――ああ、まただ。
目の前にいる幼いユキを見て、そう思った。
彼女が結婚すると知った日から繰り返し見ている、過去の断片をなぞる夢だった。
「カズ!」
小学生のユキが、たのしそうに手を振りながらオレのことを呼んでいる。
オレも同じように手を振り返して、近くの公園で日が暮れるまで遊んでいた。きっとずっとそういうふうに遊び惚けて大人になっていくのだろうとオレは思っていた。あえて言葉にはしなかったけれど、ユキもきっとそう思っていただろうし、互いにそう思っているのならこの関係性が変わるはずがないと、心のどこかで確信していた。
「夢でも見てるみたいだね」
遊びながら、ときどきユキがそんなことを呟いていたのを覚えている。
それがどういう意味なのか、尋ねてみてもユキはとぼけた様子で笑ってはぐらかすばかりだった。だからいつからか、オレはその言葉をただの口癖だと思って考えることをやめていた。
「カズ!」
中学生のユキが、ふくれっ面でオレのことを呼んでいる。
オレはなんでもきっちりやろうとするあいつのことをめんどくさく思いながら、しかたなくテスト勉強をして、しかたなく委員会の仕事をこなした。
他のやつには注意なんてしないくせにオレにだけいろいろ言ってくるのは正直うっとうしかったけれど、あいつに言われてしかたなくやるあれこれはオレをすこしだけ幸せな気持ちにさせていた。ユキもそうやってオレを叱りながら悪くないため息を零していた。だからきっと、そういう関係性の下でオレたちのコミュニケーションは成立していた。
「ねえ、カズ。わたし、夢でも見てるような気がするんだ」
オレのめんどうを見ながらユキが口にしたその言葉に、オレはテキトーな相槌で返していた。
覚めながら見る夢なんてないだろうと心の隅でボヤきながら。
「カズ」
高校生のユキが、すこし遠くでオレのことを呼んでいる。あるいは、呼んでいなかったのかもしれない。すくなくとも、呼ぼうとはしていた。
なのにオレは他のやつと話をしていた。そいつがだれだったかはもう思い出せない。ただ、ずっとユキと一緒にいると妙な勘繰りをされるから。下世話な冗談でオレとあいつをカテゴライズされたくなかったから。わざとあいつから距離をとって。共感度数三十パーセントの話に乗ってヘラヘラ笑っていた。
あの日も、そんな放課後だった。
「カズ」
七月。体育祭終わり。やがて夕暮れへと変わりゆく教室の片隅。
間に合わせの友人と一緒になって帰ろうとするオレを呼び止めて、ユキは言った。
「お祭り、あるんだって」
それだけの言葉で、幼い頃からずっと一緒にいたオレにはわかった。
ユキがオレをその祭りに誘っていることも。そしてその誘いが、昔やっていた泥遊びとはちがう意味を持つことも。
「……ふーん」
下卑た笑みを浮かべながら周りの連中がオレを残して帰っていく。
それでもユキはオレから目を逸らそうとしなかった。
「……オレが昔と比べておまえと話さなくなった理由って、たぶんわかってるよな?」
オレはだれもいなくなった教室でユキに尋ねる。
ユキは黙ってコクリと頷いた。
わかっている。ユキがわかっていることをわかっている。
オレの心情も。周囲の喧騒も。全部わかったうえで、ユキはオレに話しかけていた。
いつもオレに困らせられてばかりだったユキが、オレを困らせてまでなにかを言おうとしていた。
そこに特別な意味があることも、だからオレにはわかっていた。
ユキは「幼なじみ」だったオレとの関係にべつの名前をつけようとしていた。
「…………わるい。興味ない」
いくばくかの沈黙の果てに、オレはそう答えていた。
祭りに興味がなかったのは本当だ。
それでもユキと一緒にいったなら、きっとたのしい時間になっていたと思う。
ユキに言われてしかたなく勉強や委員の仕事をやっていたときよりも、ずっと。
ただ、その代償として生じるであろう雑多な喧騒と天秤にかけて。オレは静寂を選んだ。
ユキとの仲を進めるより、周囲に騒がれないことを選んでしまった。
べつに今じゃなくてもいいと思った。
もっと先の――いつか。いろんな邪魔がなくなって。ちゃんと素直になれる日に、また二人でどこかにいけばいいと思った。
だからそれは、そういう意味の返事だった。
ユキもそれをちゃんと理解したうえでいつものように笑ってくれるはずだった。あるいはユキらしく強引にオレを祭りに連れていこうとしてくれるはずだった。それならそれでよかったんだ。そうしたらオレはたぶんまたしかたないという顔をしてユキに付き合っていたんだ。それくらいの気構えはあったんだ。
「…………」
ユキの表情が、一瞬、ひどい歪み方をしたのを覚えている。
やがて、ポタリと。
木造の床を一粒の涙が濡らした。
ユキの涙だった。
「…………」
オレはそのとき初めて、自分の言葉でユキを傷つけたことを実感した。
その日からだ。オレがユキの顔をまともに見られなくなったのは。
オレはユキから逃げるように日々を過ごし、ときどき交わしていた会話は完全になくなった。
互いに県内にある別々の大学へと進んで、連絡を取り合うこともなかった。
それでも時間が――歳月が――いつか関係を修復してくれるとオレは思っていた。
彼女がべつの男を好きになり、結婚すると知るまで、オレは都合のいい夢を見ていたんだ。
まだオレにはユキとやりなおす選択肢が残っている、なんて。あいつの存在に依存しながら、どこまでも自分本位に物事を考えていた。
――あの日、オレはちゃんと言葉を尽くすべきだった。
大事にすべきものをまちがえることなく。ユキの想いを正しく理解したうえで。
――オレも同じ気持ちだと、伝えるべきだった。
そのことに気づいたのは、皮肉にも現実がどうしようもない段階にきてからだった。
†
「…………ユキ」
目を覚ますと、薄色の天井があった。
やわらかいベッドと黄色いタオルケット。化粧棚。衣装ケース。小綺麗な液晶テレビと、名も知れぬ観葉植物。
そうだ。ここはユキの寝室で。オレは昨日、ここで眠ったんだ。立ち去ろうとするのをユキに引き留められて。
「……」
隣にユキの姿はない。
リビングのほうから鼻をくすぐる匂いが漂ってくる。
部屋を出てみると、キッチンでユキが料理を作っていた。
「あ、おはよう。ていっても、もう昼過ぎだけどね」
オレは寝ぼけた目を擦って壁の時計を見上げる。
時刻は午後一時を回っていた。
どうやら二週間ぶりの布団を身体が満喫してしまったらしい。
「簡単なものばかりだけど、食べるでしょ?」
そう言いながらユキが茶碗に米を盛る。
レンジの中では既にスーパーの惣菜が回っていた。
「いや、オレは……」
こん、とユキが机に茶碗と大皿を置く。
起き抜けの鼻をくすぐっていたのは焼き鮭の匂いだった。
インスタントのみそ汁と、温めた惣菜と、麦茶を注いだコップを二人分置いてユキは席に座った。
「いただきます」
と、ユキが手を合わせる。
オレはしかたなく彼女の前に座って箸をとった。
「こらっ」
ユキが眉を寄せてオレのことを叱る。
「『いただきます』は?」
「先生かよ」
オレは箸をかじりながら手を合わせた。
「いただきます」
ひねくれてる、とユキに言われた。
なんのことだか、とオレは首を傾げておいた。
「どう?」
「悪くない」
昨日とちがって出来合いのものが多いから、味に目立った驚きはない。
それでも二人でとる食事は――ユキと一緒に食べるものは、なんでもおいしく感じられた。
こうして彼女と顔を突き合わせて食事をするのは、中学のとき以来だろうか?
なんだか、遠い過去の幸福を食べているみたいだった。
「…………夕貴、さんは?」
「仕事」
「ユキは?」
「仕事?」
「まあ」
「この春に大学を卒業して、めでたく専業主婦です」
白い歯を見せてユキが笑う。
きくんじゃなかったと思った。
「主婦っていっても、わたし、それっぽいこととかなーんにもしてないの」
「なんにも?」
「夕貴は、なんていうか、いろんなことをひとりでできちゃうんだ。夜は基本的に外食だし、掃除も洗濯も、わたしがやりたいって言わないと、いつの間にか夕貴が終わらせてるの」
「よくできた旦那ですってか」
「うん。そう。よくできてて、わたしなんか必要ないみたい」
そんな言葉を漏らして、ユキはどこか自嘲気味に笑った。
「…………ユキ?」
ユキの笑みはどこかハリボテめいていて。表情の奥に心を感じることができなかった。
まるで芯のないシャープペンシルをノックし続けているみたいな。
大事ななにかが抜け落ちて見えるそんな笑い方を、昔のユキはしていなかった。
「カズくんは?」
「え?」
「学校」
「あー」
「あ、言いたくなかったらいいんだけど」
「いや。べつに。ふつうにサボり」
「わるいんだ」
「ユキはサボったこととかないのか?」
「ないよ」
「真面目だな。相変わらず」
「相変わらずって?」
「なんでもないよ」
ユキは不思議そうに鼻を鳴らしていたけれど、それ以上深く尋ねてこようとはしなかった。
リビングに心地いい沈黙が下りた。
オレはみそ汁を啜るフリをしてユキのほうを覗く。
これも歳を喰われて別人になった影響だろうか?
あの日の放課後を境に見れなくなった彼女の顔が、今はちゃんと見れるようになっていた。
歳を喰われる前のオレに関する記憶には特別な“処理”が施されていて。うまく辻褄が合わせられている。
だからおそらく、オレの言葉で傷ついた過去をユキは忘れている。
そして、ひどい言葉と態度でユキを傷つけたオレはもういない。
その事実が、ようやく都合のいいほうに作用していた。
「…………」
たった二年だけど。あらためて、本当にキレイになったなと思う。
成長した彼女はただ目鼻立ちが整っているだけでなく、いつの間にか覚えた薄い化粧で元来の美しさに塗装をしていて。なんだか別人みたいだった。
着ている服も年相応に落ち着いていて。怪談話を茶化していた頃みたいに大きな声で笑ったりもしない。
端的にいってしまえば、今のユキは昔とくらべてずいぶん大人びて見える。
実際大人になっているのだから当然なんだけど。
オレの思い出の中にいるユキはもっと快活で、ちゃんと芯のある人間だったから。
今のユキをみていると、落ち着いているというよりどこか元気がないように思えてしまう。
「……」
ユキは目を閉じて食事をとっていた。
まるで懐かしい音楽でもきいているようだった。
窓から差し込む昼下がりの明かりが、そんな彼女の頬を淡く照らしていた。
「淡さは、儚さだ」
「え?」
ユキが目を開ける。
きいていた曲の続きを勝手に歌われたみたいな顔だった。
「昔、そんな言葉をきいたことがあるんだ」
「わたしも、ある」
それは中学の教師が授業の合間にポツリともらした言葉で。教えている内容とはまったく関係のないその言葉が、なぜかずっと頭に残っていた。
ユキも覚えていたんだな、とオレはすこしうれしくなった。
「どういう意味なんだろうな?」
「え、わからないの?」
「そりゃ、他人の言葉だから。でも、なんとなく芯を捉えた言葉な気がする」
オレは大皿の上で鮭の骨を分けながら言った。
「今のユキは、どこか儚く見える」
昨日の夜もそうだった。
彼女はなにか、人には言えない秘密を持っているような気がした。
その隠し事が、彼女の存在感を希薄にさせてしまっているように思えた。
「なにか、悩みでもあるのか? オレでよかったら話くらいきくけど」
自分の口から出てきた言葉に驚く。
今まで彼女のことを気遣うセリフなんて言えたことがなかったのに。
ユキがそういう言葉を求めているときも、改まって支えになろうとすることが妙に恥ずかしくて、ずっと気づかないフリをしていたのに。そうやって、自分がたのしい時間だけをすごしていたのに。
歳を喰われて自分ではないだれかになったことで、オレはようやく素直にユキを心配できるようになっていた。
皮肉だけど、悪くない兆候に思えた。
今のオレなら、あの日のようにユキを傷つけることなく彼女と関わることができるかもしれない。
「……ふふっ」
すこして、ユキは笑った。
「まさか、家出した男の子に心配されるなんてね」
ユキの存在感が、少しここにもどってきたみたいだった。
「大丈夫。わたしは平気だよ」
パクパクと料理を口に運んで「ごちそうさま」をしたユキは、小さくなった胃袋に鮭の皮を詰め込んでいるオレに言った。
「ねえ、カズくん。買い物、付き合ってくれる?」
「買い物?」
「うん。なんでも最近このあたりで怖い人が出るって噂で。カズくんに守ってほしいなって」
「なんだよそれ」
ユキの言う噂が仮に本当だったとして。子供のオレにユキを守れるとは思えない。
でも。ユキという人間を希薄にさせているものがなんなのか、知りたいとは思った。
「……わかったよ」
今のユキについて知って、できることならユキに元気を取りもどさせてやりたい。
せめてあの日オレがつけた傷の深さくらいは、彼女の力になりたい。
もうすぐ夕貴と結婚してしまうユキに対して、それが幼なじみだったオレにできる、最後の罪滅ぼしだった。
†
ユキが暮らしているマンションは昔オレたちが使っていた通学路の近くにあった。
だから連れ立って歩いていると、自然にユキと一緒に日々をすごした場所へと行きついてしまう。
オレの視線の高さはちょうど当時くらいになっていて。余計に心がざわついた。
つい、早足になって歩いてしまう。
そしてオレは隣にユキがいないことに気づく。
「…………どうした?」
オレの後ろで、ユキが立ち止まっていた。
ユキの視線の先には、子供の頃にオレとユキがよく遊んでいた公園があった。
出入り口のところにあるポールスタンドは塗装が剥がれてずいぶんとみすぼらしい感じになっていた。
「ユキ?」
