その日から、また寝床を転々として暮らす生活がはじまった。
 夜はできるだけ風通しのいい場所で眠って。朝になるとあてどなく辺りをさまよいながらマナティーの本が落ちていないか探していた。
 家に籠っているかどうかのちがいだけで、根本的な生活の気力は歳を喰われる前と変わっていなかった。
 ただ無意味に時間を空費して、人生が終わるのを待っているような状態。
「……はあ」
 ちがうことといえば、ひとつ。
 傍には魔女がいるということがわかっていたので、ヒマになるとオレは魔女を呼び出してくだらない話をしていた。
「なあ、魔女」
 昼下がりの河原。
 オレは拾ったグローブでキャッチボールをしながら魔女に尋ねる。
「おまえ、いつまでオレといるつもりなんだ?」
「うーん……まあ、見てておもしろいうちはねー」
 ユキと夕貴の家を出て二週間ほどか。
 夏の暑さは一層極まり、町にはうだるような八月の温風が吹いている。
「オレより夕貴と一緒にいたほうがたのしいんじゃないか? 毎日起きて、テキトーにうろついて、寝てるだけだぞ? オレなんて」
「あっちはあっちで平凡だしねー。それにあの子はもうずっと同じ顔してるし」
「ずっと好きだったやつと結婚できて願ったり叶ったりですってか」
「まあ」
「あいつはオレとちがってうまくおまえの力を使ったみたいだな」
「どうだろうね」
 魔女がポイとボールを空に向かって放り投げる。
「おまえはどんな顔がお望みなんだ?」
「人生の意味を見つけて、そっちに向こうとする瞬間の顔」
「ははっ。なるほど。それは見るのが難しそうだな。夕貴にとってはもうずっとその意味が隣にあるし、オレに至ってはどこにもない。どっちを眺めてても変化には欠けた生活だ」
 ぼんやり顔を上げて捕球の体勢をとるオレに、魔女は言う。
「おにいちゃんはいいの? ずっとこのままで」
 取り損なったボールが河原の芝で小さくバウンドする。
「このままって、なにが?」
「もうすぐ二人は結婚しちゃうんだよ? なにかしなくていいの?」
「いいんだよ」
 ユキはこのまま夕貴と一緒になるのがいちばんなんだ。
 本当の歳以外、性格も、収入も、夕貴はすべてにおいてオレより秀でている。
 ユキを幸せにできるのはあいつであってオレじゃない。
 オレにできることなんて、もうなにもない。
「ふーん」
 魔女はつまらなそうに鼻を鳴らしてレインコートのフードを被る。
「まあ、おにいちゃんがそれでいいっていうならべつにいいけどね」
「なんだよ、言葉以上に不満げじゃないか」
「わたしとしてはこう、なんだろうなー。たとえば結婚式に乗り込んでそれをぶち壊すとか」
「はあ?」
「それくらいのほうが、いっそおもしろいかなーって」
「やるわけないだろ、そんなこと」
 オレはべつに魔女をたのしませてやるために歳を喰われたわけじゃない。
 オレはオレのやりたいように生きる。
 でも、オレのやりたいことってなんだろう?
 ユキのいない世界で、これからオレはなにを理由にして生きていけばいいんだろう?
 ユキから離れることで水泡に帰して死ぬ理由はなくなったけれど、同時にオレは生きる理由も失ってしまっていた。
 いや、そもそも生きる理由なんて最初からもっていなかったのかもしれない。
「じゃあ、これからどーするの? おにいちゃん」
「そうだな。とりあえず、ポスターのマナティーにでも会いにいくか」
「そうじゃなくて。もっと長い目で見たときのこれから。二人が結婚して、子供とか生まれて、それからのこと。十年くらい先のこと」
 考えなんてなにもなかった。
 もとより目の前の絶望から逃れるために選んだ歳喰いだ。
 ……これから……これから……。
 これからオレは、どうすればいいんだろう?
