オレは買い物袋の場所だけ教えて二人から離れようと思っていた。
そのことをユキに伝えると、ユキは「うん、わかった」と頷いた。
けれど、さっきの女のこともあるからと、今日だけ家に泊まっていくことを夕貴が提案した。
明日にはちゃんと警察のところまで送っていくとまで言われ、二人に心配をかけないようにするにはそれがいちばんだと思い、オレはもう一日だけユキと夕貴の家に泊まることにした。
『お風呂が沸きました』
給湯器の声をきいて風呂に入る。
広い湯船に浸かっていると、またどこからか裸の魔女が現れ出て尋ねてきた。
「で、結局どーするの?」
「なにが?」
「歳を喰われたこと、話すの? 話さないの?」
「話さないよ。話したところで意味がない」
「ふーん。じゃあ、これからどーするの?」
「今日はここに泊まって。明日からはまた路上生活だな」
「そのあとは?」
「さあ? とりあえず、一緒に河原でマナティーでも眺めて暮らすか?」
「べつに興味ない」
そういえば、と魔女は目を丸くする。
「今日はわたしのおっぱい見ても、恥ずかしがらないんだね」
「べつに興味ないから」
「ふーんだ! なら、これは?」
魔女が大人の身体に変身する。
それでも今のオレが動じることはなかった。
そういう反応をすることすら、なんだかバカバカしく思えていた。
大学にいけなくなったときと同じだ。
人生が、渇いていくのを感じる。
「つまんないの。今のおにいちゃん、わたしの屋敷に訪ねてきたときとおんなじ顔してる」
「どんな顔だよ?」
「生きながらにして死んでるみたい」
そんな言葉を残して魔女は溶けるように消えていった。
昨日みたいにユキが中に入ってくることはなかった。
オレは風呂から出て鏡に映った自分の顔を見る。
なるほど。たしかに以前と同じだった。絶望がよく染みついた顔をしている。歳を喰われたところでなにかが変わるわけではないと知ってしまっているぶん、余計にニヒリズムが出ているかもしれない。
見れば見るほど、笑えてくる。
こんな顔が板についてしまっているやつに、だれかを幸せにすることなんてできるわけないじゃないか。
「いただきます」
着替えを終えてリビングへいくとユキが夕飯を作っていた。
オレはユキと夕貴の話をききながらそれを口にしていた。
二人は今更みたいな思い出話で盛り上がっていた。
二人が初めて出会った場所。互いが互いの名前を知るまで。それからのいくつか。
まるで互いの存在を確認し合うように。相手がたしかにそこにいることを認め合うように。二人はオレのまえでつぶさに二人の話を語っていた。
そして話題が来月に迫った結婚式について及んだところで、かかってきた電話に出るべく夕貴が席を立った。
そのまま外へと出ていく夕貴を見送るユキに、オレは尋ねる。
「もう音楽はきかないのか?」
「音楽?」
箸を止めたユキが「ああ」と、口元を綻ばせる。
「もう、懐メロはいいや」
「そうか」
オレとユキが二人で話したのはそれだけだった。
やがて夕貴がもどってくると、また二人は二人の話をはじめた。
そういう話をきくたびに、オレはオレという人間がまったく必要とされていないことを悟る。
悟って、心が安らいだ。
ユキがどうしてオレ以外の相手を好きになったのかわからなくて、しばらくは絶望していた。けれど、それがわかって、そしてユキが十年後の幸せを確信しているのなら。オレに不満などなかった。
オレはもう昔の和樹じゃない。オレにとって大事なユキを、ちゃんと大事にできる子供のカズだ。
だから、これでいい。
これでいいんだ。
「ごちそうさま」
二人が目を閉じて手を合わせる。
オレも同じようにした。
夕貴はユキの洗い物を手伝っていた。
オレもなにかしようかと思ったけれど、二人がたのしそうに作業しているのを見て、邪魔になるだけだと思い、やめた。
やがて洗い物を終えたユキが夕貴に譲られる形で風呂場へと向かう。
リビングにはオレと夕貴の二人だけになった。
これからしばらく流れるかに思われた沈黙を遮ったのはケータイの着信音だった。
しかし、夕貴はケータイの電源を落とすと、ふうと息を吐いて立ち上がった。
「すこし、歩こうか」
それは独り言ではなくて、オレに向かって口にされた言葉だった。
オレは夕貴と共にマンションを下りる。
べつに歩きたい気分ではなかったが、夕貴の提案を無下にもしたくはなかった。
二食二泊の恩というと大げさだけど、できるだけ迷惑をかけず、彼らの好意をなるべく尊重した形でオレは二人のもとを去りたかった。
「…………」
「…………」
エレベーターに乗っている間は無言が続いた。
夕貴はマンションを出ると駐車場を横切り、裏手にある工事現場へと向かった。
どうやら新しくアパートかなにかを建てるらしい。建設途中の建物には厚い布が被せられていて、敷地の端には材木や鉄骨が積まれていた。
「ここが、どうかしたのか?」
尋ねると、前を歩いていた夕貴が立ち止まって言った。
「大人には敬語を使うように教えられなかったかい?」
気のせいだろうか?
