俺は徐にポケットからスマホを取り出し、履歴から正木の文字を探してタップする。コール音がしばらく鳴り続けたあとに、渋い声で相手は「凉樹」と俺の名前を呼んだ。
「まさっきぃ」
「どうした? 今どこにいる?」
まだ収録が終わってないのだろう。焦りながらも小声で聞いてきた正木。遠くからは芸能人たちが収録を盛り上げている歓声が聞こえてきた。俺はそのガヤに負けない、でも周りに迷惑が掛からない声量で言う。「病院だよ」
「病院? なんでまた」
「咲佑が、事件に巻き込まれた」
「は? 何かの間違いじゃ―」
「間違いじゃない。収録前、俺に電話がかかってきただろ? あれ咲佑からだったんだ。俺らが住んでる自宅近くの電話ボックスから直接かけてきた。スマホが壊されたから、って」
「もしかして、それで」
「そうだよ。しかも、誰かに殴られたって言ったから俺は仕事を放棄して咲佑のところに向かった」
正木は声にならない息を吐いた。
「近くの芝生の上で仰向けになってる咲佑がいた。それで―」
電話越しに聞こえる呼吸音。何も言わず、ただ俺が淡々としゃべる内容を聞いているだけのようだった。
「そういう経緯で今病院に」
まだ芸能人たちが番組を盛り上げようとして、わざとらしく笑い合う声が聞こえてくる。
「それで、咲佑は?」
「治療受けてる」
「そうか」
溜息交じりの息を吐く正木。電話越しじゃ感情が読み取れない。
「まさっきぃに頼みがある」
「なんだ?」
「今話したこと、朱鳥と夏生、桃凛にはまだ伝えないで欲しいんだ」
「どうして」
「朱鳥は収録中だし、夏生も仕事してる。桃凛は大学がある。それぞれの大事な時期に邪魔はできない。それに、咲佑だってみんなに心配かけたくないと思うからさ」
「そうだな。分かった」
苦し紛れの返事だった。
「治療終わってひと段落着いたらまた連絡する。それに、後日ちゃんと番組関係者に謝罪しに行く。だから、そのことも伝えといて欲しい」
「分かった。今は収録のこと心配しなくていい。とりあえず咲佑の無事だけを祈れ」
「ありがとな」
「じゃ、そろそろ収録終わるから切るぞ」
「おう。また」
正木が電話を切ったのを確認すると同時に表示された着信履歴。咲佑から電話がかかってきてから三時間が経とうとしている。ここまできたら、汗が滲む手を合わせて吉報を待つしかなかった。
掌や指の腹にある皺と、切ったばかりの爪の隙間に深く染み込んでいる赤黒い血。
でもそれを汚いとか、除けたいとか、嫌悪感を抱くことは一切なかった。むしろ、ずっと付いていてもいいと思えた。お守りみたいに肌身離さずつけていたかった。不思議だ。自分の血ですら付着していることが許せないのに。
凉樹は自分でもどれぐらいこの場にいるのか分からなくなっていた。心配からか力を入れていた脚はビリビリと痺れを感じる。ストレッチをしようとソファから腰を上げたとき、目の前にあるドアがゆっくりと開いた。その中から出てきたのは咲佑ではなく、どういう治療をするかという説明をしてくれた医者だった。
「あの、咲佑は……?」
俺はどういう表情を浮かべていたのだろう。医者は俺の肩に優しく手を置き、こう言ってきた。「彼ならもう大丈夫だ。安心しなさい」
安心感からか膝下から崩れ落ちた。むせび泣く声にならない声が薄明りの空間に響いていく。こんなはずじゃなかったのに。泣くつもりなんてなかったのに。涙よ、止まってくれと何度も自分に指示を出す。なのに涙は溢れていく。まるで壊れた蛇口みたいに。
咲佑は経過観察のためにしばらく入院することになった。幸い刺された傷は致命傷にならなかった。そのことが唯一の救いだったらしい。とても厳しい状態だったのにタクシーに乗り、電話をかけ、助けが来るのを待ったというのは、生きたいという欲があって、誰かを想ってじゃないと到底できることじゃない。もしあのまま放置されていたり、生きることを諦めていたら死んでいたかもしれないとも言われた。つまり咲佑は自ら生きるという道を選んだ。
看護師に案内された一人部屋。ベッドの上で寝ているか弱い咲佑の姿があった。殴られた痕には絆創膏が貼られる処置がされている。見るのは痛々しいが、これは生きることを選んだ咲佑の勲章なのかもしれない。
