なにがあったのか。
 どうして夕貴に殴られていたのか。
 ユキはたくさんの質問をしてきた。
 オレはなにも答えなかった。
 見えてきた駅のホームへと入り、やってきた電車に乗り込もうとする。
 そこではじめてユキの手がオレから離れた。
「……いけないよ、カズくん」
 肩から下げていたカバンを両手に抱えながら、ユキが言う。
「もう遅いし、わたし、帰らないと」
「どこに?」
「え?」
「どこに帰らないといけないんだ?」
「どこって、夕貴と一緒に暮らしてる家に」
「帰りたいか?」
 オレは手を差し出したままユキに尋ねる。
「あの場所に、帰りたいか?」
 ユキは眉をしかめながら答えた。
「……帰らないと、いけないの。わたしはもう、夕貴と幸せになるって決めたんだから」
「それでおまえはいつ幸せになれるんだ?」
「……」
「十年経てば、おまえの中にいる幻影は消えるのか?」
「……消えるよ、きっと」
「ウソだ」
 消えるわけない。
 だって、オレはもう確信してしまっている。
 ユキが夕貴を――あるいは他のだれかを好きになって、この手が決して届かないところまでいったとしても。オレにユキのことを忘れて生きていくことなどできはしないと。
 オレにとってユキは、たったひとりのかけがえのない相手だったんだ。
 そして、それは、ユキだって。同じだったはずなんだ。
 なのに、オレはその気持ちを信じることができなかった。
 たしかにわかり合えていたはずなのに。オレたちの間にある見えない繋がりはあの日に切れてしまったのだと思い込んで、すべてを思い違いだと決めつけて生きてきた。
 ユキはもうオレのことなんてどうでもよくなったんだと。
 でも、ちがう。
 ユキの中にはまだオレがいる。
 オレに何度傷つけられても――夕貴と一緒になっても――オレという存在が消え去ってしまっても――忘れてしまうことができずに、オレのことをぼんやりと覚え続けている。
 なら、十年経ったってその幻影が消えることはない。オレが歳を喰われてもユキのことを忘れて生きていくことができなかったように。幸せだったユキとの思い出を未練がましく夢に見続けて現在を憂うしかなかったように。
 十年経っても、ユキは幸せになることなんてできない。
 十年でも、二十年でも、ユキはオレとの時間を夢に見続けてしまう。オレがそうであるように。
「……ひどいよ、カズくん」
 声を震わせてユキが呟く。
「わたしだって、わかってる。顔も知れないあの人の面影を忘れ去ることなんてできないって。でも、それじゃダメだから。いつまでも現実感のない人間でい続けちゃうことになるから。がんばって忘れようとしてるのに」
「忘れなくていい」
「……え?」
 駅舎に発車のベルが鳴り響く。
「オレが、おまえの中にいる幻影の代わりになってやる」
 見つめ合った目を、決して逸らすことなく、オレはユキに言う。
「似てるんだろ? オレ、そいつと」
「……カズくん、なに言ってるのかわかってる?」
 駅員のアナウンスがきこえて。電車のドアがゆっくりとしまっていく。
 あの日と逆だった。
 あの日は夏祭りに誘ってきたユキの意図をオレがきき返して。今では名前も思い出せない友達が廊下で待っていて。そんなやつらを待たせないようにと。冷やかされないようにと。オレはユキの誘いを断ってしまった。
 オレの心情も。周囲の喧騒も。全部わかったうえで、ユキはオレに話しかけていたのに。
 いつもオレに困らせられてばかりだったユキが、オレを困らせてまでなにかを言おうとしていた。
 そこに特別な意味があることも、だからオレにはわかっていたのに。
「…………ごめん、でも、わたしには…………」
 回りくどい言葉はいつだって、時間に追い立てられて望んだ答えにたどり着かない。
 だから。オレはあらゆる雑多な感情を飲み込んで、たった一言。
 目の前にいるユキに向かって、言った。
「オレはおまえが好きだ。ユキ」
