電話を切ってから、オレは日が暮れるのを待った。
 それはオレが「いらないもの」として切り捨てた自分の人生としっかり向き合うために必要な時間だった。
 空が夕焼け色に染まり、だんだん紫がかってきた頃、オレはタワーマンションの前で待ち人と出会う。
「…………はあ」
 大きなため息をひとつ吐いて、夕貴はあの工事現場へいくよう顎で示した。
 いつかと同じく無言の時が流れた。
 工事現場の周囲に人通りはない。
 積まれた木材の上にドサリと腰を下ろして、夕貴は重たい口を開いた。
「なにか用かな? もうユキのところにはくるなって、忠告したはずなんだけど」
「ユキじゃない。オレは……おまえに話があってきたんだ」
 白々しく首を傾げる夕貴に向かって、オレは言う。
「倉持浩太」
「……」
「それが本当のおまえだろ、十二歳」
 しばらくの沈黙があった。
 夕貴は――浩太は観念したように立ち上がって首を横に振った。
「本当の自分がなんだっていうんだ?」
 浩太はオレのことを見下ろして肩を竦める。
「どうして家にいたのかはきかないよ。流れはだいたいわかる」
「おまえのかあさん、おまえの絵や写真を飾り続けてたぞ」
「そう」
「おまえがいたって事実が世界からなくなっても、おまえのことを覚えていて、ずっと探し続けてたぞ」
「ああ。知ってるよ」
「どうしてそんな、平気な顔をしてられるんだ?」
「子供の説教なんてききたくない」
 顔色ひとつ変えないままに浩太は言う。
「息子をなくして弱った母親に触れてなにか思ったようだけど、カズ。キミに僕を責める資格なんてないだろ?」
 そうだ。オレも魔女に歳を喰わせて、浩太と同じくこの世界から元の自分を消し去った。
 浩太だけを咎めるのはまちがっている。
「オレも一緒だ。わかってる。そのうえで、オレもおまえも、認めるべきなんだ」
「なにを?」
「魔女に歳を喰わせたり、与えられたりして、自分の人生を放棄したのはまちがいだった」
 オレはユキの前から逃げ出さず、正面から向き合ってちゃんと想いを伝えるべきだった。
 魔女に頼って、自分の存在をなかったことにしたのはまちがいだった。
 それはいろんな人を不幸にする選択だった。
「前に言っただろ、カズ。たしかに僕もキミも魔女に頼った。だけど僕とキミは違う。キミは人生を投げ出すために魔女に頼った。でも僕は新しく人生を始めるために魔女に頼ったんだ」
 そう。動機に優劣をつけるなら、オレよりも浩太のほうがたしかに立派だ。
 でも、どんなに優れた動機も結果が伴わなければ意味がない。
「オレもおまえも、結局周りにいる大事な人間を不幸にしている」
「僕にとって大事なのはユキだけだ。ユキさえ幸せにできるならそれでいい」
「できないだろ!」
 夕貴をやっているときはあんなに大人びて見えたのに。
 薄皮一枚剥がしてみればどうだ。
 浩太が並べているのは焦点距離が短すぎる理屈ばかりだ。
「ユキは知ってるのか? おまえがどんな手段で金を得て、あのマンションを契約して、結婚資金に充てようとしているのか」
 毎朝スーツに着替えて家を出て、夕方を過ぎた頃に帰ってくる銀行員。
 ……冷静になって考えてみればわかる話だった。
 十二歳の小学生に投資とか外資とかの話ができるわけがない。そもそも入社試験にだって受かるはずがない。知的な雰囲気を装ってみたところで浩太の学力は“本当の”歳相応なのだから。
 浩太は銀行員のフリをしているだけで、なんの職も手にしてはいない。
「ユキは、おまえが吐いているウソを本気で信じてるんじゃないのか?」
「ああ。そう思うよ。そうでないと困る。それで? ウソを吐いているからユキを不幸にしてるって言いたいのか?」
「あたりまえだ。本当のことを知ったとき、ユキはまちがいなくショックを受ける。正しくない方法で手に入れた金によって自分の幸せが保たれていたことを知って絶望する。おまえのウソがユキを傷つけるんだ」
「なら問題ない」
 悪びれる様子もなく浩太は言う。
「僕はこのウソを一生バラさない」
「ユキをずっと騙し続けるっていうのか?」
「ああ。そういう覚悟をして、僕は大人になったんだ」
「そんなの、全然大人になってるとは言えねえよ」
