礼します」
凉樹が扉を開けた先には、輝きを放つガラス張りの壁とともに、紺色のスーツを纏った社長がいた。
「おぉ、NATUralezaじゃないか」
「社長、お久しぶりです」
「久しぶりだね、石井くん」
「急なお願いに応えてくれてありがとうございます」
「いいんだよ。それで、どんな要件かね?」
「それは俺からではなく、咲佑の口から説明を」
「そうか。分かった。まぁとりあえず、ソファに座って」
「ありがとうございます」
社長の指差した方向には、真っ黒の本革で包まれたソファが鎮座している。高級そうな見た目から、五人は思わず歩く、座るだけの単純な行動にすら緊張感が走る。
「じゃあ、早速米村くんの口から聞かせてもらおうかね」
手に持っていたコーヒーのカップをガラステーブルの上に置き、足を組む。カラーレンズの眼鏡の奥にある黒くて大きな瞳をギラリと光らせ、咲佑を捕らえる。
太陽は完全にビル群の向こうへと沈み、夜と化している。近隣に建つビルの明かりと、近くを走る幹線道路の街頭の明かりを、瞳は自分勝手に吸収していく。鏡に映る自分の姿を見た咲佑は、思わず息をのむ。纏わりついていた毛皮みたいなものが剥がれ、その向こうから美しい新たな毛皮が見え始めていたから。
あぁ、これで俺は新しい自分になれているんだな。
そう思った。
会議室に戻った五人を待ち構えるかのように付けられた暖房と部屋の明かり。長く感じられた廊下によって冷えた身体に染み渡っていく機械的な温かさと、オレンジの明かりから感じられる温もり。五人の緊張は自然と緩んでいく。
「とりあえず、方向性は決まったな」
「ですね」
「咲佑が抜けるまで残り三か月と少し。この三か月間は、今までにないぐらいファンのみんなを喜ばせよう。そのためには、まず俺たち自身が誰よりも一番楽しまないといけない。だから、前を向こう」
「決まったとはいえ、やっぱり気持ちの整理がつかないです」
「夏生がそういう気持ちになってるのも分かる。やっぱり今はまだ状況が受け入れられずに苦しい思いをしてるかもしれない。でも、俺たちが悲しい、苦しいって姿を見せたりしてると、ファンはもっと悲しい思いをする。だからこそ、俺たちは前を向かなきゃいけない。朱鳥、夏生、桃凛、お前らなら大丈夫だ。できる。でも、一人で何もかも抱えるのだけはやめろよ。苦しくなったら俺を頼れ」
三人は何も言わずに凉樹の言うことに頷くだけだった。それに対して凉樹もまた、頷くだけだった。
「咲佑は脱退するまでの三か月、全力でNATUralezaに貢献するんだ。お前のファンのために、五人のファンのために。公表したら色々言われたりするかもしれない。辛いと感じたら俺に相談しろよ」
「おう」
「場合によったら出るとこ出るぞ。メンバーのことを悪く言う奴はNATUralezaのファンである必要はないからな」
「分かった」
咲佑は凉樹とアイコンタクトを取る。二人の間で結ばれた絆は、永遠に切れない。
「凉樹くんが苦しくなったら、僕ら三人がいつでも話聞くので、そのときは遠慮せずに頼ってください。これからは四人で頑張らないといけないですから」
「ありがとな、夏生」
「いえ」
五人は顔を見合わせ誓い合った。もう涙を流さない、と。もう誰も泣かせない、と。
社長に、咲佑が同性愛者であること、NATUralezaを脱退したいとの意向を伝えてから一週間。世間は両者をニュースを大きく取り上げた。テレビでは芸能ニュースのトップを、各有名新聞でも一面を飾っていた。そして五人が一番心配していたSNSでの非難。やはり発表と同時に拡散され、時間が経つとともに咲佑に対する非難の声が、咲佑を応援する声を大きく上回っていった。脱退と同時に報じられた咲佑が同性愛者であるという事実。テレビや新聞はこぞって咲佑が同性愛者であることを取り上げる。中には過去のインタビュー映像を引っ張ってきて、咲佑の恋愛に関する質問と、その答えを流していた。
同性愛者であるという事実が、突然独り歩きをはじめ、ありもしないような噂までも流れ始めた午後。五人は音楽番組の収録が行われるテレビ局へと集まった。
「咲佑、お前大丈夫か?」
「何で?」
「いや、朝からSNSで色々呟かれてるし、メンタル的にどうかと思ってな」
「あぁ、うん。まあ、何とか」
「ならいいけど」
咲佑は嘘をついた。心はダメージを受け、ボロボロの端切れ状態。これ以上裂けようがない生地なのに、まだ裂けようとしている。このあとの音楽番組までメンタルが保てるだろうか…。
「咲佑くん、ちょっといいですか」
「どうした?」
「これって、事実じゃないですよね…?」
そう言って夏生がスマホを咲佑の前に突き出す。画面では一本の動画が流れていた。
「なんだよ、これ」
「今、再生回数が急上昇してるんですけど、これ明らかに咲佑くんのこと言ってますよね」
「ちょっと、最初からもう一回見せて」