夕貴の声はいつもより冷淡で、小さなトゲをいくつも内包しているようにきこえていた。
「まあいいけど」
と、シャツの第一ボタンを外してため息を吐く夕貴。
それからゆっくりとオレのほうに振り返り、かけていたメガネをポケットに入れる。
そしてすべてを見透かすような切れ長の目で言うのだった。
「キミ、魔女に歳を喰わせただろ?」
オレは、なにも言い返すことができなかった。
だって、あまりにも唐突に、だれにも見破れないはずの真実を言い当てられてしまったから。
「…………どうして?」
やっと口にできたのはそんな漠然とした問いだった。
「どうして、キミが歳を喰われたと知っているのか? それとも、どうして歳を喰われたはずのキミを知っているのか?」
簡単なことだよ、と夕貴は言った。
「僕はキミが歳を喰われるまえからキミのことを知っている」
「……それなら」
「ユキだって知ってる。なのにユキはキミのことを覚えていない。当然だ。歳を喰われたらそれまでの自分はまるっとなかったことになるんだから」
どこかできいたような説明だった。
うわさを垂れ流しているような感じじゃない。
まるで魔女本人から直接きいてたしかめたみたいに、夕貴は確信をもって歳喰いについて語っていた。
「まだわからないのかい? カズくん」
夕貴がニヘラと口角を吊り上げる。
その笑い方にさっきまでの誠実さは感じられない。
狐が化けの皮を自ら剥いでいるみたいだった。
「…………おまえ、だれだ?」
魔女に歳を喰われた人間の過去を覚えていられる人物。
“普通”の枠組みから外れてしまった存在。
そんなやつ、オレが知る限りでは魔女しかいない。
「…………魔女?」
夕貴はため息でもって否定する。
たしかに夕貴は魔女が化けているという感じではない。
夕貴は急に幼くなったり年老いたりせず、ちゃんと大人の人間だけをやっている。
でも、魔女でないとしたら、他に歳喰いの影響をうけないやつなんて……。
「…………!」
ちがう。魔女以外にももうひとつ、オレは例外を知っている。
魔女について知る、魔女以外の人間。
歳喰いの事実を覚えていることができる人物。
それはつまり――――魔女に歳を喰わせたオレ自身。
「…………まさか……おまえも魔女に歳を喰わせたのか⁉」
「逆さ」
夕貴はオレのことをじっと見下ろしながら言った。
「僕は魔女が喰ってきた歳をもらって成長した」
「そんなはずない。一度喰った歳を吐き出すことはできないとオレは魔女に言われた」
「僕も言われたよ。一度与えた歳を喰ってやることはできないって。つまりはそういうことなんだろ?」
オレがきいた説明と夕貴が受けたという説明は矛盾してきこえる。
そもそも歳喰いの魔女に歳を与えてやれる力があったなんて初耳だ。
――――魔女が、ウソを吐いている?
