翌朝。
 目を覚ましたオレの隣にはユキがいた。
「おはよう、カズ」
 ユキが顔を綻ばせながらオレの頭を撫でる。
「おはよう、ユキ」
 オレも同じようにしてから起き上がる。
 そしてユキの着替えを待ってからホテルを出た。
 二人で他愛もない話をしながら駅へと向かい、オレたちがいた町とは反対方向へと進む電車に乗り込む。
 車内にあった路線図を見上げ、オレたちはなんとなくの当たりをつける。
 意外にもまだ県を跨いですらいなかったオレたちは、どこに遊園地があるのか知っていた。
 しばらく電車に揺られてからオレたちは最寄りの駅で降りる。
 それから十数分歩いて目的の場所についた。
「いつかカズときてみたかったんだ」とユキが言った。
「オレも同じことを思ってた」とオレは言った。
 ユキは案内所で大人二人分のチケットを買った。
 二人でゲートをくぐり、もらった地図を広げて互いに思い思いの場所を指差す。
 しかし不思議とオレたちの指は毎回同じアトラクションのところで重なるのだった。
 次々と現れ出るエイリアンを撃ちたおしてユキが銃口に息を吹きかける。
 ジェットコースターの安全ベルトを降ろしながら「全然平気だよ」と呟くユキを見てオレは笑う。
 コーヒーカップを三千回転させられて目を回すオレを見てユキが勝ち誇ったように「ふふん」と鼻を鳴らす。
 メリーゴーランドに乗ろうとするとスタッフから「兄弟ですか?」ときかれた。オレは真顔で「恋人です」と答え、ユキは照れ笑いを浮かべながら「彼氏です」と答えた。そして二人で一頭に跨った。不思議そうにしているスタッフの顔が笑えた。
 お化け屋敷に入ると途端にユキの足が止まった。「自分で入りたがったくせに」とオレが冷やかすとユキは繋いだ手にぎゅっと力を込めてきた。反抗のつもりらしい。しかたないからリードしてやろうと前を歩いていたオレはユキより大きな悲鳴をあげて屋敷の外まで走り抜けていた。夕焼け色に染まった外の光を浴びながら、なんて様だと互いに腹を抱えて笑い合った。
 観覧車に乗って、暮れゆく世界に視線を放った。
「そろそろ、帰ろっか」
 ポツリとユキが呟く。
 そしてすぐに言葉を続けた。
「夏祭り」
「ああ」
「いきたいね」
「ああ」
 オレたちは遊園地をあとにする。
 そして電車に乗り込み、昨日と同じく終点まで進んでからまた近くのホテルに泊まった。
「今日も、夢を見ているみたいに幸せだったよ」
 ベッドに横になり、ユキはそう言って眠りについた。
 それは幼い頃からユキが言っていた口癖のようなもので。それがそういう意味なのか、オレはようやくすこしわかった気がした。

          †

 そんなふうに、オレとユキは離れてしまった二年余りの空白を埋めるように、いろんなところを二人で巡って日々を過ごした。
 日が暮れるまで遊び回って、日が暮れるとその場を後にし、ホテルで一緒になって眠った。
 町から遠ざかる電車に乗って。吹き込んでくる現実の風を締め出すように互いの名前を呼び合った。
 ユキと共に重ねる時間は幸福そのもので。ユキも同じ気持ちであることは既に彼女の表情が十分代弁しているのに。それでも彼女はその気持ちをあえて言葉にしていた。
「わたしは今日も夢のように幸せだった」と。
 オレは思っていた。
 ユキもきっと思っていた。
 永遠に、こんな日々が続いていけばいいのに、と。
 なにもかも忘れて。全部のしがらみをリセットして。現実から解き放たれて。今の幸せが、ずっと。続けばいいのにと。
 二人でいきたいと願った夏祭りが近くで行われることを知ったのは、ユキの結婚式が予定されている二日前のことだった。

          †

「どう? 似合う?」
 花柄の浴衣に着替えたユキが首を傾げる。
「ああ」
 オレは慣れない甚平に袖を通しながら頷いた。
「それだけ?」
 不満げに頬を膨らませたユキがクルリとその場で回ってみせる。
 後ろで括った黒髪がエアコンの風を流して踊っていた。
 浴衣の隙間から覗ける白い腕が差し込んでくる夕焼けに映えていた。
 キレイに外見を整えながら剥き身の美しさでユキがおどけていた。
