あの人を好きな理由は、数えきれないくらいある。
 凛として透き通った声。柔軟剤の甘い香り。細く繊細な指先で書かれる黒板の文字もまた、清廉と美しい。
 好きだ。好きで、好きで、たまらない。――好きな人がいる時、世界は、キラキラと輝いている。

 昼休みの西棟は、めったに人がこないことで有名だ。
 そんな静まり返った西棟の女子トイレで鏡を凝視する不審な生徒が一人。

 プルプルと震える右手でホットビューラーをまつ毛から離した飯田日和(いいだひより)は、自分のくるんと上がった睫毛を確認し、ほっと息をついた。

 薄い色付きの保湿リップ、ナチュラルに毛穴を隠してくれるパウダー、毛先だけ内側に巻かれたツヤツヤの髪。ギリギリ校則に違反しない程度の軽いメイクは、今日も日和をしっかりと武装させてくれる。

「先生、気づいてくれるかな」

 今日は少し、しっかり目にまつ毛を上げてみた。
 気が付いてくれるだろうか。――いや、絶対に気が付くはずだ。

 何故なら、日和の席は今教室の中で一番目立つ最前列中央にある。
 これは、最初のくじ引きでこの席を引いたクラスメイトから日和がやや強引に奪い取った席だった。

 予鈴が鳴り教室に戻った日和は、もう一度自身の鏡で最終チェックを行った。
 大丈夫、大丈夫……きっとかわいい、はず。

 暗示をかけるようにじっと鏡を凝視していると、横からスッと紙が差し出される。

「ね、この問②ってさ、答えなに?」
 
 机に半身を伏し、ひどく気だるげな様子でこちらを見上げるのは、吉田拓斗。
 何を隠そう、日和が一ヶ月前にこの席を奪い取った相手である。
 
 譲ってもらったはいいものの、結局隣の席になってしまったため、何とも言えない空気が流れたことを覚えている。

 日和が遠い目をしていると、拓斗は再び気だるげにプリントを一瞥し「わからんのならいいけど」と続けた。

「いや、わかるって。問②……これか。逆になんで分からんねん、こんな簡単な問題。主人公の気持ち考えるだけやん」
「アホ、こんなんわかるはずないやん」
「はぁ? アホはどっちや、ここはな……」

 ため息をついた日和が自分のプリントを指さした瞬間、ふわりと嗅ぎ覚えのある香りがした。

「こら。もう授業始まるよ」
「……!!」

 頭上で聞こえたのは、大好きな先生の声。
 ドキリと、日和の心臓が一つ鳴り響いた。
 すると固まった日和を見据えた先生が、フッと笑って拓斗に視線を移す。

「吉田くん、プリントについての質問があるなら授業が終わったあと私のところへ来なさい」
 
 そう言って黒板へ向き直った先生に、拓斗が「はぁ」と返事をする。
 なんて気のない返事なのだろうか。せっかく先生が名指しで話しかけてくれているのに。
 拓斗に若干の苛立ちを覚えながらも、日和はドキドキと高鳴る鼓動を抑えきれないでいた。

 いや、そんなことよりも――

 先生に、注意されてしまった。
 授業が始まっているのに、私語を慎まない生徒だと失望させてしまっただろうか。

 日和にとって一番大切だった五時間目の国語。
 今日はこの日のために前髪をセットして、意味もなく三十分早く家を出たのに。
 慣れないビューラーで、まつ毛を上げてみたのに。

 頬を赤くさせ涙目でうつむいた日和を横目に、拓斗は何度目かの気だるげなため息をついた。

「……主人公の気持ちなんて、わかるはずないやろ」

 宿題のプリントを集めるクラスメイトの声に混じり、拓斗がつぶやいた言葉は日和には届かない。

 日和の意識は、全て目の前の人物に注がれていた。
 凛として透き通った声、柔軟剤の甘い香り、細く繊細な指先で書かれる黒板の文字もまた、清廉と美しい。

「飯田さん、どうかした? 私の顔に何か付いてるかな」
「や、何でもない……です、すみません」

 辺鄙な田舎の高校に似つかわしくない、洗練された服と綺麗な標準語。
 薄い栗色のたおやかな長い髪。女の人(・・・)にしては高い身長と、見惚れてしまうくらいに整った端整な顔。

 ひとめ惚れの合図は、話題の少女漫画で見たよりわかりやすかった。
 新任紹介の檀上で先生を見た瞬間、カランって、ラムネのビー玉が落ちるみたいな音が鳴ったから。

 ――いくらまつ毛を上げたところで、どうしたって彼女にはかなわない。

 後ろから送られてきたプリントをまとめながらうつむく。
 すると、先生が日和の目の前に立った。
 無意識に顔を上げてしまった日和を見て、先生の目が少しだけ見開かれる。

「あ、飯田さんのまつ毛、今日くるんとしてるじゃん。可愛いね」
「……え」

 日和がまとめたプリントを受け取りながら、誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやかれた先生の言葉に、日和の世界は一瞬、呼吸を止めた。

 今、可愛いって言った?
 先生が、私を見て、可愛いって?

 ああ、敵わない。
 一瞬にして日和の世界をひっくり返し、天国に呼び戻した先生を前にそう思った。
 どうしようもなく好きだ、涙が出てしまうくらいに。
 彼女をあやなす全てのものがキラキラと色を持って、日和の心を魅了する。

「先生! ここ。この問題、どうしてもわからんのやけど、授業終わりじゃなくて今教えてくれませんか?」

 心のなかで鳴り響く日和のファンファーレを、無粋な声が遮った。
 拓斗だ。この男、まだ諦めてなかったのか。

「んーと……ああ、問②のとこか。これは主人公になったつもりで考えてみれば答えが分かるんじゃないかな」
「主人公の気持ちなんて、主人公にしかわからんやろ。先生は俺の気持ち、わかるんですか?」

 苛立ったように語気を強める拓斗に目を丸くした先生は、少し考えこむような仕草をした後、涼やかに微笑んだ。