もう一度オレが呼びかけると、ユキは我に返ったように笑顔を作る。
「なんでもない」
スタスタとオレの前を歩いていくユキ。
「買い物もね、ホントはいかなくていいの。でもなにかしてないと、さすがにね」
「怠けていいって言われてるならおもいっきり怠ければいいのに」
「一日中テレビ見たり?」
「マンガ読んだり」
「ゲームしたり?」
「ネットの掲示板荒らしたり」
「なにそれ」
ユキは口に手を当ててくすくすと笑う。
そんなユキにつられてオレもいつの間にか笑っていて。自分がユキと一緒にいられる時間をたのしんでしまっていることに気づく。
二年の空白なんてなかったみたいに昔と同じ空気感で話ができるものだから。つい、オレが魔女に歳を喰わせて子供になっていることを忘れそうになってしまう。
ちゃんと自覚しておかなければいけない。
今の関係はオレにとってあまりにも都合がよく、それゆえにとても卑怯な状態であることを。
ユキはオレのことを覚えていない。オレに傷つけられたことも忘れている。
覚えているのはオレだけだ。
だからこそ、オレはちゃんと関係に線引きをしておかないといけない。
今のオレはあくまでも“夕貴を好きなユキ”のためにここにいるのだから。
「とうちゃく」
と、ユキが足を止めたのは、互いに下校がてらよく立ち寄っていたスーパーだった。
「コーラの三十円を節約するために、昔はコンビニを通りすぎてよくこっちにきてたなあ」
懐かしそうにユキが言う。
オレは大学に入ってからもずっとそんな感じだったので、経済力の差を感じた。
「カズくん、なに食べたい?」
「トリュフ」
「じゃあ、カレーにしよっか」
「ベタだな」
「べつにいいんでしょ?」
「ああ」
オレは買い物カゴと一緒にカートに飛び乗る。惰性で車輪が回ってカートが進む。
ひさしぶりにやってみると爽快で、けっこうたのしかった。ユキには怒られた。
野菜とか、肉とか、カレーの食材がポンポンとカゴの中に入れられていく。
オレはレトルト食品のところで止まり、こっそりとバーモンドカレーをカゴに放り込んだ。
「辛口」
「ああ」
「カズくんも好きなんだ。バーモンドカレーの辛口」
「まあ」
「甘いのに辛いところがいいよね」
正直その感覚はよくわからなかった。オレはジャワ派だ。甘口のやつがいちばんうまい。
でもユキがこれを好きなのは知っていた。いつだったか、そういう話をしたのを覚えている。
「いろんな好みがあっていいと思うんだけど、わたし、ジャワの甘口を選ぶ人だけはナシだと思うの」
「辛いのに甘いのがいいんじゃないのか?」
「わけわかんない」
「なるほど」
オレはこっそりとカゴの中にあるバーモンドカレーの辛口をジャワカレーの甘口に変えておいた。
「まあ、合わないとは思うよ。そういう二人は」
「だよねー」
シチューとか、ポトフとか、ユキはいくつか他のレトルト食品もカゴに入れていった。
「ねえ、カズくんは買い食いとかしてる?」
「たまに」
「わたしも、じつはときどきしてたんだ」
「へえ」
「家に帰れば飲み物も食べ物もあるのにね。どうして、寄りたくなってたんだろう?」
「ひとりで寄ってたのか?」
「ううん。たぶん違う」
「たぶん?」
「だれかと、一緒だった気がする」
「だれかって?」
尋ねながら振り向いて、オレは思わず固まってしまった。
ユキが泣いていた。
いつかと同じように頬を伝った涙の粒が落ちていく。
ポタポタと。ポタポタと。
止まることなく流れ落ちて、床で弾けて溜まりを作る。
「…………ユキ?」
「……え?」
ユキは自分の目元を拭う。
そして信じられないといった顔をして、繕うように笑った。
「……あれ? わたし、なに泣いてんだろう? おかしいよね。ヤバ。どうしよう」
周囲の人間が遠巻きにユキの様子を窺っていた。
その状況が余計にユキを慌てさせていた。
「ごめん。びっくりするよね。わたしもびっくりしてる」
両手で顔を覆い、その場に蹲るユキ。
彼女がどうして急に泣き出したのかオレにはわからなかった。
でも、オレがこの涙を止めなければいけないことはわかった。
「とりあえず、逃げよう」
「え?」
オレはユキの手を引いて駆け出した。
買い物カートを置き捨ててスーパーを出る。
駐車場を横切り、建物の裏へと回り、日陰に入ったところで手を離す。
ユキの涙はもう止まっていた。
「…………ありがとう、カズくん」
恥ずかしそうに視線を逸らしながらユキが言う。
「子供に助けられるなんて、大人げないよね。使い方あってるのかわからないけど」
「なにがそんなにつらいんだ?」
「つらい?」
「つらいから、泣いたんじゃないのか?」
「…………つらい、のかな?」
顎に手を当てて考え込むユキは、自分の中にある不具合をたしかめているようだった。
「たぶん、そうじゃないと思う」
と、難しそうな顔をしたままユキは言った。
「もしかしたらちがわないのかもしれないけど、でも、それだけじゃない気がする」
「心当たりでもあるのか?」
ユキは手を下ろしてオレを見る。
そして小さく微笑みを零した。
「ふいにね。感情が溢れてくることがあるの」
ひどくくたびれた笑みだった。
「せきとめている心が、ふいに、ぶわって。込み上げてきて、流れ出して、止まらなくなるの。普段は平気なんだけど、なにか、昔のことを思い出そうとすると、どうしようもなく泣けてきちゃうときがあるんだ」
「……」
「夕貴といるときはこんなことないの。夕貴はわたしの過去とかきかないでいてくれるから」
気配りができる夕貴のことだ。
きっと昔の話をさせれば彼女が泣き出してしまうのを知って、なにもきかないでいるのだろう。
だとしたらオレはまた――オレがまた、ユキを泣かせたことになる。
「…………わるかったよ、きいて」
「ううん。そうじゃないの」
ユキはごくりと唾を飲み干して言った。
「あの涙は、流すべき涙な気がするんだ」
「……」
流すべき涙なんて、はたしてあるのだろうか?
ユキの頬を伝ったあの涙はうれしくて流れるような類のものじゃなかった。
なにかを悲しんで、寂しく思って流れる涙だった。
もうすぐ先に幸せな結婚を控えているユキが、いったいなにを悲しむ必要があるというのだろう? なにを寂しく思うことがあるのだろう?
「わたしはなにか、大事なことを忘れてる気がする」
「…………」
人は生きていくうえで忘れるべきことを忘れて、覚えているべきことを覚えている。
本来なら、だから、忘却を憂う必要なんてないんだ。
だれかに記憶をいじられでもしていない限り。
「ねえ。カズくんは、なにか知らない?」
「どうしてオレにきくんだよ?」
ユキの中で不自然に欠落した思い出――――それはたぶん、オレだ。
でも、ユキにとってオレはもう大事な相手なんかじゃないはずだ。
少なくとも、いちばんではない。
だから、ユキが苛まれている記憶の齟齬は、一度だけ見た夢みたいにぼんやりと忘れてしまえばいいものなんだ。
「……ホントだ。わたし、子供相手になにきいてるんだろ?」
ユキはオレの頭にポンと手を置く。
「変だよね、わたし」
「そうだな。子供の前で泣く大人なんていない」
「ホントに。夕貴に言ったら怒られるかな?」
「さあ?」
「カズくんと話してると、なんだか懐かしくて。忘れてるなにかを思い出せるみたいで。つい、言わなくていいことまで言っちゃうね」
「ユキはきっと、昔のことなんて無理に思い出そうとしなくていいんだよ。前だけを見て生きていけばそれで幸せになれるんだから」
「慰めてくれてるの?」
「そんなんじゃない」
オレはただ、これ以上オレのことでユキを苦しませたくないだけだ。
オレをちゃんと忘れることが、ユキにとっていちばんの幸せなんだ。
「ありがとう、カズくん」
ユキがオレの頭を撫でてくる。
あやされているみたいで恥ずかしかった。
けれどその手を振り払う気にはなれなかった。
大人の姿をしていたら、たぶん羞恥心に耐えきれなくて振り払っていただろうから。
歳を喰われた恩恵を、やはりすこしは味わっておきたかったのかもしれない。それが卑怯なことだと自覚しておきながら。
「ねえ、カズくん。悪いんだけど、買い物の会計、済ませてきてくれないかな?」
カバンから財布を取り出したユキがオレに一万円を渡してくる。
「さっき泣いちゃった手前、いきづらくて」
「しょうがないな」
オレは受け取った一万円を握りしめてスーパーの中へともどっていく。
そんなオレを手を振って見送るユキの微笑みはやはり希薄で。早く買い物を済ませてもどってやらないと、ふらりとどこかへいってしまいそうだった。
「おい、魔女」
「はーい」
オレは人目につかないスーパーの一角で魔女を呼ぶ。
魔女はあの日と同じ黄色のレインコートを着た幼女としてどこからともなく姿を現した。
「話がちがうじゃないか。どうしてオレの痕跡がユキの中に残ってるんだよ?」
「そりゃ、そういうこともあるよ」
あっけらかんと魔女は言う。
「冷蔵庫の中身と一緒。買い溜めておいたさつまいもがひとつなくなってても気づかないけど、たのしみにしてた杏仁豆腐がなくなってると気づくでしょ?」
「オレは杏仁豆腐かよ」
「プリンのほうがいい?」
「どっちでもいい」
「杏仁豆腐を買った記憶をなくしても、それをたのしみにしてた自分の気持ちは残ってる。だからあの子は今、自分がなにをたのしみにしてたのかわからなくて困ってる状態なんだね」
「どうすればいい?」
「どうって?」
「あいつの……ユキの中からオレとの過去を完全に消し去るには、どうすればいい?」
「それは、時が解決してくれるのを待つしかないねー」
「そんな悠長な……!」
魔女がふっと視界から消失する。
そして次の瞬間、二十歳前後の身の丈になって背後に現れ出た魔女が、オレに覆い被さりながら言った。
「人は生きていくうえで忘れるべきことを忘れて、覚えているべきことを覚えている。だからおまえの言うとおり。あの子の中でおまえとの過去が“忘れるべきこと”にカテゴライズされるまで、ずっとおまえは輪郭だけの存在としてあの子の中で生き続けるんだよ」
「そんな話があってたまるか」
オレは魔女を振り落とした。
床に吸い込まれるようにして消えた魔女は、また幼女の姿にもどってオレの前に姿を現す。
「そもそもどうしておにいちゃんはあの子の中から消えたいの?」
「どうして?」
「大事なのに大事にすることができなかった女の子が、ずっと自分のことを覚えてくれている。それって素敵なことなんじゃないの?」
「…………素敵なわけあるか」
ユキの存在感が薄らいでいる原因が、失われたオレとの過去にあるのなら。
オレは未だにユキを苦しめていることになる。
せっかく歳を喰われて新しい自分になったのに。ユキとの過去も未来も断ち切ったのに。オレの存在がユキの中でとぐろを巻いて、あいつを苛み続けてしまっている。
……あいつを泣かせるのは、もうたくさんだ。
ユキは夕貴と結婚して幸せにならないといけないんだ。
オレに傷つけられたことなんてちゃんと忘れて生きていかないといけないんだ。
「大事じゃない思い出を、大事だったかもしれないなんて勘違いさせたままにしておくわけにはいかない」
「ふーん」
魔女は袋詰めにされたチョコレートをさりげなく買い物カゴに放り込みながら言った。
「それならまあ、方法はあると思うよ」
「方法って?」
「おにいちゃんが歳を喰われたせいで不確かになっている思い出を確かにする方法」
「ホントか?」
「まあ、これは歳喰いの魔女としてってよりは、人生のちょこっと先輩としての見解なんだけど」
「教えてくれ」
「簡単なことだよ」
と、魔女は言った。
「打ち明ければいいんだよ。自分こそがあの子の思い出に巣くう人間だって」
「……どういうことだよ?」
「どういうことだと思う?」
「…………もしかして、歳を喰われた事実を明かすってことか?」
「そう」
「いけないことなんじゃないのかよ?」
「まあ、ダメなことではあるよね。泡になって消えちゃうし」
「……」
「でも、消える間際、歳喰いの魔法は解けて、おにいちゃんはもとの姿にもどるよ。おにいちゃんが存在してたって事実も一緒に。喰った歳をもどしてあげることはできないけど、そういうやり方でなら、一応ほんの少しの間だけ捨てた自分を取りもどすことはできる。すぐに水泡になっちゃうけどね」
「……なんでおまえがそれを教えてくれるんだ? おまえの存在を明かすのはタブーなんだろ?」
「言っておくけど、わたしはべつにおにいちゃんを監視してるわけじゃないから。おもしろい生き様を見せてくれるならべつにいいよ。過去にもそうした事例があるから噂だって広まったんだろうし」
「酔狂か?」
「それくらいしか、たのしいことがないもので」
ただ、と。
魔女は小さく言葉をつけ足す。
「消えるにしても、できることならわたしはハッピーエンドが見たいけどね。わたしがおにいちゃんの歳を喰ってあげたのは、おにいちゃんのしょぼくれた顔がすこしでも希望的になればいいなと思ったからだし」
「……今のオレの顔はどうだ?」
「鏡でも見てみれば?」
そんな言葉を最後に、魔女はまた世界のどこかに潜伏した。
オレはレジに向かいながら魔女が言っていたことを考える。
魔女の言葉が本当なら、オレが正体を明かすことでユキはオレのことを思い出す。
そして彼女の記憶は正されて。ちゃんとオレのことを嫌って。自分が思い出そうとしていた人間がどれだけ自分にとって必要のないやつだったか悟るだろう。
子供の姿をして一緒に風呂に入ったり寝たりした。悪徳は現在進行形で重ねている。
オレさえ正しくいなくなれば、ユキは夕貴とちゃんと幸せになれる。
ならば――。
――そのために、この命を水泡に帰す覚悟はあるか?