「なんのために?」
「それはキミの後ろにいる魔女にきいたらどうだい?」
振り返ると、幼い姿になった魔女がペロリと舌を出して苦笑いしていた。
「……騙したのか?」
「ウソってわけじゃないよ。わたしの力が一方通行なのはホント。喰った歳をもどしてあげることはできないし、与えた歳を喰ってあげることもできない」
「じゃあおまえ、最初からこいつのこと知ってたのかよ?」
「もちろん。おにいちゃんと同じように“あっち”もたまに観察してるからね」
「どうして言わなかった?」
「きかれなかったから」
「そんなの、おまえ……」
「きいて、知っていたら、どうしたんだい?」
オレは夕貴のほうに向き直って答える。
「ユキに本当のことを話してた」
「本当のこと?」
「おまえがウソを吐いてユキと一緒にいるって」
「歳喰いの魔女なんて童話みたいな話、信じると思うかい? もう彼女はいい大人なんだよ?」
「あいつはオレの幼なじみだ!」
「だけどキミはもう子供じゃないか」
それに、と夕貴は言葉を続ける。
「キミだってこの二日間、ユキのことを騙して近くにいたんじゃないのかい? カズ」
「それは……成り行きだ。オレの意志じゃない」
「そうやって、キミはずっと彼女のことを傷つけてきたんだ。自分の至らなさを顧みようとせず、ユキの優しさに甘えるばかりで……キミのそういう態度が、見ていてずっと腹立たしかった」
「……どうしてオレのことを知ってるんだ?」
「言っただろ。ずっと見てた。キミに傷つけられるユキのことを」
「おまえ……いくつ歳をもらった?」
「十五年」
と、夕貴は言った。
「ユキが大学に入ってすぐ――ちょうど二年くらい前の話さ。明日でめでたく二十七歳だ」
二十七歳――ということは、歳を喰われたのは十歳のとき。
「本当のおまえは、まだ小学生じゃないか」
「ああ、そうさ」
「ありえない」
あまりにもバカげた状況に、乾いた笑いが込み上げてくる。
「小学生が、なにが結婚だよ。義務教育も終えてないくせしやがって」
「ユキを幸せにするために必要なことは学んだ。太宰や芥川の気持ちなんてわからなくても、ユキの気持ちがわかればそれでいい」
「わかるわけない。ずっと一緒にいたオレにだって……」
「キミと僕を一緒にするなよ」
抑揚の声で夕貴は言う。
「僕はキミよりユキの悲しみに寄り添える。キミが知らないユキの悲しみを僕は知っている」
「なんのことだよ?」
「出会ってしばらくした頃、ユキにきいたよ。あの日――キミの前で初めて泣いてしまったと」
あの日――体育祭のあと――夕暮れの教室――やがて告白に繋がるであろうユキの誘いを、オレが受け入れられなかった日。オレがユキに深い傷を残してしまった日。
「キミはあの日だけが自分の過ちだと思っている。でも、全然まったく、そうじゃない」
夕貴の声に静かな怒気が含まれていくのがわかった。
「彼女はキミのいないところでずっと泣いていた。キミが彼女の好意を無下にするたびに――彼女の善意を鬱陶しがるたびに――彼女の心は悲鳴をあげていた。それをキミは知らないだろう?」
「……」
「キミがまっとうな人間になるように叱ったのに、それを邪険にされてユキがなにも気にしないと思うか? 呼んでも返事どころか振り向こうともしない相手を思い続けることの苦しさについて、考えたことがあるか?」
「…………それでも、オレの気持ちをユキは……!」
「ああ。わかってたよ。わかってるはずだって言ってた。ただ素直になれないだけなんだろうって。でも、それって卑怯すぎないか? ユキのほうからキミを求めて、キミはそれを受け入れたり受け入れなかったりできる。そんな関係、全然平等じゃない。平等じゃない関係は、どちらかが多くの負担を引きうけないと崩壊するんだよ。キミはすこしでもそれを負っていたか? ユキとの関係を続けるために、キミは一度でも心を絞ったことはあるか?」
「…………」
オレは、押し黙るしかなかった。
夕貴の言うとおりだ。
オレはずっと明るいユキに甘えていて。自分のことを理解してくれているユキにもたれかかるように生きてきた。言わなくてもわかってくれているようなことは言わなかったし、そういう理解の前提に関係を置いていた。そうして言葉少なに続く関係に居心地のよさを感じていた。
けれど、たしかに、言われてみれば疑問はある。
ユキがオレのことをわかってくれているほど、はたしてオレはユキのことをわかってやれていただろうか?