俺はベッドの横に置かれた小さな椅子に腰かけ、咲佑の寝顔を見つめる。今にも目覚めそうなのに、どれだけ俺が近付いても目を開けずに眠り続けていた。
病室は二人きりの空間。今この誰もいないこの場なら、俺は咲佑にどんなことだってできるような気がした。
病室に案内されてから二時間後に咲佑は忽然と目覚めた。咲佑は今どこにいるのか分からないといった様子で辺りを見渡す。
俺はどさくさに紛れて咲佑の手を握り、「よかった」と伝える。咲佑は薄目の状態で、俺に視線を合わせる。
「よっ」
目覚めてからの第一声は思いのほか軽かった。逆にそれぐらいラフなほうが良かったのかもしれない。重すぎたら耐えられなかったかもしれないから。
「よっ、咲佑」
だから俺も咲佑のように軽いノリで手を挙げて答える。彼は口元を少しだけ緩めた。
「ここ、どこだ?」
「病院」
そう言うと、咲佑は肘を付き、顔を顰めながらゆっくりと上体を起こし、手の甲に貼られた絆創膏を不思議そうに眺める。虚ろな目で。「俺…、どうしてここに?」
「咲佑が俺に電話してきただろ? 事件に巻き込まれたって」
「そうだっけ…?」
「憶えてないのか?」
俺がそう咲佑に問うと、しばらく考えたのち、ボソッとした声で「憶えてないな」と答えた。俺は身勝手に、目覚めたばかりで頭の中がまだ整理できていないだけだろうと、安易な発想でいた。だが、咲佑は腕に巻かれた包帯を色んな角度から眺めたり、顔に貼られた絆創膏に触れてみたりしている。そんな姿を見て、本当に咲佑は自分が事件に巻き込まれたことを憶えていないのかもしれないと思い始めた。
「なぁ凉樹」
「何だ?」
「仕事、あったんじゃないのか?」
「あぁ、まぁな」
「じゃあ、どうやって」
「仕事は朱鳥に任せて駆けてきたんだよ」
「何でだよ」
咲佑の口調は疑問形とも呆れているとも取れるもので、俺は返答に一瞬だけ困った。
「そりゃあ、咲佑のことが心配だからに決まってんだろ?」
「凉樹…」
「俺は、咲佑が助けを呼んだならいつでも駆けつける。仕事中だろうが、休みのときだろうが。まぁ地方にいるときはすぐって訳にはいかないけどな。でも、それだけ俺は咲佑を大事にできる」
「俺は咲佑のことが好きだから」
あれから怒涛に過ぎて行った一週間。咲佑にも了承を得たうえで、晴天に恵まれた今日、俺は仕事の合間を縫って三人に事件のことを話した。三人とも事が現実として受け止められないといった表情を浮かべ、俺の話を食い入るように聞いていた。
「でもぉ、咲佑くんに大きな怪我がなくてよかったですねぇ」
「うん。でも咲佑くんは何で事件に巻き込まれたんですかね」
「確かに、気になるよな。凉樹くん、何か知ってそうっすね」
あのときの俺は正常値から大きくはみ出していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。傷ついた咲佑を目の前にした俺はただ単に正常を取り乱していただけだ。あのときと全く同じ状況に置かれても、今の俺はきっとあんなことを咲佑にしないはず。言わないはず……。
「凉樹くん、咲佑くんに―」
「は? えっ、いやっ、俺なんも疚《やま》しいことしてないから!」
一刹那の出来事だった。朱鳥が「え」と素の感情を露呈した。
「あぁ、悪い。今の聞いてないことにしてくれ」
「凉樹くんのためにそうしたいところですけどぉ、めっちゃ気になります。咲佑くんに何かしたんですかぁ?」
「俺も気になります。凉樹くん教えてください」
「二人から頼まれても断る。夏生が聞きたくないかもしれないだろ?」
「あのー、凉樹くんには申し訳ないですけど、僕も本音を言えば内容が凄く気になります。なので教えてもらいたいです」
「そういうことっす。凉樹くん、教えてくださいよ! 何をしたんですかっ」
差し出した拳をマイクに見立て、インタビュアーのような態度を取る朱鳥。夏生と桃凛は悪戯っ子のような目をしている。三人のやり取りに耳を傾けず、自分の世界に入り込んでいたことを、今になって後悔する。
「絶対誰にも言うなよ」
「はい」
「実は俺、咲佑にキスした」
「……」
「…っえ! 咲佑くんにキスですか⁉」
桃凛がここ最近で一番の大声を響かせる。俺らは焦って周りを見渡したが、誰もこちら側を見ていなかった。
「ばかっ、桃凛大きい声出すなよ!」
「すいません、つい…」
