男の声が幾重にも聞こえてきて、その場に何人もいるかのように感じる。耳がおかしくなったのかもしれない。そんなことを思い始めたとき、その声はピタリと止んだ。男らはいなくなったのか・・・? 確認したい気持ちは山々。でも意思に反するせで目が開かない。結局男らが俺の元から遠ざかっていくのも分からないままだった。
気付いたときには、俺は路地裏のゴミ袋の上に仰向けになっていた。空は眩しいほどに青く澄み渡っている。時間を確認しようと、デニムの左ポケットに入れてあるスマホを取り出そうと手を入れるも、触れるのはサラサラとした生地で、スマホそのものに触れられなかった。
「あれ、おかしいな」
身体を起して探そうとした途端、左脇腹に強烈な痛みが走った。押さえた手を見ると、乾いた赤黒い血が付いていた。慌てて服を捲って自分の身体に触れる。やはり血が付いた。俺の血だ…、とその瞬間に何もかも思い出したかのように、記憶が鮮明にフラッシュバックしてきた。
まるで映画を観ているかのように流れてくる映像。そこには俺と大柄な男二人が写っていた。
俺はネットカフェを出て、自宅へつながる道を歩いていた。太陽は既に昇り、街灯が無くても顔を認識できるぐらいの明るさではあった。
向こうから歩いてきた二人組の大柄な男。そのうちの一人が「米村咲佑じゃん。俺と握手してくれよ」と手を差し出してきた。その手を握り返そうと腕を伸ばした瞬間に、もう一方の男に腕を掴まれ、そのまま下に振り下ろす。その勢いに負けて地面に叩きつけられた俺。そのあと立ち上がろうとするも男に首根っこ掴まれて、抵抗できず路地裏に連れて来られた。
俺が仰向けになるその下にあったゴミ袋は、そこには無かった。地面に転ばされたあと、その男たちは俺の顔を上から眺めるようにしゃがみ、「お前は気持ち悪い野郎だな」「男が男に恋してんじゃねーぞ」と男二人は俺に向けての言葉を吐いてくる。そして執拗に顔や身体を殴られ、蹴られ、挙句、男が持っていた折り畳み式のナイフで俺の脇腹を刺してきた。
「あぁ、だから血が出てるんだ・・・」
ただ、再生された映像からは、なぜゴミ袋の上で仰向けになっていたのかも、スマホがポケットに入っていないのかも判明しなかった。というよりも、今俺がいるのはどこなんだ。映像に映っていた赤提灯は自宅近所の古びた居酒屋のもので、そこの裏路地だと思っていたのに……。
記憶は歪み、部分部分が塵としてつむじ風によって天高く飛ばされていく。
映像には続きがあるはずだが、そこから先は再生されない。仕方なく俺はスマホを探すことにした。もしかしたら何か盗まれたものがあるかもしれない。その思いで添い寝するように置かれていた鞄の中身を漁ったが、荷物は全部入っていて、盗られた物は何もないようだった。時計も、財布も、交通系カードも、家の鍵も、すべて無事だった。でも、スマホだけは手元にない。
記憶の映画を再生させてみるも、流れてくる映像はどれもさっき観たものばかりで、何度見返してもスマホは一瞬たりとも映っていなかった。
スマホがなくてもどうにかなるだろうが、幾何の不安を抱いていたとき、視線の先に見慣れたスマホケースがあった。それを、痛みに耐えながら腕を伸ばして拾い上げる。ケースには擦れた痕が残され、画面には蜘蛛の巣状のヒビが刻まれていた。俺は一縷の望みにかけて電源ボタンを押したが、全く反応を示さないスマホ。電源を入れることを諦めて鞄に放り込み、俺は立ち上がった。
キャップを目深に被り、実家から持ってきたTシャツに着替え、自宅とは反対方向にある自分がかつて住んでいたマンションへと向かって、痛みに耐えながら歩く。それは、仕事で家を空けていても凉樹なら助けを求めればすぐに駆けつけてくれるという予感がしたから。というよりも、彼のことを一番に信じていたから。