「…………愚問だな」
もとより一度捨てた人生だ。自爆スイッチを二度押すことに躊躇いなどあるはずもない。
子供になってひとしきりたのしめそうなことはやってみたが、実際になってみると子供は大人よりはるかに不便で不自由で。ささやかなたのしみの向こうには大きな苦労が透けている。このまま身寄りのない状態で暮らしていけるほど二度目の人生は簡単ではなさそうだ。
それに、これはすこし考えればわかりそうなことだったが、オレはひとつ大事なことに気づいていなかった。
ユキとの過去や未来を“ありえなかったもの”として断ち切ったところで、たしかにあったものに幕を被せて見えなくする行為でしかない。歳喰いによって世界の事実を改変することはできても、オレ自身の記憶や思考にはずっとユキの姿がこびりついている。
ユキにとってはそうでなかったとしても、オレにとってはやっぱりユキ以上に大事なものなどないから。この先もユキより大事に思える相手には出会えるはずがないという絶望は、ずっと消えてはくれそうにない。
このまま生き続けたところで、オレは“選ぶことができなかった正解”に未練がましく苛まれ続けるだろう。
別人になってまでそんな人生を繰り返したいとは思えない。
だったら、せめて。
――――オレはユキがちゃんと幸せになるために、意味を持って消え去りたい。
「一万円で」
オレがレジで万札を出すと店員は驚いた顔をしていた。
釣銭をもらい、テキトーに商品を袋分けしていく。肩にかけると十歳の身体にズシリと重みがのしかかった。
「……余裕なんだよなあ」
強がりを浮かべながらオレはユキのところへともどる。
オレがオレであると知ったときにユキが向けてくるであろう蔑視を思うと、少しだけ歩みが遅れた。
それでも、自分がだれなのかを打ち明けると決めて、オレはスーパーの裏手へと回る。
「…………ユキ?」
ユキの姿はどこにもなかった。
†
出入りする車が三百を数えた。
歩行者信号が百回色を変えた。
オレは買い物袋を捨ててユキを探しに駆け出した。
子供が大人を探しているという状況だけ考えると、まるでこっちが迷子みたいだった。
ユキは、ちょっと目を離しただけでふらりとどこかへってしまいそうだった。それほど存在感が希薄になっていた。
でもまさか本当に、子供のオレをおいてひとりでどこかへいってしまうなんて。
好きなだけ家にいていいと言っておきながら、オレのことを捨てるみたいに消えてしまうなんて、ユキらしくない。ユキは、そんな無責任なやつじゃない。
「…………ユキ……!」
学校。コンビニ。書店。神社。
オレは十歳の足で探せる限りの場所を探した。
そういう場所に踏み込む度、彼女との思い出が頭をよぎった。
――ノートの切れ端で交わしていた一言の文通。
――互いが互いをこっそり待っていた駐車場。
――咳払いされるまでが勝負の立ち読み。
――上るとすぐに軋んでしまう境内。
「…………くそっ」
大学に進んでからは、努めて意識しないようにしていた。
思い出から距離をとることで心の安定を保っていた。
けれど。だから。彼女の姿を探そうとすればするほど、記憶の彼女がひょっこり顔を出して笑いかけてくる。
――『クラスの女子でだれが好き?』
そんなやついない。紙の裏に一度そう書いてから、細かく破り捨てた。
おまえだよ、なんて。言えるわけないじゃないか。言わなくても伝わってたはずじゃないか。
――『あっ、偶然! 今帰り?』
偶然は、起きないことのほうが少なかった。
下校の途中でよく遭遇していたオレたちは、そのまま帰路からすこし外れたところにあるスーパーに寄って、べつに飲みたくもない九十円の炭酸ジュースを一本だけ買って帰っていた。
――『今週のはどこまで読めた?』
あいつはいかにも思春期男子が好きそうなエロコメがなぜか好きで。オレはいまひとつ人気に火がつかないけれど異彩を放っている感じのやつが好きで。趣味はまったく合わなかったのに、なんとなく気になるから薦められたものを読んでみたりして。やっぱりつまらなかったと伝えると、あいつも同じことを言い返してきて。あいつもなんだかんだでオレが好きなやつを読んでくれていたことがすこしだけうれしくて。
――『カズ、みーつけた!』
かくれんぼをやらなくなったのはいつからだろう? あいつとの距離が離れてしまったのはいつからだろう? きっとそれは明確に歳月でわけられたりはしない。
ゆっくりと、自然的に、オレたちは互いに互いから距離をとり、すこしずつ一緒にいる時間を失っていった。
そういう“すこしずつ”が山のように積み重なって、いつの間にかオレにはユキのことがわからなくなっていた。
わからなくなったからこそ、わかり合えていた日々の安らかな記憶が胸をジクジクと突き刺してくる。
この町には、ユキとの幸せな思い出が多すぎた。
「…………」
オレは寂れた公園の前で足を止める。
錆びたポールスタンドに手をつき、荒くなっていた息を整えてから中へと入る。
そして、ドーム型のジャングルジムを指差して言った。
「ユキ、みーつけた」
ユキはジャングルジムの中で三角座りをして俯いていた。
まるでかくれんぼをしている子供のようだった。
ユキがゆっくりと顔を上げる。
遮られた光の奥にある闇が、彼女の顔に暗い影を降ろしていた。
「もしかしたら、わたしはもう、ダメなのかもしれない」
ぼんやりとオレのほうを見つめたまま彼女は呟く。
その目はひどく虚ろで、現在を生きている人間の目ではなかった。
「ひとりでいる時間がどうしようもなく孤独に感じる。だれかを待っていることに耐えられなくなる。漂白された喪失感が、洗っても洗っても落ちないんだ」
ユキの手は乾いた土に塗れていた。
何度も擦りつけたらしく、手のひらにこびりついていた。
「わたしはいつから、自分の人生を背負いきれなくなったんだろう?」
「…………」
オレが知っているユキはそこにいなかった。
そこにいたのは、茫漠とした虚無感に捉われて、ただただ脆弱で、ただただ薄弱になったひとりの弱い人間だった。
なんと言葉をかけたらいいのかわからなかった。
少なくとも、同じく喪失感に苛まれ、そして背負いきれなくなった人生の自爆スイッチを押したオレが彼女を励ますのはちがう気がした。
「ねえ、カズくん、怒ってる?」
「べつに怒ってないよ」
「そう。よかった」
――よかった。
子供を許す側に立つべき大人が言うようなセリフじゃない。
「泣いてたのか?」
「うん、ちょっと」
ユキの目は赤く腫れていた。
薄い化粧がすこしだけ落ちて、やぼったくなった目の周りが余計に目立っていた。
「いつからそんな感じなんだ?」
オレはジャングルジムの上に寝そべって尋ねる。
確信を得たかった。オレが歳を喰わせたせいで、彼女はこんなふうになっているのだと。
オレさえ消えれば、ユキはもとの溌剌としたユキにもどるのだと。
二週間前――オレが歳喰いの魔女のところに訪れた日と彼女の答えが一致したら、オレはすぐにでも秘密を打ち明けるつもりでいた。
「三年くらい前から」
ユキはかすれた声でそう答えた。
灰色の空から、ポツリと雨粒が落ちてきた。
「…………三年前だって?」
「うん。夏休みに入る前――体育祭の後――夕暮れの教室で――わたしはなにか大事なものを失くした気がする」
それはオレがはじめて明確にユキを拒んだ日だった。
オレとユキの間にあったなにかが、決定的に断ち切られてしまった日だった。
「……ッ」
もし“あの日まで”を思い出してユキが喪失感に苛まれるというのなら、オレはその感情を取り除いてやれる気でいた。
オレという人間のことをちゃんと思い出させて、そしてきちんと軽蔑されることでユキを元通りにしてやれるつもりでいた。
でも“あの日から”ずっとユキがそういう気持ちでいたのだとしたら、今のオレにできることはないように思えた。
なぜならその虚無感は――喪失感は――歳喰いの事情では説明できないからだ。
ユキの言葉が本当なら、彼女はオレが子供になってしまうよりまえからこんなふうに弱っていたことになる。オレが歳を喰われるよりもまえからこんな状態だったことになる。
だけどそんな素振りも、気配も、オレの前では見せたことがなかったのに。
あの日からも、ユキはずっと変わらずユキのままだったはずなのに。
「バカみたいな話、してもいい?」
ジャングルジムの下でユキが言う。
「わたし、その日だれかに告白しようとした気がするの。二人きりになって、どうかわたしと恋人になってくださいって」
「……」
「その人はわたしにとってすごく大切な人で。でも長い間近くにいすぎたから、なかなか伝える機会がなくて。そういうだらっとした関係が心地よくて。でも、それだけじゃ不安で。いつかその人が他のだれかを好きになってしまいそうで。わたしがひとりになってしまいそうで。それがいやだったから、やっとその日、何年か分の気持ちを口にしようとしたの」
「…………」
「顔も名前も思い出せないけど、わたしの人生はその人のおかげで成立していたんだと思う」
「…………なんで、そんなやつのこと今でも気にしてるんだよ?」
長い沈黙があった。
降ってくる雨の粒が大きくなって。その勢いも増していた。
しんしんと。降り続ける雨音に飲み込まれてしまいそうなほど小さな声で、やがてユキはポツリと答えるのだった。
「…………たぶん、まだ好きなんだと思う」
オレはジャングルジムから転がり落ちて、声を押し殺しながらその場で吐いた。
最低な気分だった。
最低で、最悪で、身体が内側からねじ切れそうだった。
頭がひどく重たく感じた。心臓がひどく小さく思えた。
「…………ッ」
オレは、ユキがもうオレのことを見限っていると思ったから、絶望して歳を喰われたのに。
オレが歳を喰われたせいでユキが苦しんでいると思ったから、せめて最後に彼女の記憶を正して、正しく嫌われようと思っていたのに。
――――まだ、好きだって? なんだよそれ。
なら、オレの選択は、全部まちがいだったことになるじゃないか。
オレもユキが好きで。あの日ユキと一緒に夏祭りにいけなかったことをずっと悔やんでいて。できることならもう一度ユキに会って謝りたくて。すべてをやり直したくて。だけどそれができないから、やり直せる段階をとっくに過ぎてしまっていたから、オレはオレの全部を捨てたのに。
ユキと一緒に重ねた歳も、時間も、魔女に喰わせてしまったのに。
「…………」
どうしてオレは、こうも愚鈍なんだ。
失ってからはじめてその大切さに気づいたわけじゃない。
失ってからもしばらくの間、それを失っていることに気づくことができなかったわけでもない。
失ったと思っていたものが――失われたと思っていたユキの気持ちが――まだ残っていたなんて。オレはまだ大事なものを失っていなかったなんて。
そしてその大事なものを、またオレ自身の選択によってこの手が届かないところまで遠ざけてしまうなんて。
「今でも毎日夢を見るの。顔も思い出せないその人がわたしの前に現れて、あの日の返事をしてくれる夢。その夢を見たあと、起きて現実を思い出すと、なんだか夢のほうが正しい時間のように思えて。ずっと夢から覚めなければいいのにって思うようになって。現実に、耐えられなくなる」
ユキの言葉はドームの中で反響してひどくくぐもってきこえていた。
その声が、急に上擦って冗談味を帯びようとする。
「まあ、たぶんフラれてるんだけどね」
「そんなことない」
「え?」
オレはジャングルジムに寄りかかる。
そしてあの日ユキに言えなかった本当の気持ちを伝えようとする。
すると、濡れた腕がぶくぶくと泡立ち始めた。
降りしきる雨に打たれても割れることなく昇り続ける水泡は、オレに歳喰いの代償を思い出させる。
『もし歳を喰われたことを他人に話してしまったら、おまえの身体は水泡となって消える。おとぎ話にでてくる人魚のように』
ケラケラと。
どこかで魔女が笑っている気がした。
「…………なんでもない」
オレがそう言うと泡は消えて、腕はまた雨に濡れるばかりになる。
ここまで走ってきたときは、泡になって消えるくらいなんでもないと思っていた。
ユキのいない未来に生きる意味などないと確信していたから。
けれど、もう、知ってしまった。ユキの気持ちを。
知ってしまったからこそ、オレの中にハッキリと生まれてしまった。
ユキに対するどうしようもない未練が。
ありえないと一蹴できていた未来に対する淡い期待が。
生まれてしまったから――消えたくないと、思ってしまった。
「…………そいつのことが好きなんだったら、どうして結婚なんか……」
「うん。正しくないよね」
でも、とユキは言う。
「いつまでもだれだかわからない人を――振り向いてくれない人を想い続けることもたぶん正しくないから、そういう状態から、わたしは早く脱したい」
矛盾していると思った。
正しくないことをして、正しくなろうとするなんて。
好きなやつの好意をないがしろにしておいて、今更すり寄ろうとしているどこかのだれかみたいに。矛盾している。
「もう二十歳だし、わたしはちゃんとした大人にならないといけないんだ」
「ちゃんとした大人ってなんだよ?」
「過去じゃなくて、現在を生きられる人」
――ちなみに子供は、未来を生きられる人。
そういってジャングルジムから抜け出したユキは、オレを抱きかかえて近くにあった滑り台の下に潜り込ませる。
「いつまでも濡れてたら風邪ひくでしょ」
「子供は風邪の子だ」
「それ、字がちがう」
ユキもオレの前で腰を下ろして雨宿りをする。
互いに三角座りをして、いつかの体育祭みたいだった。
「…………話はしたのかよ?」
「話?」
「その、ユキがまだ好きなやつと」
「ううん。どこにいるのか――そもそも本当にいるのかもわからない相手だし」
「どこにいるのかわかってたら、連絡したのか?」
「……たぶん、しなかっただろうな」
オレはユキがこの町の短大に通っていたことを知っていた。
ユキもたぶん、オレが近くの大学に通っていることは知っていたと思う。
けれど、一度として連絡がくることはなかった。
「どうして?」
「なに話したらいいか、わかんないもん」
「話題なんていっぱいあるだろ。それこそ、もうすぐ結婚することとか」
「じゃあ、カズくんなら話せる? もうすぐ結婚するけど、まだあなたのことが好きなんです、なんて」
「…………」
話せる、わけがなかった。
だからオレは魔女に歳を喰わせたんだ。
どうして結婚するのかユキに尋ねることもせず、本当の気持ちを打ち明けることもせず、拗ねるように、世界から自分を消したんだ。
ユキのことを子供だと思うオレも彼女と変わらない。
オレたちは互いにあの日から成長できていない。
心をずっとあの放課後に置き忘れてきてしまっている。
だからユキは時間を進めて成長することを選んだ。オレは退行することを選んだ。
オレたちの間にあるのはそれっぽっちのちがいだけで。それこそが決定的なちがいだった。
人生が円環でない以上、オレたちの時間が再び交わることはもうない。
「…………なーんて。わたし、なんで子供にこんな話しちゃってるんだろ?」
ユキが背筋を伸ばしてわかりやすくおどける。
すぐにゴツンと頭を滑り台にぶつけて。彼女は昔と同じ照れ笑いを浮かべて言った。
「夢みたいな思い出の彼と、カズくんが、やっぱりどこか似てるからかな? 雰囲気とか」
「…………もしも……」
オレは水泡へと変わっていく腕を背中に隠してユキの目を見つめる。
「もしもオレがその相手だって言ったら……ユキはどうする?」
隠した腕の感覚がなくなっていく。
靴の中で爪先も水泡へと変わっていくのがわかる。
痛みはなかった。不思議な心地よささえあった。
「…………カズくんが……?」
今更真実を打ち明けたところで状況は変わらない。
ユキがオレのことをちゃんと思い出したとしても、すぐにオレは消えてしまう。
もうオレに、彼女の気持ちに応えてやることはできない。
それでも、言葉にしようとするのをやめられないのは、たぶん。
今を逃せばもう二度とオレの中にあるユキへの気持ちを伝えることはできないと、心のどこかで確信してしまっていたからだった。
「…………ユキ……オレは…………!」
「――――浩太!」
意を決して口を開こうとしたオレの腕がいきなりグイと引っ張られる。
ユキの手じゃない。枯れ木みたいにやせ細り、青白い血管の浮き出た手だった。
そんな手にさえ軽々と引き上げられてしまった十歳の身体はユキから離れて、知らない女に抱きかかえられる。
目の下に濃いクマのある女だった。歳は三十半ばくらいだろうか。
ギョロついた目と褪せた唇の色のせいでかなり年老いて見えた。
「ああ、浩太! やっとみつけた!」
オレのことを「浩太」と呼ぶ女は、骨ばった手で愛おしそうにオレの顔中を撫でまわし、きつくオレのことを抱きしめた。
皮脂の浮いた髪とカサついた肌が擦れて、ひたすらに不快だった。
「だれだよ、あんた?」
オレは眉をしかめながら尋ねる。
ユキも心配そうに立ち上がってこっちを見ていた。
「ああ、浩太! 浩太!」
女は満面の笑みでオレのことを抱いたまま放そうとしない。
「あの……」
見かねたユキが手を伸ばす。
すると、女のだぶついた目がギロリと尖った。
女はブンと振った腕でユキの手を払い落とす。
「あなたが浩太をさらったのね!」
動物が威嚇するみたいに歯を出して、伸びきった爪をユキに向ける。
このままではいけないと思い、オレは努めて抑揚のない声で言った。
「オレは和樹だ。浩太じゃない」
「ああ、浩太。お母さんのこと忘れちゃったの? いいわ。帰ってごはんにしましょう」
くるりと踵を返した女は、オレを抱いたまま足早に公園を出ていこうとする。
オレの言葉はまったく通じていないようだった。
「オレの母親はあんたじゃない!」
必死に逃れようと女の腕の中で暴れる。
簡単に折ってしまえそうな腕はしかし、十歳の力では振りほどくことができないほどの力でオレを抱き、決して離そうとしなかった。
「カズくん!」
オレは追いかけてきたユキに向かって手を伸ばす。
その手をユキが掴もうとした、瞬間だった。
「さわらないで‼」
――パン、と。
鋭い音が雨音を打ち消した。
「――――」
振り返った女が、ユキの頬に力いっぱいの平手打ちをしていた。
白かったユキの頬がじわりと赤くなっていく。
ユキはぶたれた頬を押さえて立ち尽くしていた。なにをされたのか理解するのに時間がかかっているようだった。
「もうわたしから浩太を奪わないで‼」
女の悲痛な叫びが鈍色の空に吸い込まれていく。
「…………わたしには、浩太しか、いないのよ……っ!」
いったいこの女はなにを勘違いしている?