「――――浩太!」
「…………」
 オレの腕がいきなりグイと引き上げられる。
 振り返ってみれば、オレはまたあの枯れ木みたいにやせ細った女に抱きかかえられていた。
 魔女はいつの間にか姿を消していた。
 助けてくれたりする気はないらしい。
「ああ、浩太!」
 女はオレに頬ずりしてうれしそうに微笑む。
「…………はあ」
 一時の気の迷いだとわかっていた。
 でも、ユキをなくしたオレの人生なんてずっと迷い続けているようなものだった。
 だからオレは、精いっぱい屈託のない笑みを返して、言った。
「ひさしぶり、母さん」

          †

 オレは女に連れられて知らない家の門をくぐった。
 女は「倉持」という名前らしい。
 魔女の屋敷ほどではないが、なかなか歴史のありそうな広い屋敷で、壁にかけられたゴッホの『ひまわり』の向かいには袴を着た日本人形が飾られている。和洋折衷という感じだった。
「今、麦茶を淹れるから」
 オレを浩太だと勘違いしたまま、女はうれしそうに冷蔵庫を開けていた。
 とくとくと、コップに並々注がれていく麦茶を横目にオレは部屋を見渡す。
 棚にはなにやら高そうな漆器や壺がかけられていて、壁には玄関と同じく有名な絵のレプリカがいくつも飾られていた。
 一見して金持ちだとわかる。
 このまま浩太としてしばらく過ごしたとしても、なにも不自由を感じることはなさそうだった。
「はい」
 とん、と机に麦茶が置かれてオレは席につく。
 コップはオレの分しかなかった。
 女はニコニコしながらオレが飲むのを待っていたので、昇ってくる罪悪感と一緒にグイと一口で麦茶を飲み干す。
 よく冷えていた。
 そういえばオレが子供の頃は水筒を持たせるためにいつも母さんが作り置きしておいてくれていたなと、ふいに昔のことを思い出す。
「なあ、母さん」
 あの頃みたいに呼んでみる。
「なあに?」
 あたりまえのように返事はあった。
 この芝居を長く続けるのは、やはりオレの精神がもたない気がした。
「あれって、なんだっけ?」
 オレは目についたものをテキトーに指さす。
 高級そうなものが並ぶ部屋にあって、それは一際異質な気配を放っていた。
 薄ペラの画用紙にクレヨンで線を引きまくったイラスト。
 印象派の画家が描いた前衛的なアートにも見えない。
 子供のラクガキみたいな一枚だった。
「ああ、アレ。懐かしいでしょ? 浩太が三歳のとき描いた『ひまわり』よ」
「宇宙で起こる爆発現象じゃなくて?」
「『ひまわり』よ。そう言ってたじゃない」
 額縁に入れられたひまわりの絵は、売ったところで一円の値もつきそうになかった。
 そういう価値のなさそうなものが、高そうな漆器や絵画に混ざって飾られていた。
 イラスト。賞状。メダル。写真。
 どれも浩太のものらしい。
「全部飾ってるわけ?」
「一番を取ったやつは全部。二番や三番のは全部浩太が飾らせてくれなかったから」
「へえ」
「でもちゃんと浩太の部屋の机にしまったままにしてあるから。見る?」
「いや。いいや」
 浩太はどうやら芸術系の分野に秀でた人間のようだった。
 表彰されているものはイラストや写真がほとんどで、拙かった絵心も成長とともに上達したらしく、一見してなにを描いたのかわかる絵が視線を移動させるごとに多くなっていった。
「……?」
 オレは女の後ろにある一枚の絵に目を留めた。
 それは飾られている順番から考えると、浩太が最後に描いた一枚ということになる。
 オレはその、シャープペンシルで画用紙に描かれたひとりの少女に妙な既視感を覚えた。
 モノクロの世界で、制服を着たポニーテールの少女がだれかを待っていた。
 コンビニの前。駐車場の隅に立ち、背中で両手を組んで、停めた自転車に寄りかかりながら、彼女はそこにいた。
 ――――そして、待っていた相手を見つけた瞬間、まるで偶然そこにいたみたいな顔をして微笑む。
「…………ユキ?」
 そこに描かれていたのは紛れもない、中学時代のユキだった。