夏生に注意され小さく謝る桃凛。一方の朱鳥はまるで恋バナ中の男子高校生のようなテンションで俺にこう聞いた。「凉樹くん、いつキスしたんすか?」
「咲佑が目覚める前」
「どこにしたんすか?」
もう言い逃れはできそうにない。
「左頬に。そっと、ばれないようにな」
「で、ばれなかったんすか?」
「いや、キスして、俺が小さな声で咲佑って名前呼んだ瞬間に、ゆっくり目を開けた。そのことに関して何も言ってこなかったけど、多分気付かれてると思う」
「まるで白雪姫みたいっすね。あぁー、咲佑くんにとったら最高の目覚めだったんだろうなあ」
「んな馬鹿な。そんなんで目覚めたって嬉しくないだろ?」
「えぇ、そんなことないと思いますよぉ。例えば、僕は朱鳥くんにキスされて目覚められるなら、最高に嬉しい気持ちになりますよぉ」
さらっと桃凛は爆弾発言をしたが、冗談的な意味合いで言ったのだろうとその場で誰も突っ込まず、そのまま流した。
「それで、咲佑くんが何で事件に巻き込まれたとか、そういうことは聞いてないんすか?」
「うん。詳しいことは聞けてない。事件のことを全然は無そうとしなかったからね。それに、あんまり思い出したくなさそうだったからさ、俺も聞くのを躊躇った」
「そうですか・・・」
「多分、記憶が混在してるんじゃないかな。唐突のことだったし、仕方ないよ」
「辛いですね・・・」
咲佑が事件のことを憶えていないと言っていることについて、今は言葉を濁すことしかできない。
「まぁ、でも大事に至らなくて本当に良かったですね」
「そうだな」
夏生がその場の空気を察知し、話を平和にまとめる。夏生がいなければ、この空気がひび割れていたかもしれない。
「僕、今度咲佑くんに会いに行こうと思います」
「あ、それいいな。夏生、そのときは俺も誘ってくれよ」
「二人とも僕を置いていくなんてずるいですよぉ。僕も連れてってくださいぃ!」
「うん。分かった」
「三人が会いに行ってくれたら、咲佑もきっと喜ぶと思う」
「はい」
三人が楽しそうにしている、それだけで凉樹の心は救われた。三人の存在は今までで一番大きく感じられる。今まで年上という立場で三人のことを引っ張ってきていたのに、いつの間にか凉樹は年下三人に助けられるようになっていた。これからはもう少しメンバーのことを頼ってもいいのかもしれない。
夏の昼下がりの公園は、人通りも少なかった。そもそも汗ばむ陽気のときに公園で過ごそうなんて人はいない。見かけるのはベンチの上に寝っ転がって上半身を焼いている人とか、買い物袋を両手に下げている人とか、そんなぐらいだった。だから逆に今伝えることができてよかったと思う。夕方になれば学校や仕事帰りのタイミングで、ここを行き来する人は増える。それに、夏生はこのあと仕事があると聞いているから、このあたりで解散しておかなければ。
「そろそろ帰るか」
「はい。僕、そろそろ仕事行かないといけないんで」
「僕も、大学の友達と一緒にやることがあるのでぇ」
「そっか。二人とも気を付けてな」
「はい」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
夏生は下ろしていたバッグを背負い、桃凛はパソコンが入ったトートバッグを肩にかけ直し、それぞれの目的地へと軽快な足取りで向かっていく。その背中をぼんやりと眺めながら、朱鳥が口を開いた。
「凉樹くん、俺から相談したいことがあるんですけど」
「どうした?」
「凉樹くんって、誰かを好きになったことってありますか?」
唐突の質問に驚き、手に持っていた炭酸飲料のペットボトルを地面に落とす。動揺が隠し切れない凉樹を余所に、それをすんなりと拾い上げる朱鳥。ペットボトルの中では炭酸がパチパチと弾けている。
「急にどうしたんだよ?」
「いや、その…」
「朱鳥。もしかして好きな人ができたか?」
俺が核心に迫る質問をした途端、朱鳥は絵に描いたように慌てふためく。図星だ。
「いや、そうじゃないって言うか…。そうじゃないって言うのも変なんですけど…」
「違うのか?」
「違うっていうのも違うんですけど、なんていうか……、その…、気になる人が、できたんすよ」
「おぉ。それで?」