そんなにオレはその「浩太」とかいう子供に似ているのだろうか?
だとしても、オレは浩太じゃない。和樹だ。
「ユキ!」
オレの声ではっとユキが目を開く。
そして再びオレを助けようと手を伸ばす。
「カズ!」
女がまたユキのことを叩こうとする。
しかし手を振り上げたまま、女は動きを止めた。
オレはユキに抱き下ろされて地面に立つ。
それから女のほうを見た。
「ケガはないかい?」
女の手を、スーツ姿の夕貴が掴んでいた。
「……夕貴、どうして?」
「仕事回りをしてたところでたまたま見つけてね」
「放して!」
オレのほうだけを見て喚き散らす女を夕貴はしっかりと拘束していた。
「ここは僕に任せて、とりあえず二人はどこかに避難するといい」
「う、うん! いこう、カズ!」
「ああ」
ユキがオレの手を引いて公園から逃げ出す。
「――――浩太‼」
女の叫び声を耳にして、振り返る気にはなれなかった。
†
オレたちは走った。走り続けた。
うらぶれた個人商店を越えて。営業をやめたガソリンスタンドのロープをくぐり。鶏小屋の前は息を止めて走り抜け。大きいけれどなんの意味があるのかよくわからない石碑を周り。短い橋を渡り。歩道橋をくぐり。老人ホームのまえを通り過ぎる。
昔二人で見ていた景色が風のように過ぎ去っていく。
今まではそれらを思い出す度に孤独に苛まれていた。世界でひとりきりになってしまったような気持ちになって、心臓がゆっくりと腐り落ちていくようだった。
けれど、今は隣にユキがいて。いつかのようにオレたちは“二人”になっていて。オレの手はたしかにユキの手と繋がっていて。
たったそれだけのことで、オレの胸は鼓動を思い出したように高鳴っていた。
そうして、どれくらいを駆け抜けただろう?
気がつくと、降っていた雨はやんでいた。
公園はとっくに見えなくなっていた。
「ユキ。もういい」
「うん」
ユキは近くの空き地に入ったところで立ち止まった。
そこは地区のラジオ体操でも使われていた平野だった。生え散らかった雑草と乾いた土が夏の風に吹かれている。オレが家で寝ているとユキが毎日起こしにきて、あくびをやめないオレの首にいつもスタンプカードを巻いてくれていた。夏休みの、なんでもない一幕だった。
「怖かったね」
膝に手をついて息を吐きながらユキが言う。
「こんなに走ったの、いつ以来だろう? 息、切れるー」
オレはオレでしっかりと疲弊していた。
二十歳のユキと、十歳のオレ。その体力はちょうど同じくらいらしい。
腰に手をついて顔を上げると、鈍色だった空がいつの間にか青く変わっていた。
「カズくん、だいじょうぶ?」
「問題ない」
「さっきの人、カズくんは知らないんだよね?」
「ああ、知らない」
「そっか」
ふうーっと長い息を吐き出してからユキは言う。
「じゃあたぶん、最近うわさになってる人だ」
「怖い人?」
「怖かった?」
「べつに」
「そっか」
ユキはオレの心を見透かしているみたいに笑った。
懐かしい――すべてとはいわないまでも、オレのいくらかを知ってくれている幼なじみの笑みだった。
「行方不明になっちゃった子供を探してるんだって。で、さっきみたいによその子を自分の子供だって言い張って連れて帰ろうとするらしいの」
「見分けとかつかないものなのか」
「いないんだって、子供」
「は?」
「浩太くんなんて子供、あの人には最初からいないって近所の人は言ってた。最初からいない子供をいると思い込んで探してるなんて、おかしいよね」
「……」
「まるで、わたしみたいだ」
ユキも、いない人間を心のどこかで探している。いないことになってしまった人間の影を追い求めている。
でも、本当はそうじゃない。
ユキが探している人間はここにいる。
オレは、ここにいる。
「なあ、ユキ」
「ねえ、カズくん」
互いの声が重なった。そのあとに投げ合った沈黙も。
重なって、譲り合って、そしてユキが口を開く。
「このままどっかにいっちゃおうか?」
「え?」
「電車に乗ってさ。こんな田舎町からおさらばして。いきたいところにいって。したいことをして。自由気ままに旅でもしながら。だれの目も届かないところで、二人で一緒に暮らしてみない?」
オレのほうを見ようとせず、高い雲を見上げながらユキはそう言った。
「…………」
オレは、すぐに答えてやることができなかった。
ユキの提案がいやだったわけじゃない。決してそうじゃない。
ただ、あまりにも現実味のない話で。ユキがこの町からいなくなってしまうことで生じる――結婚式の準備とか、彼女のことを心配する人とか、そういういろんな問題について考えると、オレが口を開くには数秒が必要だった。
そして、数秒が経った。
「――――なーんて」
頷こうとしたオレの前でユキはおどける。
「急に言われてもムリだよね、そんなこと。気にしなくていいよ、冗談だから」
大きく三歩歩いて。
それから後ろで手を組んで。
そしてユキはクルリと身を翻した。
「そう。全部、冗談」
振り向いたユキの顔には、あの、淡い影がまとわりついていた。
「……なあ、ユキ」
さっきまでたのしそうに笑っていたユキがどこかへいってしまったみたいで。それがいやで。オレはあの頃のユキに向かって手を伸ばすみたいに、口を開く。
「……もし、オレがおまえの想っている相手だったら…………」
「冗談だよね?」
たしなめるみたいにユキは笑う。
ひどく大人びた笑みだった。
「わたしの頭にい続ける人は、わたしと同い年だから」
「それはオレが昔の姿に退行したからで……」
「もう、いいの」
と、ユキは言った。
今の空と同じ、晴れやかな顔だった。
雲ひとつない、わけじゃない。
彼女の顔には変わらず影が下りている。
それでも、彼女は青空みたいに笑っていた。
「今のわたしには、ちがう大事な人がいるから」
オレはあの一回転で彼女がなにを捨てたのか理解した。
ユキはあの瞬間、あの数秒のうちに、オレとの思い出に見切りをつけたのだ。
「だから、存在しない相手を想像し続ける夢遊病患者はここでおしまい」
ポン、と顔の前で手を叩いてユキは言う。
「彼との思い出はね。たのしくて、心地よくて。最初から、ずっと夢みたいだった。でも、だからこそ、いつか覚めるような気がしてた。覚めて、なにもかもがなかったことになっちゃうような気がしてた。それが嫌で、ずっと現実から目を背けてた。目を閉じて、夢を見続けようとしてた。けれど、それも終わり。わたしが生きているのは夢の中じゃなくて、ここにある現実なんだから。わたしはちゃんとわたしの意志で目を覚まさないと、いつまでたっても明日が始まらない」
「…………ちょっと、まってくれよ」
オレはユキの目を見る。
その目はたしかに明日を見ようとしていた。
囚われていた過去を「夢」という言葉で一括りにして捨て去って、二人の思い出にフタをしようとしていた。オレと一緒だった時間を全部なかったことにしようとしていた。
オレはみっともなく縋りつきそうになる手をぐっと丸めて背に隠す。
「ねえ、カズくん。カズくんのおかあさんやおとうさんだって、きっとさっきの人みたいに心配してると思うよ?」
「そんなことない」
「わたし、叩かれたときにわかったの。カズくんを家に泊めて、こうしてずっと一緒にいるのは、わたしのわがままなんだって」
「それのなにがいけないんだ?」
「わたしがカズくんと一緒にいるのはべつにわたしがやさしいからじゃないの。ただ、カズくんがどことなく似てたから」
「だれに?」
「夢の中の彼に」
「……ッ」
「十歳の男の子に初恋の相手の面影を重ねてるんだよ? それってふつうに、怖いよね」
「怖くなんかない。むしろオレは、今の弱ったユキを見捨ててしまうほうが怖い」
「そうだよね。わたし、カズくんを心配するフリして、じつはカズくんに心配されてるんだよね。それもなんとなくわかってた。わかってて、甘えてた。それって絶対、正しくないよ」
急に正論を並べ立てて。
その正しさに耐えられるだけの頑強な心も持っていないくせに。
ユキはオレを拒絶することで、オレの向こうに垣間見える本当のオレの面影を振り切ろうとしている。
「わたしはちゃんと決別しなくちゃいけないんだ。霧がかった思い出と、カズくんに」
「そんな不安定な状態で結婚なんかして、おまえは幸せになれるのかよ? 過去と決別しなきゃいけないって理由で結婚しても、不幸になるだけだろ」
「夕貴はいい人だよ」
そんな話はしていない。
夕貴がどんな人間かなんてきいてないし、知らない。わかっているのは、オレよりできた人間だってことくらいだ。
夕貴がなんだっていうんだ。相手がどれだけいいやつでも、大事なのはユキの気持ちだ。
今のユキがだれを好きかだ。
「…………きっと、十年後、わたしは幸せなんだと思う」
「今は?」
「……」
その問いに返事はなかった。
今のユキは、たしかな実感があることだけを口にしようとしていた。
そうすることで、自分の中にある“不確かなもの”をすこしずつ消していこうとしているみたいだった。
「…………夕貴が、好きなのか?」
しばらくの沈黙を置いて。
ユキはその問いに答えた。
「うん。だから結婚するんだよ」
小さく頷いて、恥ずかしそうにはにかむユキ。
その頬はかすかに紅潮していて。心と表情がたしかに連動していて。本心から、彼女がそう答えているのがわかった。
悔しいほどに、わかってしまった。
だから。
「…………そうか」
オレは、納得するしかなかった。
そう。大事なのはユキの気持ちなんだ。
オレのことをまだ好きだと言われて、絶望しながら舞い上がっていた。彼女の気持ちに応えてやることはできないけど、それでも、不本意な結婚は止められるかもしれないと思った。止めたほうがユキにとって幸せなのかもしれないと思えた。
あるいは、オレの正体を打ち明けることで、一瞬でも互いの想いに応え合うことができるかもしれないと思えた。
でも、そうじゃない。
ユキはもうオレを“好きでいるべきではない”と結論づけた。そしてオレではなく、ちゃんと自分を愛してくれる相手を選んだ。現実の状況に、心を追いつかせた。不確かな思い出を全部「夢」の中へとしまい込んで。
ユキにとっていちばん大事な相手がもうオレではないというのなら、今更正体を打ち明けたところで彼女を余計に混乱させてしまうだけだ。
「…………わかったよ」
オレは精いっぱいの明るい顔で微笑み返した。
ユキはオレ自身と決別しようとしている。
ならばオレにできるのは、その邪魔をしないように、ユキの前から姿を消してユキと夕貴の幸せを祈ることだけだった。
「――――ユキ」
オレとユキが走ってきた道のほうから夕貴が駆けてくる。
どうやら穏便に事を済ませてきたらしい。
もう仕事も終わらせてこのまま帰れるというので、夕貴はユキと手を繋いで一緒に帰った。オレが捨ててきた買い物袋を探しに寄ったりして。申し訳ないと謝るユキと、彼女の頭をやさしく撫でて許す夕貴と。
そんな二人のことを、オレはずっと後ろから見ていた。
目の前にいる幼いユキを見て、そう思った。
彼女が結婚すると知った日から繰り返し見ている、過去の断片をなぞる夢だった。
「カズ!」
小学生のユキが、たのしそうに手を振りながらオレのことを呼んでいる。
オレも同じように手を振り返して、近くの公園で日が暮れるまで遊んでいた。きっとずっとそういうふうに遊び惚けて大人になっていくのだろうとオレは思っていた。あえて言葉にはしなかったけれど、ユキもきっとそう思っていただろうし、互いにそう思っているのならこの関係性が変わるはずがないと、心のどこかで確信していた。
「夢でも見てるみたいだね」
遊びながら、ときどきユキがそんなことを呟いていたのを覚えている。
それがどういう意味なのか、尋ねてみてもユキはとぼけた様子で笑ってはぐらかすばかりだった。だからいつからか、オレはその言葉をただの口癖だと思って考えることをやめていた。
「カズ!」
中学生のユキが、ふくれっ面でオレのことを呼んでいる。
オレはなんでもきっちりやろうとするあいつのことをめんどくさく思いながら、しかたなくテスト勉強をして、しかたなく委員会の仕事をこなした。
他のやつには注意なんてしないくせにオレにだけいろいろ言ってくるのは正直うっとうしかったけれど、あいつに言われてしかたなくやるあれこれはオレをすこしだけ幸せな気持ちにさせていた。ユキもそうやってオレを叱りながら悪くないため息を零していた。だからきっと、そういう関係性の下でオレたちのコミュニケーションは成立していた。
「ねえ、カズ。わたし、夢でも見てるような気がするんだ」
オレのめんどうを見ながらユキが口にしたその言葉に、オレはテキトーな相槌で返していた。
覚めながら見る夢なんてないだろうと心の隅でボヤきながら。
「カズ」