自宅から凉樹が住むマンションまでは、本来なら電車と徒歩で二十五分もあれば到着する距離にあるが、人目を避けたいがために徒歩を選んだ。が、猛暑手前の気温にノックダウン寸前となり、仕方なく大通りに出てタクシーを拾った。
四十代ぐらいに見える運転手は、眼鏡の位置を直し、俺の顔をルームミラー越しに見ながら、「元NATUralezaの米村咲佑さんですよね?」と、声のトーン高めに聞いてきた。「はい」と答えると運転手は嬉しそうに、「娘があなたのファンでして。脱退された今でも応援しているんです」と、さらに興奮した様子で言ってきた。俺は気が動転する寸前で、「ありがとうございます」としか返せなかった。こんな状態でなければちゃんと感謝を伝えることができるのにと思いながらも、運転手に目的地としてマンション周辺の人通りが少ない裏道を指定した。運転手はカーナビを慣れた手つきで操作し、ウインカーを出して本線に合流した。運転手は緊張を隠し切れない表情で運転し、俺は刺された箇所を気にしつつも、平然を装って後部座席で揺られ続ける。今まで幾度となく乗ってきたタクシーだが、冗談抜きで一番安心できる運転だった。
タクシーは緩やかにスピードを落とし、安全確認したうえで路肩に停まる。運転手から料金が告げられ、財布から札だけを取り出し、お釣りは全部胸ポケットに入れ、礼を告げてタクシーを降りる。冷房が効いていた空間とは一変、太陽が燦燦と降り注ぐアスファルトの上で、俺は一心不乱に歩き続けた。結局、目的地のマンションに辿り着いたのは、出発してから五十分後だった。
「着いた」
タクシーの振動に耐え抜いた俺は自分の心に呟いて、マンション近くにある公衆電話へ足早に駆け込んだ。息を吐くとともに安心したためか、全身の力が抜けてしまったかのように、その場でしゃがみ込んでしまった。周りを歩く人たちは、俺のことを見て見ぬふりをして通り過ぎていく。でも今は逆にありがたかった。声を掛けられることが怖くて仕方ないから。ただこの場でしゃがみ込んでいても彼は助けに来ない。俺はボックスの中で、力を振り絞って立ち上がった。手にはじんわりと汗が滲んできていた。
刺されたところを押さえていたために赤黒い血が滲んでしまったハンカチ。やはり出血は続いていた。手に持つこともできず、とりあえずズボンのポケットに乱雑に入れる。ポケットの裏生地から生ぬるい温度が太腿を伝う。その感触に耐えつつ、胸ポケットに入れておいた釣銭から十円玉を拾いあげ、凉樹の携帯番号を小声で囁きながらボタンを押し、電話をかけた。
七コール目。彼は俺の気持ちに応えてくれた。電話に出るなり「無事でよかった」と言ってきた。でも俺は何も言わなかった。それなのに、どこで俺だと気づいたのか「咲佑、どうした?」と声のトーンを下げて聞いてくる。自然と胸が締め付けられていき、その感覚に耐えられなくなった俺は、事件に巻き込まれたこと、スマホが壊されたこと、今どこにいるかという最低限だけの情報を伝えた。心配してくれるのはありがたかった。でも何だかその気持ちがむず痒くて、もっと話していたかったのに、小銭が無いことを理由に電話を切った。突発的についた嘘。電話を切った後に、もっと伝えるべきことがあったんじゃないかと後悔した。俺の手によって置かれた受話器はガシャンと音を立てて反動で微かに揺れている。
「助かった」