朱鳥の恋愛に段々と興味が湧いてきて、自然と前のめりの姿勢になる。メンバーの恋愛対象が女であることを願っているのか、それとも違ってくれたほうがいいのか、どっちがいいのか分からなくなっていた。咲佑と同じ類だと世間からまた非難されるだろうし、違ったら違ったで素直に喜ぶこともできそうにない。今の俺にできることは、ありのままを答えること。
朱鳥は凉樹が前のめりになる一方で、何か後ろめたいことでもあるのかと思えるほど、視線は下を向いていた。が、意を決したのか、突然朱鳥は誰かが憑依したかのように姿勢を正し、凉樹の瞳を捉えてこう言った。
「その人の性別が、男だって言ったら驚くっすよね」
朱鳥は笑っていた。不自然なほどに。そして朱鳥はさらに言葉を紡いだ。
「今はまだ信じたくないんですけど、どうやら俺も咲佑くんとお仲間みたいっす」
「そうか」
ありのままに任せた結果、凉樹の口から出たのはこの三文字だった。それを聞いた朱鳥は目を真ん丸とさせる。
「え、凉樹くん、聞いて驚かないんすか?」
「え、逆に何で驚かないといけないんだ?」
「いやいや、恍けないでくださいよー。驚くっしょ、ふつうは」
「そうなのか?」
「どうして驚かないんすか?」
朱鳥は凉樹のことを、まるで水族館で泳ぐ魚に釘付けになる子供のような目をして聞いてきた。
そんな目をされたら、思ったこと、感じたことを素直に伝えてあげたほうが、今の朱鳥のためになるかもしれない。
「慣れたって言うのも変だけどさ、咲佑のことがあって、色んな恋愛観があっていいんだよなって思い始めて。だからメンバーが誰のことを好きになろうが、どんな性別の人を好きになろうが関係ないって言うか。あ、そう言ったらなんかアレだな。メンバーに興味ないって言ってるみたいだな」
冗談っぽく言って笑ってみる。朱鳥は優し気な笑みを浮かべた。そのとき俺はこう思った。朱鳥のことを守れるのは俺しかいない、と。
「言いたいことはそういうんじゃなくてさ、なんていうか、リーダーとしてグループを引っ張ってきて思うのは、メンバーには楽しく過ごしてもらいたいってこと。今まで五人のグループ活動に終わりを迎えることなんてあり得ないって思ってたけど、咲佑が抜けて、NATUralezaは俺たちメンバーにとっても、応援してくれるファンにとっても、もっと自由に過ごせる居場所であり続けたほうが良いのかなってな。そりゃあさ、咲佑が抜けたとはいえ、同じグループに世間一般が思ってきた恋愛観とは違う見方をする人がいるって言うのは中々受け入れてもらえないかもしれないけど、俺たちはいつだって自由なんだ。同性を好きになることは決しておかしなことじゃない。今はまだ否定的に思われるだろうけどさ、いつかは認められる日が来るだろうから、その日まで止まらないで欲しい。朱鳥には、朱鳥にしかできない恋愛もある。だから俺は朱鳥が気になる人と一緒に暮らせる未来が訪れることを、今はただ願うよ」
朱鳥は吐息のように俺の名前を呟く。
「咲佑のこともあったから色々不安に感じてることも多いと思う。でも大丈夫。俺が朱鳥のこと守ってやるから。だから心配すんな。朱鳥はそのままでいい。どんな人を好きになったって、朱鳥っていう一人の人物に代わりはいないんだからさ」
「…、そうっすね」
「咲佑が抜けてまだ二か月しか経ってない。これから先どんな壁が与えられたとしても、俺たち自身で乗り越えていくしか道は残ってないと思うんだ。だから今こそ力を合わせて頑張ろうぜ。四人のNATUralezaを一緒に守っていこうぜ」
朱鳥は知らず知らずのうちに目に光るものを浮かべていた。朱鳥がどんな気持ちで俺の発言を聞いていたか知ることはできない。でも朱鳥の涙を見て、言葉にできない何かを感じることができた。吐露するか悩んだであろうこのことに、答えが出せる日はそう遠くないのかもしれない。
「凉樹くん、ありがとうございました」
「感謝されるほど、俺は何も言ってないよ」
「そんなことないっすよ。やっぱり凉樹くんに相談して正解でした」
「そうか?」
「はい。咲佑くんにもいい報告ができるように、気になる人にアプローチしてみようと思います」
「そうか。頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
ペットボトルの中で炭酸は落ち着きを見せていた。二人のことを照らし続ける太陽。上昇していく気温。炭酸がぬるくなる前に中身を一気に飲み干す。そのとき見た空は、子供が描く青空みたいに、雲一つない綺麗な空が広がっていた。