高校生のユキが、すこし遠くでオレのことを呼んでいる。あるいは、呼んでいなかったのかもしれない。すくなくとも、呼ぼうとはしていた。
なのにオレは他のやつと話をしていた。そいつがだれだったかはもう思い出せない。ただ、ずっとユキと一緒にいると妙な勘繰りをされるから。下世話な冗談でオレとあいつをカテゴライズされたくなかったから。わざとあいつから距離をとって。共感度数三十パーセントの話に乗ってヘラヘラ笑っていた。
あの日も、そんな放課後だった。
「カズ」
七月。体育祭終わり。やがて夕暮れへと変わりゆく教室の片隅。
間に合わせの友人と一緒になって帰ろうとするオレを呼び止めて、ユキは言った。
「お祭り、あるんだって」
それだけの言葉で、幼い頃からずっと一緒にいたオレにはわかった。
ユキがオレをその祭りに誘っていることも。そしてその誘いが、昔やっていた泥遊びとはちがう意味を持つことも。
「……ふーん」
下卑た笑みを浮かべながら周りの連中がオレを残して帰っていく。
それでもユキはオレから目を逸らそうとしなかった。
「……オレが昔と比べておまえと話さなくなった理由って、たぶんわかってるよな?」
オレはだれもいなくなった教室でユキに尋ねる。
ユキは黙ってコクリと頷いた。
わかっている。ユキがわかっていることをわかっている。
オレの心情も。周囲の喧騒も。全部わかったうえで、ユキはオレに話しかけていた。
いつもオレに困らせられてばかりだったユキが、オレを困らせてまでなにかを言おうとしていた。
そこに特別な意味があることも、だからオレにはわかっていた。
ユキは「幼なじみ」だったオレとの関係にべつの名前をつけようとしていた。
「…………わるい。興味ない」
いくばくかの沈黙の果てに、オレはそう答えていた。
祭りに興味がなかったのは本当だ。
それでもユキと一緒にいったなら、きっとたのしい時間になっていたと思う。
ユキに言われてしかたなく勉強や委員の仕事をやっていたときよりも、ずっと。
ただ、その代償として生じるであろう雑多な喧騒と天秤にかけて。オレは静寂を選んだ。
ユキとの仲を進めるより、周囲に騒がれないことを選んでしまった。
べつに今じゃなくてもいいと思った。
もっと先の――いつか。いろんな邪魔がなくなって。ちゃんと素直になれる日に、また二人でどこかにいけばいいと思った。
だからそれは、そういう意味の返事だった。
ユキもそれをちゃんと理解したうえでいつものように笑ってくれるはずだった。あるいはユキらしく強引にオレを祭りに連れていこうとしてくれるはずだった。それならそれでよかったんだ。そうしたらオレはたぶんまたしかたないという顔をしてユキに付き合っていたんだ。それくらいの気構えはあったんだ。
「…………」
ユキの表情が、一瞬、ひどい歪み方をしたのを覚えている。
やがて、ポタリと。
木造の床を一粒の涙が濡らした。
ユキの涙だった。
「…………」
オレはそのとき初めて、自分の言葉でユキを傷つけたことを実感した。
その日からだ。オレがユキの顔をまともに見られなくなったのは。
オレはユキから逃げるように日々を過ごし、ときどき交わしていた会話は完全になくなった。
互いに県内にある別々の大学へと進んで、連絡を取り合うこともなかった。
それでも時間が――歳月が――いつか関係を修復してくれるとオレは思っていた。
彼女がべつの男を好きになり、結婚すると知るまで、オレは都合のいい夢を見ていたんだ。
まだオレにはユキとやりなおす選択肢が残っている、なんて。あいつの存在に依存しながら、どこまでも自分本位に物事を考えていた。
――あの日、オレはちゃんと言葉を尽くすべきだった。
大事にすべきものをまちがえることなく。ユキの想いを正しく理解したうえで。
――オレも同じ気持ちだと、伝えるべきだった。
そのことに気づいたのは、皮肉にも現実がどうしようもない段階にきてからだった。
†
「…………ユキ」
目を覚ますと、薄色の天井があった。
やわらかいベッドと黄色いタオルケット。化粧棚。衣装ケース。小綺麗な液晶テレビと、名も知れぬ観葉植物。
そうだ。ここはユキの寝室で。オレは昨日、ここで眠ったんだ。立ち去ろうとするのをユキに引き留められて。
「……」
隣にユキの姿はない。
リビングのほうから鼻をくすぐる匂いが漂ってくる。
部屋を出てみると、キッチンでユキが料理を作っていた。
「あ、おはよう。ていっても、もう昼過ぎだけどね」
オレは寝ぼけた目を擦って壁の時計を見上げる。
時刻は午後一時を回っていた。
どうやら二週間ぶりの布団を身体が満喫してしまったらしい。
「簡単なものばかりだけど、食べるでしょ?」
そう言いながらユキが茶碗に米を盛る。
レンジの中では既にスーパーの惣菜が回っていた。
「いや、オレは……」
こん、とユキが机に茶碗と大皿を置く。
起き抜けの鼻をくすぐっていたのは焼き鮭の匂いだった。
インスタントのみそ汁と、温めた惣菜と、麦茶を注いだコップを二人分置いてユキは席に座った。
「いただきます」
と、ユキが手を合わせる。
オレはしかたなく彼女の前に座って箸をとった。
「こらっ」
ユキが眉を寄せてオレのことを叱る。
「『いただきます』は?」
「先生かよ」
オレは箸をかじりながら手を合わせた。
「いただきます」
ひねくれてる、とユキに言われた。
なんのことだか、とオレは首を傾げておいた。
「どう?」
「悪くない」
昨日とちがって出来合いのものが多いから、味に目立った驚きはない。
それでも二人でとる食事は――ユキと一緒に食べるものは、なんでもおいしく感じられた。
こうして彼女と顔を突き合わせて食事をするのは、中学のとき以来だろうか?
なんだか、遠い過去の幸福を食べているみたいだった。
「…………夕貴、さんは?」
「仕事」
「ユキは?」
「仕事?」
「まあ」
「この春に大学を卒業して、めでたく専業主婦です」
白い歯を見せてユキが笑う。
きくんじゃなかったと思った。
「主婦っていっても、わたし、それっぽいこととかなーんにもしてないの」
「なんにも?」
「夕貴は、なんていうか、いろんなことをひとりでできちゃうんだ。夜は基本的に外食だし、掃除も洗濯も、わたしがやりたいって言わないと、いつの間にか夕貴が終わらせてるの」
「よくできた旦那ですってか」
「うん。そう。よくできてて、わたしなんか必要ないみたい」
そんな言葉を漏らして、ユキはどこか自嘲気味に笑った。
「…………ユキ?」
ユキの笑みはどこかハリボテめいていて。表情の奥に心を感じることができなかった。
まるで芯のないシャープペンシルをノックし続けているみたいな。
大事ななにかが抜け落ちて見えるそんな笑い方を、昔のユキはしていなかった。
「カズくんは?」
「え?」
「学校」
「あー」
「あ、言いたくなかったらいいんだけど」
「いや。べつに。ふつうにサボり」
「わるいんだ」
「ユキはサボったこととかないのか?」
「ないよ」
「真面目だな。相変わらず」
「相変わらずって?」
「なんでもないよ」
ユキは不思議そうに鼻を鳴らしていたけれど、それ以上深く尋ねてこようとはしなかった。
リビングに心地いい沈黙が下りた。
オレはみそ汁を啜るフリをしてユキのほうを覗く。
これも歳を喰われて別人になった影響だろうか?
あの日の放課後を境に見れなくなった彼女の顔が、今はちゃんと見れるようになっていた。
歳を喰われる前のオレに関する記憶には特別な“処理”が施されていて。うまく辻褄が合わせられている。
だからおそらく、オレの言葉で傷ついた過去をユキは忘れている。
そして、ひどい言葉と態度でユキを傷つけたオレはもういない。
その事実が、ようやく都合のいいほうに作用していた。
「…………」
たった二年だけど。あらためて、本当にキレイになったなと思う。
成長した彼女はただ目鼻立ちが整っているだけでなく、いつの間にか覚えた薄い化粧で元来の美しさに塗装をしていて。なんだか別人みたいだった。
着ている服も年相応に落ち着いていて。怪談話を茶化していた頃みたいに大きな声で笑ったりもしない。
端的にいってしまえば、今のユキは昔とくらべてずいぶん大人びて見える。
実際大人になっているのだから当然なんだけど。
オレの思い出の中にいるユキはもっと快活で、ちゃんと芯のある人間だったから。
今のユキをみていると、落ち着いているというよりどこか元気がないように思えてしまう。
「……」
ユキは目を閉じて食事をとっていた。
まるで懐かしい音楽でもきいているようだった。
窓から差し込む昼下がりの明かりが、そんな彼女の頬を淡く照らしていた。
「淡さは、儚さだ」
「え?」
ユキが目を開ける。
きいていた曲の続きを勝手に歌われたみたいな顔だった。
「昔、そんな言葉をきいたことがあるんだ」
「わたしも、ある」
それは中学の教師が授業の合間にポツリともらした言葉で。教えている内容とはまったく関係のないその言葉が、なぜかずっと頭に残っていた。
ユキも覚えていたんだな、とオレはすこしうれしくなった。
「どういう意味なんだろうな?」
「え、わからないの?」
「そりゃ、他人の言葉だから。でも、なんとなく芯を捉えた言葉な気がする」
オレは大皿の上で鮭の骨を分けながら言った。
「今のユキは、どこか儚く見える」
昨日の夜もそうだった。
彼女はなにか、人には言えない秘密を持っているような気がした。
その隠し事が、彼女の存在感を希薄にさせてしまっているように思えた。
「なにか、悩みでもあるのか? オレでよかったら話くらいきくけど」
自分の口から出てきた言葉に驚く。
今まで彼女のことを気遣うセリフなんて言えたことがなかったのに。
ユキがそういう言葉を求めているときも、改まって支えになろうとすることが妙に恥ずかしくて、ずっと気づかないフリをしていたのに。そうやって、自分がたのしい時間だけをすごしていたのに。
歳を喰われて自分ではないだれかになったことで、オレはようやく素直にユキを心配できるようになっていた。
皮肉だけど、悪くない兆候に思えた。
今のオレなら、あの日のようにユキを傷つけることなく彼女と関わることができるかもしれない。
「……ふふっ」
すこして、ユキは笑った。
「まさか、家出した男の子に心配されるなんてね」
ユキの存在感が、少しここにもどってきたみたいだった。
「大丈夫。わたしは平気だよ」
パクパクと料理を口に運んで「ごちそうさま」をしたユキは、小さくなった胃袋に鮭の皮を詰め込んでいるオレに言った。
「ねえ、カズくん。買い物、付き合ってくれる?」
「買い物?」
「うん。なんでも最近このあたりで怖い人が出るって噂で。カズくんに守ってほしいなって」
「なんだよそれ」
ユキの言う噂が仮に本当だったとして。子供のオレにユキを守れるとは思えない。
でも。ユキという人間を希薄にさせているものがなんなのか、知りたいとは思った。
「……わかったよ」
今のユキについて知って、できることならユキに元気を取りもどさせてやりたい。
せめてあの日オレがつけた傷の深さくらいは、彼女の力になりたい。
もうすぐ夕貴と結婚してしまうユキに対して、それが幼なじみだったオレにできる、最後の罪滅ぼしだった。
†
ユキが暮らしているマンションは昔オレたちが使っていた通学路の近くにあった。
だから連れ立って歩いていると、自然にユキと一緒に日々をすごした場所へと行きついてしまう。
オレの視線の高さはちょうど当時くらいになっていて。余計に心がざわついた。
つい、早足になって歩いてしまう。
そしてオレは隣にユキがいないことに気づく。
「…………どうした?」
オレの後ろで、ユキが立ち止まっていた。
ユキの視線の先には、子供の頃にオレとユキがよく遊んでいた公園があった。
出入り口のところにあるポールスタンドは塗装が剥がれてずいぶんとみすぼらしい感じになっていた。
「ユキ?」
もう一度オレが呼びかけると、ユキは我に返ったように笑顔を作る。
「なんでもない」
スタスタとオレの前を歩いていくユキ。
「買い物もね、ホントはいかなくていいの。でもなにかしてないと、さすがにね」
「怠けていいって言われてるならおもいっきり怠ければいいのに」
「一日中テレビ見たり?」
「マンガ読んだり」
「ゲームしたり?」
「ネットの掲示板荒らしたり」
「なにそれ」
ユキは口に手を当ててくすくすと笑う。
そんなユキにつられてオレもいつの間にか笑っていて。自分がユキと一緒にいられる時間をたのしんでしまっていることに気づく。
二年の空白なんてなかったみたいに昔と同じ空気感で話ができるものだから。つい、オレが魔女に歳を喰わせて子供になっていることを忘れそうになってしまう。
ちゃんと自覚しておかなければいけない。
今の関係はオレにとってあまりにも都合がよく、それゆえにとても卑怯な状態であることを。