凉樹との電話を終えた俺は、刺されたところの上を鞄で押さえて電話ボックスの扉を開け、残り少ない体力と気力で目先にある芝生公園を目指した。腰を折り曲げて歩くその様子はまるでお年寄りみたいで、歩いている人たちは不思議そうに見ながら俺とすれ違っていく。だが、誰も声を掛けてこない。目深に被った帽子のお陰か、顔バレせずに済んでいるようだった。
このマンションに越してきてから暇さえあれば立ち寄っていた公園。自分が芸能人だということを意識することなく寝ころんでいた。それは昼下がりの芝生が心地よくて、堪らなく好きだったから。久しぶりにその感覚を味わいたくて、唯々今は寝ころびたくて。脇腹からはさらに血が滲んできている気がした。
段々と意識が遠のいていくのが分かった。でも、これは暑さからなのか、怪我によるものなのかは分からなかった。ふらつきながら歩き、そこで息絶えたみたいな感じで芝生の上に転ぶ。
「あぁ、俺の好きな芝生だ」
太陽の光をいっぱいに吸収した芝生は思っていたよりも熱かった。それでも今は寝ころんでいたかった。誰も芝生には寝ころんでいない。と言うより、周りから浮いているだけだった。暑すぎる気温と熱すぎる芝生。そう。こんな太陽が直で当たる所で過ごそうなんて馬鹿は俺しかいない。日焼けしたい野郎だと見られるぐらいが、今の俺にはちょうどいい。本当は日焼け止めを塗りたいけど、紫外線なんて気にしていられない。この時ばかりは将来シミがいくつもできたっていいと思えた。暑さでおかしくなってもいいと思えた。最悪このままどこか遠い世界へ羽ばたいてもいい気すらしてきた。やっぱり俺はある意味最強の男になりつつあるかもしれない。
「馬鹿だなぁ、俺は」
自分で自分のことが笑えてくる。俺が俺じゃなくなっているみたいで。そんな馬鹿げたことを思っていると、刺された箇所よりも、今頃になって殴られた痕や蹴られた痕、吐き捨てられた言葉、何もかもが痛くなってきた。上回ってきていた。ここにいれば彼は来てくれるだろう。それまで少しの仮眠を取ろう。ここ最近眠れてなかったからな…。
なんか騒がしいな。俺、もしかして人気者にでもなったか? いやぁ、参ったな…。いや、これは歓声じゃない。どちらかと言えば悲鳴混じりというか、何となくザワザワしている。落ち着きのない感じが声から伝わってくる。近くですごい馴染みのある人から名前を呼ばれているのに、それに応えることができない。どんなに力を入れようとも目が開かない。身体を動かそうと指令を送るも、ぴくともしない。お日様を浴びた芝生の匂いも、口の中が切れているのに血の味もしない。確か俺は暴行を受けたし、脇腹の辺りを刺されたのに、それらもまったく痛まない。それなのに聴覚だけが生きている。とても不思議だ。無敵な身体を手に入れてしまったのかもしれない。
だとすると面白いな。もう一生このままでいいや。わざわざ元の身体に戻る必要もないよな。どうせ俺はNATUralezaを脱退した身だから…。誰も俺のことを必要としていないだろう。家族も、元メンバーも、仕事仲間も。世間からだって求められていない。俺が生きている意味ってあるのかな。いや、意味ないよな。つい昨日だって実家に帰ったけれど、やっぱり居心地は悪かった。父は俺のことを悪く思ってないようだが、今でも母は俺の芸能活動を認めてくれていない。やっぱり帰省するんじゃなかった。まっすぐ現場から自宅へ帰っていれば、こんなことに巻き込まれずに済んだだろうに。
どうせなら生まれ変わって、誰かの中で、別の人生を歩んでみたいな。だったら男としてじゃなくて、凉樹との恋が認められる女性に。
「誰か、俺の臓器を使ってくれる人はいますか?」
使ってもらえるのならそれ以上に嬉しいことはないが。まぁいいや。このまま芝生の上で眠らせてもらおう。