夏休みシーズン真っ只中の八月。各地で猛暑日が記録され続けているというニュースが流れてくる。外を歩けば公園で水遊びをする子供や、エアコンの効いた室内で課題に取り組む学生の姿など、夏休みをそれぞれ謳歌する人たちをみて、凉樹は仕事へのギアを一段と上げていた。
咲佑が事件に巻き込まれたという話をしたあの日から、四人は個人仕事で忙しく動いていた。そのことを機に、正木以外に新たに一人、福本というマネージャーが付き始め、主に正木が凉樹と朱鳥を、福本が夏生と桃凛を担当するという流れに変わった。凉樹含めメンバーたちは、グループとマネージャーで共有しているスケジュールアプリでしか互いの動向を把握しておらず、メンバー間の連絡も自然と途絶えている。
*
八月四日。この日も昼前から猛暑日を観測する暑さだった。
久しぶりにできた二連休。といってもやることが特になく、俺は家でのんびりと映画を観ていた。面白くない内容に飽きてきたと同時に、最近の睡眠不足からか睡魔が襲い始めてきていたそんな時、テーブルの上に置いていたスマホが音を立てながら振動し始めた。画面には正木の文字が表示されていた。
「もしもし?」
「せっかくの連休中に悪いな」
「いいよ、別に。家にいるだけだから」
俺が半笑いの状態で答えると、向こうは慣れた感じで「そうか」と言う。
「で、どうしたの? 何かあった?」
「凉樹に新しい仕事獲ってきた」
「どんな?」
「十月から始まる新しいバラエティ番組。旅系のやつ」
「へぇ、面白そう」
「しかも、聞いて驚くなよ」
「え、何」
「ゲストじゃなくて、レギュラーだ」
リモコンを操作して映画を一時停止させる。止めたタイミングが悪く、主演俳優は瞬きの途中で白目になっている。
「え? レギュラー?」
「そうだ。詳細はまた後日連絡するから」
「分かった。ありがとな」
「じゃあ、お休み中に失礼しました」
「はいよ。またな」
正木との通話を終え、ソファの上で一人喜びをかみしめる。でも、この喜びを共有したい。そう思い立ったとき、抱いていたスマホを操作し、あの男に連絡する。
「もしもし?」
「咲佑、今暇か?」
咲佑は電話の向こうで笑いながら答えた。「あぁ。いつでも暇だよ」と。こう聞くこと自体、愚問だ。だが、後戻りできそうになく、そのまま話を続けることにした。
「あのさ、今から会えないか?」
「急だなぁ」
「俺が会いたいんだよ。駄目か?」
「え」
まるで息を吐くように言う咲佑。一瞬だけ心が揺らぐ。
「咲佑に言いたいことがあってさ」
「え、何だよ。今教えろよ」
「嫌だよ。直接会って話がしたいんだからさ。な、いいだろ?」
「しょうがねぇなぁ。会ってやるよ」
「ありがとな。じゃあいつものカフェに十四時で」
「分かった」
「じゃあな」
電話を切ってすぐ、出かける準備に取り掛かった。止めていた映画を音楽代わりに聞き流しながら、クローゼットの中からお気に入りの服を取り出し、着用する。そして寝ぐせのままだった髪型を洗面所で整えた。現場に行くよりも丁寧に。好きな人とデートに行くような、浮かれた気分で。
咲佑は十四時の五分前に、変装として黒縁の眼鏡をかけ、傷を隠すためか長袖に長ズボンという格好でやって来た。グループを卒業しても変わらない咲佑のことを見て、思わず笑みが零れてしまう。
「いや、何で笑ってんだよ」
咲佑は笑う俺をみて悪戯な顔で聞いてきた。しかも俺にしか聞こえないトーンで。周りは午後のティータイムを優雅に楽しんでいる。
「変わらないなって思ってさ」
「グループ抜けたからって唐突に変わらないよ」
「まぁそうだよな」
二人が何気ないことで笑い合っていると、水を持ってきた店員が「ご注文はお決まりですか?」と一般客と同じように尋ねる。この店員は二人のことを米村咲佑と石井凉樹と認識したうえで。だからか居心地が良く、気付けば店の虜になっていて、仕事の合間にメンバーだけで訪れることもしばしばあった。
「いつもので」
「かしこまりました」
「お願いします」
店員が去っていくのと同時に咲佑は俺に顔を近づけてきて、「話って何?」と、興味津々な様子で言ってくる。咲佑のことを驚かせたい一心で、俺は「聞いて驚くなよ」と、さらに期待を持たせた言い方をする。