ユキがオレの前で涙を流したのは――ついた傷を隠しきれなかったのは、あの日の放課後しかない。
だけどもし、夕貴が言うように、もしオレがもっと幼いときからずっとユキのことを傷つけ続けていたのだとしたら――。
オレとユキの関係は、ずっとユキが傷口を隠して笑うことで続いていたことになる。
「キミの過ちはひとつじゃない。キミが彼女と関わりをもった保育園から高校までの十五年がすべてキミの過ちであり、ユキの悲しみだ」
そう語る夕貴の拳は震えていた。
その怒りは、ユキを傷つけていることにずっと無自覚だったオレに向けられていた。
「六歳のときから、ずっと見てたよ。笑って帰るキミの後ろ姿と、キミと別れたあとでいつもこっそり泣いているユキのことを」
「……どうして?」
「ユキのことが、好きだから」
なんの臆面もなく、夕貴はハッキリとそう答えた。
「一目見た瞬間、僕が守らないといけないと思った。守りたいと思った。だけど所詮六歳の子供にできることなんてない。泣いている彼女の背中を撫でたとしてもそれは傷を塞ぐ間に合わせの絆創膏みたいなもので、一時の慰めにしかならない。すぐにまたユキはキミによって傷つけられる。何度も。何度も。僕がキミからユキを守るには、子供のままじゃダメだったんだ」
「…………だから、大人になったってのか?」
「ああ」
「ユキのために?」
「ああ」
なんだ、それ。
そんなの、敵わないじゃないか。
オレはオレの絶望を慰めるために歳を喰われたってのに。
夕貴は、ユキのために自分の人生を捨てたっていうのか。
なんだよ、それ。
「…………オレのせいでユキが泣いてるって、言ってくれれば……」
「ユキの強がりをムダにしたくはなかった。ひとりになって泣くのと同じくらい、キミの前で気丈に振る舞うのだって相応の理由があることを知っているから」
「……こっそり、オレにだけ教えてくれれば……」
「子供の言葉を信じたかい? もし信じたとしても、教えてなんかやらない。言うまでもなく、僕はキミのことがきらいなんだ。キミが子供にさえなってなきゃ、ここで今すぐぶん殴ってやるところさ。ユキが流した涙のぶんだけ」
「魔女に頼らなくても、時を待てばよかったんだ」
グイと胸倉をつかまれて、オレの身体が持ち上げられる。
喉が詰まって、息が苦しかった。
「今のユキを見て、キミはまだそんなことを言うのか?」
今のユキ――ときどき存在感が薄れて、ぼやけた過去に縋るようにして生きているユキ。
ふらりとどこかに消えて、そのままいなくなってしまいそうなユキ。
「だれにでも平等な、博愛主義の『時間』なんてやつにユキのことは任せてられない。時間がユキの傷を癒やすまで放っておくなんてどうかしてる。どうかしてるんだよ」
夕貴が放った言葉のすべてがオレの胸を圧迫し、押しつぶすようだった。
オレと夕貴の、人間としての差を――ユキに対する誠実さのちがいを――思い知らされる。
「ユキをあんなふうにしたのはキミだよ、カズ。そんなキミに、彼女といる資格があると思うのかい?」
「……結局、今日はそれを言うために家に泊めて、ここまで歩いてきたのか?」
「ああ。ちゃんと言っておかないと、またキミはユキに近づこうとするかもしれないから」
オレからユキに近づくことなんてない。
オレが傍にいないほうがユキは幸せになれることもわかっている。
昨日だって、ホントは泊まる気なんてなかった。
「だったら昨日、オレを連れ帰ろうとするユキを止めておけばよかったじゃないか」
「僕は彼女を否定しない。キミのように拒絶したりせず、すべてを受け入れる。歳をもらうときにそう決めたんだ」
「このまま大人のフリをして、ユキのことを騙し続けるのか?」
「ああ。打ち明けようなんて考えてない。そうしたら僕が消えてなくなってしまうから。僕がいないと、彼女の孤独に寄り添う相手がいなくなってしまう。だから完璧に隠し通して、ユキを幸せにしてみせる」
「…………」
自分の正体を打ち明けてユキに過去を思い出させようとしたオレとはちがう。
夕貴は生涯自分とユキを欺き続けるという、長期的な覚悟をもって彼女と関わっている。ウソを吐いているという罪悪感に苛まれるとしても、その苦しみを一切見せないことで、ユキを永遠に傷つけないと決めているんだ。
そのおかげで、ユキは十年後の幸せを思い描くことができていた。
なら、夕貴の本当の歳がいくつかなんて、関係ないのかもしれない。そう思った。思わせられてしまった。
「カズ。僕たちは来月に結婚する。もうキミにユキを渡したりはしない」
オレにはもう、なにも言い返すことができなかった。
「この二日、ユキと過ごせていい思い出になっただろう? その思い出を腐らせないうちに、はやく帰りなよ。ここじゃないどこかに」
「…………」
オレは踵を返し、夜の町が下ろすぼんやりとした明かりに向かって歩き出す。
ことの成り行きを傍観した魔女が、オレと夕貴を見比べてキョロキョロと首を振る。
そしてポン、と手を叩いてからオレのほうについてきた。
「ユキには僕から言っておくよ。キミがちゃんとひとりで家に帰ったって。そうすれば彼女も余計な心配をしたりはしないだろう」
「……ああ」
オレは足を止めて振り返る。
そして夕貴に向かって深々と頭を下げた。
「なあ、夕貴」
「ああ」
「……どうか、もうユキを泣かせたりしないでやってくれ」