騒然としている空間でどよめく観衆たちは、近づいてくるサイレンの音によって掻き消されていく。男たちの低くも響く声がすぐ近くで聞こえる。ただ、何を言っているのか全く分からない。日本語というよりは知らない言語にしか聞こえない。そんな言語を浴びながら動かない身体を誰かの手によって押さえつけられ、何か板みたいなやつに乗せられた。この刹那、気付いた。俺は救急車に乗せられているのだと。
「あぁ、俺は助けられてるんだ」
バタンという音とともにシャットアウトされた観衆たちの声。すぐそばで彼の吐息が聞こえ、耳に微かに届く。
「凉樹、助けに来てくれてありがとう。俺は死なずに済みそうだよ」
俺は長い幻夢を見た。とあるマンションの一室。そこで凉樹と俺は夫婦のような暮らしをしていた。互いに芸能界の仕事をしていて、凉樹はNATUralezaとしても活動していた。暮らし始めて三年後、二人の間には娘の果歩《かほ》が生まれ、仕事第一だったのを子育て第一に変えて、家族三人の時間を楽しむというものだった。
ここまでハッキリと光景や内容、交わした言葉を憶えている夢を見たのは久しぶりのことだった。これは、俺の将来をお告げしてくれたのかもしれない。幻夢と言うよりも、霊夢なのかもしれない。だとすれば、死んだら駄目だ…。米村咲佑として生きなきゃな。
遠くから誰かに名前を呼ばれたような気がして、ゆっくりと重い瞼を開けると、そこには見覚えのない天井と暖色系の明かりが目に飛び込んできた。そして右横から聞こえた、聞き馴染みのある声。その持ち主は、夢でも俺に逢いに来てくれた凉樹だ。
「よかった」
右手が彼によって握られる。気温とか関係なしに温かな手だった。
俺は、今自分が置かれている状況が全く把握できず、とりあえずいつものノリで彼に「よっ」と言ってみる。すると凉樹も同じようなテンションで、「よっ、咲佑」と手を軽く挙げて言ってきた。変わらない凉樹がいることに安心しつつも、自分が何でこの場所にいるかも、手の甲に絆創膏が貼られていることも、全く思い出せず当惑してしまう。でも彼なら俺が何でこの場所にいるのか教えてくれるかもしれない。そう思ってイチかバチかで聞いてみた。
「ここ、どこだ?」
「病院」
脳内では色んな記憶が高速で再生され、それが入り乱れていく。
「俺…、どうしてここに…?」
「咲佑が俺に電話してきただろ? 事件に巻き込まれたって」
凉樹に電話? 事件? 記憶を辿るも、その部分だけが砂嵐で消されている。
「そうだっけ…?」
「憶えてないのか?」
「……、憶えてないな」
俺がそう答えると、凉樹は事を冗談としてではなく本当のことだと感じたのか、腕を組み、頭をガクンと落とした。本当に憶えていないのだからこう答えるしかできない。でも、それを信じてくれているのはありがたかった。
大きな窓の外から聞こえるカラスの濁声。見慣れない景色が窓の外で広がっている。そんな景色に背中を向け何かを考え込んでいる様子の凉樹に、咲佑は何気ないトーンで話しかける。
「なぁ凉樹」
「なんだ?」
「仕事、あったんじゃないのか?」
「あぁ、まあな」
「じゃあ、どうやって―」
彼は生唾を飲み込み、そして断言する。「仕事は朱鳥に任せて駆けてきたんだよ」と。
「何でだよ」
「そりゃあ、咲佑のことが心配だからに決まってんだろ?」
組んでいた腕を解き、顔を上げた凉樹。気のせいかもしれないが、瞼が少し腫れているように見えた。
「凉樹…」
「俺は、咲佑が助けを呼んだならいつでも駆けつける。仕事中だろうが、休みの時だろうが。まぁ地方にいるときはすぐって訳にはいかないけどな。でも、それだけ俺は咲佑を大事にできる。俺は咲佑のことが好きだから」