「何々?」
咲佑は素直なままだ。大人になっても少年感を忘れていない。俺と出会ったあの頃からずっと変わらないでいる。
「俺、十月から始まる新しいバラエティ番組のレギュラーに選ばれた」
「おぉー・・・、って、え! まじか!」
客の視線がこちらに一斉に注がれた。俺と咲佑は慌てて頭をぺこぺこと下げて謝る。そのことに対して愛想笑いを浮かべる人、こちらをちらちらと見ながら小声で話す人など様々だった。
「声大きいってば」
「ごめんごめん。だって驚いたんだもん。仕方ないだろ?」
「だよな。俺もまさっきぃから電話で聞いたんだけどさ、家で一人喜んだよ」
「喜んでる凉樹の姿が簡単に想像できる」
「うそ」
「ホント。そもそも俺ら何年も一緒に過ごしてきたんだから、それぐらい分かるって」
「あぁまぁそうか。俺ら付き合いだして長いもんな」
「そうだよ。これからも俺は凉樹と付き合い続けたいけどな」
「俺も。俺、咲佑がいないと駄目みたいだからさ」
咲佑は嬉しさと戸惑いを滲ませる。が、この空気に耐えられなかったのか、頬が緩んだ状態で咳払いをした。
「とにかく、レギュラー決定おめでとう」
ハッキリとそう言われた。それに照れてしまい、変な感じで「おう」と答える。
・・・、こんなはずじゃなかったのに。
咲佑は俺のことを祝ってくれているのに、俺は心の底から喜べなかった。
咲佑のことを想うと胸が締め付けられて苦しくなる。新規の仕事がどんどん決まっていく。それは凉樹だけじゃなかった。朱鳥は趣味が高じてのアウトドア番組にゲストとして出演。夏生はドラマの演技が評価され、ミュージカルの出演が決まった。桃凛は学業に専念しつつも、頭脳派の面を活かした仕事をしている。
なのに、咲佑はソロになっても相変わらず仕事のない日々を送っているらしい。天と地を見せつけられている気がして仕方ない。どうしてここまで違うのだろう。咲佑と俺は同じ空の下で暮らしているのに。
凉樹は咲佑と目が合わせられなくなっていた。合わせようにも心臓が跳ね上がってしまう。どんな時だって咲佑と目が合わせられないことなんて無かったのに。でも、話さなければもっと苦しい。心臓を落ち着かせるために、俺は口を開いた。
「咲佑、今どんな感じなんだ?」
つい一週間ほど前の行為に対してどう思ったのかを聞こうとしただけなのに、ストレートに質問できず、色んな意味を含める感じで投げかけてしまった。こういうときに限ってちゃんと伝えられない。リーダーとして失格だと思った。
「傷はもうほとんど治ってる」
「そっか」
「・・・うん」
咲佑は俺と視線を合わせないように俯いた。
「事件の記憶は・・・、戻ったのか?」
俺の声は微かに震えていた。慰めの気持ちが、咲佑の前では堂々としていたいという俺のプライドを邪魔する。
「いや、まだ・・・」
「そうか」
かける言葉を失った。どう言ってあげればいいのか・・・。
「っていうのは嘘で」
そう聞いた途端、俺の口は大きく開いた。
「えっ? 嘘?」
「実は、既に記憶を取り戻してる」
「なんだぁ。心配させんなよ」
「悪い悪い。ちょっと揶揄いたくなってさ」
「なんだよ、それ」
少年のような笑顔を見せる咲佑。揶揄われているはずなのに、嬉しかった。本当の咲佑が戻ってきたような気がしたから。その頬には、かさぶたになった小さな傷痕が残されていた。
「でも」
咲佑は落胆する様子の声を発した。
「でも何だよ」
「記憶が戻ったからか分かんないけど、まだ人とすれ違うのが怖いんだよな。すれ違いざまにやられたからさー。トラウマみたいになってんのおかしいよな。俺もう子供じゃないのに・・・」
今度は天を仰ぎだした咲佑。自分に呆れているみたいだった。
「咲佑はおかしくない」
「え」
「あんなことされたら誰だって怖くなる。大人とか子供とか関係ない」
あれ、何でこんな口調になってんだろ。
「いやでも・・・」
「あのとき俺が一緒にいてやれたらよかったのに」
一緒にいてられたら、なんてよく言えたな。行動を共にするなんて、どう考えても至難な技なのに。
「それは流石に無理だろ」
「事件に巻き込まれるのが咲佑じゃなくて、俺だったらよかったのに」
これは咲佑の治療が終わるのを待つ間、一番に思っていたこと。それを今言うか?