それは交渉でも要求でもない。
なんの強制力もない、ただの願いだった。
「キミに言われるまでもない」
オレは夕貴と、ここにいないユキに別れを告げて二人から離れた。
もう一生、二人とは会わない気がした。
それでいいと思った。それがいいと思った。
オレにとっては、結局それが、ユキのためにできる最初で最後のことだった。
そのことをユキに伝えると、ユキは「うん、わかった」と頷いた。
けれど、さっきの女のこともあるからと、今日だけ家に泊まっていくことを夕貴が提案した。
明日にはちゃんと警察のところまで送っていくとまで言われ、二人に心配をかけないようにするにはそれがいちばんだと思い、オレはもう一日だけユキと夕貴の家に泊まることにした。
『お風呂が沸きました』
給湯器の声をきいて風呂に入る。
広い湯船に浸かっていると、またどこからか裸の魔女が現れ出て尋ねてきた。
「で、結局どーするの?」
「なにが?」
「歳を喰われたこと、話すの? 話さないの?」
「話さないよ。話したところで意味がない」
「ふーん。じゃあ、これからどーするの?」
「今日はここに泊まって。明日からはまた路上生活だな」
「そのあとは?」
「さあ? とりあえず、一緒に河原でマナティーでも眺めて暮らすか?」
「べつに興味ない」
そういえば、と魔女は目を丸くする。
「今日はわたしのおっぱい見ても、恥ずかしがらないんだね」
「べつに興味ないから」
「ふーんだ! なら、これは?」
魔女が大人の身体に変身する。
それでも今のオレが動じることはなかった。
そういう反応をすることすら、なんだかバカバカしく思えていた。
大学にいけなくなったときと同じだ。
人生が、渇いていくのを感じる。
「つまんないの。今のおにいちゃん、わたしの屋敷に訪ねてきたときとおんなじ顔してる」
「どんな顔だよ?」
「生きながらにして死んでるみたい」
そんな言葉を残して魔女は溶けるように消えていった。
昨日みたいにユキが中に入ってくることはなかった。
オレは風呂から出て鏡に映った自分の顔を見る。
なるほど。たしかに以前と同じだった。絶望がよく染みついた顔をしている。歳を喰われたところでなにかが変わるわけではないと知ってしまっているぶん、余計にニヒリズムが出ているかもしれない。
見れば見るほど、笑えてくる。
こんな顔が板についてしまっているやつに、だれかを幸せにすることなんてできるわけないじゃないか。
「いただきます」
着替えを終えてリビングへいくとユキが夕飯を作っていた。
オレはユキと夕貴の話をききながらそれを口にしていた。
二人は今更みたいな思い出話で盛り上がっていた。
二人が初めて出会った場所。互いが互いの名前を知るまで。それからのいくつか。
まるで互いの存在を確認し合うように。相手がたしかにそこにいることを認め合うように。二人はオレのまえでつぶさに二人の話を語っていた。
そして話題が来月に迫った結婚式について及んだところで、かかってきた電話に出るべく夕貴が席を立った。
そのまま外へと出ていく夕貴を見送るユキに、オレは尋ねる。
「もう音楽はきかないのか?」
「音楽?」
箸を止めたユキが「ああ」と、口元を綻ばせる。
「もう、懐メロはいいや」
「そうか」
オレとユキが二人で話したのはそれだけだった。
やがて夕貴がもどってくると、また二人は二人の話をはじめた。
そういう話をきくたびに、オレはオレという人間がまったく必要とされていないことを悟る。
悟って、心が安らいだ。
ユキがどうしてオレ以外の相手を好きになったのかわからなくて、しばらくは絶望していた。けれど、それがわかって、そしてユキが十年後の幸せを確信しているのなら。オレに不満などなかった。
オレはもう昔の和樹じゃない。オレにとって大事なユキを、ちゃんと大事にできる子供のカズだ。
だから、これでいい。
これでいいんだ。
「ごちそうさま」
二人が目を閉じて手を合わせる。
オレも同じようにした。
夕貴はユキの洗い物を手伝っていた。
オレもなにかしようかと思ったけれど、二人がたのしそうに作業しているのを見て、邪魔になるだけだと思い、やめた。
やがて洗い物を終えたユキが夕貴に譲られる形で風呂場へと向かう。
リビングにはオレと夕貴の二人だけになった。
これからしばらく流れるかに思われた沈黙を遮ったのはケータイの着信音だった。
しかし、夕貴はケータイの電源を落とすと、ふうと息を吐いて立ち上がった。
「すこし、歩こうか」
それは独り言ではなくて、オレに向かって口にされた言葉だった。
オレは夕貴と共にマンションを下りる。
べつに歩きたい気分ではなかったが、夕貴の提案を無下にもしたくはなかった。
二食二泊の恩というと大げさだけど、できるだけ迷惑をかけず、彼らの好意をなるべく尊重した形でオレは二人のもとを去りたかった。
「…………」
「…………」
エレベーターに乗っている間は無言が続いた。
夕貴はマンションを出ると駐車場を横切り、裏手にある工事現場へと向かった。
どうやら新しくアパートかなにかを建てるらしい。建設途中の建物には厚い布が被せられていて、敷地の端には材木や鉄骨が積まれていた。
「ここが、どうかしたのか?」
尋ねると、前を歩いていた夕貴が立ち止まって言った。
「大人には敬語を使うように教えられなかったかい?」
気のせいだろうか?