 当時と制服や髪形が同じだったというのもある。でもそれ以上に、他の絵と比べてその絵だけが頭抜けてうまく、細部まで描き込まれていたため、それがユキであるという確証を持つのは容易かった。
 ユキがなにかを待っているとき無意識に眉を寄せてしまうところや、両手を後ろに組んで立つクセが正確に描かれていて、まるでユキのことを知り尽くしているみたいな絵だった。
「ああ、その絵。浩太が最後に見せてくれた絵よ」
 懐かしそうに、けれどどこか寂しそうに、女は呟く。
「とっても上手なんだけど、でも、どうしてかしらね? わたし、その絵だけはあまり好きになれないの。浩太がいなくなる前に描いた絵だからかしら?」
 オレはじっとり冷たい汗をかいていた。
 頭の奥で、鉄と鉄がぶつかっているような音を立てて、なにかが繋がっていく気がした。
「…………なあ、オレが……浩太がいなくなったのって、いつだっけ?」
「二年前よ」
 オレは女にきいて浩太の部屋へと向かった。
 階段を上がり、ふすまを開けて中に入る。
 整頓された八畳一間だった。
 窓に向かって勉強机があり、本棚の横に詰まれた子供向けの雑誌があり、床の真ん中にミラーレスの一眼カメラが置かれている。
 そのまま残されている当時の面影をぶち壊すように、オレは机の中を漁った。
 文房具。星座図鑑。いちばんになれなかった絵や写真。そういうものから隔離するようにして、いちばん下の引き出しでそれらは大事そうにしまわれていた。
 引き出しを開けた瞬間、ユキの姿を納めた大量の写真と絵が出てきた。
 中学時代のユキから、高校時代のユキまで。リビングに飾られていたものよりもずっとうまいタッチと比率で、ユキの姿が切り取られていた。
 オレはゾッとした。
 人間はこんなにもひとつの存在に執着できるものなのかと恐怖した。
 一枚だけタイトルの書かれた絵には『初恋』とあった。
「……」
 いろんな表情のユキが描かれていて。いろんな場所にいるユキが写されていた。
 けれどひとつとして、寂しそうにしているユキの姿はなかった。
 オレと別れたあと、ユキはいつも泣いていたはずなのに。そういう絵や写真はただの一枚も残されていなかった。
 残されているのは、ひたすらに幸せそうな瞬間のユキだけだった。
 そこにときどき、オレが映り込んでいた。
 全体の場合もあるし、一部の場合もある。
 ときにはユキとくだらない言い合いをしているオレが描かれ、ときにはユキと自転車で並走するオレが映り込んでいた。歳喰いの影響か、顔は逆光処理をされたみたいに見えなくなっていたけれど。
「…………」
 過ぎ去った思い出を、見せつけられているようだった。
 もうこの頃にはもどれない。決して手が届かない距離でユキはたのしそうに微笑んでいる。
 今のユキがこんなふうに笑うことはない。
 あの日から――こんなふうに笑ったユキの顔をオレは思い出せない。
 ユキがなくしたのは――オレがなくさせてしまったのは――この笑顔だった。
「魔女、さんじょー!」
 いつの間にか現れた魔女が机の上に座っている。
「……なんだよ?」
「そろそろきかれる頃合いだと思って」
 足をバタつかせながら魔女はたのしそうに笑う。
 きっと魔女は最初から知っていたにちがいない。
 浩太がいったいだれなのか。
 知っていて、オレがここにくることを止めなかったんだ。
「ならきくけど……」
 と、オレが言葉を続けようとしたとき。
 階下からきこえてきた電話の音に話を遮られた。
「…………いや、いい」
 勢いを削がれて、オレは考え方を変えた。
 今更きくまでもないことだった。
 魔女は「ふーん」と相槌をうって姿を消す。
 オレはため息を吐いて一階へと下りていった。
 リビングでは浩太の母親が電話を受けていた。
 彼女の表情は固まっていた。
 呆気にとられたような、驚きで言葉を失っているような顔だった。
「……ええ。ええ。はい。うん」
 やがて彼女は深い頷きを繰り返すようになる。
 開いていた目を閉じて、慈愛に満ちた笑みを浮かべながら。
 そして何度目かの頷きを最後に彼女は電話を切った。
「なんだって?」
 オレは自然と尋ねていた。
「ええ」