真っ直ぐな瞳。艶々な唇。今すぐにでも彼のことを抱きしめたい。
凉樹が帰り際に声を掛けたのか、凉樹が出て行って数分後に看護師と医師が病室に入って来て、俺が運ばれたときの状態や治療内容の説明を受けた。
「あとね、熱中症にもなりかけてたよ」
「え」
「芝生の上で三十分強も仰向けになってたんだからね。仕方ないと言えば終わっちゃうけど」
「…、ですよね」
俺は笑うしかなかった。
「でもね、こうして治療を受けて生きていられるのは、米村さん自身が、生きたいという欲を持っていたからなんですよ」
命の危機に晒しておいて、結局生きる欲を捨てられなかった。俺はどこまでいっても馬鹿だな。
熱中症の症状はほとんど軽く、刺された傷もそこまで深くなく、暴行を受けた痕も重傷ではないということで、治療と経過観察のために一週間の入院が要請された。
医師と看護師はともに病室を出て行った。再び空間は一人のものになる。静寂に包まれた世界で、俺は自分の身体を確認した。腕と足首には包帯が巻かれた箇所があり、顔や肘、膝とかには絆創膏が貼られていた。スマホの内カメラで見た自分の顔は酷く、とても見ていられない。ここにきて初めて知った今の自分の状態。暴力を受けたこと、刺されたことを信じていなかったわけじゃないが、あの一連の出来事は夢なんかじゃなかったことを、思い知らされた。
それから一週間、俺は暴行を受けた部位の治療と刺された傷跡の治療を受けた。入院期間中に病室に来たのは刑事だけ。その間、暴行をしてきた相手の顔や服装、身長などの特徴を訊いてきたり、どういう感じで暴行を受けたり、脇腹を刺されたのか、という説明が求められ、俺は憶えている限りの情報を話した。しかし、情報が足りなかったのか、入院期間中は一度も犯人が見つかったとの知らせは無かった。
退院してからも咲佑にはまったく仕事の依頼が来なかった。地元でロケした例の番組は、咲佑が暴力事件に巻き込まれたことなど知る由もなく流された。しかも、咲佑が入院して治療を受けている間に。暴力事件の犯人は一週間が過ぎても未だ捕まっておらず、警察が捜査しているらしいが現状がどうなっているのか分からない。咲佑は事件のことを忘れることにした。時間が経つにつれて思い出されていく記憶と風化していく事件の真相とともに生きるために。でも、ひとつだけ思い出せないことがあった。それは目覚める直前の、左頬に何か柔らかいものが触れた感触。あれは一体何だったのか。こちらも迷宮入りしそうだ。
事件のことが報道されたその日に、姉から電話がかかってきた。あれだけ家族と離れると決意していたのに、気付いたときにはスマホを耳に当てていた。
「もしもし?」
「咲佑、テレビで知ったけど、あんた大丈夫なわけ?」
「うん。大丈夫」
「気を付けなさいよ。あと、お母さんもお父さんも心配してたから、あとで電話一本でいいから入れなさいよ」
「分かった。ごめん、忙しいから切るよ」
「ちょっと―」
嘘ついて電話を切った。それと同時に画面に表示された五件のメッセージ。元メンバーと元マネージャーからの連絡だった。
事件から十五日が経った七月二十日。警察から犯人が逮捕されたとの一報を受けた。二人のうち、一人は黙秘を続け、もう一人は「米村咲佑のことが気に入らないから暴行した」という気儘な発言をしていると聞かされた。夕方のニュースでもこのことが報じられ、またも元メンバーや元マネージャーなどから連絡がきた。事件は解決したが、刺された傷跡はまだ痛む。窓には大粒の水滴が付着していく。グレーの雲が空全体を覆っていた。