 オレはやれやれとため息を吐きながら言った。
「世界にダイヤモンドの雨が降っても迷わずおまえに手を伸ばしちまいそうなくらいにキレイだよ」
「よろしい」
 ニコリと笑って、ユキは言う。
「でも、どうせなら化粧もしたかったな」
「化粧なんてしなくていいよ」
「カズは女の子の化粧には反対派?」
「そのほうが見慣れてるって話。幼なじみ相手に今更化けなくてもいいだろ」
「それもそうか」
「だいじょうぶ。そのままで十二分にキレイだよ」
「もうわかったって」
「金魚とまちがえておまえのことを掬っちまいそうだ」
「はい、わかりました。わかりましたので、もうそのへんにしてください」
 ユキの着付けを担当した店員が可笑しそうに笑っていた。
「まるで恋人みたいね」と呟く店員の前で指を絡めて、オレたちは店を出た。
 車通りのない一本道。電線に吊るされた提灯には橙色の明かりが灯り、世界を夕焼け色の中に閉じ込めている。
 向こうからは陽気な祭囃子がきこえてくる。
 オレたちはどちらからともなく歩み出し、そしてどちらからともなく立ち止まった。
「…………」
「…………」
 ――――これ以上進んでしまったら、もう、もどれない気がした。
 おかしな話だ。どこにももどる必要なんてないのに。どこにももどる場所なんてないのに。
 ずっといきたかったはずなのに。二人でいきたかったはずなのに。
 期待と同じだけの不安が入り混じってしまっている。
 オレたちの思い出は、ここで行き止まってしまっている。
「…………カズ」
 ユキがオレの名前を呼ぶ。
 そして絡め合った指をゆっくりと解いていく。
「…………たのしもうな、夏祭り」
 オレはもう一度ユキの手をしっかりと握りしめ、そして夏祭りの中へと踏み出した。
 立ち並ぶ屋台からは香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられ、熱気と活気にもまれてユキの顔はすぐに期待一色に染まった。
 きっと、オレもユキと同じ顔をして笑っていたと思う。
 同じサイズのわたがしを食べながら、オレたちは幾度となく夢想したあの日の続きを紡いでいく。
 射的でまったく狙いを定められないユキにコツを教える。脇を締め、遠くに視線を放ったユキは何度目かの挑戦で見事に景品を撃ち落とした。吹けばピーヒョロ音を鳴らして伸びるやつ。名前は知らない。
 オレは託された最後の一発で同じのを撃ち落とした。
「カズならもっといいの狙えたんじゃない?」
「バカ言え。これ以上のものなんてあるかよ」
 オレたちは提灯に照らされた人混みの中をピーヒョロ練り歩く。
 金魚掬いはユキのほうが断然うまくて。「その腕じゃわたしのことなんて掬えないね」なんて言われて。ムキになって挑んだ輪投げの結果はどちらも十円ガムに変わって。休憩がてら、広間でやっていたステージを一緒にぼーっと眺めて。お腹が空いたと焼きとうもろこしに手を伸ばして。かき氷に眉間の奥をやられて。ケラケラ笑うユキの口にも同じ量を放り込んでやって。悶えながら文句を言うユキのかき氷もすこしもらって。冗談で言ってみた「間接キス」が思ったよりマジな感じになって。恥ずかしく思いながらも嫌な気はしなくて。たのしくて。可笑しくて。
 星が瞬いて、いつの間にか空が群青色に変わっていることにも気づかないくらいに、夢中で。
 本当に、夢を見ているみたいな。あるいは、夢と現実の境にいるみたいな。
 まちがいなく、疑いようもなく、百パーセントの幸福の中にオレたちはいた。
 やがてどこかでピーヒョロ音がして。互いに顔を見合わせて。どちらが吹いて鳴らしたわけでもないことに気づいたとき。
 夜空に七色の花火が打ち上げられた。
 爆音と共に彩りがはじけて、ユキの横顔が世界と同じ色に染め上げられる。
 思わず冗談すら言えなくなってしまうほどに、ユキの姿がこの上なく美しく見えてしまった。
 装いも。容姿も。その内にある心さえも。
 すべてが完璧な状態にある幼なじみがオレの隣にいた。
「カズ」
 色を変え、形を変えて打ち上がり続ける花火を眺めながら、呟くようにユキが言う。