 浩太の母親はしばらくの沈黙を挟んで、言った。
「事故を、起こしちゃったんだって」
「だれが?」
「浩太が」
 オレは面食らう。
 彼女がなにを言っているのかわからなかった。
「浩太なら、ここにいるじゃないか」
「ええ」
 浩太の母親は安心した様子で頷く。
 まるですべてをわかっているみたいな表情だった。
「でも、事故を起こしちゃったらしいから。お金を振り込まないと」
「……お金?」
「相手がちょっとケガしちゃってるらしくて、大事にならないようにするには示談金が必要なんですって」
「いくら?」
「五百万」
「しっかりしてくれよ」
 オレは浩太の母親の肩を掴む。
「どう考えてもそんなの耄碌した婆さんしかひっかからないような古典的な詐欺じゃないか。あんたの息子は……浩太はここにいるんだ」
「もう、いいのよ」
 と、浩太の母親は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさいね。強引にこんなところまで連れてきたりして」
「なにを言って……」
「わたしのことを心配してくれたのよね」
 彼女はおかしくなっているわけではなかった。
 とても落ち着いた声で、諭すように言葉を紡いでいた。
「でも、もう大丈夫だから」
「なにが大丈夫なんだよ? 電話の話は詐欺なんだって」
「ええ。それでも、浩太からかかってきた電話だから」
「…………なんだよ、それ」
 オレは受話器を取ってリダイヤルのボタンを押す。
 数回の呼び出し音の後、電話は繋がった。
『はい、もしもし』
「…………なにやってんだよ、おまえ」
 通話口の向こうからきこえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
『…………えっと……』
「ユキは、知ってるのかよ?」
『…………』
 ブツリと、電話は切られた。
 受話器ごと床に電話を叩きつけたい気分だった。
「ごめんなさいね」
 まるで浩太の代わりに謝るみたいに、浩太の母親はオレに頭を下げていた。
「…………どうして、オレが浩太じゃないってわかったんだ?」
「浩太は自分のこと『オレ』って言わないの」
「いつ、気づいてた?」
「さあ、いつかしら。もしかしたらあの日、公園で逃げられたときにはもう気づいていたのかもしれないわね。だけど、どうにも諦めきれなくて」
「本当の浩太がどこにいるのか――だれなのか――知ってるのか?」
 浩太の母親は曖昧に笑うだけだった。
「もうひとつ」
 オレは飾られている賞状や写真に再び目を向ける。
 よく見れば賞状は名前の部分が滲んだように読めなくなっていて、写真の中にいる少年の顔はオレと同じく謎の光があたって見えなくなっていた。
 浩太の存在だって、ちゃんと世界からまるっと消されているはずだった。
「どうして、浩太のこと、覚えてるんだ?」
「母親だからよ」
 胸がぎゅっと締めつけられる思いだった。
「……オレの母親は忘れた」
「そんなことないわよ」
 確信を持っている様子で浩太の母親は首を横に振る。
「なにがあっても、親が子供のことを忘れることなんてないわよ。もし覚えてないって言われたなら、それはきっとあなたとあなたのご両親が、そういう距離感で繋がっているから。きちんと問いただせば、きっと正直に答えてくれるはずよ」
「どうして、そんなことが言い切れるんだよ? たとえば、魔女とか……魔法とか……そういう人間には及びもつかない力で、関係を絶たれているかもしれないじゃないか」
「子供を産むって、呪いみたいなものだから。きっとどんな魔法も効かないわよ。親にとって子供って、それくらい痛切で、離れがたいものなの」
「……だから、わざと騙されてやるのか?」
「さあ、もう引き留めたりしないから。あなたはあなたがいるべきところにかえりなさい」
「……」
 オレは連れてこられた家を出た。
 二階の窓からすうーっと魔女が降りてきて、オレの影に潜った。
 オレは財布に残っていた小銭を握りしめて電話ボックスの中へと入る。
 何度目かのコール音の後、電話は繋がった。
「…………もしもし、かあさん?」