「凉樹・・・?」
「咲佑が誰かに傷つけられるなんて俺が耐えられねぇ」
耐えられないのは事実だ。でも。
「凉樹・・・・・・?」
「いつでも咲佑のことを守れる盾になりたい。俺はお前と一緒に居たい。ずっと、ずっと」
咲佑はまっすぐ凉樹のことだけを見つめていた。濁りのない澄んだ瞳に吸い込まれそうになったその瞬間に、胸の鼓動が早くなった。
これは恋なのか? いや、違うよな。でも前に母から聞いたことがある。「その人のことを常に考えていて、考えれば胸が締め付けられる。このときこそ恋してるのよ」と。
だとすれば・・・。
「どうやら俺はお前のことが好きみたいだ。俺は咲佑と付き合っている未来しか想像できない。他の誰かに取られたくない。奪われたくないんだよ」
気付いたときには、俺はそう口にしていた。自分のことが信じられなかった。俺は今まで、女性が恋愛対象だと思っていたのに。それか、俺の恋愛対象を確かめるために咲佑と付き合うのかもしれない。でも実際、俺は学生時代に女性と付き合ったことが無かった。と言うより、そもそも異性に恋をしたことが無かった。まぁ、同性にも恋したことは勿論ないが・・・。まさか、初めての告白相手が咲佑になるなんて。
「俺も凉樹のことが好きだ。俺も凉樹と一緒に居たい。俺だけの凉樹でいてほしい」
俺は乱高下する気持ちを抑え、呼吸を整える。
「咲佑、俺と付き合ってみないか?」
咲佑はふふっと笑って、「いいよ」と答えた。
叶うはずのない恋。許されない恋。そんなことはない。未来を変えてやる。そんな思いで二人は強い握手を交わした。
タイミングよくやって来た店員。何も知りません、みたいな表情を浮かべつつも、頬はいつもより緩んでいるように思えた。
「お待たせしました」
小さなテーブルに注文したメニューが置かれる。カフェラテのグラスには大小様々な水滴がいくつも付いていた。氷はカラカラと凉げな音色を立て、プリンは振動により皿の上で可愛く揺れる。サンドウィッチは具材が大きく食み出していて、思わぬ形で食欲がそそられる。
「いただきます」
喉仏を上下させながらカフェラテを飲む咲佑は、とても幸せそうだった。告白してよかった。そう思えた瞬間だった。咲佑のこの笑顔を一生傍で見続けていたい。いつまでも咲佑の盾であり続けたい。いや、死ぬまでずっと守り続ける。
咲佑に告白して以来、レギュラー番組の収録やそれ以外の単発の収録で忙しく、全く咲佑に会えていなかった。メールしたくても共通の話題がないせいで、結局連絡もできないでいる。日が経つごとに、本当に付き合っているのか確信が持てなくなっていた。そろそろ会いたいな、なんて思いを抱きながら仕事をしていた八月十六日、収録の合間にスマホを触ろうと電源を入れた途端、画面に一件の着信履歴が表示された。
「お疲れ様です」
「石井くん、お疲れ様。今どこ?」
電話の相手は今、各方面から引っ張りだこの女性俳優、元木奏《もときかなで》。年齢は俺より四つ上で、バラエティ番組での共演をキッカケに連絡先を交換。数少ない俳優の知り合いの中で、奏さんは俺によく連絡をしてきていた。どういう意図で連絡してくるのかも分からなければ、いつも内容が薄く、長い会話に発展したこともない。
普段からハチミツみたいな甘ったるい声質の奏さんだが、電話越しでもその存在感は健在で、より濃厚さが増す。
「番組の収録でテレビ局に」
「へぇー。あっ、ねぇねぇ今夜ひま?」
「えっ、今夜ですか?」
「うん、そう今夜」
奏さんの意図するところは掴めない。今、俺はどういう顔をしているのだろう。
「収録が終われば大丈夫です」
「よかった。ちょっといいお店があるから、連れて行ってあげたくてね。それで連絡したの」
「そうなんですね。ぜひお願いします」
「じゃあ場所と時間はメールするね」
「分かりました。ありがとうございます」
「それじゃあ」
楽屋のドアがノックされ、スタッフの一人が顔を覗かせ、収録を再開すると伝えてきた。再びスマホの電源を落とし、鞄の中に入れ込み、楽屋を出た。時刻は十六時を過ぎたところだった。
番組収録が終わったのは、指定された待ち合わせ時間ギリギリの、十八時二十分だった。急いで衣装から私服に着替え、鞄を背負い、中々来ないエレベーターの到着を少し苛立ちながら待ち、ロビーで待っていたタクシーに乗り込み、レストランのある場所を伝え、電気がまだ灯り続けるテレビ局を後にする。車に乗れば順調に行けると思い込んでいたが、レストランがある方向に延びる幹線道路は、事故の影響により渋滞していて、到着が何時になるか分からないと運転手から告げられた。そのことを謝りの文章とともにメールで伝えた数秒後、可愛らしい熊のスタンプが返ってきた。窓に映る顔は微笑んでいた。