ユキはオレのことを覚えていない。オレに傷つけられたことも忘れている。
覚えているのはオレだけだ。
だからこそ、オレはちゃんと関係に線引きをしておかないといけない。
今のオレはあくまでも“夕貴を好きなユキ”のためにここにいるのだから。
「とうちゃく」
と、ユキが足を止めたのは、互いに下校がてらよく立ち寄っていたスーパーだった。
「コーラの三十円を節約するために、昔はコンビニを通りすぎてよくこっちにきてたなあ」
懐かしそうにユキが言う。
オレは大学に入ってからもずっとそんな感じだったので、経済力の差を感じた。
「カズくん、なに食べたい?」
「トリュフ」
「じゃあ、カレーにしよっか」
「ベタだな」
「べつにいいんでしょ?」
「ああ」
オレは買い物カゴと一緒にカートに飛び乗る。惰性で車輪が回ってカートが進む。
ひさしぶりにやってみると爽快で、けっこうたのしかった。ユキには怒られた。
野菜とか、肉とか、カレーの食材がポンポンとカゴの中に入れられていく。
オレはレトルト食品のところで止まり、こっそりとバーモンドカレーをカゴに放り込んだ。
「辛口」
「ああ」
「カズくんも好きなんだ。バーモンドカレーの辛口」
「まあ」
「甘いのに辛いところがいいよね」
正直その感覚はよくわからなかった。オレはジャワ派だ。甘口のやつがいちばんうまい。
でもユキがこれを好きなのは知っていた。いつだったか、そういう話をしたのを覚えている。
「いろんな好みがあっていいと思うんだけど、わたし、ジャワの甘口を選ぶ人だけはナシだと思うの」
「辛いのに甘いのがいいんじゃないのか?」
「わけわかんない」
「なるほど」
オレはこっそりとカゴの中にあるバーモンドカレーの辛口をジャワカレーの甘口に変えておいた。
「まあ、合わないとは思うよ。そういう二人は」
「だよねー」
シチューとか、ポトフとか、ユキはいくつか他のレトルト食品もカゴに入れていった。
「ねえ、カズくんは買い食いとかしてる?」
「たまに」
「わたしも、じつはときどきしてたんだ」
「へえ」
「家に帰れば飲み物も食べ物もあるのにね。どうして、寄りたくなってたんだろう?」
「ひとりで寄ってたのか?」
「ううん。たぶん違う」
「たぶん?」
「だれかと、一緒だった気がする」
「だれかって?」
尋ねながら振り向いて、オレは思わず固まってしまった。
ユキが泣いていた。
いつかと同じように頬を伝った涙の粒が落ちていく。
ポタポタと。ポタポタと。
止まることなく流れ落ちて、床で弾けて溜まりを作る。
「…………ユキ?」
「……え?」
ユキは自分の目元を拭う。
そして信じられないといった顔をして、繕うように笑った。
「……あれ? わたし、なに泣いてんだろう? おかしいよね。ヤバ。どうしよう」
周囲の人間が遠巻きにユキの様子を窺っていた。
その状況が余計にユキを慌てさせていた。
「ごめん。びっくりするよね。わたしもびっくりしてる」
両手で顔を覆い、その場に蹲るユキ。
彼女がどうして急に泣き出したのかオレにはわからなかった。
でも、オレがこの涙を止めなければいけないことはわかった。
「とりあえず、逃げよう」
「え?」
オレはユキの手を引いて駆け出した。
買い物カートを置き捨ててスーパーを出る。
駐車場を横切り、建物の裏へと回り、日陰に入ったところで手を離す。
ユキの涙はもう止まっていた。
「…………ありがとう、カズくん」
恥ずかしそうに視線を逸らしながらユキが言う。
「子供に助けられるなんて、大人げないよね。使い方あってるのかわからないけど」
「なにがそんなにつらいんだ?」
「つらい?」
「つらいから、泣いたんじゃないのか?」
「…………つらい、のかな?」
顎に手を当てて考え込むユキは、自分の中にある不具合をたしかめているようだった。
「たぶん、そうじゃないと思う」
と、難しそうな顔をしたままユキは言った。
「もしかしたらちがわないのかもしれないけど、でも、それだけじゃない気がする」
「心当たりでもあるのか?」
ユキは手を下ろしてオレを見る。
そして小さく微笑みを零した。
「ふいにね。感情が溢れてくることがあるの」
ひどくくたびれた笑みだった。
「せきとめている心が、ふいに、ぶわって。込み上げてきて、流れ出して、止まらなくなるの。普段は平気なんだけど、なにか、昔のことを思い出そうとすると、どうしようもなく泣けてきちゃうときがあるんだ」
「……」
「夕貴といるときはこんなことないの。夕貴はわたしの過去とかきかないでいてくれるから」
気配りができる夕貴のことだ。
きっと昔の話をさせれば彼女が泣き出してしまうのを知って、なにもきかないでいるのだろう。
だとしたらオレはまた――オレがまた、ユキを泣かせたことになる。
「…………わるかったよ、きいて」
「ううん。そうじゃないの」
ユキはごくりと唾を飲み干して言った。
「あの涙は、流すべき涙な気がするんだ」
「……」
流すべき涙なんて、はたしてあるのだろうか?
ユキの頬を伝ったあの涙はうれしくて流れるような類のものじゃなかった。
なにかを悲しんで、寂しく思って流れる涙だった。
もうすぐ先に幸せな結婚を控えているユキが、いったいなにを悲しむ必要があるというのだろう? なにを寂しく思うことがあるのだろう?
「わたしはなにか、大事なことを忘れてる気がする」
「…………」
人は生きていくうえで忘れるべきことを忘れて、覚えているべきことを覚えている。
本来なら、だから、忘却を憂う必要なんてないんだ。
だれかに記憶をいじられでもしていない限り。
「ねえ。カズくんは、なにか知らない?」
「どうしてオレにきくんだよ?」
ユキの中で不自然に欠落した思い出――――それはたぶん、オレだ。
でも、ユキにとってオレはもう大事な相手なんかじゃないはずだ。
少なくとも、いちばんではない。
だから、ユキが苛まれている記憶の齟齬は、一度だけ見た夢みたいにぼんやりと忘れてしまえばいいものなんだ。
「……ホントだ。わたし、子供相手になにきいてるんだろ?」
ユキはオレの頭にポンと手を置く。
「変だよね、わたし」
「そうだな。子供の前で泣く大人なんていない」
「ホントに。夕貴に言ったら怒られるかな?」
「さあ?」
「カズくんと話してると、なんだか懐かしくて。忘れてるなにかを思い出せるみたいで。つい、言わなくていいことまで言っちゃうね」
「ユキはきっと、昔のことなんて無理に思い出そうとしなくていいんだよ。前だけを見て生きていけばそれで幸せになれるんだから」
「慰めてくれてるの?」
「そんなんじゃない」
オレはただ、これ以上オレのことでユキを苦しませたくないだけだ。
オレをちゃんと忘れることが、ユキにとっていちばんの幸せなんだ。
「ありがとう、カズくん」
ユキがオレの頭を撫でてくる。
あやされているみたいで恥ずかしかった。
けれどその手を振り払う気にはなれなかった。
大人の姿をしていたら、たぶん羞恥心に耐えきれなくて振り払っていただろうから。
歳を喰われた恩恵を、やはりすこしは味わっておきたかったのかもしれない。それが卑怯なことだと自覚しておきながら。
「ねえ、カズくん。悪いんだけど、買い物の会計、済ませてきてくれないかな?」
カバンから財布を取り出したユキがオレに一万円を渡してくる。
「さっき泣いちゃった手前、いきづらくて」
「しょうがないな」
オレは受け取った一万円を握りしめてスーパーの中へともどっていく。
そんなオレを手を振って見送るユキの微笑みはやはり希薄で。早く買い物を済ませてもどってやらないと、ふらりとどこかへいってしまいそうだった。
「おい、魔女」
「はーい」
オレは人目につかないスーパーの一角で魔女を呼ぶ。
魔女はあの日と同じ黄色のレインコートを着た幼女としてどこからともなく姿を現した。
「話がちがうじゃないか。どうしてオレの痕跡がユキの中に残ってるんだよ?」
「そりゃ、そういうこともあるよ」
あっけらかんと魔女は言う。
「冷蔵庫の中身と一緒。買い溜めておいたさつまいもがひとつなくなってても気づかないけど、たのしみにしてた杏仁豆腐がなくなってると気づくでしょ?」
「オレは杏仁豆腐かよ」
「プリンのほうがいい?」
「どっちでもいい」
「杏仁豆腐を買った記憶をなくしても、それをたのしみにしてた自分の気持ちは残ってる。だからあの子は今、自分がなにをたのしみにしてたのかわからなくて困ってる状態なんだね」
「どうすればいい?」
「どうって?」
「あいつの……ユキの中からオレとの過去を完全に消し去るには、どうすればいい?」
「それは、時が解決してくれるのを待つしかないねー」
「そんな悠長な……!」
魔女がふっと視界から消失する。
そして次の瞬間、二十歳前後の身の丈になって背後に現れ出た魔女が、オレに覆い被さりながら言った。
「人は生きていくうえで忘れるべきことを忘れて、覚えているべきことを覚えている。だからおまえの言うとおり。あの子の中でおまえとの過去が“忘れるべきこと”にカテゴライズされるまで、ずっとおまえは輪郭だけの存在としてあの子の中で生き続けるんだよ」
「そんな話があってたまるか」
オレは魔女を振り落とした。
床に吸い込まれるようにして消えた魔女は、また幼女の姿にもどってオレの前に姿を現す。
「そもそもどうしておにいちゃんはあの子の中から消えたいの?」
「どうして?」
「大事なのに大事にすることができなかった女の子が、ずっと自分のことを覚えてくれている。それって素敵なことなんじゃないの?」
「…………素敵なわけあるか」
ユキの存在感が薄らいでいる原因が、失われたオレとの過去にあるのなら。
オレは未だにユキを苦しめていることになる。
せっかく歳を喰われて新しい自分になったのに。ユキとの過去も未来も断ち切ったのに。オレの存在がユキの中でとぐろを巻いて、あいつを苛み続けてしまっている。
……あいつを泣かせるのは、もうたくさんだ。
ユキは夕貴と結婚して幸せにならないといけないんだ。
オレに傷つけられたことなんてちゃんと忘れて生きていかないといけないんだ。
「大事じゃない思い出を、大事だったかもしれないなんて勘違いさせたままにしておくわけにはいかない」
「ふーん」
魔女は袋詰めにされたチョコレートをさりげなく買い物カゴに放り込みながら言った。
「それならまあ、方法はあると思うよ」
「方法って?」
「おにいちゃんが歳を喰われたせいで不確かになっている思い出を確かにする方法」
「ホントか?」
「まあ、これは歳喰いの魔女としてってよりは、人生のちょこっと先輩としての見解なんだけど」
「教えてくれ」
「簡単なことだよ」
と、魔女は言った。
「打ち明ければいいんだよ。自分こそがあの子の思い出に巣くう人間だって」
「……どういうことだよ?」
「どういうことだと思う?」
「…………もしかして、歳を喰われた事実を明かすってことか?」
「そう」
「いけないことなんじゃないのかよ?」
「まあ、ダメなことではあるよね。泡になって消えちゃうし」
「……」
「でも、消える間際、歳喰いの魔法は解けて、おにいちゃんはもとの姿にもどるよ。おにいちゃんが存在してたって事実も一緒に。喰った歳をもどしてあげることはできないけど、そういうやり方でなら、一応ほんの少しの間だけ捨てた自分を取りもどすことはできる。すぐに水泡になっちゃうけどね」
「……なんでおまえがそれを教えてくれるんだ? おまえの存在を明かすのはタブーなんだろ?」
「言っておくけど、わたしはべつにおにいちゃんを監視してるわけじゃないから。おもしろい生き様を見せてくれるならべつにいいよ。過去にもそうした事例があるから噂だって広まったんだろうし」
「酔狂か?」
「それくらいしか、たのしいことがないもので」
ただ、と。
魔女は小さく言葉をつけ足す。
「消えるにしても、できることならわたしはハッピーエンドが見たいけどね。わたしがおにいちゃんの歳を喰ってあげたのは、おにいちゃんのしょぼくれた顔がすこしでも希望的になればいいなと思ったからだし」
「……今のオレの顔はどうだ?」
「鏡でも見てみれば?」
そんな言葉を最後に、魔女はまた世界のどこかに潜伏した。
オレはレジに向かいながら魔女が言っていたことを考える。
魔女の言葉が本当なら、オレが正体を明かすことでユキはオレのことを思い出す。
そして彼女の記憶は正されて。ちゃんとオレのことを嫌って。自分が思い出そうとしていた人間がどれだけ自分にとって必要のないやつだったか悟るだろう。
子供の姿をして一緒に風呂に入ったり寝たりした。悪徳は現在進行形で重ねている。
オレさえ正しくいなくなれば、ユキは夕貴とちゃんと幸せになれる。
ならば――。
――そのために、この命を水泡に帰す覚悟はあるか?