 ユキの目が大きく見開かれる。
 そしてオレたちを遮っていたドアが閉まり、電車はどこだか知れない場所へと向かって走り出した。
 流れていく夜の景色。
 遠ざかっていく駅のホーム。
 閑散とした車内に響くアナウンス。
「…………」
 オレはぐったりとシートに腰を下ろす。
 するとその隣に、ユキがストンと座った。
「あーあ、乗っちゃった」
 オレたちの手は、たしかに繋がっていた。
 夏の熱気と疾走で汗ばんだ二人の手はべたついていて。バカみたいに公園を走り回っていたいつかの夏みたいだった。
「いつから?」
 ぼーっと中吊り広告を見上げながらユキが言う。
「いつから、好きだったの?」
 オレは素直に答えた。
「いつからだろうな。でも、きっとそうだ」
「えー。なにそれ。ハッキリしないな」
「なら、言葉を変えてもいいか?」
「今更だなあ」
「オレはおまえが大事なんだ。世界中のなによりも」
 あの日言えなかった言葉を。ずっと言えなかった想いを。
 オレは素直にユキに向かって伝える。
「それなら、いいかな。変更を受けつけても」
 ユキは口に手を当ててクスクスと笑っていた。
 その顔は本当に可笑しそうで。その顔だけをずっと見ていたいと思ったのに。
 彼女の笑みにふいの影が差し込む。
「ああ、カズくんがせめてあと十歳早く生まれてきてくれてたらなあ」
 わかっていた。ユキとオレの間にある歳の差が、ユキが昔のように百パーセントの笑顔を零せない原因になることを。
 だからオレは言った。
「子ども扱いしないでいい」
「でもなあ」
「言っただろ。オレはおまえの中にいる幻影と似ている。なら、オレがその幻影を完璧に演じきってやる。だからユキはここにいるオレじゃなくて、その幻影にずっと言えなかったりできなかったりしたことをオレにすればいい」
 ユキの中にいる幻影はオレ自身であり、それを演じることにはなんの抵抗もなかった。
 オレは普通にオレとしてユキの隣にいるだけで、違和感なくユキの中にいる幻影に成り代わる自信があった。
 だから、あとはユキの気持ち次第だった。
「おまえが好きだったやつの名前でオレを呼べばいい」
「……カズくんは、それでいいの?」
「ああ」
「……名前、思い出せないの」
「じゃあ、とりあえず、カズでいくか?」
 ユキは口を開けて、声にしないままその名前を呼んでみる。
 そして驚いたような顔をしてから、とても安らかな表情で微笑んだ。
「……うん。思い出せないことにしておいたほうがよかったくらい、しっくりくる」
 そんなことを呟いて、ユキはもう一度オレに尋ねる。
「じゃあ……カズ。カズはいいの? わたしなんかにそんな優しくしても。わたし、カズがちょっとビックリするくらい、カズに言いたいことやカズとしたいことがいっぱいあるんだよ?」
「ああ。オレもある。たぶん、同じだけある」
「そっか。それは、夢みたいだ」
 満足げに頷いて、ユキがコトンとオレの肩に頭を乗せる。
 子供の身体に寄りかかるユキは足を斜めに投げ出してずいぶんと不格好になっていたけれど。オレが精いっぱい背伸びをして彼女の頭を持ち上げてやると、ユキはうれしそうに微笑むのだった。
 そして、電車の小さな振動とやわらかい息遣いに身を預けながら、オレたちはどちらからともなく言葉を捨てて、互いに幸せな夢を見るように目を閉じるのだった。
 オレはその日、毎晩くり返し見ていた悪夢から解き放たれた。

          †

 オレが目を覚ましたのは、車内に終点のアナウンスが流れた頃だった。
 ユキは隣でまだ心地よさそうな寝息をたてていた。
 その寝顔を名残惜しみながら、オレはユキのことを揺り起こす。
「……うーん」
「起きろ、ユキ。次で下りるぞ」
「……ああ、カズ」
 寝ぼけ眼でオレを見つけたユキはうれしそうに口元を緩める。
 そしてオレの肩に頭を乗せたまま言った。
「ねえ、カズ。好きって言って」
「好きだよ、ユキ」