 こいつは――目の前にいる夕貴という人間は――背伸びした子供が大人のフリをしてできあがったハリボテだ。
 魔女の力を借りて子供が大人に化けているだけだ。
「おまえはユキを欺くことに対する罪悪感とか、不安とか、そういうものに耐えられる自分になることで大人になった気でいるようだけどな。結局おまえは大人のだれかに助けてもらわないとひとりでユキを支えてやることもできない子供じゃないか」
「僕がいつ他の大人を頼ったっていうのさ?」
「今日の電話」
「……」
「事故にあったから金がいるとか、そういうウソをいろんな人に吐いて、テキトーな口座に振り込ませて、金を騙し取ってるんだろ?」
 下りた沈黙は肯定を暗示していた。
「おまえにはまだ働く能力がないから、そういうやり方でしか金を得ることができないんだ。それは結局、うまいこといって親に小遣いをせびっているのと変わらないじゃないか。他人の力で生かされているくせに、覚悟とか、薄っぺらいんだよ」
 オレは浩太の目を見てもう一度ハッキリと宣言する。
「おまえにユキを幸せにすることはできない」
「うんざりだ」
 胸ぐらを掴まれて、オレの身体がグイと宙に晒される。
「ずっと彼女を……ユキを泣かせてきたやつが、今更ユキの幸せについて語るなよ」
 浩太の表情に余裕の気配はなくなっていた。
「言い返すことができないから殴るのか?」
「ああ、そうだよ」
 浩太の拳が頬を抉った。
 オレの身体が地面に叩き落され、バウンドする。
 脳がグラリと揺れるのを感じた。
「がふっ⁉ ごほっ!」
 蹲るオレの胸ぐらを掴んで持ち上げながら、浩太は言う。
「僕に大人としての能力が欠如していることくらい、キミに言われなくてもわかってる。僕のウソがいつかバレて、ユキが悲しむこともわかってる。僕が正しくないことくらい、だれに言われなくてもわかってるんだよ」
 痛切な思いに顔を歪ませながら浩太は言葉を紡いでいた。
「でも、じゃあ、あのままユキを放っておけばよかったのか? ふらりとどこかへいなくなって、大学の授業にもまともに出られなくなって、すこしでも目を離したら世界からいなくなってしまいそうな彼女のことを、まだ自分には支える力がないからって理由で、見放しておけばよかったって言うのかよ⁉」
 みぞおちに鈍く重たい痛みが押し込まれる。
 殴られたのだと気づいたときにはもう、オレは地面に投げ捨てられていた。
「僕はそう思わない。すくなくとも彼女には――ユキには――だれかの支えが必要だった。ずっとそばにいて、彼女の存在をただただ肯定してやれるだれかが必要だった。そしてだれでもいいなら、それは僕だっていいはずだ」
「……おまえじゃ、ダメなんだよ」
「どうして⁉」
「昔のユキにあって、今のユキにないもの――それは存在感だけじゃない」
 オレは口の端から垂れてくる血を拭って言う。
「昔みたいにたのしそうに笑っているユキを、オレはまだ一度も見ていない」
「ッ……」
「ユキは言ってたよ。きっと、十年後の自分は幸せなんだろうって。だけどそれって、幸せになるまではずっと不幸だってことじゃないか。言い方を変えれば、おまえはあいつを十年も不幸にするってことになる」
「キミだって同じだけユキのことを不幸にしてる」
「ああ。だからもう、やめにする」
「……なにを?」
「ユキから目を逸らすのを」
 ユキはずっとオレの幻影に囚われていた。
 けれどそれを振り切ると言われて、オレはユキのもとから去ることを選んだ。
 でも、ユキがオレのことを忘れて幸せになるのに、十年もかかるのだとしたら。
 昔の面影を残しているオレが、ずっと一緒にいたほうが、ユキを幸せにすることができる。
「オレなら、ユキを今すぐ幸せにしてやることができる」
 昔はダメだった。
 歳をとるほどいろんなしがらみにとらわれて。素直になれず、ユキのことを傷つけてしまった。
 でも、今ならもう、自分にとってなにがいちばん大事なのかわかっている。
 だれがいちばん大事なのかわかっている。
 だから素直にあいつと接することができるし、あいつのことをわかってやれる。
 オレのほうが、ユキを幸せにしてやれる。
「…………ふざけるなよ」
 浩太は大人の身体でオレを押したおし、馬乗りになってオレの顔に拳を落としてくる。