「…………愚問だな」
もとより一度捨てた人生だ。自爆スイッチを二度押すことに躊躇いなどあるはずもない。
子供になってひとしきりたのしめそうなことはやってみたが、実際になってみると子供は大人よりはるかに不便で不自由で。ささやかなたのしみの向こうには大きな苦労が透けている。このまま身寄りのない状態で暮らしていけるほど二度目の人生は簡単ではなさそうだ。
それに、これはすこし考えればわかりそうなことだったが、オレはひとつ大事なことに気づいていなかった。
ユキとの過去や未来を“ありえなかったもの”として断ち切ったところで、たしかにあったものに幕を被せて見えなくする行為でしかない。歳喰いによって世界の事実を改変することはできても、オレ自身の記憶や思考にはずっとユキの姿がこびりついている。
ユキにとってはそうでなかったとしても、オレにとってはやっぱりユキ以上に大事なものなどないから。この先もユキより大事に思える相手には出会えるはずがないという絶望は、ずっと消えてはくれそうにない。
このまま生き続けたところで、オレは“選ぶことができなかった正解”に未練がましく苛まれ続けるだろう。
別人になってまでそんな人生を繰り返したいとは思えない。
だったら、せめて。
――――オレはユキがちゃんと幸せになるために、意味を持って消え去りたい。
「一万円で」
オレがレジで万札を出すと店員は驚いた顔をしていた。
釣銭をもらい、テキトーに商品を袋分けしていく。肩にかけると十歳の身体にズシリと重みがのしかかった。
「……余裕なんだよなあ」
強がりを浮かべながらオレはユキのところへともどる。
オレがオレであると知ったときにユキが向けてくるであろう蔑視を思うと、少しだけ歩みが遅れた。
それでも、自分がだれなのかを打ち明けると決めて、オレはスーパーの裏手へと回る。
「…………ユキ?」
ユキの姿はどこにもなかった。
†
出入りする車が三百を数えた。
歩行者信号が百回色を変えた。
オレは買い物袋を捨ててユキを探しに駆け出した。
子供が大人を探しているという状況だけ考えると、まるでこっちが迷子みたいだった。
ユキは、ちょっと目を離しただけでふらりとどこかへってしまいそうだった。それほど存在感が希薄になっていた。
でもまさか本当に、子供のオレをおいてひとりでどこかへいってしまうなんて。
好きなだけ家にいていいと言っておきながら、オレのことを捨てるみたいに消えてしまうなんて、ユキらしくない。ユキは、そんな無責任なやつじゃない。
「…………ユキ……!」
学校。コンビニ。書店。神社。
オレは十歳の足で探せる限りの場所を探した。
そういう場所に踏み込む度、彼女との思い出が頭をよぎった。
――ノートの切れ端で交わしていた一言の文通。
――互いが互いをこっそり待っていた駐車場。
――咳払いされるまでが勝負の立ち読み。
――上るとすぐに軋んでしまう境内。
「…………くそっ」
大学に進んでからは、努めて意識しないようにしていた。
思い出から距離をとることで心の安定を保っていた。
けれど。だから。彼女の姿を探そうとすればするほど、記憶の彼女がひょっこり顔を出して笑いかけてくる。
――『クラスの女子でだれが好き?』
そんなやついない。紙の裏に一度そう書いてから、細かく破り捨てた。
おまえだよ、なんて。言えるわけないじゃないか。言わなくても伝わってたはずじゃないか。
――『あっ、偶然! 今帰り?』
偶然は、起きないことのほうが少なかった。
下校の途中でよく遭遇していたオレたちは、そのまま帰路からすこし外れたところにあるスーパーに寄って、べつに飲みたくもない九十円の炭酸ジュースを一本だけ買って帰っていた。
――『今週のはどこまで読めた?』
あいつはいかにも思春期男子が好きそうなエロコメがなぜか好きで。オレはいまひとつ人気に火がつかないけれど異彩を放っている感じのやつが好きで。趣味はまったく合わなかったのに、なんとなく気になるから薦められたものを読んでみたりして。やっぱりつまらなかったと伝えると、あいつも同じことを言い返してきて。あいつもなんだかんだでオレが好きなやつを読んでくれていたことがすこしだけうれしくて。
――『カズ、みーつけた!』
かくれんぼをやらなくなったのはいつからだろう? あいつとの距離が離れてしまったのはいつからだろう? きっとそれは明確に歳月でわけられたりはしない。
ゆっくりと、自然的に、オレたちは互いに互いから距離をとり、すこしずつ一緒にいる時間を失っていった。
そういう“すこしずつ”が山のように積み重なって、いつの間にかオレにはユキのことがわからなくなっていた。
わからなくなったからこそ、わかり合えていた日々の安らかな記憶が胸をジクジクと突き刺してくる。
この町には、ユキとの幸せな思い出が多すぎた。
「…………」
オレは寂れた公園の前で足を止める。
錆びたポールスタンドに手をつき、荒くなっていた息を整えてから中へと入る。
そして、ドーム型のジャングルジムを指差して言った。
「ユキ、みーつけた」
ユキはジャングルジムの中で三角座りをして俯いていた。
まるでかくれんぼをしている子供のようだった。
ユキがゆっくりと顔を上げる。
遮られた光の奥にある闇が、彼女の顔に暗い影を降ろしていた。
「もしかしたら、わたしはもう、ダメなのかもしれない」
ぼんやりとオレのほうを見つめたまま彼女は呟く。
その目はひどく虚ろで、現在を生きている人間の目ではなかった。
「ひとりでいる時間がどうしようもなく孤独に感じる。だれかを待っていることに耐えられなくなる。漂白された喪失感が、洗っても洗っても落ちないんだ」
ユキの手は乾いた土に塗れていた。
何度も擦りつけたらしく、手のひらにこびりついていた。
「わたしはいつから、自分の人生を背負いきれなくなったんだろう?」
「…………」
オレが知っているユキはそこにいなかった。
そこにいたのは、茫漠とした虚無感に捉われて、ただただ脆弱で、ただただ薄弱になったひとりの弱い人間だった。
なんと言葉をかけたらいいのかわからなかった。
少なくとも、同じく喪失感に苛まれ、そして背負いきれなくなった人生の自爆スイッチを押したオレが彼女を励ますのはちがう気がした。
「ねえ、カズくん、怒ってる?」
「べつに怒ってないよ」
「そう。よかった」
――よかった。
子供を許す側に立つべき大人が言うようなセリフじゃない。
「泣いてたのか?」
「うん、ちょっと」
ユキの目は赤く腫れていた。
薄い化粧がすこしだけ落ちて、やぼったくなった目の周りが余計に目立っていた。
「いつからそんな感じなんだ?」
オレはジャングルジムの上に寝そべって尋ねる。
確信を得たかった。オレが歳を喰わせたせいで、彼女はこんなふうになっているのだと。
オレさえ消えれば、ユキはもとの溌剌としたユキにもどるのだと。
二週間前――オレが歳喰いの魔女のところに訪れた日と彼女の答えが一致したら、オレはすぐにでも秘密を打ち明けるつもりでいた。
「三年くらい前から」
ユキはかすれた声でそう答えた。
灰色の空から、ポツリと雨粒が落ちてきた。
「…………三年前だって?」
「うん。夏休みに入る前――体育祭の後――夕暮れの教室で――わたしはなにか大事なものを失くした気がする」
それはオレがはじめて明確にユキを拒んだ日だった。
オレとユキの間にあったなにかが、決定的に断ち切られてしまった日だった。
「……ッ」
もし“あの日まで”を思い出してユキが喪失感に苛まれるというのなら、オレはその感情を取り除いてやれる気でいた。
オレという人間のことをちゃんと思い出させて、そしてきちんと軽蔑されることでユキを元通りにしてやれるつもりでいた。
でも“あの日から”ずっとユキがそういう気持ちでいたのだとしたら、今のオレにできることはないように思えた。
なぜならその虚無感は――喪失感は――歳喰いの事情では説明できないからだ。
ユキの言葉が本当なら、彼女はオレが子供になってしまうよりまえからこんなふうに弱っていたことになる。オレが歳を喰われるよりもまえからこんな状態だったことになる。
だけどそんな素振りも、気配も、オレの前では見せたことがなかったのに。
あの日からも、ユキはずっと変わらずユキのままだったはずなのに。
「バカみたいな話、してもいい?」
ジャングルジムの下でユキが言う。
「わたし、その日だれかに告白しようとした気がするの。二人きりになって、どうかわたしと恋人になってくださいって」
「……」
「その人はわたしにとってすごく大切な人で。でも長い間近くにいすぎたから、なかなか伝える機会がなくて。そういうだらっとした関係が心地よくて。でも、それだけじゃ不安で。いつかその人が他のだれかを好きになってしまいそうで。わたしがひとりになってしまいそうで。それがいやだったから、やっとその日、何年か分の気持ちを口にしようとしたの」
「…………」
「顔も名前も思い出せないけど、わたしの人生はその人のおかげで成立していたんだと思う」
「…………なんで、そんなやつのこと今でも気にしてるんだよ?」
長い沈黙があった。
降ってくる雨の粒が大きくなって。その勢いも増していた。
しんしんと。降り続ける雨音に飲み込まれてしまいそうなほど小さな声で、やがてユキはポツリと答えるのだった。
「…………たぶん、まだ好きなんだと思う」
オレはジャングルジムから転がり落ちて、声を押し殺しながらその場で吐いた。
最低な気分だった。
最低で、最悪で、身体が内側からねじ切れそうだった。
頭がひどく重たく感じた。心臓がひどく小さく思えた。
「…………ッ」
オレは、ユキがもうオレのことを見限っていると思ったから、絶望して歳を喰われたのに。
オレが歳を喰われたせいでユキが苦しんでいると思ったから、せめて最後に彼女の記憶を正して、正しく嫌われようと思っていたのに。
――――まだ、好きだって? なんだよそれ。
なら、オレの選択は、全部まちがいだったことになるじゃないか。
オレもユキが好きで。あの日ユキと一緒に夏祭りにいけなかったことをずっと悔やんでいて。できることならもう一度ユキに会って謝りたくて。すべてをやり直したくて。だけどそれができないから、やり直せる段階をとっくに過ぎてしまっていたから、オレはオレの全部を捨てたのに。
ユキと一緒に重ねた歳も、時間も、魔女に喰わせてしまったのに。
「…………」
どうしてオレは、こうも愚鈍なんだ。
失ってからはじめてその大切さに気づいたわけじゃない。
失ってからもしばらくの間、それを失っていることに気づくことができなかったわけでもない。
失ったと思っていたものが――失われたと思っていたユキの気持ちが――まだ残っていたなんて。オレはまだ大事なものを失っていなかったなんて。
そしてその大事なものを、またオレ自身の選択によってこの手が届かないところまで遠ざけてしまうなんて。
「今でも毎日夢を見るの。顔も思い出せないその人がわたしの前に現れて、あの日の返事をしてくれる夢。その夢を見たあと、起きて現実を思い出すと、なんだか夢のほうが正しい時間のように思えて。ずっと夢から覚めなければいいのにって思うようになって。現実に、耐えられなくなる」
ユキの言葉はドームの中で反響してひどくくぐもってきこえていた。
その声が、急に上擦って冗談味を帯びようとする。
「まあ、たぶんフラれてるんだけどね」
「そんなことない」
「え?」
オレはジャングルジムに寄りかかる。
そしてあの日ユキに言えなかった本当の気持ちを伝えようとする。
すると、濡れた腕がぶくぶくと泡立ち始めた。
降りしきる雨に打たれても割れることなく昇り続ける水泡は、オレに歳喰いの代償を思い出させる。
『もし歳を喰われたことを他人に話してしまったら、おまえの身体は水泡となって消える。おとぎ話にでてくる人魚のように』
ケラケラと。
どこかで魔女が笑っている気がした。
「…………なんでもない」
オレがそう言うと泡は消えて、腕はまた雨に濡れるばかりになる。
ここまで走ってきたときは、泡になって消えるくらいなんでもないと思っていた。
ユキのいない未来に生きる意味などないと確信していたから。
けれど、もう、知ってしまった。ユキの気持ちを。
知ってしまったからこそ、オレの中にハッキリと生まれてしまった。
ユキに対するどうしようもない未練が。
ありえないと一蹴できていた未来に対する淡い期待が。
生まれてしまったから――消えたくないと、思ってしまった。
「…………そいつのことが好きなんだったら、どうして結婚なんか……」
「うん。正しくないよね」
でも、とユキは言う。
「いつまでもだれだかわからない人を――振り向いてくれない人を想い続けることもたぶん正しくないから、そういう状態から、わたしは早く脱したい」
矛盾していると思った。
正しくないことをして、正しくなろうとするなんて。
好きなやつの好意をないがしろにしておいて、今更すり寄ろうとしているどこかのだれかみたいに。矛盾している。
「もう二十歳だし、わたしはちゃんとした大人にならないといけないんだ」
「ちゃんとした大人ってなんだよ?」
「過去じゃなくて、現在を生きられる人」
――ちなみに子供は、未来を生きられる人。
そういってジャングルジムから抜け出したユキは、オレを抱きかかえて近くにあった滑り台の下に潜り込ませる。
「いつまでも濡れてたら風邪ひくでしょ」
「子供は風邪の子だ」
「それ、字がちがう」
ユキもオレの前で腰を下ろして雨宿りをする。
互いに三角座りをして、いつかの体育祭みたいだった。
「…………話はしたのかよ?」
「話?」
「その、ユキがまだ好きなやつと」
「ううん。どこにいるのか――そもそも本当にいるのかもわからない相手だし」
「どこにいるのかわかってたら、連絡したのか?」
「……たぶん、しなかっただろうな」
オレはユキがこの町の短大に通っていたことを知っていた。
ユキもたぶん、オレが近くの大学に通っていることは知っていたと思う。
けれど、一度として連絡がくることはなかった。
「どうして?」
「なに話したらいいか、わかんないもん」
「話題なんていっぱいあるだろ。それこそ、もうすぐ結婚することとか」
「じゃあ、カズくんなら話せる? もうすぐ結婚するけど、まだあなたのことが好きなんです、なんて」
「…………」
話せる、わけがなかった。
だからオレは魔女に歳を喰わせたんだ。
どうして結婚するのかユキに尋ねることもせず、本当の気持ちを打ち明けることもせず、拗ねるように、世界から自分を消したんだ。
ユキのことを子供だと思うオレも彼女と変わらない。
オレたちは互いにあの日から成長できていない。
心をずっとあの放課後に置き忘れてきてしまっている。
だからユキは時間を進めて成長することを選んだ。オレは退行することを選んだ。
オレたちの間にあるのはそれっぽっちのちがいだけで。それこそが決定的なちがいだった。
人生が円環でない以上、オレたちの時間が再び交わることはもうない。
「…………なーんて。わたし、なんで子供にこんな話しちゃってるんだろ?」
ユキが背筋を伸ばしてわかりやすくおどける。
すぐにゴツンと頭を滑り台にぶつけて。彼女は昔と同じ照れ笑いを浮かべて言った。
「夢みたいな思い出の彼と、カズくんが、やっぱりどこか似てるからかな? 雰囲気とか」
「…………もしも……」
オレは水泡へと変わっていく腕を背中に隠してユキの目を見つめる。
「もしもオレがその相手だって言ったら……ユキはどうする?」
隠した腕の感覚がなくなっていく。
靴の中で爪先も水泡へと変わっていくのがわかる。
痛みはなかった。不思議な心地よささえあった。
「…………カズくんが……?」
今更真実を打ち明けたところで状況は変わらない。
ユキがオレのことをちゃんと思い出したとしても、すぐにオレは消えてしまう。
もうオレに、彼女の気持ちに応えてやることはできない。
それでも、言葉にしようとするのをやめられないのは、たぶん。
今を逃せばもう二度とオレの中にあるユキへの気持ちを伝えることはできないと、心のどこかで確信してしまっていたからだった。
「…………ユキ……オレは…………!」
「――――浩太!」
意を決して口を開こうとしたオレの腕がいきなりグイと引っ張られる。
ユキの手じゃない。枯れ木みたいにやせ細り、青白い血管の浮き出た手だった。
そんな手にさえ軽々と引き上げられてしまった十歳の身体はユキから離れて、知らない女に抱きかかえられる。
目の下に濃いクマのある女だった。歳は三十半ばくらいだろうか。
ギョロついた目と褪せた唇の色のせいでかなり年老いて見えた。
「ああ、浩太! やっとみつけた!」
オレのことを「浩太」と呼ぶ女は、骨ばった手で愛おしそうにオレの顔中を撫でまわし、きつくオレのことを抱きしめた。
皮脂の浮いた髪とカサついた肌が擦れて、ひたすらに不快だった。
「だれだよ、あんた?」
オレは眉をしかめながら尋ねる。
ユキも心配そうに立ち上がってこっちを見ていた。
「ああ、浩太! 浩太!」
女は満面の笑みでオレのことを抱いたまま放そうとしない。
「あの……」
見かねたユキが手を伸ばす。
すると、女のだぶついた目がギロリと尖った。
女はブンと振った腕でユキの手を払い落とす。
「あなたが浩太をさらったのね!」
動物が威嚇するみたいに歯を出して、伸びきった爪をユキに向ける。
このままではいけないと思い、オレは努めて抑揚のない声で言った。
「オレは和樹だ。浩太じゃない」
「ああ、浩太。お母さんのこと忘れちゃったの? いいわ。帰ってごはんにしましょう」
くるりと踵を返した女は、オレを抱いたまま足早に公園を出ていこうとする。
オレの言葉はまったく通じていないようだった。
「オレの母親はあんたじゃない!」
必死に逃れようと女の腕の中で暴れる。
簡単に折ってしまえそうな腕はしかし、十歳の力では振りほどくことができないほどの力でオレを抱き、決して離そうとしなかった。
「カズくん!」
オレは追いかけてきたユキに向かって手を伸ばす。
その手をユキが掴もうとした、瞬間だった。
「さわらないで‼」
――パン、と。
鋭い音が雨音を打ち消した。
「――――」
振り返った女が、ユキの頬に力いっぱいの平手打ちをしていた。
白かったユキの頬がじわりと赤くなっていく。
ユキはぶたれた頬を押さえて立ち尽くしていた。なにをされたのか理解するのに時間がかかっているようだった。
「もうわたしから浩太を奪わないで‼」
女の悲痛な叫びが鈍色の空に吸い込まれていく。
「…………わたしには、浩太しか、いないのよ……っ!」
いったいこの女はなにを勘違いしている?