咲佑は夏生のスマホを取り、画面を注視する。動画は、人口的に作られた人物が、モザイクがかけられている咲佑のことを、不自然な語り口調で何の感情もなく喋っている。内容は、咲佑が仲のいい後輩俳優Hを連れてホテルに泊まり、そこで刺激的な一夜を過ごした、という事実無根のものだった。
「咲佑くんは、こんなことしてないですよね」
夏生の声が震える。朱鳥と桃凛は自分たちのスマホで同じ動画を無音で見始める。
「俺が、こんなことするわけないだろ?」
「…、ですよね…!」
「でも、このホテルに連れて行ったのは事実だ」
「それって、どういうことですか」
「ホテル近くにある会員制のバーに誘われて行ったんだが、後輩が酔い潰れてな、家がどこにあるか答えてくれなかったからさ。俺ん家までも遠いし、連れて行くのもどうかと思ったから、仕方なくホテルに泊めることにしたんだよ。それでホテルの部屋まで連れて行った。だが俺はその場で別れて、電車で家まで帰った。だからその夜、俺はホテルで過ごしてない」
「あー、そういうことだったんですか。咲佑くん、驚かせないでくださいよ」
「悪かったな」
「でも、こういうことはすぐに嘘だとバレる。だから大丈夫だろ。な、とりあえず今は収録に向けて準備するぞ」
「はい」
楽屋の外では、あわただしくスタッフたちが駆けている。その中に、誰かに謝っている正木の声が混ざる。その声は五人の胸を締め付けていく。咲佑は、自分のせいでメンバーや正木を苦しめていると責めてしまう。自分なんていなければ。その苦しい思いは声にはならない。
出番十分前、正木が楽屋に入ってきた。表情は酷く疲れているように見えたが、メンバーに心配されたからか、目じりを垂らし頬を緩め、疲れていないように見せるが、目の奥はすべてを物語っていた。
「いやぁ、参ったよ」
「今までかかってきてたの、俺に関する電話だろ?」
「あぁ、ホテルの一件でな。あんな嘘を信じた奴らが拡散して炎上してる。それに関することで関係者から電話がな…。はぁ、ほんと呆れるよ。言っちゃまずいだろうがな」
「まさっきぃ、俺のせいで迷惑かけてごめん。今度お詫びさせて」
「お詫び? いいよそんなの。これもマネージャーの仕事だから。あ、でも食事は行くよ? 咲佑と呑みたいからな」
「おう。任せといて」
楽屋ドアがノックされ、女性スタッフが出番であることを知らせに来た。正木は時計を見て、あぁ、と額に手を当てる。
「もう出番か、色々大変だろうけど、とりあえず頑張ってこいよな」
正木に背中を押され、五人は楽屋を出る。すれ違う出演者たちの視線を感じつつ、収録が行われているスタジオへ続く道を足早に歩く。
生放送の出演が決まったのは四日前。社長や正木からは今置かれている状況的に大変だから断っていいと言われたが、五人は出演させてほしいと懇願した。発表当日だって構わない。俺らにしかできないステージにしてやるから、と。
そして迎えた今日。五人はメインスタジオの裏で、スタッフらの視線を集めながら円陣を組む。
「本番で何を言われたとしても、俺たちは真実を答えるだけだ。いいな」
凉樹が四人の目を見て伝える。四人は強く頷き、そして手を重ね合い、静かに天に向けて突き上げた。
「続いてはNATUralezaの皆さんの登場です」
二十時十分過ぎ。司会者の声掛けとともに、五人はメインステージへと足を運ぶ。観覧者、司会者、この場にいるスタッフたちの視線が、NATUraleza五人ではなく咲佑一人に、一斉に向けられる。その視線はまるで今晩の獲物を捕らえた肉食動物のように。また、一部は死んだ魚のごとく濁った眼で見るものもいた。これほどに送られる視線が怖いと思ったことは無かった。もう二度とこんな視線を浴びることはないだろう。
「NATUralezaのみなさんはまさに今日、グループに関して大きな発表をされましたね。そのことについてリーダーの石井さん、視聴者の方へ一言もらってもいいかな」
「はい。えーっと、本日発表しましたように、俺たちNATUralezaは五月三十一日をもって五人体制から卒業する運びとなりました。そして今、咲佑に関しての様々な憶測、噂がSNS上で拡散されておりますが、俺たちが今日発表させていただいた内容以外、どれも真実ではございません。これだけはお伝えさせていただきたく、本日少しお時間をいただきました。各出演者の皆さま、番組を支えてくださっているスタッフの皆さまには、一グループのために貴重なお時間を割いていただき、申し訳なく思っております」
凉樹が頭を下げるタイミングで四人も頭を下げる。
「咲佑が脱退するまで三か月しかありません。この三か月間、俺たちにできることは何でもさせていただきます。放送後にSNSのほうで質問箱を用意するので、どのようなことでも構いません。質問を送ってください。どのような質問であってもメンバー自身が偽りなく答えさせていただきます」