夕貴の声はいつもより冷淡で、小さなトゲをいくつも内包しているようにきこえていた。
「まあいいけど」
と、シャツの第一ボタンを外してため息を吐く夕貴。
それからゆっくりとオレのほうに振り返り、かけていたメガネをポケットに入れる。
そしてすべてを見透かすような切れ長の目で言うのだった。
「キミ、魔女に歳を喰わせただろ?」
オレは、なにも言い返すことができなかった。
だって、あまりにも唐突に、だれにも見破れないはずの真実を言い当てられてしまったから。
「…………どうして?」
やっと口にできたのはそんな漠然とした問いだった。
「どうして、キミが歳を喰われたと知っているのか? それとも、どうして歳を喰われたはずのキミを知っているのか?」
簡単なことだよ、と夕貴は言った。
「僕はキミが歳を喰われるまえからキミのことを知っている」
「……それなら」
「ユキだって知ってる。なのにユキはキミのことを覚えていない。当然だ。歳を喰われたらそれまでの自分はまるっとなかったことになるんだから」
どこかできいたような説明だった。
うわさを垂れ流しているような感じじゃない。
まるで魔女本人から直接きいてたしかめたみたいに、夕貴は確信をもって歳喰いについて語っていた。
「まだわからないのかい? カズくん」
夕貴がニヘラと口角を吊り上げる。
その笑い方にさっきまでの誠実さは感じられない。
狐が化けの皮を自ら剥いでいるみたいだった。
「…………おまえ、だれだ?」
魔女に歳を喰われた人間の過去を覚えていられる人物。
“普通”の枠組みから外れてしまった存在。
そんなやつ、オレが知る限りでは魔女しかいない。
「…………魔女?」
夕貴はため息でもって否定する。
たしかに夕貴は魔女が化けているという感じではない。
夕貴は急に幼くなったり年老いたりせず、ちゃんと大人の人間だけをやっている。
でも、魔女でないとしたら、他に歳喰いの影響をうけないやつなんて……。
「…………!」
ちがう。魔女以外にももうひとつ、オレは例外を知っている。
魔女について知る、魔女以外の人間。
歳喰いの事実を覚えていることができる人物。
それはつまり――――魔女に歳を喰わせたオレ自身。
「…………まさか……おまえも魔女に歳を喰わせたのか⁉」
「逆さ」
夕貴はオレのことをじっと見下ろしながら言った。
「僕は魔女が喰ってきた歳をもらって成長した」
「そんなはずない。一度喰った歳を吐き出すことはできないとオレは魔女に言われた」
「僕も言われたよ。一度与えた歳を喰ってやることはできないって。つまりはそういうことなんだろ?」
オレがきいた説明と夕貴が受けたという説明は矛盾してきこえる。
そもそも歳喰いの魔女に歳を与えてやれる力があったなんて初耳だ。
――――魔女が、ウソを吐いている?