そんなにオレはその「浩太」とかいう子供に似ているのだろうか?
だとしても、オレは浩太じゃない。和樹だ。
「ユキ!」
オレの声ではっとユキが目を開く。
そして再びオレを助けようと手を伸ばす。
「カズ!」
女がまたユキのことを叩こうとする。
しかし手を振り上げたまま、女は動きを止めた。
オレはユキに抱き下ろされて地面に立つ。
それから女のほうを見た。
「ケガはないかい?」
女の手を、スーツ姿の夕貴が掴んでいた。
「……夕貴、どうして?」
「仕事回りをしてたところでたまたま見つけてね」
「放して!」
オレのほうだけを見て喚き散らす女を夕貴はしっかりと拘束していた。
「ここは僕に任せて、とりあえず二人はどこかに避難するといい」
「う、うん! いこう、カズ!」
「ああ」
ユキがオレの手を引いて公園から逃げ出す。
「――――浩太‼」
女の叫び声を耳にして、振り返る気にはなれなかった。
†
オレたちは走った。走り続けた。
うらぶれた個人商店を越えて。営業をやめたガソリンスタンドのロープをくぐり。鶏小屋の前は息を止めて走り抜け。大きいけれどなんの意味があるのかよくわからない石碑を周り。短い橋を渡り。歩道橋をくぐり。老人ホームのまえを通り過ぎる。
昔二人で見ていた景色が風のように過ぎ去っていく。
今まではそれらを思い出す度に孤独に苛まれていた。世界でひとりきりになってしまったような気持ちになって、心臓がゆっくりと腐り落ちていくようだった。
けれど、今は隣にユキがいて。いつかのようにオレたちは“二人”になっていて。オレの手はたしかにユキの手と繋がっていて。
たったそれだけのことで、オレの胸は鼓動を思い出したように高鳴っていた。
そうして、どれくらいを駆け抜けただろう?
気がつくと、降っていた雨はやんでいた。
公園はとっくに見えなくなっていた。
「ユキ。もういい」
「うん」
ユキは近くの空き地に入ったところで立ち止まった。
そこは地区のラジオ体操でも使われていた平野だった。生え散らかった雑草と乾いた土が夏の風に吹かれている。オレが家で寝ているとユキが毎日起こしにきて、あくびをやめないオレの首にいつもスタンプカードを巻いてくれていた。夏休みの、なんでもない一幕だった。
「怖かったね」
膝に手をついて息を吐きながらユキが言う。
「こんなに走ったの、いつ以来だろう? 息、切れるー」
オレはオレでしっかりと疲弊していた。
二十歳のユキと、十歳のオレ。その体力はちょうど同じくらいらしい。
腰に手をついて顔を上げると、鈍色だった空がいつの間にか青く変わっていた。
「カズくん、だいじょうぶ?」
「問題ない」
「さっきの人、カズくんは知らないんだよね?」
「ああ、知らない」
「そっか」
ふうーっと長い息を吐き出してからユキは言う。
「じゃあたぶん、最近うわさになってる人だ」
「怖い人?」
「怖かった?」
「べつに」
「そっか」
ユキはオレの心を見透かしているみたいに笑った。
懐かしい――すべてとはいわないまでも、オレのいくらかを知ってくれている幼なじみの笑みだった。
「行方不明になっちゃった子供を探してるんだって。で、さっきみたいによその子を自分の子供だって言い張って連れて帰ろうとするらしいの」
「見分けとかつかないものなのか」
「いないんだって、子供」
「は?」
「浩太くんなんて子供、あの人には最初からいないって近所の人は言ってた。最初からいない子供をいると思い込んで探してるなんて、おかしいよね」
「……」
「まるで、わたしみたいだ」
ユキも、いない人間を心のどこかで探している。いないことになってしまった人間の影を追い求めている。
でも、本当はそうじゃない。
ユキが探している人間はここにいる。
オレは、ここにいる。
「なあ、ユキ」
「ねえ、カズくん」
互いの声が重なった。そのあとに投げ合った沈黙も。
重なって、譲り合って、そしてユキが口を開く。
「このままどっかにいっちゃおうか?」
「え?」
「電車に乗ってさ。こんな田舎町からおさらばして。いきたいところにいって。したいことをして。自由気ままに旅でもしながら。だれの目も届かないところで、二人で一緒に暮らしてみない?」
オレのほうを見ようとせず、高い雲を見上げながらユキはそう言った。
「…………」
オレは、すぐに答えてやることができなかった。
ユキの提案がいやだったわけじゃない。決してそうじゃない。
ただ、あまりにも現実味のない話で。ユキがこの町からいなくなってしまうことで生じる――結婚式の準備とか、彼女のことを心配する人とか、そういういろんな問題について考えると、オレが口を開くには数秒が必要だった。
そして、数秒が経った。
「――――なーんて」
頷こうとしたオレの前でユキはおどける。
「急に言われてもムリだよね、そんなこと。気にしなくていいよ、冗談だから」
大きく三歩歩いて。
それから後ろで手を組んで。
そしてユキはクルリと身を翻した。
「そう。全部、冗談」
振り向いたユキの顔には、あの、淡い影がまとわりついていた。
「……なあ、ユキ」
さっきまでたのしそうに笑っていたユキがどこかへいってしまったみたいで。それがいやで。オレはあの頃のユキに向かって手を伸ばすみたいに、口を開く。
「……もし、オレがおまえの想っている相手だったら…………」
「冗談だよね?」
たしなめるみたいにユキは笑う。
ひどく大人びた笑みだった。
「わたしの頭にい続ける人は、わたしと同い年だから」
「それはオレが昔の姿に退行したからで……」
「もう、いいの」
と、ユキは言った。
今の空と同じ、晴れやかな顔だった。
雲ひとつない、わけじゃない。
彼女の顔には変わらず影が下りている。
それでも、彼女は青空みたいに笑っていた。
「今のわたしには、ちがう大事な人がいるから」
オレはあの一回転で彼女がなにを捨てたのか理解した。
ユキはあの瞬間、あの数秒のうちに、オレとの思い出に見切りをつけたのだ。
「だから、存在しない相手を想像し続ける夢遊病患者はここでおしまい」
ポン、と顔の前で手を叩いてユキは言う。
「彼との思い出はね。たのしくて、心地よくて。最初から、ずっと夢みたいだった。でも、だからこそ、いつか覚めるような気がしてた。覚めて、なにもかもがなかったことになっちゃうような気がしてた。それが嫌で、ずっと現実から目を背けてた。目を閉じて、夢を見続けようとしてた。けれど、それも終わり。わたしが生きているのは夢の中じゃなくて、ここにある現実なんだから。わたしはちゃんとわたしの意志で目を覚まさないと、いつまでたっても明日が始まらない」
「…………ちょっと、まってくれよ」
オレはユキの目を見る。
その目はたしかに明日を見ようとしていた。
囚われていた過去を「夢」という言葉で一括りにして捨て去って、二人の思い出にフタをしようとしていた。オレと一緒だった時間を全部なかったことにしようとしていた。
オレはみっともなく縋りつきそうになる手をぐっと丸めて背に隠す。
「ねえ、カズくん。カズくんのおかあさんやおとうさんだって、きっとさっきの人みたいに心配してると思うよ?」
「そんなことない」
「わたし、叩かれたときにわかったの。カズくんを家に泊めて、こうしてずっと一緒にいるのは、わたしのわがままなんだって」
「それのなにがいけないんだ?」
「わたしがカズくんと一緒にいるのはべつにわたしがやさしいからじゃないの。ただ、カズくんがどことなく似てたから」
「だれに?」
「夢の中の彼に」
「……ッ」
「十歳の男の子に初恋の相手の面影を重ねてるんだよ? それってふつうに、怖いよね」
「怖くなんかない。むしろオレは、今の弱ったユキを見捨ててしまうほうが怖い」
「そうだよね。わたし、カズくんを心配するフリして、じつはカズくんに心配されてるんだよね。それもなんとなくわかってた。わかってて、甘えてた。それって絶対、正しくないよ」
急に正論を並べ立てて。
その正しさに耐えられるだけの頑強な心も持っていないくせに。
ユキはオレを拒絶することで、オレの向こうに垣間見える本当のオレの面影を振り切ろうとしている。
「わたしはちゃんと決別しなくちゃいけないんだ。霧がかった思い出と、カズくんに」
「そんな不安定な状態で結婚なんかして、おまえは幸せになれるのかよ? 過去と決別しなきゃいけないって理由で結婚しても、不幸になるだけだろ」
「夕貴はいい人だよ」
そんな話はしていない。
夕貴がどんな人間かなんてきいてないし、知らない。わかっているのは、オレよりできた人間だってことくらいだ。
夕貴がなんだっていうんだ。相手がどれだけいいやつでも、大事なのはユキの気持ちだ。
今のユキがだれを好きかだ。
「…………きっと、十年後、わたしは幸せなんだと思う」
「今は?」
「……」
その問いに返事はなかった。
今のユキは、たしかな実感があることだけを口にしようとしていた。
そうすることで、自分の中にある“不確かなもの”をすこしずつ消していこうとしているみたいだった。
「…………夕貴が、好きなのか?」
しばらくの沈黙を置いて。
ユキはその問いに答えた。
「うん。だから結婚するんだよ」
小さく頷いて、恥ずかしそうにはにかむユキ。
その頬はかすかに紅潮していて。心と表情がたしかに連動していて。本心から、彼女がそう答えているのがわかった。
悔しいほどに、わかってしまった。
だから。
「…………そうか」
オレは、納得するしかなかった。
そう。大事なのはユキの気持ちなんだ。
オレのことをまだ好きだと言われて、絶望しながら舞い上がっていた。彼女の気持ちに応えてやることはできないけど、それでも、不本意な結婚は止められるかもしれないと思った。止めたほうがユキにとって幸せなのかもしれないと思えた。
あるいは、オレの正体を打ち明けることで、一瞬でも互いの想いに応え合うことができるかもしれないと思えた。
でも、そうじゃない。
ユキはもうオレを“好きでいるべきではない”と結論づけた。そしてオレではなく、ちゃんと自分を愛してくれる相手を選んだ。現実の状況に、心を追いつかせた。不確かな思い出を全部「夢」の中へとしまい込んで。
ユキにとっていちばん大事な相手がもうオレではないというのなら、今更正体を打ち明けたところで彼女を余計に混乱させてしまうだけだ。
「…………わかったよ」
オレは精いっぱいの明るい顔で微笑み返した。
ユキはオレ自身と決別しようとしている。
ならばオレにできるのは、その邪魔をしないように、ユキの前から姿を消してユキと夕貴の幸せを祈ることだけだった。
「――――ユキ」
オレとユキが走ってきた道のほうから夕貴が駆けてくる。
どうやら穏便に事を済ませてきたらしい。
もう仕事も終わらせてこのまま帰れるというので、夕貴はユキと手を繋いで一緒に帰った。オレが捨ててきた買い物袋を探しに寄ったりして。申し訳ないと謝るユキと、彼女の頭をやさしく撫でて許す夕貴と。
そんな二人のことを、オレはずっと後ろから見ていた。