隣に立つ司会者が、ほぉ、とマイクが拾うか拾わないか絶妙なラインの声を漏らす。
「不器用な俺たちですが、最後まで五人のNATUralezaを応援していただけたら、と思います。よろしくお願いします」
もう一度五人は揃って頭を下げる。咲佑は先ほどよりも深く、礼儀正しく首を垂れた。
一呼吸あったところで、司会者が咲佑に視線を移し、じろっと見ながらこう聞く。
「米村さん、なぜ君は脱退の道を選んだんだい? 発表した以外にも理由、ありますでしょ?」
咲佑は司会者の態度に動じず、嘘をつかず、自分の意思を述べた。そのことをただ隣で静かに聞く凉樹。後ろから咲佑のことを見守る三人は、五人でこうして歌番組に出られることに喜びと、これが五人で最後の出演になるかもしれないという悲しみを、秘かに抱いていた。
生放送だというのに、咲佑に対する質問は止まらなかった。しゃべり過ぎる司会者が、皆が抱いているであろう質問を、まるで自分が代表して聞いているかのような、偉そうな態度で聞いてくる。そんな空気にも一瞬たりとも流されることなく、真剣に答える咲佑。四人は話が振られるまでの間、ずっと黙ったままでいた。
「まだまだ米村さんに対して色々お聞きしたいんだけどね、もう時間みたいだから、最後に一言もらえるかな」
「はい。突然の発表に驚かれた方も多いと思います。僕のことで悲しませてしまったのなら、本当に申し訳ありません。六月からNATUralezaは四人になりますが、変わらず応援していただけたらと思いますし、僕自身、応援してくださっているファンの皆さま、支えてくださった方に恩返しができるよう精一杯頑張らせていただきますので、最後までよろしくお願いします」
咲佑の締めのコメントに、一部の観客がまばらな拍手を送る。
「はい、ありがとうございます。それでは、歌っていただきましょうか。スタンバイよろしくお願いします」
「お願いします」
神妙な空気から一変、アニメ主題歌に起用された新曲のポップ過ぎるイントロが流れ始め、五人はまるで別人格が憑依したような表現力で、ダンスで、歌で、会場を魅了していく。そのステージは間違いなく、五人だけの空気で支配されていた。
歌い終わりと同時に巻き起こる拍手。NATUralezaに向けられる視線は、歌う前と変わらなかった。むしろ厳しくなっているように感じられた。咲佑に向けられる視線はナイフのように鋭い。刺されたら致命傷になるかもしれないほどに。もう誰も咲佑のことを信じていないみたいに。咲佑の味方はいないことを知らしめるかのように。
「NATUralezaの皆さんでした」
「ありがとうございました」
出番を終えた五人は、ほかの出演者たちに紛れて楽屋へ戻る。その足取りは重く、ただ脚を上げて前に進んでいるだけのような状態だった。
「お疲れさん。凉樹、咲佑、ナイスコメント。朱鳥も、夏生も、桃凛も、ナイスフォロー。受け答え完璧だった」
「いえ」
「まさっきぃ、まだ炎上してるんですか?」
「いや、放送観た人たちがコメントを載せてからか、だいぶ落ち着いてきた。ただ、やっぱりまだあの一件の解決がされてないから荒れてる部分も否めない」
正木がスマホを五人の前に差し出し、炎上しているSNSの画面を見せてくる。
「そっか。少しでも落ち着いてくれたらいいんですけどねぇ」
「それより、みんな大丈夫か? 俺のせいで迷惑かけて―」
「かけてないですよ」
「僕たちは大丈夫ですよぉ」
「早く落ち着いて欲しいっすね」
「そうだな。咲佑、お前は大丈夫なのか?」
「俺か? うん、まあな」
「ならいいけどさ、強がるなよ」
「ありがとな、凉樹」
咲佑は余裕あり気な笑顔を浮かべる。
「ってか、あの司会者、結構咲佑くんに詰め寄ってましたよね」
「僕だったら、あんな感じで聞かれたらまともな答え出せないですよ。咲佑くん流石ですね」
「いや、俺だってギリギリだったから。実際、どんな質問されたか覚えてないし」
「でも咲佑くんの答え聞いて、見てたお客さんとか結構頷いてたっすよ。まぁ、俺が見れる範囲なんであれですけど」
「僕も見ましたよ。頷いている人のことぉ」
「いずれ落ち着くと思うので、それまでの我慢ですね」
「朱鳥も、夏生も、桃凛も、ありがとな」
三人は少しだけ戸惑いを見せながらも、すぐに少しだけ歯を見せて笑う。
「よーし、今からSNSで質問箱やるから、もうひと頑張りしてくれよ」
手を叩いて空気を変える正木。五人は口々に叫び、気合を入れ直す。そんなとき、正木が手に持っていた仕事用のスマホが鳴り出し、一定のリズムで着信音が狭い楽屋内に響く。正木は画面を一瞬だけ凝視したのち、即座に耳元に当て、そのまま楽屋を急ぎ足で出て行った。正木の元にかかってきた一本の電話。誰からかかってきた電話か五人は分からなかったが、何となくいい予感がした。