 ユキはうれしそうに「ふふん」と鼻を鳴らす。
 そんなユキを見て、オレの心も満たされていく。
 オレたちは電車を降りた。
 そこは古びた無人駅で。駅を出ても外にはシャッターを下ろした店ばかりが立ち並び、コンビニさえしばらく歩かなければ見当たりそうになかった。
「おにごっこ」
 と、言うが早いか。
 街灯も疎らな歩道をユキが走り出す。
 オレは夢中でユキを追いかけた。
 コンビニの手前でユキを捕まえて。互いにくだらないと笑い合う。
「あはは!」
 大きな声を出して笑うユキの顔には幸せが滲んでいて。オレは十年後なんて先のことじゃなくて、今目の前にいるユキを幸せにし続けようと心に誓った。
「おまえ、好きだよな。アップルデニッシュ」
 ユキがコンビニで買ったパンを指してオレは言う。
「カズだって。背伸びしちゃって」
 ユキはオレが買ったブラックコーヒーを指して頬を持ち上げる。
 こんな会話は過去をなぞる夢の中で何百回と繰り返している。
 それでも、目の前にいるユキと言い合うことで、この時間が夢ではなく現実なのだと実感し、古びたやりとりも新鮮に思えた。
「さて」
 オレはこれから向かう先を考えて辺りを見回す。
 相変わらずの閑散とした田舎町で一際目を引くネオンの看板があった。
「いこっ」
「あ、おい」
 目を逸らそうとしたオレの手を引いてユキが看板の示す先へと入っていく。
 そしてフロントで受付を済ませ、部屋のカギを指の間で回しながら興奮した様子でユキは言う。
「わたし、こういうとこ初めて入ったかも」
 狭いエレベーターで二人、なんとなく階層表示を見上げながら、数秒の沈黙。
「カズは?」
「はじめてに決まってるだろ。バカ」
「そう。よかった」
 恥ずかしくて俯きそうになる顔を上げてオレはユキを見る。
 そんなオレの額を指でポン、と弾いて、ユキはエレベーターを降りた。
 オレは額をさすりながらユキのあとについていく。
 部屋の前で立ち止まったユキは、期待と不安の入り混じった顔でカギを開けた。
 中には大きなベッドがひとつと、あとはモダンな雰囲気の照明がいくつかあるだけだった。四方は質素な壁に囲われていて、バルコニーには出られそうもない。
「なーんだ。案外落ち着いてるんだ」
「むしろなにがあると思ってたんだよ?」
「木馬とか、ゴーカートとか、大きなコーヒーカップとか」
「遊園地かよ」
「あるところにはありそうじゃない?」
 ユキは部屋を見回し、風呂場の戸を開けて「おおっ」と声をあげた。
「ジャグジーついてるんだって! こっちは妄想どおり!」
「そりゃよかったな」
「できればこの浴槽がジェットコースターになってて夜空に飛んでいくと最高なんだけど」
 オレはため息をひとつ吐いて、言った。
「いくか? 遊園地」
「カズはいきたい?」
「ああ。そうだな」
「うん。じゃあ、いきたい」
 そういって、ユキは笑うのだった。
「風呂、一緒に入るか?」
「え?」
 ユキはポカンと口を開けて立ち尽くす。
 そしてもじもじと身をくねらせながら顔を赤らめた。
 いつかは自分から誘ってきたくせに。今は立派に恥ずかしがっているらしい。
「…………いいよ」
「冗談だよ」
 互いのセリフが重なって。一拍の沈黙が訪れた。
「……え?」
「……もう!」
 ユキが不貞腐れた様子で脱衣所のドアを閉める。
 すこし、もったいないことをしてしまったかもしれない。
 そう思うと同時に“そういうこと”はまだ先でもいいかなとも思いながら、オレはベッドに腰を下ろした。
「よかったね。なにもかも願いどおりだ」
 ベッドの下から毛虫のようにニョロリと現れ出た魔女が言う。
「むむっ。今、わたしのこと失礼に定義したでしょー?」
「してないよ。それより何の用だよ? オレがボコスカ殴られてるときは静観決め込んでたくせに」
「いやいや、純粋におめでとうって言いたくて。ずっと好きだった幼なじみをウソ吐きの子供から取り返して。今のおにいちゃん、とっても幸せそう」