「わたし、ずっとカズに言いたかったことがあるの」
 圧倒的なまでの美しさでそこに立つユキを前にして、相槌の鳴らし方など忘れてしまったオレにはただ、彼女の言葉を待つことしかできなかった。
「こんなわたしのこと、好きだって言ってくれて、ありがとう」
 百万通りの色彩に照らされて。百億通りのセリフから濾過された言葉をユキは紡ぐ。
「わたし、このまま死ぬまでカズと一緒にいたいなって思う」
 雑踏のあらゆる喧騒が遠のいて。花火の音さえミュートにされたみたいにきこえなくなって。
 ユキの言葉が。ユキの言葉だけが、オレの耳を満たしていく。
「わたしも好きだよ。カズのことが。世界でいちばん。カズが好き」
 オレは無言のままに理解する。
 ――ああ、これは、ちがうのだ、と。
 オレをこの上ない充足に至らせるこの言葉は、けれど、たぶん、最後にそっと枯れていく。
「こんな気持ちを知ってしまったら、もう、わたしはカズのことが忘れられない。前みたいにぼやけた面影じゃなくて。ハッキリと、クッキリと、カズの顔が浮かぶよ。浮かび続けるよ。でもそれは、絶対に嫌じゃない。怖くない。カズのことを思い出す度に、きっとわたしの胸には今この瞬間と同じ幸せが滲んで、胸の空っぽを埋めてくれるんだ」
 オレはユキの言葉を遮ることができない。
 なぜなら今、口にされているのはユキの言葉で。ユキが今日までずっと考えて、秤にかけて、口にすると決めた想いだから。
 いつかのように、それをオレの勝手な気持ちでないがしろにはできない。
「だから、カズ。ありがとう。おかげでとっても幸せな夢が見られた。まちがいない。今、幸せなわたしは、きっと十年後も幸せだ」
「…………ああ、そうだな。まちがいない」
「花火、幻みたいにキレイだね」
「本当に」
 オレはユキのほうを見続けたままそう答えた。
 あまり長いセリフを口にしていたら、声が震えてしまいそうだった。
「わたし、悪いやつかな?」
「おまえが悪かったことなんてあるか」
「あるよ」
「バカ言え。全部夢なんだから、むしろおまえはもっと悪くなったっていいんだよ」
「そっか」
「おまえは、だから……オレだって。なにをしたって、言ったって、許されるんだよ。だってこれは、二人で見た、二十年ばかしを凝縮した、幸せな長い夢なんだから」
「うん」
 ゆっくりと振り向いたユキと目が合う。
 そのとき、オレはいったいどんな顔をしていたのだろう?
 もしかするとユキと同じ顔だったりするのだろうか?
 だとしたら、それはなんとも、夢の終わりには最適な表情だった。
「わたしたち、なんだかんだでいつか付き合って、なんだかんだで結婚しちゃいそうだね」
「なんだかんだでそのまま死ぬまで一緒にいたりしてな」
「ずっと好きだったよ、カズ」
「絶対、幸せになれよ、ユキ」
 極彩色に染まった世界の片隅で、オレたちはだれにも秘密のキスをする。
 それはオレにとって最初の口づけで。やがて夢から覚めるユキが現実へと持ち帰らずに済む最後のウソだった。
 それでいいと思った。
 それがいいと思った。
 だってこのキスはウソだけど、ウソじゃない――ユキがくれた本当の気持ちだから。
「――――」
「――――」
 時間の概念さえ溶けていく永遠の数秒。
 オレたちの間に引かれていたのは夢と現の境界線。
 そして、ユキの唇だけが、ゆっくりと、オレから離れていく。
 口の中にぼんやりと残るわたがしの甘さを、オレは一生忘れられそうになかった。
 やがて花火が終わり、祭囃子もなくなって。オレたちの頭上には静まり返った夜空があった。
 提灯の明かりがうすぼんやりと光る夜道を、オレたちは無言で帰っていった。
 そしていつものようにホテルに泊まり、いつものようにひとつのベッドで横になって二人で眠った。
 ユキのケータイはランプの点滅をやめていた。
 その日見た夢の中でユキと出会うことはなかった。
 きっともう、会うことはないのだろうと思った。
 翌日、目を覚ますとユキの姿はなかった。
 机上に置かれていたまとまった額の金を見て、オレは命を絶つことに決めた。