「今までずっとユキのことを放っておいたくせに! 今更そんな姿で出てきて、なにが『幸せにしてやれる』だ⁉ キミはまたどうせユキを傷つけて泣かせるんだ!」
 オレは浩太の拳を浴び続ける。
 浩太の怒りはもっともで。オレがどれだけ虫のいいことを言っているかも理解していたから。
 一切よけようとはせず、一方的な暴力に晒されながら、じっと浩太の目を見据えてオレは言葉を放つ。
「おまえがいないとユキはダメになっていた。実際、そうなんだろう。ユキにとっておまえは心の支えになっていた。昔も、今も」
「だったら……!」
「だからこそ! いつかその支えが寄りかかったらいけないものだとあいつが知ったとき、あいつはまたひとりになっちまうだろ!」
「ひとりになんてさせない!」
「おまえがどう思っているかなんて関係ないんだよ! 浩太!」
 オレは浩太の胸ぐらを掴んでその顔を引き寄せる。
「自分が相手にとってふさわしくない人間だと、迷惑をかけてしまう存在だと思ったとき、あいつはなにも言わずにおまえのところから去っていくぞ! あるいは、去っていかなかったとしても、その心に分厚い膜を張って、決して踏み込めないように距離をとるぞ! そうやってあいつは、ユキは、相手を尊重するために自分を遠ざけようとするんだ。こっちの気持ちなんてきかずに。弁明の余地もなく、おまえはいつか、オレと同じようにユキを裏切ることになる! あいつを悲しませている自覚もないままに!」
「ッ……!」
「それくらい、オレの失敗を見てたおまえはわかってるだろ?」
 オレだって、もしもあのときユキが自分から離れていってしまうのだと知っていたら――教えてくれていたら、きっとちがった答えを返せていた。
 二人で一緒に夏祭りに出かけて。二人で手を繋いで帰っていただろう。
 でも、ユキは肝心なところで勝手にラインを引いてしまう。
 相手の気持ちをきき出すことなく諦めて、自分の気持ちを押し込めてしまう。
 そういうやつだから、あいつとの間にウソなんてあっちゃいけないんだ。
 ちゃんと素直な気持ちであいつに曲がらない言葉を向けなくちゃいけないんだ。
 だから浩太は夕貴になって、ユキのことを尊重し続けた。
 でも、そのために浩太はユキにウソを吐き続けている。
 彼女のことを尊重するために、彼女のことを騙し続けている。
 それじゃやっぱりユキを幸せにすることはできない。
「だから、浩太。おまえはもう…………」
「うるさいッ‼」
 突き出された浩太の拳がオレの視界を揺らす。
 前歯が欠けて、切れた口元から血が流れていく。
「そんなこと、キミに言われなくてもわかってるんだよ! 和樹!」
 浩太は力任せに腕を振り下ろしながら言葉を吐き捨てていく。
「だからって、ここで『はいそうですか』なんて言って、キミにユキを渡せるわけないだろう! 歳を与えられて大人になった僕にとってはもう、ユキだけが大事な存在なんだから。ユキをなくして生きていくことなんて僕にはできない!」
「……ユキの気持ちよりおまえの気持ちなのか?」
「それのなにが悪いんだ? そうやっていつか僕の願いが彼女の願いになればいいって思うのはまちがってることなのか⁉」
「いつかって、いつだよ? 十年後か⁉」
「ああ、そうだよ! 十年でも二十年でも僕は待つよ!」
「それだけの時間を、あいつに待たせるのかってきいてんだよ!」
「本人が待つって言ってくれてるんだから、それでいいだろ!」
 そのとき、オレは理解した。
 浩太が既にオレと同じ過ちを犯してしまっていることに。
 ユキはオレが迷惑をかけても、いつもそれを笑って許してくれていた。あるいは笑わずとも、決して険悪な空気にすることなくオレを許して、そしてオレのいないところでこっそりひとりで泣いていた。
 あいつはずっと、自分の傷を見せまいとして生きてきた。
 自分の心にウソを吐いて。本心ではない言葉を口にし続けてきた。
 だから、そんなユキを幸せにしようと思うなら。
 目を向けるべきなのは。
 耳を傾けるべきなのは。
 あいつの言葉ではなく、あいつの心だ。
 もし、十年後の幸せを思い描いて。それで本当に満足しているのなら。
 どうしてあいつの言葉はあんなにも後ろ向きだったんだ?