「純粋な『おめでとう』にしては、いやにトゲが垣間見えるな」
「あはっ。それは気のせいだよ」
「まあ、おまえの言うとおりだよ。二十年生きてきて、たぶん、オレは今がいちばん幸せだ。」
 昔のようにユキと一緒にいられて。昔より素直に自分の気持ちを伝えることができている。
 大事な相手を、ちゃんと大事にできている。
「わたしのおかげ?」
「……それは、すぐに頷くことはできないけど、まあ、そういう側面もあるんだろうな」
 魔女に歳を喰われなければ、オレがもう一度ユキに会うことはなかった。
 もし、偶然どこかで再開したとしても、今ほどユキとの仲を修復することはできなかっただろう。
「おまえに歳を喰われたおかげで今がある。そう、言えなくもないかもな」
「今って、お姉ちゃんに隠し事をし続けてる今?」
 魔女がレインコートの裾を広げながら首を傾げる。
「……やっぱり、トゲ、あるよな?」
「そうかな?」
「オレがなにを隠してるっていうんだ? オレはもう二度とあいつに本音を隠さないって決めたんだ」
「隠してるじゃん。おにいちゃんが本当はおねえちゃんの記憶の中にいる幻影そのものだってこと」
 魔女が言っていることは的を射ていた。
 たしかにオレはオレがユキの中にいる和樹だとは伝えていない。
「……なら、どうしろって言うんだ? 真実を話せばオレの存在は歳喰いの呪いで水泡になって消えちまうんだろ?」
「そうだね」
「オレはオレにできる限り正直な態度でユキと向き合ってる」
「うん。だからわたしは責めてるわけじゃないって言ってるでしょ」
 ただ、と魔女は口の中に空気を溜めてぶうーと吐き出す。
 そしてばふんとベッドに飛び込んで、その反発をたのしみながら言うのだった。
「おにいちゃんがやってることも、結局、あの子供と同じなんじゃないかって」
「浩太のことか?」
「うん」
「オレとあいつはちがう。あいつはユキのことを騙してた。隠し事はあったとしても、あいつみたいにユキを騙したりはしてない」
「五十歩百歩なんじゃない? そりゃー、ちがうところくらいあるよ。そのうえで、人と人の差異はなにを要点にして語るかでしょ」
 やはり見た目に似合わず魔女はもっともなことを口にする。
 けれど今回はオレにも言い返すことができた。
「その差ってのが、つまりユキの気持ちだろ。あいつは夕貴のところにもどろうとせず、オレと一緒にいてくれている。それこそがあいつの気持ちで、オレと浩太にとっての差異であり、オレとユキにとって大事なことだろ」
「うん。そのとおりだね。まさしく」
「じゃあ、いいじゃないか」
「うん。だからわたしはホントに責めてないんだって。今のおにいちゃんの顔はほとんどわたしが見たかった顔になってるからさ。このままがんばってほしいなって」
「今のオレはどんな顔をしてる?」
「鏡でも見てみれば?」
 そんな言葉を最後に、魔女はまた世界のどこかに潜伏した。
 やがて。風呂からあがったユキが脱衣所から出てくる。
 彼女は脱衣所にあったというオレンジのバスローブを身に纏っていた。
「どう?」
 くるりとその場で一回転するユキにしばし見惚れて、オレは「キレイだよ」と言った。
 ユキは自分からきいてきたくせに恥ずかしそうに俯いた。
「顔が赤いぞ」とオレが言うとユキは「のぼせただけだよ」と返した。
 そういうことにしておいて、オレはユキとバトンタッチして脱衣所の戸を閉める。
 そして鏡に写った自分を見て、思わず笑ってしまった。
 そこにいたのは、殴られてぷっくら顔を腫らしながら、緩んだ口の端から笑みをこぼし続けているオレだった。
 魔女が言うように、目の前にいるオレはちょっと気持ち悪いくらいに幸せそうで。今が人生でいちばんのときだと知っている人間の顔で。バカみたいにたのしそうで。これ以上なんてないはずなのに。
 その表情の奥には、淡い影が覗けていた。
「…………」