太陽は高い位置に昇り、アスファルトを照り付ける。陽炎がたつアスファルトの上を歩くだけで自然と汗ばんでくる。向かっているのは立ち食い蕎麦店。一昨日、傷害事件の犯人が逮捕されたことが報じられてすぐに朱鳥から、会って話したいとの連絡を受けた。いきなり朱鳥から電話がかかってきたときは驚いたが、口調から急いでいる感じがしたため、仕事が休みだという今日会うことになった。
待ち合わせ時間よりも三十分も早く着いた咲佑は、店の入り口で朱鳥の到着を待とうとしていたが、朱鳥も待ち合わせ時間よりも早めに行動するタイプの人間であるために、咲佑が着いて五分もしないうちに現われた。およそ二か月振りにあった朱鳥は、金だった髪色を黒に染め直していて、以前よりも落ち着いているように感じられた。何となく朱鳥自身の心境に変化があるように思えた。
狭すぎる店内で朱鳥がざるそばを、咲佑がもりそばを注文し、十分ぐらいで平らげて、店を早々に後にした。何も知らされないまま次の目的地に向かって歩いている途中、朱鳥が唐突に「俺、好きな人ができたんです」と言ってきた。流れるような発言に驚いたが、俺は素直に「おめでとう」と伝えた。
「で、今から行くカフェでその人と待ち合わせしてるんです」
「え、じゃあ俺邪魔じゃ…」
「邪魔じゃありません。逆にいて欲しいっていうか、会って欲しいんです。俺が好きになったその人に」
朱鳥の目はメラメラとしている。俺は何となく朱鳥が好きになった人がどんな感じなのか分かったような気がした。「分かった。楽しみにしてる」すると朱鳥は笑顔で「はい」と答えた。
そば店から徒歩五分の距離にあった、外観がお洒落すぎるカフェ。店先にはかき氷のイラストが描かれた看板が出ていた。
「あ、いた」朱鳥が指差した先には、咲佑もよく知る人が座っていた。「お疲れ様です」そう言って、その人物は俺と朱鳥に手を振る。無造作ヘアに眼鏡をかけていても、隠し切れない可愛さが滲み出ていた。
「あぁ、やっぱり」
「ん? やっぱりってどういうことっすか、咲佑くん」
「朱鳥、よかったな。思いが通じて」
「ばれてました…?」
「うん。俺と似たオーラを感じたからな」
朱鳥は頭を掻きながらはにかんだ。
「桃凛、久しぶり」
「お久しぶりですぅ、咲佑くん」
「元気だったか?」
「はい! 咲佑くん、僕―」
咲佑、朱鳥、桃凛は一台の丸テーブルを囲み、一つの大きな抹茶のかき氷を堪能した。仕事のこと以外にも、夏生にも彼女ができて順調に交際していること、朱鳥が桃凛に猛アプローチしたこと、メンバーからもお似合いのカップルだと認められていること、付き合いだしてまだ一か月しか経ってないこと、これからどういう感じで世に伝えるか、などといった友達同士とゲイ同士の、この三人にしかできないトークを楽しんだ。咲佑は二人が結ばれたことに悦びを感じたと伝え、それを朱鳥と桃凛も幸せだという。この空間は、ちょっとした幸せオーラに包まれていた。
NATUralezaの四人が出演するCMが放送され始めた八月。咲佑は相変わらず自宅で過ごしていた。前に住んでいたところよりも十万円近く家賃が安い家に引っ越して初めての夏。実家は一軒家で、初めて一人暮らしした家もこのアパートよりも家賃が高いところに住んでいたために、隣人が出す生活音なんて気にしたことがなかった。それなのに、今住む家は隣人さんが付けている扇風機の稼働音やエアコンの室外機の音が窓を閉めていても聞こえてくる。でも、ずっと家にいるからか段々と耳が音に馴化し始めていた。何も変わらない日常。平和でいいかもしれない。でもたまには刺激が欲しくなる。だから、そろそろ本気を出さなければと思い始めていた。