 どうしてあいつの現実は、夢より劣ったものになっているんだ?

『このままどっかにいっちゃおうか?』
『え?』
『電車に乗ってさ。こんな田舎町からおさらばして。いきたいところにいって。したいことをして。自由気ままに旅でもしながら。だれの目も届かないところで、二人で一緒に暮らしてみない?』

 あのやりとりこそが本心で。あの言葉にこそ、オレは即答するべきだった。
 だから、浩太の言っていることはまちがっている。
 ユキはまだちっとも幸せになっていないし、十年後だって二十年後だってあいつはたぶん幸せになれない。
 オレがユキとの日々と現在を比較して塞ぎこんでしまったように。
 あいつも、ずっとオレの幻影に囚われ続ける。
 それをあいつだってわかっていながら、オレに心配されないようにとあんなことを言ったんだ。
 ずっと一緒にいて、すこしの間離れてしまったからこそ、あいつの気持ちが以前よりすこしだけわかる。
 ユキを失ったオレに十年先の未来なんてまったく見通せなかったように。
 ユキもきっと、十年後の幸せなんてまったく見えていない。
 だから、浩太の言っていることはまちがっている。
 浩太の言い分はすべて、ユキのウソを拠り所にしているから。
「おまえにユキを幸せにはできない!」
「うるさいッ‼」
 と、浩太が拳を振り上げたときだった。
「――――カズくん‼」
 オレを呼ぶユキの声がきこえた。
 幻聴にしてはあまりにも近いところで、ユキの声がきこえた。
 その声が、一瞬ねじれたように歪んだ。
 浩太の拳が振り下ろされることはなかった。
「…………ユキ…………」
 だらりと脱力した腕を降ろして浩太は振り返る。
 その視線の先には、頬を押さえて蹲るユキがいた。
 浩太が振り上げた腕の先にいたユキが、その肘に顔を殴られていた。
 頬は赤く腫れあがり、切れた唇からはポタポタと赤い血が垂れ落ちていた。
「…………あ、あぁ……!」
 自分がなにをしてしまったのか。
 だれに、なにを、してしまったのか。
 それを理解しながら浩太が後ずさりする。
「…………えっと……二人がいるのを見つけて……止めなきゃって思って……」
 顔を上げたユキは、言葉を紡ぎながら必死に笑おうとする。
 痛みを、動揺を、堪えながら、笑って場を取り繕おうとする。
 そんなユキの瞳から、ポタリと透明な雫が流れ落ちた。
 ポタリ、ポタリ、と。
 零れた涙が地面で血と混ざり合い、ユキの身体を震わせる。
 そして、それ以上ユキはなにも言えなくなってしまった。
 大人の力で殴られた彼女は、すべての言葉を失ってしまっていた。
「――――浩太ッ‼」
「ッ……⁉」
 無意識のうちに身体が動いていた。
 オレは浩太の顔に全力の拳をねじ込む。
 所詮は子供の力だった。
 けれど浩太の身体から完全に力が抜けきっていたこともあり、相手に尻餅をつかせるだけの効果はあった。
「――――ユキ!」
 オレはユキの手を掴んで駆け出す。
「カ、カズくん?」
「なにも言わなくていい!」
 手を引いてどうするのか。
 どこにいくのか。
 なにも考えはなかった。
 ただ、この手を放したくないと思った。
 オレが強く握れば握ったぶんだけ、ユキは同じ力で手を握り返してきた。
 夕焼け色だった空が群青色へと変わり。昇った月が世界を明るい闇で照らす頃。
 オレはしがらみだらけの現実からユキを攫った。