 オレは湯に浸かり、顔を洗ってその影を落とそうとする。
 けれど何度擦ってもその影が流れ落ちることはなかった。
 幸せな現状に酩酊している顔に下りた影――――その原因をオレは知っている。
 それはたぶん、魔女に指摘された一点の後ろめたさに起因している。
 ――オレはまだ、ユキに隠していることがある。
 その事実が、オレの中に芽生えさせていた。
 ユキと過ごす“これから”への不安を。
 そして予感させていた。
 いつかくる、この逃避行の終わりを。
「…………オレは、今度こそ、ユキを…………」
 風呂から上がり、鏡の前で表情の練習をしてユキのところへともどる。
 ユキの前であの影を出さないように、精いっぱい幸せを感じて笑ってみせる。
「カズ、座って」
 ベッドに腰かけたユキが隣のスペースをポンポンと手で叩く。
 オレが腰を下ろすと、冷たい手がオレの頬を撫でた。
「……痛い?」
 絆創膏を手にしたユキが、オレの顔にそれを貼りつけていく。
「痛くないよ」
 本当はそこそこ痛かったし、風呂の湯もけっこう傷口に染みたけど、強がった。
 痛みよりも、昔みたいにユキに世話を焼かれている状況が心地よかった。
 心地よくて。幸せで。こんな時間がずっと続けばいいと思っているのに。
「……」
 ……くそっ。
 魔女にあんなことを言われたせいで、ちらついてしまう。
「今」と「永遠」の間にある隔たりが。決して乗り越えることのできない現実という名の高い壁が。
「…………カズ?」
 気がつくとオレはユキの手を握りしめていた。
 その手を放しそうになって、オレは彼女の指に指を絡める。
「なあ、ユキ。遊園地もいいけどさ。よかったら、一緒にどこかの夏祭りでもいかないか?」
「夏祭り?」
「ああ。どこでやってるのかは知らないけど、時期だろ?」
「……お祭りか」
 呟いて、ユキはしばらくの間沈黙した。
 なにか、考えているようだった。
 なにを考えているのかはわからない。
 ただ、なにかを天秤にかけているのはわかった。
 いきたくないはずはない。
 だって、あの日それを誘ってくれたのはユキのほうだったから。
「うん。そうだね」
 やがて、ユキはやわらかな微笑みと共に頷いた。
 そこにウソの色はない。
 ユキはちゃんと本心からその言葉を口にしていた。
 大丈夫だ。今のオレとユキの心はちゃんと繋がっている。互いに握り合ったこの手のように。
「ねえ、カズ。電気、消していい?」
「明かり、つけとかないと眠れないんじゃないのか?」
「今なら大丈夫な気がする」
 そういってユキは部屋の明かりを落とした。
「……うん。大丈夫っぽい」
 ユキはオレの手を引っ張って自分の横に寝転ばせる。
 そして背後からオレの前に両手を回し、そのままオレの身体をぎゅっと抱き寄せた。
「こうしていると、本当に。夢を見ているみたい」
「なあ、ユキ。その夢は、ちゃんと幸せか?」
「うん。このうえなく。覚めなくても……覚めないほうがいいってくらいに」
「なら、きっと覚めなくていいんだよ」
「うん」
「見たいものを現実って呼んで。幸せなほうに向かえばいいんだ」
「うん」
 オレを抱くユキは、まるで必死にオレを手放すまいとしているようだった。
 そんなにキツく抱きしめなくても、オレはどこにもいったりしないのに。
 ユキが望む限り、オレはずっとそばにい続けてやるのに。
「ねえ、カズ。わたし、今、ちゃんと幸せだよ」
 耳元でユキの声がする。
「うん。わたし、今、ちゃんと幸せだ」
 くり返し呟くユキに、オレは言った。
「オレもだよ、ユキ」
「ありがとう、カズ」
 そうして、暗闇の中、オレたちは互いの名前を呼び続けた。
 まるで眠ることを恐れるみたいに。目を覚ましたときにすべてがなくなってしまっている可能性に怯えながら。互いに今この瞬間の幸せを感じ合っていた。
 ユキのケータイが暗い部屋でランプを点滅させていることには気づかないフリをしながら。