「なんのために?」
「それはキミの後ろにいる魔女にきいたらどうだい?」
振り返ると、幼い姿になった魔女がペロリと舌を出して苦笑いしていた。
「……騙したのか?」
「ウソってわけじゃないよ。わたしの力が一方通行なのはホント。喰った歳をもどしてあげることはできないし、与えた歳を喰ってあげることもできない」
「じゃあおまえ、最初からこいつのこと知ってたのかよ?」
「もちろん。おにいちゃんと同じように“あっち”もたまに観察してるからね」
「どうして言わなかった?」
「きかれなかったから」
「そんなの、おまえ……」
「きいて、知っていたら、どうしたんだい?」
オレは夕貴のほうに向き直って答える。
「ユキに本当のことを話してた」
「本当のこと?」
「おまえがウソを吐いてユキと一緒にいるって」
「歳喰いの魔女なんて童話みたいな話、信じると思うかい? もう彼女はいい大人なんだよ?」
「あいつはオレの幼なじみだ!」
「だけどキミはもう子供じゃないか」
それに、と夕貴は言葉を続ける。
「キミだってこの二日間、ユキのことを騙して近くにいたんじゃないのかい? カズ」
「それは……成り行きだ。オレの意志じゃない」
「そうやって、キミはずっと彼女のことを傷つけてきたんだ。自分の至らなさを顧みようとせず、ユキの優しさに甘えるばかりで……キミのそういう態度が、見ていてずっと腹立たしかった」
「……どうしてオレのことを知ってるんだ?」
「言っただろ。ずっと見てた。キミに傷つけられるユキのことを」
「おまえ……いくつ歳をもらった?」
「十五年」
と、夕貴は言った。
「ユキが大学に入ってすぐ――ちょうど二年くらい前の話さ。明日でめでたく二十七歳だ」
二十七歳――ということは、歳を喰われたのは十歳のとき。
「本当のおまえは、まだ小学生じゃないか」
「ああ、そうさ」
「ありえない」
あまりにもバカげた状況に、乾いた笑いが込み上げてくる。
「小学生が、なにが結婚だよ。義務教育も終えてないくせしやがって」
「ユキを幸せにするために必要なことは学んだ。太宰や芥川の気持ちなんてわからなくても、ユキの気持ちがわかればそれでいい」
「わかるわけない。ずっと一緒にいたオレにだって……」
「キミと僕を一緒にするなよ」
抑揚の声で夕貴は言う。
「僕はキミよりユキの悲しみに寄り添える。キミが知らないユキの悲しみを僕は知っている」
「なんのことだよ?」
「出会ってしばらくした頃、ユキにきいたよ。あの日――キミの前で初めて泣いてしまったと」
あの日――体育祭のあと――夕暮れの教室――やがて告白に繋がるであろうユキの誘いを、オレが受け入れられなかった日。オレがユキに深い傷を残してしまった日。
「キミはあの日だけが自分の過ちだと思っている。でも、全然まったく、そうじゃない」
夕貴の声に静かな怒気が含まれていくのがわかった。
「彼女はキミのいないところでずっと泣いていた。キミが彼女の好意を無下にするたびに――彼女の善意を鬱陶しがるたびに――彼女の心は悲鳴をあげていた。それをキミは知らないだろう?」
「……」
「キミがまっとうな人間になるように叱ったのに、それを邪険にされてユキがなにも気にしないと思うか? 呼んでも返事どころか振り向こうともしない相手を思い続けることの苦しさについて、考えたことがあるか?」
「…………それでも、オレの気持ちをユキは……!」
「ああ。わかってたよ。わかってるはずだって言ってた。ただ素直になれないだけなんだろうって。でも、それって卑怯すぎないか? ユキのほうからキミを求めて、キミはそれを受け入れたり受け入れなかったりできる。そんな関係、全然平等じゃない。平等じゃない関係は、どちらかが多くの負担を引きうけないと崩壊するんだよ。キミはすこしでもそれを負っていたか? ユキとの関係を続けるために、キミは一度でも心を絞ったことはあるか?」
「…………」
オレは、押し黙るしかなかった。
夕貴の言うとおりだ。
オレはずっと明るいユキに甘えていて。自分のことを理解してくれているユキにもたれかかるように生きてきた。言わなくてもわかってくれているようなことは言わなかったし、そういう理解の前提に関係を置いていた。そうして言葉少なに続く関係に居心地のよさを感じていた。
けれど、たしかに、言われてみれば疑問はある。
ユキがオレのことをわかってくれているほど、はたしてオレはユキのことをわかってやれていただろうか?