レストランに入ったのは、待ち合わせの時刻から四十分近くも過ぎたあとだった。高級感漂うドアを開くと、そこには別世界が広がっていた。異国情緒あふれる椅子とテーブルに、天井からぶら下がる丸みを帯びたシャンデリア。食事をする人や、店内を行き交う人は皆が洒落た服を身に纏っている。またスタッフらのちょっとした言動からも、気品の高さを感じさせられる。
そんな場所に俺はストライプの襟付きシャツをアウターに、その下には白の無地Tシャツを着用し、ボトムはだぼっとしたスラックスに少し厚底の紐靴という、場違いじゃないかと思えるほどの軽装でいる。視線は料理越しにこちら側へ向けられる。恥ずかしさから今すぐにでも飛び出したい気分だった。
スタッフに誘導されるがまま、俺は人目を気にしながら店内を歩いた。そして、そんな俺を見つけた相手は、俺の顔を見るなり笑顔の花をパッと咲かせ、しなやかな動きで手招きをする。案内されたのは店の一番奥側の席だった。
「お疲れ様です、奏さん。遅くなってすいません」
「いいよ、気にしないで。そんなことより、収録お疲れ様」
「ありがとうございます」
目の前に座る奏さんは、淡いイエロー色の半袖トップスに純白のロングスカートを合わせた、場に合った格好をしている。天井から降り注ぐ柔らかな照明によって、薄化粧した顔が映えている。
「どうだった? 初めてのレギュラー番組は」
「そうですね、普段の収録にはだいぶ慣れてきたから大丈夫かなって思ってたんですけど、感触が掴めてないのもあるんですけど、共演者の方のオーラがあり過ぎて、めっちゃ緊張しました」
「そっか」
「それに、紹介される旅先で作られている料理の食リポも求められて。初めてだったから、自分でも何を言ってるんだか訳分からなくなって、結局使えないって言われました。放送では、共演者の方のコメントが使われるみたいです」
思い出しただけで額にじんわりと汗が滲んでくる。
「食リポは難しいよね。私もそうだった。昔はね、俳優なんだから気の利いたコメントしなくちゃ、とか、例えば面白い特技を披露しないと、とか、そういうことで頭がいっぱいだったんだけどね。でも今は何も考えずに収録に臨んでるの。自然体に身を任せてみるのもいいのかなって」
「そうなんですね」
「そのうち慣れるよ。だから頑張って」
「はい」
店員は会話が終わるのを待っていたのか、ベストなタイミングでメニュー表を運んできた。胸元にはネームプレートが付けられていたが、その苗字を見るのは初めてで、簡単な感じで構成されているのに、なんて読むのか分からない。そんな店員は、とても穏やかな口調で奏さんに何かを伝える。
歴史を感じさせられるメニュー表を開く。そこには耳馴染みのない料理名ばかりが記載されていて、どんな料理かも全く想像がつかない。しかも金額も結構高めで、財布に残る残金のことが心配になる。そんな俺を余所に、奏さんは慣れた手つきでページを捲っていく。
「石井くん、何食べるか決めた?」
「ごめんなさい。俺、こういうのに詳しくなくて。何がどんな料理なのか・・・」
「じゃあ、今何が食べたい気分?」
「肉、ですかね」
「お肉か。じゃあコンフィなんてどう?」
奏さんがメニュー表に載るコンフィーの文字を指差す。爪に塗られたトップコートが照明の当たる角度によって煌めく。
「コンフィ、ですか?」
「低温の油でじっくり煮た料理なんだけどね、ここの鴨のコンフィは特に身がホロホロしてて食べやすいし、美味しいからおすすめ」
「へぇ、美味しそう。じゃあ、俺はそれで」
「分かった。じゃあ、注文しちゃうね」
二人の間に立つ店員に奏が注文する中、凉樹は未だに自分が着ている服装と周りとのギャップに追いつけず、落ち込んでいた。前もって教えてくれていたらこんな思いをしなくて済んだのに。と、誰のことも責められない状況を後悔する。そんな凉樹を見かねた奏は、下から顔を覗き込むようにして、こう話しかけた。「石井くんには、まだこのお店早かったかな?」
奏さんは悪戯っ子みたいな笑顔を浮かべている。
「すいませんでした。こんな服で、しかも料理名もまともに知らなくて」
「なんで謝るの? 石井くんは悪くないよ」
「いや、でも流石に・・・」
「そもそも今日突然このお店に誘ったのは私なわけだし。料理名を知らなくても仕方ないよ。でも逆に連れてきてあげてよかった。これで一ついいお店知れたでしょ?」
意図するところは全く読めない。ただ俺は今の発言を前向きに捉えることにした。最初はみんな料理名を知らない。何か分からなくて注文する。それを繰り返すうちに料理名を知っていく。そして誰かに教える時が来る。その時が来たら、咲佑をこの店に連れて来よう。デートの帰りにでも。