ユキがオレの前で涙を流したのは――ついた傷を隠しきれなかったのは、あの日の放課後しかない。
だけどもし、夕貴が言うように、もしオレがもっと幼いときからずっとユキのことを傷つけ続けていたのだとしたら――。
オレとユキの関係は、ずっとユキが傷口を隠して笑うことで続いていたことになる。
「キミの過ちはひとつじゃない。キミが彼女と関わりをもった保育園から高校までの十五年がすべてキミの過ちであり、ユキの悲しみだ」
そう語る夕貴の拳は震えていた。
その怒りは、ユキを傷つけていることにずっと無自覚だったオレに向けられていた。
「六歳のときから、ずっと見てたよ。笑って帰るキミの後ろ姿と、キミと別れたあとでいつもこっそり泣いているユキのことを」
「……どうして?」
「ユキのことが、好きだから」
なんの臆面もなく、夕貴はハッキリとそう答えた。
「一目見た瞬間、僕が守らないといけないと思った。守りたいと思った。だけど所詮六歳の子供にできることなんてない。泣いている彼女の背中を撫でたとしてもそれは傷を塞ぐ間に合わせの絆創膏みたいなもので、一時の慰めにしかならない。すぐにまたユキはキミによって傷つけられる。何度も。何度も。僕がキミからユキを守るには、子供のままじゃダメだったんだ」
「…………だから、大人になったってのか?」
「ああ」
「ユキのために?」
「ああ」
なんだ、それ。
そんなの、敵わないじゃないか。
オレはオレの絶望を慰めるために歳を喰われたってのに。
夕貴は、ユキのために自分の人生を捨てたっていうのか。
なんだよ、それ。
「…………オレのせいでユキが泣いてるって、言ってくれれば……」
「ユキの強がりをムダにしたくはなかった。ひとりになって泣くのと同じくらい、キミの前で気丈に振る舞うのだって相応の理由があることを知っているから」
「……こっそり、オレにだけ教えてくれれば……」
「子供の言葉を信じたかい? もし信じたとしても、教えてなんかやらない。言うまでもなく、僕はキミのことがきらいなんだ。キミが子供にさえなってなきゃ、ここで今すぐぶん殴ってやるところさ。ユキが流した涙のぶんだけ」
「魔女に頼らなくても、時を待てばよかったんだ」
グイと胸倉をつかまれて、オレの身体が持ち上げられる。
喉が詰まって、息が苦しかった。
「今のユキを見て、キミはまだそんなことを言うのか?」
今のユキ――ときどき存在感が薄れて、ぼやけた過去に縋るようにして生きているユキ。
ふらりとどこかに消えて、そのままいなくなってしまいそうなユキ。
「だれにでも平等な、博愛主義の『時間』なんてやつにユキのことは任せてられない。時間がユキの傷を癒やすまで放っておくなんてどうかしてる。どうかしてるんだよ」
夕貴が放った言葉のすべてがオレの胸を圧迫し、押しつぶすようだった。
オレと夕貴の、人間としての差を――ユキに対する誠実さのちがいを――思い知らされる。
「ユキをあんなふうにしたのはキミだよ、カズ。そんなキミに、彼女といる資格があると思うのかい?」
「……結局、今日はそれを言うために家に泊めて、ここまで歩いてきたのか?」
「ああ。ちゃんと言っておかないと、またキミはユキに近づこうとするかもしれないから」
オレからユキに近づくことなんてない。
オレが傍にいないほうがユキは幸せになれることもわかっている。
昨日だって、ホントは泊まる気なんてなかった。
「だったら昨日、オレを連れ帰ろうとするユキを止めておけばよかったじゃないか」
「僕は彼女を否定しない。キミのように拒絶したりせず、すべてを受け入れる。歳をもらうときにそう決めたんだ」
「このまま大人のフリをして、ユキのことを騙し続けるのか?」
「ああ。打ち明けようなんて考えてない。そうしたら僕が消えてなくなってしまうから。僕がいないと、彼女の孤独に寄り添う相手がいなくなってしまう。だから完璧に隠し通して、ユキを幸せにしてみせる」
「…………」
自分の正体を打ち明けてユキに過去を思い出させようとしたオレとはちがう。
夕貴は生涯自分とユキを欺き続けるという、長期的な覚悟をもって彼女と関わっている。ウソを吐いているという罪悪感に苛まれるとしても、その苦しみを一切見せないことで、ユキを永遠に傷つけないと決めているんだ。
そのおかげで、ユキは十年後の幸せを思い描くことができていた。
なら、夕貴の本当の歳がいくつかなんて、関係ないのかもしれない。そう思った。思わせられてしまった。
「カズ。僕たちは来月に結婚する。もうキミにユキを渡したりはしない」
オレにはもう、なにも言い返すことができなかった。
「この二日、ユキと過ごせていい思い出になっただろう? その思い出を腐らせないうちに、はやく帰りなよ。ここじゃないどこかに」
「…………」
オレは踵を返し、夜の町が下ろすぼんやりとした明かりに向かって歩き出す。
ことの成り行きを傍観した魔女が、オレと夕貴を見比べてキョロキョロと首を振る。
そしてポン、と手を叩いてからオレのほうについてきた。
「ユキには僕から言っておくよ。キミがちゃんとひとりで家に帰ったって。そうすれば彼女も余計な心配をしたりはしないだろう」
「……ああ」
オレは足を止めて振り返る。
そして夕貴に向かって深々と頭を下げた。
「なあ、夕貴」
「ああ」
「……どうか、もうユキを泣かせたりしないでやってくれ」
それは交渉でも要求でもない。
なんの強制力もない、ただの願いだった。
「キミに言われるまでもない」
オレは夕貴と、ここにいないユキに別れを告げて二人から離れた。
もう一生、二人とは会わない気がした。
それでいいと思った。それがいいと思った。
オレにとっては、結局それが、ユキのためにできる最初で最後のことだった。